6-3焦慮
戸が揺れる音に、文机に伏せていた顔を上げた。
小色と話してから、ただ鬱々としていた。肩掛けが滑り落ちたことも気付いていたが放っておいたため、身体は冷え切っている。
風雨が激しさを増し、薄闇が漂う。かすみは時刻を推し量る。夜の帳が下ろされる直前、逢魔が時。
音がする障子戸を見やれば、ほのかな光が浮かんでいた。夕暮れの光のような甘やかな色合い。黄色めいた……満作の花。浅黒の山肌に花開く、娘頭の光色。
はっとして文机の下に置いてあった短筒を構えた。今、駒が自分を訪なう理由は一つ。自身の震えを押さえ込むように、銃把に指を絡める。かすみは恐怖していた。だが。
「起きているか」
障子越しに響いた声音は、嗄れていた。思いがけない来訪者に目を瞬かせる。芳野嫗だ。〈白木の屋形〉にいることは不思議ではないが、かすみの根城まで足を運ぶとは珍しい。手をあげるよりも先に声を掛けてくるなんて。驚きのあまり、短筒を握りしめたまま頷いた。
その間の抜けた姿が見えたというわけではないだろうが、嫗は言葉を続ける。
「川慈はおらぬか?」
「……いない」
「誠か」
「昨夜見かけて以来、顔も見ていない」
むっとして答える。下衆の勘繰りか。念押しまでされるのは気持ちの好いものではない。
「川慈が戻らぬ。夕刻前、儂に食事を届けさせると言って帰ったのだが」
かすみは眉根を寄せた。中年男が戻らないことではなく、嫗のせっかちぶりに。宵の始めであり、夕餉には少し早い。単にこの老婆は空腹で苛ついているのではないか。だったら、小色に命じてとち餅でも焼かせれば良い。あの寒田娘がまだ屋形内にいるかはわからないが。
思いつつも、芳野嫗と気安く話をする仲ではなく、黙り込んだ。黄色の光は見間違えだったのか、薄紙には小柄な影が映し出されるのみ。
その幻灯が、嵐になるやもしれん、と呟く。
それは言葉通り天災を指すものか、安是の里での言い伝えを指すのか。
「川慈の家へ行く。着いて参れ」
誰が好き好んで、風雨の宵闇を出歩くものか。それも不倶戴天の敵と、中年男の安否を確かめに。大方、酒を呑んで眠りこけてしまったのだろう。
蓑を付ける
川慈の家は里の南に位置し、〈白木の屋形〉から四半時ほど歩いたところだった。先導としんがりを里男らが務め、嫗とかすみは間に挟まれて往く。
川慈に抱えられた以来の外出だった。
雨の礫が肌を打ち、暴風が視界を遮り、
一行の進みは、老女がいるにも関わらず、速かった。一定の間隔を空けているのだが、むしろ嫗が急かしているふうでもあり、油断すれば距離が開く。
ぐっと下唇を噛み締めながら、歩を速め、嫗の隣へと並んだ。
黒沼問い、と呟く。里男らには風雨と蓑笠で聞こえまい。だが嫗には届く、無視できまいと踏んでいた。自分を道連れにしたのには意味がある。意味があるなら、無下にはできない。それは、同時にかすみに支払わせようとしている代償が高いということを意味しているが。
ちらり、嫗がこちらへ切れ込みの眼差しを送ってくる。反応に満足を覚え、その視線を掬い上げた。
「昔、光り良い里娘を数人黒沼へ落とし、光り浮かんだ一人をオクダリサマとして選んでいたと、二輔から聞いた」
「……かつての神事だ。もう三十年以上行われておらん」
湿った山路を這う声音だった。
「選ばれなかった娘らはどうなったの?」
嫗が答えるまで間があった。こちらの意図を探るようなそれ。
「黒沼は黒山の心意を表す。すなわち山姫の御心を。沈んだのであれば、山姫のご意思だったまで」
都合の良い解釈だと反論しそうになるのを、押さえ込んだ。
黒沼には黒ヒ油が溶け出したかのような粘り気がある。衣を纏ったまま入り、衆人環視の元、娘らは二度と岸辺へ上がれなかったに違いない。
嫗に問うべき事柄はまだあった。黒沼は山姫の心意を表す――それが、安是の見解だというのなら。
蓑笠から雨垂れが落ちる。迷いが無いわけではない。けれど手札を増やす必要があった。手持ちだけでは勝てない。
「阿古が戻ってきた」
十九年前里を出奔し、その一年後狂女と化して戻り、赤黒毛の鬼子を産み落とし、そして十年前再び姿を消した女。違う。消させた。この手で。
「八歳の頃、私は阿古を黒沼へ突き落とした。阿古は赤光を放ちながら沈んでいった」
この罪の告白を一番に嫗へするとは想像だにしなかった。けれど老婆に驚いた様子はない。かすみは続ける。
「嵐の晩、寄合所の地下牢に囚われた私を佐合は連れ出した。佐合は私を自宅で手篭めにしようとした。その時、阿古――阿古に良く似た何か――が現れ、佐合を殺した」
阿古は黒沼に突き落とされ、沈んでなお生還した。おそらくは〈白木の屋形〉に繋がっていた池から。もしかしたら、黒山周辺にはあの池以外にも黒沼へ繋がる水場があるのかもしれない。
「〝黒沼問い〟が本当に山姫の心意を映すのなら、生き戻った阿古はオクダリサマとして選ばれていたということになる」
蓑笠に隠れて嫗の表情は見えない。もとより顔色が変わる相手ではないが、隔絶感があった。
――もし、真実、阿古が戻ってきたとして。嫗がぼそりと告げる。雨風に紛れそうな声音で。
「あれはオクダリではない。オクルイだ」
オクルイ……おくるい。その響きは耳に馴染んでいた。娘遊び唄の一節だ。
あねさんおりて、いもさんにげる
おくだりさまは、おやまへかえる
おくるいさまは、いついつでやる
「妹姫や〈寒田の兄〉の出現なくば、
「オクルイとは何」
「文字通り狂女のことよ。お前もよく知っておろう」
そう、誰より知っている。八歳まであの女の世話をしていたのだ。獣じみた荒い息、甲高い奇声、常に漂っていた排泄物の匂い。一瞬、すぐ傍らにいるように立ち昇り、消える。
「阿古はなぜ山姫をくだらせようとしたの」
「お前の母親が里中の女から怨まれていたことは知っておろう。保身のため、山姫に縋ろうとしたまで」
「…………」
阿古は里一番の光り良い娘であり、オクダリサマ足る資格があった。
けれど妹姫〈寒田の兄〉は現れておらず、オクダリサマは必要とされていなかった。
にもかかわらず、阿古は保身のため山姫をくだらせようとして、山姫の不興を買った。
故に罰として〝オクルイ〟となった。オクルイとなった阿古は、今も山をさすらっている……
「阿古は、都に出奔したのではなかったの?」
今の今まで、阿古は都に出奔し、そこでのむごたらしい経験から狂ったのだろうと思っていた。だが、今の話では阿古は山姫に狂わされたから里を出たということになる。本人も意図せず。
「どうであろうな。オクルイとなって宮市を歩いておったところを誰ぞに拾われたかもしれん。狂っておっても見目は良いからな。あるいは光り漏らす女を見世物としようとした輩もおったろうよ」
考えられない話ではなかったが納得できないこともある。だが、今は阿古の来し方を漁る余裕はない。それよりも山姫だ。山姫はどこにいるのか。そも、山姫とはなんなのか。畢竟、考えはそこで行き止まる。
「……じゃあ、今、山姫はどこにいるの。どうしたら下るの」
ひとりごとめいて胸中の疑問が口を突く。酒か、肉か、着物か、金銀財宝、あるいは男か。
「山姫は娘の光を辿ると言っていたはず、だったら里中の娘を集めて娘遊びを、」
嫗に詰め寄ろうとして、切れ込みの視線に足止めされた。
「必死になったものよの」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます