3-4狂女
……あっ、あっ、あっ、と断続的な声が漏れる。
否、声ではなく、単なる振動によって空気が抜ける音に過ぎない。嫌悪も痛みも意味も無い。たんなる手順なのだから。最も速やかで確実で労力の少ない方法。
阿古、阿古、阿古と佐合が繰り返す様は、初めて女の肌に触れる若衆のように、いやむしろ幼子が母親にまとわりつくように必死だ。
唇を食い千切るほどに噛み締め、噴出しそうになる感情を押さえ込む。
考えてはならない。逸ってはならない。怒ってはならない。一切の感情を捨てる。十八年、里で忍耐を強いられてきた。きっと今回も耐えられる。
佐合の律動に合わせて、少しずつ壁際へ壁際へと這いずる。男は夢中で気付かない。あるいは自身の激しさゆえと勘違いする。
もう良いと思えるところまで這い進んだところで、丸木じみた重く湿った身体に素足を巻き付け、媚びるようにして絡めとる。左腕では頭を抱き、男の顔を伏せさせる。
天窓に青白の蛍火はもう見えなかった。それが罰なのか、救いなのかわからねど、この瞬間為すべきことはただ一つ。
ひょうっと隙間風が入り込み、炎が揺らいだ。
それが契機というわけではなかったが、右腕を壁に向かって精一杯伸ばす。だが、指先は虚しく空を掻くのみ。吊るほどに伸ばせば、震える指が硬い感触を得た。けれど、掴むまでは適わない。
あと少し、あと少し、なのに……
ふいに視界が陰り、何かに顔を触られた。
いや、触られたというよりも、かすめたという程度。かすかではかない。けれど、確かな、何か。
その感触を知っていた。田畑で、山路の途中で、娘宿の作業場で、不思議なほどかすみの前にだけ現れる白銀の糸。燈吾との逢瀬にまでついてきた。もっと遠い昔にも。ふいに思い出す。こんな状況で、どうして。
今夜は寝たふりをしていない。してなどいられない。だから、囲炉裏の炎に炙り出された姿を見てしまう。
「あ……」
空気が抜ける音ではない。思わず出た驚きと呼び掛け。頭の先、壁際に立ち、
と、伸ばしていた手に――指先ではなく手の平の中に――、硬い感触が生まれる。愕然としながらも縋るように掴んだ。
「なにを、」
異変に気付いた佐合の言葉を遮ったのは、かすみが男の喉元に衝き立てた
「かすのみ……?」
信じられないという声音で佐合が呟く。単純に不可解な、意味が分からないというふうに。
抱いていたのは愛しい美姫ではなくかすのみであり、自分よりも下位の存在でありながら、
佐合は、それでもこちらの喉元に手をかけてきた。蚊でも潰してやろうという気軽さで。その行為は、十八年に渡る扱いのぞんざいさを物語る。
身を捩り、佐合の下から抜け出そうとするが、男はかすみを貫いたまま離さない。しとど赤い雨を降らし、野獣じみてさらに猛り狂う。
致命傷ではなかったか。殺さねば意味が無い、ちゃらにできない――上も下も塞がれて行き場が無く、両の目から溢れ出る。元々、狭まっていた視界をさらに曇らせる涙などは邪魔以外のなんでもなかった。
ずんっと。一際大きく突かれて。それが最後だった。
首の戒めが解かれ、息を吸い込んだ。激しく咳き込みながら、圧し掛かったままの佐合から這い出る。ずるりと抜け出る感触が、脚を伝う粘液が、肌にすり込まれた汗が、この上なく厭わしく狂いそうになる。けれど、今は。
佐合は事切れていた。出血しているのは首だけではない。背から胸へと向けて、鋭い何かに貫かれていた。見たままを受け入れるなら、それは突き立てられた長い爪だった。
嵐の晩は山姫が下りてくる。災厄に遭った里人を慰めるための言い伝えが頭を過ぎる。だが山姫どころではない。
佐合の背に長い長い爪を突き立てているのは、白髪――六尺もあろうか――を垂らした背の高い女だった。
……髪を濡らして梳けば、似ていなくもないな。死者となった男の言葉がこだまする。
「……阿古?」
十年前に黒山へと姿を消した女。
髪こそ鴉の濡れ羽色から白へと色が抜け落ちているが、その立ち居はまさしく阿古その人だった。
女は呼び掛けには応じず、爪を引き抜き、付着している血を舐める。爪が綺麗になると男の骸に屈み込み、背、首と、傷に口付けじゅうじゅうと音を血を啜る。大皿から酒を呷るように。
人ではない。人であるはずがない。獣よりももっと禍々しい何か。
佐合の血を啜るせいか、女の唇は毒々しいまでに赤く、瞳は青味を帯びて爛々と輝いている。汚れでほとんど模様が見えない縞の着物を纏い、腰にぼろぼろの着物を幾重にも巻いていた。
異様な風体。けれど姿の鋳型は阿古と同じ。なれど彼女本人のはずはない。
だって、阿古は。かあさんは。
「私が殺した、はずでしょう……?」
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