六、オクルイ

6-1女房

 佐和は煮しめを炊く鍋から顔を上げた。

 

 今日は朝から曇り、午には霧雨が降り出したが、いよいよ本降りになってきたらしい。風も強く、戸板を揺らして耳障りな音を立てる。

 また嵐が来るのだろうか。稲は刈り取ったから良いものの、野菜や木の実の収穫、それらを干したり漬けたりと冬支度に支障が出るというのに。黒ヒ油作りにも湿気はよくない。

 嵐は山姫を下らせる。いや、山姫が下るから嵐が起きるのか。否。本当に恐ろしいのは嵐でも山姫でもない……あの女。

 

 十日前の嵐は凄まじかった。正確には嵐と共に起きたあの山火事だ。暗紫紅の波、うねり、飛沫。あまりに壮麗、絢爛、絶佳の地獄絵図。黒山の頂から裾野まで光で覆い尽くし、雪崩となって、里ごと呑み込むのではないかと総毛立った。あれが里の終焉ならば、いっそ、納得できたと思う。佐和と同じ四十前後の安是女ならば同じく受け容れていたのではないだろうか。

 その暗紫紅の業火を起こした娘は、今、オクダリサマとして〈白木の屋形〉に座し、山姫をもてなそうとしている。夫はオクダリサマ護衛の任を負っており、この数日、着替え以外は帰ってきていない。屋形が〈寒田の兄〉に襲われ、死者が出たとも聞く。

 皮肉な巡り合わせだった。妹姫や〈寒田の兄〉はこの何十年現れていなかったのに。むしろこの采配は十九年前になされていたのか。 

 夫が護るオクダリサマは、安是の悪夢の残滓だ。悪夢の名は阿古。

 嵐、あるいは妹姫や〈寒田の兄〉のように、破壊や暴力を為すわけではない。けれどそれら以上に忌避される。あの赤光は、憎悪を炙り出し、照らし出し、流し出させた。少なくとも佐和の同年は皆、晒され、染められ、汚された。


 醤油の濃い匂いに我に返れば、鍋が煮え立っている。佐和はなつめを摘まみ出し、口に入れた。もう一つ、二つと続けて噛み締め、種を吐き出す。太りじしは、この味見が一因だろうがしようない。

 今日も夫は芳野嫗へ夕餉を届けるよう言ってくるだろう。嫗には滅多なものは出せず、味付けは慎重にならねば。その気遣いと恭順と見栄の奥底には、美舟――嫗の一人娘――に対する想いが泥濘じみて絡みついている。


 美舟は、佐和の娘宿時代の娘頭であり、同時に〈白木の屋形〉の巫女であった。わざわざ娘宿に入らずとも良かったろうに、彼女は自ら娘宿を望んだ。光昇らす相手が若衆頭であったから。

 もしもあの悪夢がいなかったなら、あるいは他の世代だったなら、佐和が置かれている状況は今とは違っていたと思う。悪夢――男狂いの阿古は若衆頭にもちょっかいをかけ、若衆頭は鮮烈な赤光を振り切れなかった。美舟の鬱金色の光に浴しながら。

 しかし、美舟の恋心は鎮火せず、嫉妬を油として、敢然と阿古に立ち向かった。もしも真実本当に若衆頭と添い遂げるのならば諦めようが、そうでないならば里男から一人婿を選べ。でなければ里女の総意を下す、と。

 個々の娘の嫉妬ならば一顧だにしなかった阿古だが、さすがに総意となれば無視できない。阿古は娘頭の要求を呑んだ、かに見せかけた。次の秋祭までに婿を選ぶと宣言しながら相手を明かさず、全ての里男に気を持たせたのだ。

 だから美舟は総意を下すべく、動いた。彼女には阿古の赤光とは違う手札があった。〈白木の屋形〉の巫女という立場と特権が。

 里娘から最も良く光る者がオクダリサマとして選ばれもてなしがなされるが、そのオクダリサマの世話役が巫女であり、美舟は立場を利用し山姫に縋った。

 巫女としてのわざを個人の目的に使うべきではなかったろうが、半数を占める里女の総意であり、あながち間違った使い方とも言えず、誰も止めず、また止めようともしなかった。女たちは無言のまま賛同し、男たちは責められては敵わないと黙り込み、古老らは見て見ぬふりをした。

 結果、美舟はその身を燃やし、阿古は安是から去った。……そして、若衆頭に光り濡らしていたもう一人の娘は。


 ガタリ、と大きな音が響き、土間を振り返る。夫――かつての若衆頭であった川慈が帰ってきたのか。


 ならば雨に濡れているだろう、そう考えて居間へ行き、畳んであった手ぬぐいを取り出して土間へと戻る。しかし、戸口が開いて雨風が吹き込んでいるが、夫はおらず、薄闇だけが揺らいでいた。

 風で戸が押し開けられたらしい。戸を閉め、息を吐くと、もともと暗かった土間がさらに濃い闇へと沈んだ。胸元を見下ろせば、藍色の光がかすかに袂を濡らし、染みを作る。が、徐々に小さくなり、音もなく消えた。

 「漁夫の利」という言葉があるが、自分はその体現者であった。美舟と阿古がいなくなり、二人と比べてずっと地味な光しか放たない佐和が川慈と夫婦となったのだから。

 嬉しさよりも戸惑い、それは子を成し、子らが若衆宿へ出入りするようになり、二人きりの生活に戻ろうとしている今も続いている。

 連れ添って十七年、夫を好いているのか、自分の心がわからない。若い頃は若衆頭への憧れがあったが、それだけで夫婦となったのか、定かでなかった。今では川慈が遊び女――燐の元へ通っても怒りは湧かず、一夜帰って来ずとも枕を夜露で濡らすわけでもない。なれど出迎えようとすれば藍の光が胸を濡らす。


 ……慕情なのか、習性なのか。


 今、川慈は一日の大半を〈白木の屋形〉で過ごし、阿古の娘の傍らにいる。まさか親子ほどに歳が離れた娘に婀娜あだめいた気持ちが湧きはしまいと思うが、どうだろう。二十年前、阿古は老いも若きも篭絡していた。

 家族としての情はあれど、惚れているのか判然とせず、しかれど心は波立つ。

 いっそ、この身が光らねば、楽になれるだろうか。

 けれど佐和は気付いていた。安是人にとってこの光がなんであるか。阿古や美舟ほど激しく光を燃え立たせないからこそ、気付けた。佐和の光は黒ヒ油のように身体を這い伝い流れるという特性がある。


 光は血潮であり、安是男は女に血を流させて喜ぶのだ。その献身に心動かされるのだ。


 男たちに訊けば、否と言うかもしれない。けれどぎくり首をすくめるに違いない。

 ならば、安是女は、安是男の何に惹かれるのか。光が真実ならば、自分は川慈の何に光り濡れるのか。

 鼻に生臭さを、首筋に生ぬるい空気を感じ取り、炊事場を振り返る。今日は生物なまものを使っていないはずだが。

 そこには、鍋に頭を突っ込み、火傷も、汚れるのもお構いなしに、煮しめをかっ喰らう白髪の女がいた。


「……あ、」


 十年前、消えた女。縞の着物に、腰にぼろを幾重にも巻き付け、髪は真白に染まっていたが、間違えようがない。里のわざわい、災厄、悪夢。この女だけは違えない。なぜなら、ずっと用心してきたから。

 土間に突き立ててあった鉈を掴んだ。女は煮しめに夢中で、注意を払っていない。絶好の機会だが、佐和は迷った。〈寒田の兄〉が現れた今、里ではおくだりが待たれており、川慈にはその責がある。けれど里の悪夢を終わらせるまたとない機会であることも確か。心は千々に乱れた。

 迷いが伝わったのか、煮しめに飽きたのか。女が振り返る。

 弧を描いた紅い唇、青みを帯びた瞳、抜けるように白い肌。口の端から煮汁か涎か、幾筋も垂らして。竈の火に下から照らされた異形。


 ……おくるい・・・・。ぞっとして呟いた。


 ガタリ、と音が響き、戸口を見やる。


 手ぬぐいを取ってくれ、川慈がいつも通りの口調で土間に入ろうとして動きを止めた。古女房が鉈を構え、かつての情婦と対峙していれば、無理もない。

 夫は声も出せない。そも、小心なのだ、この人は。己の希いに呪われ、阿古にも美舟にも芳野嫗にも怯えている。もしかしたら暗紫紅の光を放つ悪夢の残滓にも。

 佐和は唐突に思い起こした。若衆頭で、偉丈夫で、複数の女に光を昇らされる。二十年前、そんな男が己の罪に子どものような怯えた顔をしたから。

 憐れみだったか、慰めだったか、諦めだったか、わからない。なれど、この男を護ろう、その役目を他の女に渡すまいと思ったのだ。

 女が戸口へ向かう。川慈は身動きせず女を凝視している。佐和などいないふうに。

 この瞬間のために夫婦になった。だから佐和は躊躇わず、女と川慈に割って入り、鉈を振り上げた。

 女がにたり笑みを深める。鉈を下ろし切る前に、白い残像が過ぎり、生臭い息がごく間近で感じられた。刹那、喉と肩の間に熱湯を浴びせられたがごとき熱さと痛みが広がった。

 流れ出たのは、思慕の光か、女の血潮か、はたまた嫉妬の炎か。佐和には今も昔も、結局はわかりきらないのだった。

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