3-3酩酊
「……髪を濡らして梳けば、似ていなくもないな」
誰に、とは問うまでもない。濡れた髪はほとんど真っ直ぐに垂れ、陽に透けると燃えるような赤黒色も今は落ち着いた黒色に沈んでいる。纏うのは阿古譲りの黒打掛。佐合の目は据わっている。
すぐ先は土間で、戸を引けば外へ通じている。だが、運よく逃げ出したとしても、里の者に見つかれば即刻、牢へ連れ戻されるか、善良なる里人の名の下に私刑が執行されるか――
佐合が一歩、にじり寄る。酒臭い呼気を撒きながら。その息にすら絡め取られる心地だった。
風が唸り、家屋を揺らし、
千鳥足の佐合が平衡を崩す。かすみは土間へ向かって疾駆し、伸ばされた太い腕をすり抜けた。普段は繊細な細工物を作る手が、粗雑な動きで空を掻く。なれど。
土間に下りた佐合の足が黒打掛の裾を踏みつけ、かすみはつんのめって、倒れ込んだ。起き上がることはできなかった。佐合に軽々と抱えられ、居間へと投げ落とされる。落ちていた木屑が舞い、壁に掛けられていた道具類が音を立てる。必死に黒打掛の前を押さえるが、無益な抵抗だった。燈吾が繕ってくれた黒打掛。光を通さぬという実用以上に、形見という形式以上に大事なそれは、この局難において非力だった。
前がはだけることなど、もう気にしていられなかった。無我夢中に暴れて、圧し掛かる佐合を遠ざけようとする。しかし、四十を迎えようとしても
「生娘でもないのに騒ぐな」
掴まれたまま、ありったけの憎悪を込めて、佐合を視線で射抜いた。しかし、男はどこか満足げに頷き、
「勇ましいな。そうだ、阿古は怒りに猛った
煽られてはならない。佐合を睨み続ける。だが、次の言葉に意気は挫かれた。
「お前の髪を黒沼の庵で見つけた。あんな赤黒毛はお前だけだ」
撃ち抜かれた思いだった。
私の髪。私のしくじり。私の咎。燈吾。
「これはなんの
こちらの片耳を引っ張り上げ、佐合はかすみの首筋を露わにする。別れ際、燈吾が項に押し当てた刻印。下卑た問いに答えられない。囲炉裏の炎は男の影を何倍にも膨らませて炙り出す。
これは一体、何の罰なのだろうか。調子に乗って娘遊びに参加したせいか。あるいは〝かすのみ〟のくせに恋をしたから。それとも……阿古の呪いなのか。
だったら、どうしようもない。八歳のあの日、阿古の呪縛を解こうともがき、苦労の果てに、ようよう逃げ出したというのに。まだ、業を払うには、足りないのか。
力なく笑った。笑うしかなかった。だがその自嘲の方向を読み違えた佐合がかすみの頬を張る。
「俺は阿古を待っていた。ずっとだ。俺だけが真実本当に阿古を想い続けている……お前がどんな売女だろうと。なのに、どうして寒田などと」
佐合の目つきは狂信者のそれだった。阿古、阿古と愛憎入り交じった声音で繰り返し、かすみに縋り付く。
「どうして、帰ってこない。見せてくれ、阿古。もう一度あの美しい赤光を……!」
彼もまた阿古の哀れな被害者なのかもしれない。自分と同じく。ふとそんなふうに思う。
だが、佐合は嘘つきだ。阿古だけを想っていたというのなら、どうして一度戻った阿古を受け容れなかったのか。阿古を愛していたなら、どうして狂女の世話を申し出なかったのか。祖父母は喜んで受け入れたはずだ。自分とて阿古がいなくなればもっと違う子ども時代を過ごせた。
佐合は、たかだか三年、狂った女の元に通っただけで諦めた。自分は生まれてから八年、女の傍にいた。四つになるやならずで、祖父母より女の世話を申し付けられ、里中から蔑まれて。
佐合、あんたは結局、阿古が光り濡れて、自分が愛されていると証明がなくば、抱くことができない意気地無しなんでしょう――
「狂ってから、阿古はまったく光らなかったわけじゃない」
組み敷かれ、着物ははだけ、圧倒的な力の差がある相手に発したのは、冷静な声音だった。
自分は見た。深夜、一人黒山を往く阿古の、
血走ったまなこがかすみを見据える。もしも眼差しだけで人を殺せるのならば、自分は死んでいただろう。けれど恐ろしいとも感じず、言葉を紡ぐ。
「でも、その相手は佐合、あんたじゃなかった」
哀れな男に宣言してやる。
「阿古はあんたの元には戻らない。絶対に」
一瞬、男が泣くかと思った。実際、想いのぶつけどころが無ければ、一人さめざめと泣いていただろう。だが、佐合の下には、彼よりもずっと弱く踏みつけにできる〝かすのみ〟がいる。
男は獣じみて唸る。黒打掛の前が完全に開かれ、力任せに乳房が掴まれる。単純な嫌悪感が沸き上がり、もがき、暴れる。佐合は片手で両腕をまとめて押さえつけて、びくともしない。近付いた顔に喰い千切る勢いで噛み付けば、力いっぱい殴られた。一瞬意識が飛び、脱力する。佐合は一旦身体を離して、自身の着物をはだけさせた。
嫌。燈吾以外の男に触れられるなぞ絶対に嫌。なれど身体は動かない。
絶望的なことは山程あった。阿古の娘として生まれてからずっと。里に馴染もうと努力したが徒労に終わり、日々諦めて生き、時折どうしようもない寂しさに襲われた。
けれど燈吾と出会って、全ての意味が変わった。燈吾自身も変わったと言ってくれた。なのに、また引き戻されるのか。助けて、燈吾。
仰向けになったまま動けないかすみに、佐合が覆い被さる。首に、鎖骨に、乳房に、生臭い舌が這う。油じみた手が、脚の間を這う。地虫が蠢くおぞましさに泣けてくる。
獣のような息遣いと囲炉裏の火が爆ぜる音が響く中、滲む視界で天井を見つめていた。そうするしかできなかった。
と、煙逃がしの天窓近くで何かが灯ったのを、目が捉えた。小さな小さな青白い点。かそけし蛍火。天狼星――はっと正気づく。寒田男の誘い火。燈吾のともしび。
心の底から熱い歓喜が燃え上がった。
かすみはあがいた。少なくともあがこうとした。燈吾がすぐ近くにいる。愛しい背の君が助けにきてくれた。私を迎えにきてくれた。
「……おまえ、光るのか?」
佐合の惑い声に、目だけを動かし胸元を見やった。燈吾の灯に反応して暗紫紅の光が肌を灼いている。
「淫売が、男なら誰でもいいわけだ。蛙の子は、蛙か」
佐合が嘲弄する。誤解であり侮辱だった。佐合に向けた光ではない。自分が燃え立つのはただ一人、物の怪の夫だけ。他の誰に誤解されても、燈吾、貴方だけはわかってくれるでしょう?
気力を振り絞り、蛍火へと手を伸ばそうとする。しかし佐合に捉えられた腕は動かず、震える指先を宙へと向けるのみ。胸の
その訴えが届いたのか、いないのか。青白の光がふいと遠ざかる。どうして、どこへ行くの、どうすればいいの。
涙が滲み、視界が融解して、蛍火を追えない。燈吾、あんたも見棄てるの。私が〝かすのみ〟だから――
ふいに悟った。こんな状況だというのに、ひどく冷静に、客観的に、必然的に。
自分は〝かすのみ〟だ。悪女で狂女の母、誰ともしれぬ父、安是男には光らぬ身。どう繕っても、隠しても、軽んじられ、疎んじられ、下に見られるは当然の身。
そんな己が、燈吾と、寒田男と、極上の夫と添いとげようとするのなら。
少なくとも、燈吾に助けを求めるなどという愚は犯してはならない。実際に彼が来てしまったら尊い夫を危険にさらしてしまうのだ。そんなことは断じて避けねばならない。
彼と共に在ろうとするのなら、強さが要る。たった独り生き抜く強さが。当然の道理だった。
ならば、この難局をどう切り抜けるか。一瞬のひらめきだった。
理に添え。燈吾が草庵で物を教える時、よくかすみに言った言葉だ。手持ちの札で、佐合に太刀打ちできるのは。
全身から力を抜いた。
「……佐合。随分待たせたね」
かすみと対照的に佐合の身体がびくりと強ばった。
「忘れちまったのかい? ようやく戻ってきたってのに、薄情な男だね」
阿古の口調など知らない。狂女は意味ある言葉は発しなかった。男への情の紡ぎ方も、愛撫の方法も、光り方も知りえない。でも、今の自分ならできる。燈吾が手取り足取り教えてくれたから。
佐合の手の力が緩んだ。逃げ出そうとする本能を押さえつけ、腕を伸ばし、佐合の後頭部に触れて顔を寄せさせて口付ける。佐合は拒まない。
「あたしをたんと悦ばしておくれだろう?」
後頭部から首筋、頬、胸を辿り、指先は下腹部へと伸び、すでに緩んでいた下帯から男自身を引き出す。ゆるゆるとさすれば、それは忽ち大きさと硬さを増した。同時に、佐合の口から、阿古、という呻きが漏れた。応えて、かすみは艶然と微笑んでやる。
阿古、阿古、阿古。名を呼び、男はむしゃぶりついてくる
急いてはならなかった。確実に成し遂げねばならない。壁には佐合の仕事道具である刃物類が掛かっている。まだ手の届く範囲ではない。
大丈夫、全部、ちゃらにできる。燈吾さえいてくれるなら。
佐合が入り込む瞬間、かすみは息と心を止めた。
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