1-5深更

 ――深夜、物音で目が覚めた。八歳まで祖父母と暮らしていた生家では度々あった。

 明かりがもったいないので、夜は早く床につく。生家では里で分配される黒ヒ油は他家の半分以下だったため、節約に節約を重ねていた。分配が少ないのには理由があり、祖父母が不平を言うことはない。少ないという事実をつまびらかにすれば、その理由までも蒸し返さなくてはならないから。


 家人は並んで一間に眠った。一人を除いては。いや、あれ・・は家族ではない。祖父母にとってはいつまでも娘であったかもしれない。だが、自分は家族として親しみを持ったことも、母として愛情を感じたことも無かった。祖父母に命じられて物心つく前から世話をしてきたが、愛情ではなく、里で生きるための処世に過ぎない。


 暗闇に目が慣れ、様子が見えてくる。箪笥も、襖も、囲炉裏も、いつもどおりある。けれど静まり返った夜は、水底に押し沈められたように透明で冷ややかで、どこか非現実めいていた。

 隣の部屋から無遠慮な音がする。がさがさ、ごとごと、びちゃびちゃ。食料を漁っているのだろう。音をしのばせるという考えは全く無いようだった。


 祖父母が目覚める気配は無い。夜、彼らは死人がごとく眠りに落ちる。現世うつしよの苦難から少しでも遠ざかろうとしているように。もしかしたら、死んでしまいたかったのかもしれない。それを引き止めてしまっているのはまだ幼い孫娘であった己なのかもしれなかった。

 臨月の胎を抱えて都から戻ったあれ・・――阿古あこは、里人に疎まれ、蔑まれ、嫌悪された。当然だ。元々の性根の悪さもさることながら、出奔により、隠れ里である安是を危険にさらした。

 それでも直接の暴力や嫌がらせを受けなかったのは、阿古自身、明らかに狂っていたから。阿古は赤黒の髪の鬼子を産み落とし、挙動がおかしくなっていった。

 都で、あるいは都から里へ逃げる道中に何があったのか。それとも鬼子を産んだゆえの衝撃なのか。あるいは、単純に神罰なのかもしれない。衣服を纏わず、奇声を発し、決まった場所で排泄せず、手掴みで物を喰らう。昼間は生家の一室に篭り、夜になると食料を漁り出す。


 ガタリ、と立て付けの悪い戸が開けられる音が響いた。生暖かな、澱んだ空気が流れてくる。板間がわずかに沈み、侵入者の到来を物語った。

 びくりと強張る肩を自身押さえつけ寝たふりをする。

 狂女と居を共にして世話をしながら、しかしできるだけ接しないよう、距離をとってきた。単純に怖かった。でも、それだけではなく――


 何かに顔を触られた。


 いや、触られたというよりも、かすめたという程度。かすかではかない。けれど、確かな、何か。

 恐ろしさに身体が硬直して動けない。かたく目を瞑る。災厄が通り過ぎるのを、息を殺して待つ。

 長く感じられたが、実際には、十を数えるほどもなかっただろう。

 ふいに、重く圧し掛かっていたような気配が消え、戸が閉まる音がした。炊事場に戻り、食事を再開したのだろうと、安堵の息をつく。

 祖父母は阿古のための食料を絶やさなかった。自分たちはもとより、孫娘よりも優先して。里での分配は少なく、不足分は、山へ入り茸や木の実を採り、罠を仕掛けて鳥や兎を狩り、手製の竿で川魚を釣った。満足できなければ阿古は他家へ押し入り、あるいは田畑を荒らし、家畜を襲い、さらなる罪科を負う。無論、負うのは狂女自身ではなく、その身内なのだが。


 ……おかしい。


 耳をそばだて、ひとりごちる。いつまで経っても、食料を漁る物音が聞こえてこない。もう一つ不自然なことがあった。彼女はなぜ、戸を閉めた? 今まで一度だって、そんな礼儀に適ったことはしなかった。開けたものは開けっぱなし、出したものは出しっぱなし、それが彼女流のことわりのはず。彼女がひり出したものすべて。たった一人の娘さえ。

 不審に思い、目蓋を押し上げる。と、家の裏手の方向、隙間だらけの雨戸から、赤い光が射し入った。にわかに寝所が赤く染まる。


 ……暁光? まだ残る眠気と疲労がそんなはずないと訴える。

 ――火事? 薄い布団を跳ね飛ばす勢いで起き上がる。


 生家は里人から忍ぶように離れて山際に在った。昔は里の中央なかに住んでいたそうだが、阿古が都へ出奔してからは肩身が狭く、里外れの粗末な家屋に越したという。

 炎が山に燃え移れば、里の暮らしは立ち行かない。いっそ里が滅べば良いと願っていたが、実際の災禍となれば、身体はひとりでに動いてしまう。出火の原因が阿古であれば、逃げる前に里人の手により殺される。阿古について心配しているのではない。狂女の娘である己が身の安全を。

 阿古が一人で火を熾して火事を起こすという可能性は低いだろうが、一度思い浮かべた最悪の事態は頭から拭えなかった。

 寝所を出て、土間に降り、散らかされ放題の炊事場を抜け、赤い光が漏る裏戸を開ける。戸口にしがみつくようにして、外を見やると。


 赤く透き通り、生物じみてうねる炎。夜空にちらちら舞い散る真っ赤な光の粉。その立ち上る赤龍の化身のごとく凛然として、背筋を伸ばして佇んでいたのは――阿古。


 燃えているのは里でも山でもない。阿古自身だった。阿古が放つ、思慕の光。


 阿古の光を見るのは初めてだった。自然にはありえない真紅。同時に、こんなにも激しく壮麗とすら呼べるほどの光を見るのも初めてだった。他の里娘の誰が放つそれよりも。

 家屋の裏、阿古は裸足で背を向けて立っていた。それ自体、珍しい光景だった。自分が知っている女は、身体を丸めて寝ているか、四つん這いか、うずくまるかのどれかだったから。


 すらりと背が高い女が背筋を伸ばした立ち姿は美しい。都から戻ってからおそらく一度も切ったことのない髪は身の丈よりも長く、艶やかに流れている。

 その黒髪と赤光が揺らぎ、女が振り返る気配がして、慌てて顔を伏せた。戸口を掴む腕に顔を押しつける。心臓が激しく脈打っていた。恐ろしかった。自分が知っている狂女とは違う。とても狂ったふうには思えない。


 狂った女が憎かった。だけれど、狂った女が狂っていないことが、こんなにも恐ろしい。


 二十数えた後、こわごわと腕の間から覗けば、阿古は背を向けて歩き出していた。向かう方向は里の中心ではなく、その反対。阿古は山へと向かっていた。赤い焔をわずかに揺らし、素足のまま女は往く。往ってしまう。

 山姫下り――昔から、山に入り、戻ってこない女は数年に一度の割合である。このまま止めなければ、阿古は。

 顔を上げ、その背を追いかけようと戸口から手を離す。離そうとした。けれど古老らに縛られ折檻されたがごとく身体は固定されたまま。

 阿古の姿は、今はもう、里の外れをゆらゆらと揺れるただ一本の赤い松明としか見えない。


 ――かあさん。


 女をそう呼んだことはない。

 呼べば、果たして彼女は振り返っただろうか。

 翌朝、生家の裏手にある柿の木の下に、古ぼけた草履が一足、揃えてあるのを祖母が見つけた。

 以来、阿古の姿を見た者は里にはない。阿古の目付であった自分を祖父母は叱らなかったが、再び娘を喪った老人らが落胆しているのは明らかだった。そうして半年のうちに祖父と祖母は立て続けに亡くなった。


 ――かあさん。待って。行かないで。置いてかないで。


 そう呼べば、果たして女は今も傍らにいたのだろうか。 

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