4-2叩頭

 長居は無用だった。

 扱いから考えて、ここは安是の里ではなく、おそらく自分は人違いをされている。

 佐合の家から出て、黒沼へ行き着いたところまでは覚えている。燈吾の蛍火と天狼星の見間違えに気付き、燃え盛る自身の光に焼かれ、その後の記憶が定かでない。歩き続け、黒山を抜け、他の里に迷い込んだのかもしれない。

 遥野郷はるかのごうでは神隠しにあう女は多い。何年も経った後に神隠しから戻ってきた娘と勘違いされているのやも。小色の様子から見て、なにやら事情もあるようだった。神隠しから戻った娘だ、姿形が違うことも、赤黒の髪も、多少の変化へんげには目を瞑っているのだろう。

 ともかく、安是ではないなら上出来だ。寒田男と通じ、安是男を殺した今、里に戻れるはずがない。

 これからどうするべきか――何を置いてもまず燈吾の行方だ。最たる手がかりは寒田であろう。次には、黒沼。燈吾との次の約束は、秋祭の晩。

 寒田も黒沼も、あまりに危険だが、元より燈吾に与えられた生、燈吾のためならば惜しむものではない。けれど最も有効に使わねばならない。


 小色が出て行ったのとは反対側の襖を開ければ、寝所よりいくらか小さな間となっていた。箪笥、鏡台、文机、そして衣桁が置かれ黒打掛が掛けられてあった。黒打掛があることに安堵する。箪笥の中には着物、帯、腰紐と、女物の装具がぎっしり入っていた。

 着物は売るか、物々交換できる。一見してわからぬよう、下の方から数枚拝借し、黒打掛と一緒に腰紐でまとめて懐へ隠し入れる。そうして、続く障子戸から素足のまま濡れ縁へと抜け出した。


 忍び歩きわかったのは、相当に広い屋敷だということだった。そして人の気配が感じられない。これだけ広く、手入れされているのに不自然なほど静かだった。静かというよりも、張り詰めている……そんな心地がするのは自分自身に後ろ暗さがあるからか。

 屋敷には庭があり、木々が茂っているため見渡せないが、どうやらぐるり高い塀が巡らせてあるらしい。しばらく塀に沿って探るが出入口は見つからなかった。

 里の百姓の家ではありえない。武家の屋敷だろうか。考えて、ふと一つ心当たりが灯ったが、まさかと自ら吹き消す。


「ワカオクサマ、何をなさっておいでです?」


 振り返れば、紅葉の木に隠れるように小柄な老人が立っていた。筒袖半着に股引という里男の野良着と変わらず、口振りからして屋敷の下男だろうか。これも初めて見る顔だった。

 ワカオクサマとは――もしや、嫁を迎えたものの、折檻か駆け落ちかでいなくなり、その身代わりとして拾われたのか。


「小色が捜しておりました。さあ、お戻りになってくだせえ」


 言われた一瞬、着物を隠した胸元に目線が注がれた気がした。けれど老爺は頓着せず、促すように背後に回った。


「お捜し申し上げました!」


 寝所に連れ戻されると、小色はうっすら目に涙まで溜めてかすみを迎え入れた。

 迷われてしまったのではないか、賊にかどわかされたのではないかともう心配で心配でと繰り返す。たかが半時の不在でどうして取り乱せるのか。かすみとしてはまったく不可解な、山路で珍妙な動物の仔にでも出会った気分だった。

 用足しに行っていたのだと言えば、最初にご案内すべきでした、すみませんすみませんと小色は頭を下げ続ける。

 こちらの一挙手一投足にいちいち反応するので、騒がしいことこの上ない。冷ややかな心持ちで小色の横をすり抜けて寝所に入ろうとした時、あの、と遠慮がちに言ってくる。


「そろそろお召し替えなさいませんか?」

「……別に、要らない」

「あの、でも、寝衣でいらっしゃいますし」


 肩に触れられ、反射的にその手を振り払った。高らかな音と、次にとさりと軽い音がする。腕は小色の頬に当たり、はずみで小色が倒れたのだった。

 小色を傷つけるつもりなどなかった。だが、胸元に盗んだ着物を入れているのだ、つい反応が過剰になってしまった。

 助け起こそうか、謝ろうか、知らんふりを決めこむか。娘を見下ろしながら逡巡していると、彼女の頬が赤く腫れているのに気付いた。そんなに強かったかと内心ぎくりとするが、かすみが打ったのは反対側だ。

 ――自分がいなくなったことを世話役の不始末として責められたか。

 小色は失礼しましたと重ねて頭を下げ、悄然とする。かすみは嘆息を吐いた。



 用意された着物は紫地に大振りな牡丹柄で、上物だった。この赤黒の蓬髪に似合うはずないのだが、小色はこちらへお座りくださいと慇懃に言う。あまりに恭しく、馬鹿にされているのかと訝るが、娘は大真面目で、でなければ大した役者に違いなかった。疑いは必要だが、己の役どころが掴めれば、先手を打てるし、利用もできる。かすみは大人しく従った。

 鏡台前に座ると、うねる髪に櫛を入れられた。髪を触られるのは抵抗がある。たった一人を除いては。けれど小色の手つきは終始丁寧で、悪くはなく、いやむしろ……

 心地良さに目を閉じそうになった時、ふいに違和感に襲われた。

 明瞭な鏡に映るのは、阿古が誰と――いやと――成したか知れぬ〝かすのみ〟だ。赤黒髪がその証左。だが、こんなにも長かったか。せいぜい背中に垂れるぐらいだったはずが、今は腰下まで届いている。


つ国の方のような豊かな御髪ですね。いっそ洋髪に結いましょうか」


 そうしましょうと小色の指先が鮮やかに動く。不器用に思われた彼女は意外にも手早く赤黒の髪を結い上げた。

 髪が整うと、小色はさっさと腰紐を解き、寝衣を剥ぐ。

 と、再び違和感を抱いた。剥かれた肌は、あれだけ打たれたというのに、傷も痣も見当たらず、艶やかに白く輝いているのだ。あんな暴虐は悪夢だったと言わんばかりに。と、あらと小さな声が上がった。


「この傷はどうなすったのですか?」


 肌にほんの一点、紅を落としたような傷があった。

 軟膏を塗りしましょうかという声を無視して胸元を凝視する。佐合を貫いた阿古の――阿古のような何かの――爪。文字通り爪痕を残していたなんて。

 なんでもないと返せば、小色は物言いたげな表情を浮かべたが、身支度を再開させた。

 馬子にも衣装、と茶化すだろうか。それとも、これこそ我が妻だといわんばかりに笑みを佩くか。髪を結われ、白粉をはたかれ、紅を塗られ、紫地に牡丹柄の着物はさほど不似合いではなかった。赤黒の髪も纏められているからか、落ち着いて見える。


「ととのいなすったか」


 襖越しの声は、先ほど庭で出くわした二輔にすけという老下男だった。あちらはもうとっくにお待ちかねでさあ、と言ってくる。あちら。

 不穏な予感にかすみは体勢を庭へと向ける。けれどさりげなく小色が回り込み、後ろは二輔が塞いだ。


 さあさ、さあさ、さあさ、さあさ。立ち上がらされ、背を押され、庭沿いの長い廊下を進む。


 まだ嵐が居座っているのか、風は強く、ぬるく、気味が悪かった。葉擦れの音が囁きめいて不安を煽り、知らず息を殺した。

 廊下の折れた先で白っぽい装束の誰かが床に伏せていた。前のめりに倒れているかと思いきや、ぬかづいているのだ。一体誰が、誰に向けて、何のために。


「……お待ち申し上げておりました」


 殺される。その一声を拾った刹那、全身全霊が逃走を訴えた。

 着慣れぬ衣装が、小色が、二輔が、そして額づく老女――芳野嫗の脇の間から飛び出してきた男が、かすみを阻む。

 男には見覚えがあった。確か佐合の数少ない友人だった安是男。川慈かわじと言ったか。朋友を殺されて〝かすのみ〟に言い分を聞くわけもなく、楽に死なせるはずもない。恐ろしくて悲鳴も出なかった。

 川慈と二輔にそれぞれ両腕を掴まれ、廊下脇の間へと連れ込まれ、その奥に続く襖の前に立たされる。

 そして、縋る隙もなく、小色が襖を開け放った。

 先は広間となっており、ぎっしりと人が集まっていた。五十、六十、いや百にも達するか。広間に入るだけ詰め込まれた印象で、ふいに思い出されたのは糸取前の繭玉だった。

 その鋭い視線が集中し、かすみを縫い止める。老若男女全て安是者であり、ならば、里の半数以上がこの場にいる。娘宿の同輩もいた。

 ここはいまだ安是の里。自身がいる場所には当たりがついていた。一度は吹き消した疑念。

 里長の屋敷より、寄合所よりも広い、たった一つの屋敷――〈白木の屋形〉。生涯、〝かすのみ〟には縁が無いと思っていたというのに。

 〝かすのみ〟が寒田の男と密通していた。善良なる里人である佐合を殺した。罪状はいくらでもある。目覚めてすぐに逃げ出すべきだった、わざわざ処刑場に留まってしまった。なんて愚かなのか。もう会えない。燈吾――

 腰が引けて、自力では立てず、川慈と二輔によって辛うじて身体を支えられている。磔の罪人ぜんとして。そう、今から安是にさらされ、なぶりころされるのだ――

 里人が一斉に動く。そして、俄かに信じられない光景を目の当たりにした。里人が、跪き、額づき、声を上げる。


 ――里をお救いください、オクダリサマ


 まるで新都の帝へ礼を尽くすかのごとく。里人らは〝かすのみ〟へ深々と叩頭した。

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