3-2手引

 起きろ、とこづかれた。誰の声かわからない。なれど意識を呼び戻され、目を開けた。

 撲たれた目元では、映る人物も滲んでおり、声の主が判別できない。だが、影はそれなりの重量を感じさせた。燈吾ではない。確か佐合という細工職人だったか。四十がらみの独身で、都の職人に負けぬほど腕は良いが、無口な人物だった。

 ふと思い出す。彼は、かすみがほんの幼い頃――三歳ぐらいまで、度々、生家を訪れていた。

 昔、阿古が娘だった時分、二人は男女の仲だったと聞く。けれど阿古は佐合を裏切り、都へ出奔した。里へ戻った阿古は子を産み、狂女と化す。佐合は、阿古に献身的に尽くしていたそうだが、結局は狂った女に耐え切れなかったのだろう。かすみが阿古の世話をできる頃には、男の足はふっつり途絶えた……

 その後も、佐合は徹頭徹尾、かすみを無視していた。里で一人きりの細工職人ゆえ、里娘は嫁入り道具を佐合にあつらえてもらおうと彼に取り入るのだが、かすみは霞として露ほどに扱われなかった。

 その男が低い声音で、唇を擦り合わせるようにして話す。


「寒田の男に頼まれた。お前を逃がすようにと」

「…………」


 期待と共に疑念が湧く。心中を察したのか、佐合は続けた。


「……〝とうご〟と言ったか。若い男だ」


 燈吾の名は誰にも告げていない。疑いは吹き飛び、かすみは身じろぎした。手は縛られたまま、どこもかしこも痛み、起きあがれない。

 もがいていると何かが滑り落ちた。黒打掛だ。燐が地下牢までやってきたのは夢ではなかった。娘宿に忍び込み、黒打掛を盗み出して、たむけとしてくれたらしい。

 佐合は牢に掛かっていた錠前を何やらいじり、細工職人の器用さゆえか、容易に外した。

 牢に踏み込み、かすみの腕を引き上げ、立ち上がらせる。その拍子に身体中に痛みが走り、呻きが漏れた。


「静かにしろ。手は縛ったまま行くぞ。万一、見つかった時にいいわけが立たん」

「待って、お願い。黒打掛を拾って」


 手首を縛る荒縄の先を握る佐合に懇願する。それは母の形見だった。だから惜しいのではない。燈吾が繕ってくれた、燈吾と会うための一張羅。

 佐合は数瞬、思案するようにかすみを見下ろしていたが、それでも打掛を拾い上げて傍らに抱えてくれた。


 燈吾に会える――その希望が胸に灯り、佐合に引かれて歩いた。

 見張りはおらず、寄合所からの脱出は難しくはなかった。好都合というべきか、外は風が烈しく吹き荒れていた。木々がざわめき、葉はちぎれ飛び、山までもが胎動しているよう。さすがにこの天候では誰も出歩いていない。

 嵐の晩は山姫が下りてくる。そんな言い伝えを思い出した。翌日の荒れ果てた様は、山姫が里で遊び回った痕跡だと。里人は、人の手には余る災厄にそうして折り合いをつけていたのかもしれない。

 行先も告げず、明かりも灯さず佐合は進む。だが、方角と、佐合の足取りで察しがついた。

 半時ほど歩いて着いたのは、佐合の住まいだった。生垣に囲われた茅葺の家で、佐合は顎をしゃくり、かすみを中へと誘導する。目蓋が腫れて視界が狭まっていたが、なんとか転ばずに家の中へと入った。

 職人である佐合の自宅は作業場も兼ねているため、広い。入ってすぐ土間となっており、その奥が炊事場、左手前に位置する板間の作業場、続く板間の左手奥が囲炉裏の掛けられた居間となっていた。そちこちに木屑が散り、壁という壁に大小様々な鑿や彫刻刀、何に使うのかとんと見当のつかぬ道具が掛けてある。里の数少ない職人である佐合が頼まれる品は雑多で、道具も多様なのだろう。

 人気はなく、燈吾はいないようだった。それはそうだ。今、安是に来たら、殺されてしまう。一瞬、燈吾の身を案じるよりも、会いたいという欲求が勝った己を恥じた。

 ふっと、気が遠くなりかけ、土間にくずおれそうになる。猫の子のように佐合に掴み上げられ、辛うじて身体を支えた。


「……臭いな」


 非難めいた目つきでこちらを見下ろす男に、ようやく自分のことだと思い当たる。嘔吐して、その上に倒れこんだ。牢ではもしかしたら、失禁していたかもしれない。年頃の娘としては、恥じ入るしかない。


「残り湯がある。浴びて来い」


 佐合が手を縛る荒縄を小刀で切りながら言った。

 指示に従って行けば、土間の一画にある炊事場の脇が仕切られており、板敷の湯舟が設えられている。風呂があるとは驚きだった。安是の中では他に里長やごく少数の古老の家にしかないだろうに。もしかしたら、かつての情人、阿古がねだったのだろうか。

 他人の家で裸になるのは気が進まなかったが、間仕切りはあり、恐々と汚れた寝衣を脱ぎ、丸めて板敷に置く。その隣に佐合から返してもらった黒打掛を畳んだ。

 風呂の湯はぬるかったが、汚れてはいなかった。何も纏っていない心細さに、急いで湯桶を使い、頭から湯を浴びた。繰り返し浴びていると、痛みと疲労が流され、霞んでいた頭が少しだけ明瞭になる。

 と、仕切りの向こうからくぐもった声が聞こえ、素裸の肩をびくりと揺らした。


「櫛と洗い粉を置いておく。使え。着替えは見繕っておく」


 礼を言う間もなく、重い足音が遠ざかってゆく。

 ありがたくはあるが、どうして佐合が無愛想ながらにここまで良くしてくれるのか、不可解だった。自分は、阿古――かつての情人の娘だ。裏切られた情人の……

 頭に痺れとも痛みともわからない感覚が起きる。疲労は、それ以上考えることを許さなかった。

 身体を調べれば、折れたり、内臓にまで達していたりする怪我はなかったが、全身に青紫の痣花が咲いていた。

 と、首にまたも白銀の糸が絡み付いており、振り払った。もしかすれば本当に自身の若白髪やもしれない。

 身体に隈なく洗い粉をなすりつけ(このあたりでは宮市でしか手に入らない上物だ)、汚れた髪を洗い、丹念に、でも手早く櫛で梳いた。

 燈吾はどこにいるのか。黒沼の草庵だろうか。最早、安是だろうが、寒田だろうが暮らせまい。いっそ二人で逃げられたなら。

 元々、かすみには里に愛着などない。燈吾が安是と寒田の共存、繁栄、将来への大望を抱いているからこそ、自分は安是にいる。本音を言えば燈吾がいれば何も要らない。

 そう告白したら、失望されるだろうか。あるいは、手に手を取って、遠いどこかで二人で暮らそうと言ってくれるだろうか……

 髪の水気を絞り、櫛で梳き、板敷に上がる。と、身体を拭く小さな布は用意されていたが、着替えは無い。脱いで丸めた寝衣も帯も無く、ただ黒打掛だけがあった。

 どうしたものかと思案するが、一糸纏わぬ姿では心許ない。全身の水気を拭き、黒打掛を羽織り、前を腕で抱くようにして、作業場へと声を掛けた。


「……悪いけど、何か着る物を」


 せめて帯だけでも返して欲しかった。前が開いているのは落ち着かず、それに寝衣に使っていた帯は先日燈吾が結んでくれた紐だ。

 佐合は火を熾した囲炉裏の前で胡坐をかいていた。眠っていたのだろうか、こちらに向けた眼差しは澱み、眼の下には隈が張り付いていた。大儀そうに佐合は立ち上がる。

 覚束ない足取り。彼が座っていた横には徳利と茶碗が転がり、甘く腐ったような空気がこもっている。

 その手の危険に女は敏感だ――〝かすのみ〟にそんなことはありえないと思いつつも、身体は反応する。それから思考が追いつく。

 佐合は阿古の情人だった。だが、裏切られた。赤黒の髪の娘は、裏切りの証でもある。今、情人はおらず、その裏切りゆえの産物が目の前にいたら。

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