四、オクダリ

4-1下女

 黄金色に色づいた稲穂が波打つ。

 見渡す限りの稲田。世界は青と金に二分されていた。風が吹くたび、透明な獣が駆け抜けたごとく、稲穂が凹み弾む。

 遥野郷の山間で生まれ育ったから、広大な黄金原には圧倒される。なんと豊かで明るい景観だろう。太陽が昇るのも沈むのも稲田とは信じられない。ぼおと見惚れているうちに、くうと腹の虫が鳴いた。

 農作業中の夫に昼餉を持ってきたのだった。もう幾度も秋を迎えているというのに、一向に見飽きることなく、見入ってしまう。

 けれどそれを咎め立てする者はいない。自由なのだ。稲田を渡る透明な風のように。

 かすみ、呼ぶ声の方を向けば黄金の原の真ん中で、誰かが手を振っている。日に灼けた腕は太く逞しく歳経た貫禄も手伝い、すっかり農夫ぜんとしていた。逆光で顔は見えないが、違えようがない。

 ああ、子どもたちも待っている。笑い返し、愛しい背の君の元へと駆け出す、と。


 ザぁっと。一陣の風が駆け抜けた。獣が過ぎったように、いやこれは嵐、嵐ならば獣ではなく……


 ……山姫?


 風に押されるように振り返れば、辺りは闇に沈み、金色の波――見たことはないが津波というのかもしれない――が押し寄せる。波は弾け、光の粒となって降り注ぎ、腕に肩に触れると暗紫紅の色を帯びて豊饒な大地を汚す。暗紫紅の光は炎となり足元を中心に膨れ広がった。

 夫も子も、あっという間もなく炎に呑まれた。

 気付けば、虚空へ手を伸ばし、全てを燃やし尽くそうとする暗紫紅の炎が原に一人きり。

 声もなく、術もなく、救けもなく。ただただ、立ち竦すしかなかった──



 こめかみから頬にかけてのくすぐったさに、目が覚めた。緩慢に手をやれば、それが熱い雫だとわかる。

 夢を見ていた。内容までは覚えていない。けれど少し揺らすだけで溢れ零れてしまいそうな悲しみが胸に満ち、ひどくやるせない。

 そのまま腕を両の目蓋に押し当てた。

 感情のまま慟哭すれば、何かが変わるだろうか――否。体力と水分を使い果たすだけ。一番欲しいものを手に入れるのに、無駄な労力は払えない。

 腕を戻し、目蓋を押し上げ、置かれた状況の把握に努めた。見覚えのない天井は高く、柱は角張っていた。そして、あまりに意外で信じ難いが、自分は寝所の夜具の上に、真白い寝衣を着て寝かされている。

 こわごわ身を起こせば、節々は痛むが、致命的な怪我は負っていない。打ち身と長い間寝かされていたためだろう。


 ……安是ではない?


 希望なのか不安なのか、よくわからない感情が胸に灯る。だが、結論を出すのは早計に過ぎた。

 記憶を辿ってみる――娘遊びの最中に娘宿に踏み込まれ、寄合所の地下牢で折檻され、燐が黒打掛を届けてくれて、佐合に騙され、そして……

 悔しさに寝衣の端を握る指が震えた。燈吾の名を口にされてやすやすと信じてしまったが、十中八九、かすみ自身が燐に向かって夫自慢をしていた折に盗み聞きでもされたのだろう。自業自得。なんと甘かったのか。


 佐合に関しては片を付けたから、もういい。みすみす騙されない用心深さと奸智、そしていざという時の武器が必要だと身に染みた。くやしさと痛みと恐怖は、二度と騙されまいとする気付けになる。そう思わねば、やりきれなかった。


 ここはどこなのか。燈吾はどこにいるのか。どこへ行けば会えるのか。


 寒田の里に帰ったと考えるが道理だが、安是の里での禁忌は、寒田にとってはどういった扱いなのかわからない。関係が明るみになった今、燈吾は寒田にはいないかもしれない。

 いてもたってもいられず、飛び起きようとして、自身の赤黒髪を踏み付け、かくんと膝を付いていてしまう。忌ま忌ましく舌打ちしながら髪を振り払い、立ち上がった勢いのまま一番手近な襖を開けた。

 きゃ、と小さな悲鳴が響く。ちょうど寝所に入ろうとしていたのだろう、膳を抱えた娘と衝突しそうになり、咄嗟に身を引いた。


「お目覚めになられたのですね。良かった、ちょうどお食事を運んできたところです」


 娘が柔らかに微笑んだ。自分より歳下の十五、六。あるいはもっと若いかもしれない。黒髪を肩につくぐらいで切り揃えた、小柄な娘。娘宿に属していないどころか、里では一度も見かけたことがない顔だった。

 ますますもって、置かれた状況がわからなくなる。

 内心とは裏腹に、かぐわしい香りに腹は鳴いた。

 娘は嬉しそうに膳を夜具の横に置いた。白飯、干魚、豆の煮しめ、大根と人参のなます、白菜と紅蕪の切り漬。格別贅を尽くしてあるわけではないが、たっぷりとよそってあり、普段の娘宿の食事に比べて格段に豪勢だ。特に白飯は雑穀で嵩を増しておらず、つややかに光っている。

 娘は立ったままのかすみに、白米の椀を差し出してくる。

 ここはどこなのか、里は、芳野嫗は、古老らは、佐合は、阿古は、天狼星は、燈吾は――

 知りたきことはいくらでもあった。油断すべきではないと自身に言い聞かせたばかりでもあった。

 だが、かすみは引き寄せられるように腰を下ろし、椀を受け取った。

 膳に載っていた器を全て空にすると、小ぶりな湯飲みを差し出された。芳香から白湯ではなく、焙じた葉を淹れた茶だと知れる。

 かすみは差し出した小さな手の主、禿頭の娘を見据える。娘は食事をする傍らに控えていた。


「あの、御酒の方がよろしかったですか?」


 申し訳ありません、気がつきませんで――娘が縮こまって湯飲みを下げようとするのを手で差し止める。


「……ここは、」


 言い掛けると、娘はあっと声を上げ、座ったまま後退りして畳に額が触れさせて、


「申し訳ありません! すっかりご挨拶が遅れました。お世話を仰せつかりました下女の小色こいろと申します。未熟者ではありますが、どうぞ、手足としてなんなりとご命じ下さいませ」


 と、一息に述べる。

 呆気にとられた。今の今まで〝かすのみ〟に頭を下げた者などいない。この娘――小色は、勘違いしているのではないか。


「ここはどこ?」


 問えば、小色は顔を曇らせ、申し訳ありませんと繰り返し頭を下げる。


「勝手に答えてはならぬと申し使っております」

「……誰に?」

「言い付けを守らねば、お役御免となってしまいます」


 いくつか問いを投げたが、返答は同じだった。

 埒があかない。かすみは無言のまま立ち上がり、襖を開けて寝所の外に出ようとしたが、小柄な身体に押し止められる。


「お待ちください、まだお支度が調っておりません」

「……言い付けた・・・・・者はどこ?」

「お支度が調えば参じます。ご意向を伝えて参りますので、しばしお待ち下さい」


 言うが早いが、小色は膳を抱えて寝所を出て行った。

 しばらく軽い足音が響いていたかと思えば、悲鳴と何かが割れる音が響く。

 襖を細く開けて覗けば、落ちた膳と割れた器の破片を拾い集めている小さな背があった。どうも小色はあまり器用ではないらしかった。

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