7-2応接
寒田の里長は、五十がらみの髭をたくわえた男だった。別段、安是男と見た目が違うわけではない。ただし、安是長と比べたらやや贅肉が少ないだろうか。付き添いを一人連れており、これもごく普通の里男だった。
かすみの傍らには与一が控えている。この若衆は、半時の後、揉め事も滞りもなく二人を連れてきた。聞けば、警護の交代の寸暇を狙って引き入れたという。与一はなかなか聡いようで、同時に物慣れないふうは、却って清廉な印象を与え、安是男にしては好ましかった。今まで気付かなかったが、ほんのわずかに燈吾の面影があるかもしれない。月陰へと消えた夫に。
あまり明るくして安是人らに勘付かれるわけにいかず、明かりは黒ヒ油の燭台のみ。薄明かりの下、二人の寒田男は深々と叩頭し、息つく間もなく妹姫、〈寒田の兄〉について釈明を始めた。
寒田は安是に含むところあるわけではなく、此度の妹姫の所行は個人の短慮である。寒田では妹姫〈寒田の兄〉の特定を急いでおり、彼らの処遇は安是に委ねる。だが、今年の寒田は不作であり喰うに欠いた妹の中から妹姫が目覚めたと思われ、その根本には主家たる安是への羨望と逆恨み、屈折した想いがある。妹姫や〈寒田の兄〉を庇い立てするつもりはないが、事情を鑑み、どうか寒田人には情けをかけてもらいたい――
概ね想像通りの嘆願で、芳野嫗や小色が話していた内容と大きな隔たりは無かった。二輔はまだ茶を運んでこない。
しばし沈黙し、男らが気まずげに顔を見合わせた頃、かすみは口を開いた。
「寒田に、宮市の髪結いに奉公へ出た娘がいるわね?」
寒田長は、それは、まあ、毎年おりますがと頷く。
「最近、帰ってきた者はいる?」
「暮れには里帰りする者もおりましょうが、今はまだ」
戸惑いを滲ませつつも、寒田長は答える。
「では、浅葱袴の書生風の若衆に心当たりは?」
少なからず、緊張した。燈吾の存在を裏付けるものは、小色以外には、己の五感と暗紫紅の光のみ。出会った当初は本当に物の怪だと思っていた。
しかし、存外、あっさりと寒田長は答える。
「……ああ、書生風の姿であれば、燈吾でしょう。野良作業もせず、方々を遊学して、里には居着かぬ男です」
一つ、二つ、三つ、と。胸中で数え、動悸が鎮まるのを待った。
燈吾はいる。今はいないけれど、いる。そのことに祈るような心地になった。
彼の生家、暮らし、来し方、訊きたいことは山程ある。何より、自分が妻なのだと地縁の者らにひけらかしたかった。
だが、夫の行方の手掛かりはこれ以上望めまい。ならば。
「遠いところをもてなしもせず、申し訳ない。今、茶を用意する」
――下男を呼ぶわけにもいかず、少し待たれよ。
黒打掛を引いて立ち上がろうとすると、与一は慌てて自分がと身振りするが、目で諫める。与一は〈白木の屋形〉の警護についているのであり、いらぬことをして人目につけば、疑心を抱かれる。
寝所の戸口に座る寒田二人の背後を回り、戸に手をかける。寝所は狭くはないが、さすがに大人が四人いれば息苦しく感じられた。人の動きに燭台の炎が揺れ、同調して影も揺れる。
ふいに、唐突に、出し抜けに、ありえないはずの明滅を見る。戸に伸ばした手の脇に蛍火が浮かんでいた。燈吾。燈吾がいる。燈吾が自分を迎えにきた。けれど、同時に違和感も浮かぶ。
『もしも、俺を見失うようなことがあれば、あれと同じ光を捜せ』
――天狼星。
その言葉を思い出すのは二度目だった。なれど、さまよい出た蛍火は青白の天狼星とは印象を異にする。ほのかに緑がかって、
かすみは薄緑の蛍火を振り払い、同時に背後に膨れあがった剣呑な気配から逃れるように戸を開け放とうとした。だが、それは適わない。なぜなら、指先が届く寸前、ひとりでに戸が開いたから。
その先には川慈をはじめとする安是男が数名並んでいた。
川慈は乱雑にこちらの腕を掴み、廊下へと引き摺り倒す。勢い、かすみは男達の間に倒れ込む形となった。床に俯せになり、安是男たちの股下をくぐり、それでも首を伸ばし視線を寝所にやれば、山刀を振り上げた寒田男、薄緑の鬼火、そして蒼白でまさしく絶望を貼り付けたような顔色の与一と目が合う。
瞬間、銃声が唸り、重なり、轟いた。
昨夜から今夜にかけて、あまりに濃い硝煙と血臭を浴び続け、くらくらと酩酊しているようだった。寝所は惨憺たる有様で、今夜はここで休めまい。
「……こいつは寒田長ではない」
遺体を見下ろした川慈が言う。
彼の顔色は悪く、昨日の今日で女房の死から立ち直ったわけではなかろうが、口調は常と同じだった。
寒田長を騙ったのは、寒田長の補佐役である直松という。教えられたものの、死んだ者の名を知って何になるというのか。ただ、そうと受け流した。
主家たる安是は、寒田に黒ヒ油や現金を融通していた。だが数年前、寒田長が代替わりした頃から、寒田への分配が目に見えて減った。つまりは着服する者がいたのだ。
「帳簿が合わず、芳野嫗が内偵させていたが、尻尾を掴ませない。安是と寒田、双方の里で結託して着服する者がいたわけだから無理もないが」
だが、妹姫が目覚め、〈寒田の兄〉が現れ、ついにはオクダリサマが選ばれ、山姫のおくだりが間近に迫った。山姫がくだれば、自分たちの悪事も裁かれる――
「焦った末に、オクダリを殺めて山姫が下るのを阻止しようとしたのだろう」
そう、と繰り返して受け流す。だが、ふと思い直し問い掛けた。
「……安是長は?」
「追っ手を放ってある」
つまりは、着服の首謀は安是長と寒田の補佐役というわけか。
妹姫が寒田の困窮ゆえに安是を恨み目覚めたのならば、もっとも妹姫が仇なすべきは安是長だ。
その安是長は、佐和の死によって恐怖を深め(〈寒田の兄〉ではなく、阿古によるものだったが)、先んじて里を逃げ出した。そして捨て置かれた直松らの恐怖はさらに深まった。もしも、山姫がくだり真実がつまびらかにされたなら自分たちもただではすまない。だが、オクダリさえ亡き者にすれば山姫は下らず、矛先は安是長のみで済むかもしれぬ――ゆえに、捨て身の凶行に走った。
そしてオクダリであるかすみに客人が来ると聞きつけた川慈らは、猟銃を携えて待ち構えた。この時機に、寒田人がオクダリへ面会を申し込むのなら二つに一つ。申し開きか、その真逆か。
つまるところ、自分は
「まあ、こんで妹姫の怒りが収まり、〈寒田の兄〉がおとなしうなれば万々歳でさあ」
本当に茶と菓子を運んできた二輔が、湯呑を差し出してくる。
死臭立ち昇る寝所に立ち竦み、無意識のうちに受け取った。
二輔は自分だけでなく、川慈や猟銃を担いだ他の安是男にも茶を配り歩く。
温もりが伝わってくるが、口を付ける気にはなれない。
物言わぬ客人らは畳に伏したまま。与一の遺体は、仰向けになり、目を見開いたまま。夫に似た面差しの若衆。おそらくは安是長の下で働いていたのを尻尾切りされたのだろう。
茶は、客人に振る舞われる予定ではなかった。棒立ちのまま、起きたことを反芻する。与一に声を掛けられ、着物と帯を選び出し、赤黒毛に癇癪を起こしたのは、ほんの小一時前。その結果。
これら、安是人と寒田人を供物とし、妹姫の怒りが収まる……?
ひいては、〈寒田の兄〉の脅威がなくなり安是に平穏が訪れる……?
そうして、〈妹の力〉から解き放たれた燈吾と自分は正式な夫婦となり末永く暮らせる……?
はっ、と。息が漏れた。
安是など皆死にすれば良い。心から思っていたし、今なお希っている。〈妹の力〉の支配さえなくば、すぐにでも燈吾と里を棄て出て行きたい。
だが、安是人と寒田人が斃れ伏した、この混沌の様相はなんなのか。安是も寒田も死に絶えたなら、呪いは消えるのか――
ははっ、と。
笑いが喉の奥から這い出た。ふ、はは、は、と肩を揺らし、発作じみて止まらない。茶を呷るが、止まるどころか、一層激しく身体を震わせる。湯飲みを放り、腹を押さえ、身体を二つ折りにすれば、引き倒された時にみだれた髪がさらに崩れ視界を覆った。赤黒の紗がかかり、全てが禍々しく彩られる。いつか見た夢と同じ、黄金原すら焼き尽くす。
――オクダリ? ワカオクサマ?
安是男らの直裁に言えば気味悪がった声が遠く聞こえた。対照的に己の気狂いじみた笑い声は赤黒毛に篭もり、やたらと響く。阿古の哄笑とそっくりだと自覚しながら、しかれど止められなかった。
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