三、安是の悪夢

3-1仕置

 着いた先は、寄合所の地下牢だった。

 この時まで、寄合所に地下があることも、牢があることも知らなかった。空気はぞくりと冷たく、湿った嫌な匂いに満ちている。手を縛られたまま、突き飛ばされ、むき出しの地面に転がされた。


「そなた、寒田の男と密通しておったな」


 芳野嫗の声が響く。燭に照らされた嫗の皺深い面には憎悪が滾っていた。


「災いの種を撒こうというのか。お前の母親と同じに」


 それは違う、と叫びたかった。

 確かに自分は里の禁を犯し、燈吾と逢っていた。けれど燈吾は安是と争う気は毛頭無く、どちらの里も豊かにしようと働きかけていた。自身の愉しみで他人を踏みつけた阿古とは違う、まったく違う。

 同時に愕然とする。山路に隠した背負い籠か、持ち帰った寒田のそれか、それとも黒沼での逢瀬が見られたのか、どれが原因かわからねど、知られてしまった。つまりは、黒沼による安是と寒田の和解と発展という燈吾の夢を妨げてしまった。彼はどれほど失望するだろうか。


「この罰当たりが。里を滅ぼす気か!」


 老人とは思えぬ鋭さで、握りしめられた竹篦しっぺいが振り下ろされる。打擲ちょうちゃくは繰り返され、身を丸めて、少しでも打たれる面積を狭くしようとした。一打、一打、焼け付く痛みが身体を跳ねさせる。

 痛いだけならば構わない。だが、傷つけられるのは堪らない。この身体は愛しい男に愛でられるためのもの。手も足も背中も、乳房も、尻も、足の爪先、髪の一筋先までも。それを、それを、……よくも。

 わずかに顔を上げて嫗を見上げる。その視線が気に入らなかったのだろう、より強い打擲が顔を襲った。火で炙られたような痛みと熱が目元を襲い、呻きを漏らす。

 ……あばずれの娘はあばずれか……十八年前、母親ごと殺してしまえば良かったものを……それはできぬと決めたこと……身体をあらためたほうが良いのではないか……こいつは〝かすのみ〟だ……万一、胎が膨らめばそのままくびり殺せば良い……

 古老らが口々にかすみを罵るが、頭を打たれたせいか、反響して意味まで馴染んでこない。彼らは会話の合間合間にかすみの身体中を打ち据え、蹴った。素手では殴らず、棒で打つか、足で蹴る。子どもが物珍しい動物の死骸を見つけて、怖さ半分、面白さ半分で突くように。

 鳩尾みぞおちを強く蹴られ、またも夕餉に食べたものがせり上がってくる。転がったまま吐き戻し、咳込んだ。

 そこで興が覚めたのか。彼らの仕置きの手が止まる。


 ……早く手を打たないと……妹姫いもひめが現れたのなら、急ぎ山姫をお迎えせねば……だが、あれは阿古がもてなしたままではないのか……


 阿古。またも彼女の名前が挙がる。阿古がもてなした。誰を? 阿古はもういない。いなくなった。消えた。消した。だからもういいでしょう。もう、関係ないじゃない。阿古がいなくなったのに、どうしてまだ私をさいなむ? 燈吾まで取り上げるの……?

 嫗たちが牢を出て行く気配がした。打たれた目が開かず、確認できなかったが。

 しばらくして咳は止んだが、体力を消耗し、ぐったりと倒れたまま身動きできなかった。

 吐瀉物と血の味が混ざり合い、口の中が気持ち悪いがどうしようもできない。身体の傷はいかほどか。燈吾が見たらなんと思うか。仕打ちを怒るか、傷を優しく撫でてくれるか、それとも、傷物となった身体から興味を失ってしまう? それが何より恐ろしい。かすみは沈み込むように気を喪った。


 ――まったく、馬鹿なことをしたもんだね。だからあたしが誘ってやったのに。

 地下牢に投げ込まれてから、どれほど時間が経ったのか。かすみは夢と現の狭間を行き来していた。だから唐突に聞こえてきた姉娘の声も夢なのか現実なのか判然としなかった。

 ――あんた、下手を打ったんだよ。


「……姉さん、ごめん」


 夢ならば消えないうちにと謝った。目元は腫れ上がり、喉は張り付き、口の端には血泡が固まって、難儀であったが。

 私は姉さんに嘘を吐いていて、それ以上に見下していた。ただ一人、里で私を蔑ろにしなかった姉さんを。私、本当は光るの。ぐっしょり光り濡れるの、たった一人の男を想って。姉さんはお気の毒。愛しい男のために、他の男に足を開かなけりゃならないなんて。私は一人しか知らない。あの人だけ、あの人だけがいいの……

 姉娘は、どんな気持ちで妹娘の懺悔を聞いたのか。目元が腫れ上がり、牢の木格子越しに白い幽鬼がぼんやりと揺れているようにしか見えなかった。


 ――上じゃ寄り合いが開かれて、あんたの処遇が話されている。あんたはどうしようもない間抜けだよ。


 嘆息混じりの口調は突き放したふうでも、慰めるふうでもなかった。けれどもふわり、優しい手がうつ伏せになったまま動けないかすみの背を撫ぜた気がした。


 ――あんたは遠からず殺される。せめて形見の品を連れて行くといい……


 幽鬼が小さくなってゆく。いや、単に離れているだけなのか。

 

 待って、姉さん。聞いて。聞かせてあげる。あの人とても賢くて男らしい。異国文字も読めるの。安是男よりもずっと頭が良い。あれもすごいの。あっちもこっちも。私を死ぬほど悦ばせる……


 姉娘は応えなかった。だけれどかすみは一方的に話し続ける。堰き止められていた川が流れを再開したように、止め処なく。

 ずっと誰かに燈吾のことを自慢したかった。娘たちが娘宿で就寝前に囁き合うの同様、安是男が女の光り具合を披露し合うのと同様に。娘遊びだけでは物足りない。自分の声で喧伝したかった。

 幽鬼が細くなってゆく。燐が去ろうとしているのか、それとも己の目蓋が閉じつつあるのか。完全な暗闇になってもなお、かすみは愛しい男の自慢話を続けていた。

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