3-5天狼星

 まざまざと甦る。八歳のあの夜、生家を抜け出た阿古は赤光をくゆらせ山に入った。かすみは怯えながらもその灯を追った。

 心配だったからではない。一つには祖父母に狂女から目を離すなと言い付かっていたから。もう一つは千載一遇の好機だったから。

 阿古さえいなくなれば、生きる苦難から解放されると思った。八歳の子どもは、阿古さえいなくなれば里の皆が優しくしてくれると信じていたのだ。

 狂女ではあったが娘がいなくなれば祖父母は嘆き、目を離したかすみを叱責するかもしれない。だが、阿古がいなくなれば、祖父母の負担は軽減され、生まれた余裕が孫娘に回されるであろうことは疑いなかった。

 昔から、遥野郷では山に入ったまま帰ってこない女は少なくない。枕を形代に葬式をあげた娘もある。

 いわゆる神隠しだが、当時も今も、神は信頼に値しなかった。神隠しでは戻ってくる可能性がある。古老達の話では何十年も後に帰ってきた女もいたという。実際、阿古自身、里を出奔した一年後、臨月の胎を抱えて帰ってきた前科・・持ちだ。


 あの夜半、導かれたように、阿古は赤光を放ちながら黒山へと分け入り、黒沼へと行き着いた。八歳の子どもには険しい道のりだったが、必死に後を追った。

 阿古は赤光を昇らせたまま黒沼の前に佇み、銀の縮緬模様を描く水面を見つめて黙していた。祈るような、憂うような、その姿。初めて、阿古が狂っているとは感じられなかった。

 何を考えていたのか。誰を想っていたのか。それら全ての疑問に蓋をして。

 かすみはあらん限りの力で阿古を黒沼へと突き飛ばした。

 あっさりと女は落ち、暗い水底へ沈みゆく。金魚のようにひらひらひらひら赤光の尾を曳き、闇へと吸い込まれて消えた。


 水面が元の通りの黒縮緬に戻ってから、たっぷり百数えて。模様が乱れていないことを確認し、黒沼に背を向けた。

 夜明け前に帰り着くと、生家の裏の柿木の下に、古ぼけた草履を揃えておいた。それは昔からよくある神隠しの兆候であり、子どもの浅知恵だったけれど。祖父母は気付いていたかもしれない。なれど、彼らは何も追及してこなかった。彼らも安堵したのだろうと思う。


 だから、この女が阿古のはずがない。けれど、顔をなぜた髪の感触は十年前と同じ。


 問いに返答はない。佐合の骸に屈み込んでいた女は、血を啜り尽くしたのか、立ち上がった。へたり込んでいたかすみに寄ってくる。おののき、後退るがすぐに壁に背が当たり、身動きがとれない。

 女はふんふんと鼻を動かしながらかすみを見下ろす。獣の仔が、虫に興味を引かれて匂いを嗅ぐにも似た仕草。ある種、滑稽とも愛嬌があるとも言えたが。

 白皙の面から、かすみの頬へと赤い雫が滴り落ち、半開きになっていた口内へ零れ落ちる。あっと思う間もなく、女は腰を屈めてかすみの口を舐め回すようにして口付け、血を啜る。生温かい液体が口腔へ流れ込み、嚥下してしまう。


 驚きに見開いた眼の端に、青白の蛍火が映った。――燈吾。


 ん、んんと声にならない抗議を上げ、女を突き飛ばす。逆上されるかと身構えたが、女は筵の上に転がっていた徳利に気を引かれ、もうこちらを見てはいなかった。

 急ぎ黒打掛に腕を通し、土間を抜けて玄関へと走る。引戸まで辿り着き、かすみは一度だけ振り返った。

 屋内は血と木屑が飛び散り、ひどいありさまだった。横たわる佐合と囲炉裏の間に、血塗れの鑿が転がっている。空を掻いた指先に触れた硬い感触。それが宙から湧いて出るわけがない。白髪の女が、かすみに手渡したのだ。

 阿古であるはずがない。かずみ自身が黒沼へ沈めたのだから。そして、阿古であれば、かすみを助ける理由は無い。先と同じ理由で。

 女は徳利を拾い上げ、口を大きく開き、酒の雫を迎え入れた。一滴も出なくなると、こぼれた酒が染み込んだ筵を持ち上げ、赤い舌で舐め回し、吸い出す。それは十年前の狂女の姿とだぶる。

 舌を出したままの女と目が合う。女はにたり笑っている。意味のある笑みなのか、女の常なる表情なのか、わからない。

 筵の端が囲炉裏の火に触れ、炎が移る。それは虚空が溶け出すさまにも見えた。女の顔が炎に彩られ、深い陰影をつくる。一瞬、笑みが消え、とても狂い女には見えぬ美貌が炙り出された。


 これは阿古なのか、阿古だとしたら、どうして生きているのか、今までどこにいたのか、なにゆえ自分を助けたのか。そもそもなぜ里を出た、なぜ戻った、なぜ自分を産んだの……


 いくつもの問いが、永い眠りから目覚める岩漿がんしょうさながらに噴出しようとする。ずっとずっと、抱き続けながらも詮無きことと、無視してきたそれら。けれど、消えるはずもない。いつもくすぶり、いぶされた心は黒く頑なになった。


 だけど、今は。


 今は、そんなものよりもずっと大事な、守るべき灯が胸に宿っている。再び舞い戻り、天窓の辺りで明滅する青白の蛍火を見上げて。

 打掛の前を握り締め、佐合の家を飛び出した。



 古老や芳野嫗よしのおうな、佐合に撲たれ、身体中が熱を孕み痛む。疲労と睡眠不足で頭の奥で鐘を鳴らしているような不快感がある。打掛を羽織っただけで、履物もない。心ない格好であったが、不思議なことに、いくら素足で山道を歩こうとも、足裏は痛まなかった。

 重い身体を引きずって嵐の中を突き進む。雨こそ降っていないが、木々は風の手になぶられ、あらぬ方向へ身を捩る。時折、こちらを的にしているかのように枝葉飛んできて避けきれず、新しい傷ができる。目元を腫らしているせいか、いつまで経っても視界は狭い。おかげで何度か蛍火を見失いかけ、その度に泣きたくなった。

 蛍火が向かう先は、おそらく黒沼。きっとそこで燈吾が待っている。待ちくたびれているかも。急がなけりゃ。


 暗紫紅の炎をたなびかせながら歩き続ける。


 最早、思慕の光は黒打掛では抑えようがなく、あたり一面に光の粉を撒き散らす。樹木にまぶされた光は溶けない雪のごとく降り積もる。

 進むにつれ、光の領土は広がり、山を包み込んだ。さながら暗紫紅の山火事。しかし、異常なことだとは今の自分に感じられなかった。いっそ美しく、里など燃えてしまえばいい。ほしいのは燈吾、貴方だけ。燈吾、燈吾、燈吾。

 一心不乱に青白の蛍火を追って歩く。けれど、蛍火は両手を伸ばしても降りてきてはくれない。山の甘い呼気は喉を詰まらせる。苦しい。寂しい。痛い。燈吾。

 時折、自身の光に紛れて鬼火を見失いそうになる。燈吾を失わないために、己が邪魔になる。ひどい矛盾でありながら、真実を突いている気がした。

 山路を進み、小川を越え、鬱蒼とした隈笹の茂みを掻き分け、ようやく黒沼へ辿り着いて。


「燈吾!」


 安是者が待ち構えている可能性も投げ捨て、叫んだ。風の唸りに負けまいと、声のあらん限り。

 沼の水際を走り、いつもの草庵へと駆け込むが、誰もいない。筵や夜具が乱れているのは燈吾がいたからか。

 名を呼び、叫ぶが、己の声が反響するのみ。

 草庵からまろび出て、呆然と天を見上げた。頭上には青白の蛍火が冷たく孤独に、だからこそ美しく輝いている。群青の夜空に張り付いた光輝。燈吾、と手を差し伸べるが、呼べど願えど、蛍火は降りてこない。

 どうして、と泣き出しそうになる。打たれ、蹴られ、傷だらけだから? それとも佐合に触れられたから。ごめんなさい、でもちゃんとけりをつけた、ちゃらにした、だから許して……


〝 もしも、俺を見失うようなことがあれば、あれと同じ光を捜せ 〟


 唐突に、燈吾の言葉が甦る。

 天狼星てんろうせい。光輝全天随一の恒星。本物の。

 目を見開いた。あれは燈吾ではない。いくら腕を伸ばそうとも、こいねがおうとも、届くはずも無い。滲んだ視界と疲労した頭で、星と蛍火を、見間違えていたのだ。なんて愚かな。

 かすみはその場に跪く。思慕の光は、ますます燈吾を求めて燃え上がり、押さえ込む術が無い。熱くて、渇いて、疼いて、どうしようもない。想いに焼かれ、焼け死んでしまう。

 周囲を見渡せば、どこもかしこも暗紫紅の炎に囲まれていた。風に煽られるたびに翻る炎の裳裾は、赤、紫、青、緑、白と絡み合い揺らいで複雑な色を描く。

 炎に比べれば、あまりにささやかな光を放つ天狼星を見上げながら思う。阿古は都へ出奔したというが、その一年後、安是の里へと帰ってきた。時同じくして都では大火が起きたというが、果たしてそれは偶然か。


 ……おそらく違う。だってほら、娘である私はこんなに淫らに、愚かしく、燃え盛り、山一つを燃やしてしまった。


 けれど、どれだけ手を伸ばしても、どれだけ立ち昇る暗紫紅の炎と火の粉を燃え上がらそうとも、天上の星には届かない。

 燈吾と呼ぶ声は風に煽られる光に呑まれて、霧散してしまう。炎の中心で、ただ祈るように天狼星を仰いでいた。

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