6-2嫉妬

 気色悪い、そう吐き捨てれば、小色は傷付いた顔をした。


「燈吾とは実の兄妹なのでしょう」


 その表情のまま、小色は頷く。紅に染まっていた頬からは血の気が失せ、青白くなっていた。


「燈吾は私の夫、妙なことを――」

「なれど、あにい様はわたくしの兄。産まれた時から死ぬまで。それは生涯変わりません」


 蒼白ながらも、小色の口調は挑むそれだった。自分の方が燈吾との絆が深く、相応しい、と暗に主張する。

 少なからずの驚きを覚える。小色は従順で、大人しい娘であると思っていたから。こちらが本性なのか。


「燈吾は私が治す。私は燈吾の妻でオクダリサマなのだから、それが筋でしょう。その上で必要ならば、私が新都の医者に診せる」


 あれほど厭うていたオクダリサマの役目を自ら担うと言うのだから滑稽だった。

 だからという訳ではなかろうが、小色はきょとんと目を瞬かせた。そして心底不思議そうに、どうしてできますでしょう、と小首を傾げる。


「安是は寒田を殺して参りました。昔は下人として盾とし、〈妹の力〉を得てからは怯え疎み蔑んで。何度も何度も何度も何度も、繰り返し」


 聞き覚えのある台詞だった。〈白木の屋形〉の庭で燈吾が酩酊したのかのように謳った言葉。

 ――だのに、どうして信じられるでしょう。

 静かな乾いた声音は、安是に期待することなど何も無いという諦観があった。幼さの残る声と輪郭で、老婆のごとく深い憎悪を語る。その不釣り合いさに、視線を逸らした。

 幼き頃から、安是への憎悪を募らせてきた。けれど、その憎む対象に己が括られるなど、想像だにしなかった。


「安是の若衆頭を納戸に隠したのは、わたくしです。あにい様が宴に紛れ込んでいるのに気付き、辺りを窺っておりましたところ、すでに事切れていた若衆頭を見つけたのです。〈寒田の兄〉の為せる業とはいえ、短慮に走りました」


 雨の勢いが増してきたが、小色の声を遮るほどではない。むしろ響かせる。


「あの晩、オクダリサマの暗紫紅の光を拝見し、本当にお美しいと思いました。寝所いっぱいに光の波が満ち、寒田の蛍火と相まって神女様のご降臨かと見紛うほどに。美しさに人は平伏するもの。あの炎が恋心の具現ならば、靡かぬ殿方はこの世のどこにもいないでしょう」

 

 漆黒の瞳がひたとこちらを見据えた。なんの変哲もないただの黒。だからこそ底が見通せない。


「あにい様が安是の光に酔いしれるのも無理からぬこと。けれど、いずれ醒めます」

「兄妹が……いつまでも一緒にいられるはずない」


 言い返せたのはただ一言のみ。けれど、その一言すら、小色は逃さなった。いいえと前置きして述べる。


「あの晩、わたくしが片付けたあにい様の不始末は若衆頭だけではありません。寝所の前の床も拭き取らせていただきました」

 ――あにい様の匂いとすぐにわかりましたゆえ。


 一瞬、呆けた後。滲ませた真意を悟り、かすみは小色の頬を高らかに平手打ちした。

 打擲の音は霧雨に吸い込まれず、いつまでも耳にこだました。感情のまま手を上げたが、気分は最悪だ。

 安是の里でかすみは最も下に置かれていた。どれほど歳下でも、歳老いていても、かすのみよりも軽んじられる存在はなかった。だが、目前の娘は、歳下で、小柄で、下女である。明らかに下の者を痛めつけるのはひどく後味が悪かった。幼かった頃の自分が頭を隠して蹲っている、そんな幻想を刹那視る。

 けれど、小色はむしろ凜然と顔を上げる。頬の赤みを押さえもせず、


「あにい様をお救いできるならば、なんでも致します。なにとぞ、なにとぞ、伏してお願い申し上げます」


 そうして、言葉通り小色は深々と叩頭した。安是人の誰よりも深く、長く、祈りを折り込むように。

 なんでも。小色の形良く艶やかな後頭部を見下ろしながら繰り返す。なんでも、なんでも、なんでも――燈吾を名実共の夫とするために、果たして自分はなんでもできるか。否。答えは明白だった。

 阿古の世話をしながら蔑まれ、娘宿では物の数に入れられず、嫗や古老らから仕置きされ、佐合に――夫以外の男に踏み荒らされる。それらを繰り返せるか。否、絶対に許容できない。死に物狂いで回避する。燈吾の妻であろうとするなら、なおさら。

〝なんでも〟とは、軽はずみな言葉だ。小色は知らない。想像もしない。世迷い言に過ぎない。当然だ、この娘は生まれてこの方、〝あにい様〟の庇護を受けてきたのだから。

 ――真実、なんでもするというのなら。


「なら、死んで」


 は、と間の抜けた声が漏れ聞こえた。小色が歳相応の表情をのぞかせる。


「おまえは寒田を出たけれど、妹姫ではないとは限らない。むしろ兄恋しの気持ちが〈妹の力〉を呼び起こしたのではないの?」


 そんな、まさか、めっそうもない。小色は目に見えて慌てた。つい先ほど、兄妹の情事を匂わせた女と同一とは思えないぐらいに。


「寒田を離れてなお〈妹の力〉を行使するなど、そんな前例聞いたことがありません」

「前例などいつもあるものではないでしょう。おまえが死んだらはっきりする。燈吾の面倒は私がみる。安心して死ねばいい」


 あまりに理不尽な仕打ちを受けた時、人は呆然とした顔をするしかないのだろう。丸いまなこに透明な水泡が膨れ上がるのが見て取れた。単純に美しい感情の発露。その膨らみが雫となる、寸前。


「出て行って。死ねないのなら、今すぐに!」


 ――畏まりまして。

 先ほどと同じく深々と頭を下げ、傍らの万華鏡を懐に差し入れ、でんやきと甘酒の器と盆もそつなく回収し、小色は寝所を出て行った。あとにはどろりとした空気と感情がわだかまる。

 彼女が『出て行って』という命をどう受け止めたかはわからない。寝所からなのか、〈白木の屋形〉からなのか、安是からなのか、あるいは自分と燈吾という夫婦間からか。

 かすみ自身、己が発した命の意味を捉えきれない。気分が悪く、少しばかりえずいた。

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