1-6契り

 束の間まどろみ、目覚めた時、庵の空気は青く冷たかった。先ほどまでいた夢と同じに。

 二人の隠れ家たるこの草庵で眠る時、よく阿古にまつわる夢を見る。

 こんなにも黒沼が近いせいだろう。彼女について良い思い出はない。後悔、しているのだろうか。遅かれ早かれ、阿古は消えていたに違いないのに……

 はっとして頬をなぜるが、さすがに泣いてはいなかった。そこまで情が深い娘ではない。我知らず、嘆息が漏れた。


「……燈吾とうご?」


 さんざん乱れ、昂ぶり、気をやったのはほぼ同時。隣で同じように眠ったはず男の姿が見えない。胸の奥がすうっと冷え、慌てて裸の肩に掛けられていた着物を羽織り、帯をただ一重に結んで、目隠しになっていた筵を撥ね飛ばし、まろび出る。

 外はまだ暗かったが、夜空に散らばった星々の脚は深夜よりもずっと短い。あと一時いっときもすれば、夜明けという時分。

 その薄闇の中、燈吾は黒沼の前で座り込んでいた。


「どうした?」


 怖い夢でも見たかと問う男に、きゅうと胸が締め付けられて、この恐怖と歓喜をどう説明したものかと戸惑い、思案し、途方に暮れて力なく首を振るのみ。

 燈吾は洋灯ランプを傍らに置き、仄かな明かりを頼りにかすみの黒打掛を繕っていた。


「随分と使い込んだな。あちこち破けている。これじゃ光がだだ漏れだ」


 滑らかに針を進める指先に、呆れ半分、感心半分で訊ねる。


「寒田男は針仕事までするの?」

「安是男はしないのか? 俺はお前の光が他の男に気取られぬか、気が気でないのだがな」


 男というものはみんなこんなふうに、唐突に、無遠慮に、こちらの心中などお構いなしに、女の胸を衝くのか。燈吾以外を知らないかすみにはわからない。。

 燈吾は針を進めながら訊いてくる。


「まったく、お前の光り方は尋常じゃない。それとも安是の女は皆こうもみだら・・・なのか?」

「そんなこと!」


 何に対する〝そんなこと〟なのか。自分でもわからぬまま抗弁する。

 他の娘と光り比べなどしたことがないからわからない。別段、安是に対して思い入れがあるわけではなくむしろ憎んでいるが、寒田女よりみだら・・・だと思われるのは癪だ。だが安是であろうが寒田であろうが、他の娘に対して興味を持たれることが一番嫌だったのかもしれない。

 燈吾は初めてではなく、女の扱いに慣れていた。寒田の後家あたりが手ほどきしたのかもしれないし、夜這いの一つや二つも経験済みだろう。そういう風習があるのは知っているし、しようのないものだと思う。だが、やはり面白くない。

 そんな心中を見抜いているのか、燈吾はくっと意地悪く笑い、相手の術中に嵌ったことに気付かされる。

 喜ばされた――あるいは、悦ばされた――次の瞬間には、いじめられる。燈吾には翻弄されっぱなしだった。

 悔しさに歯噛みするかすみを尻目に、繕いが終わったのか、燈吾は糸を噛み切る。そしてぱんっと打掛を広げてふわりかすみに纏わせた。打掛に、かすかに燈吾の夏草に似た香りが移ったような気がした。


 と、何を考えたのか、燈吾はかすみが適当に結んだ着物の帯に手を伸ばして解き始める。今からは時間が――そう言いさして、口を閉ざす。

 燈吾は脱がすのではなく、逆にきっちりと前を合わせて帯を結び、さらに打掛の上から燈吾のものであろう紐を腰に巻いてきつく結んだ。打掛は羽織るもので、帯は結ばない。だが、燈吾は頓着せずにきつく締め上げ、奇妙な着付けとなったかすみを眺め、これで光り漏れんだろうと満足げな顔をする。


 本当に、翻弄されっぱなしだった。

 恥ずかしくて、泣きたくて、あたたかくて。

 言いようがない心地となって、とうとう小さく、こわい、と漏らした。


「何がだ」


 燈吾が不可解そうな面持ちをのぞかせる。言葉にしなければ伝わらない。だけど口にすれば実際になってしまいそうで恐ろしい。

 燈吾のしてくれる一切合切が怖かった。

 燈吾はいきなり現れて、何の気なしに、事も無げにかすみの日々を一変させた。今までの我慢や苦労が報われたわけではない。

 だから、今この瞬間、燈吾が目の前からいなくなっても、それは理不尽ではない。当たり前に戻っただけ。取り戻す術はない。だから、怖い。

 与えた者にはわからないこの恐怖。燈吾が愛おしくて、同時に憎らしくて堪らない。


「……寒田男は鬼火で女を誘うでしょう? 私は燈吾以外の光を知らない。いつか寒田を訪れた時、他の男のそれと間違えてしまったら怖いと思ったから」


 ふむ、と燈吾は頷いた。男はあっさり女の嘘を信じる。絶望したくなるほど簡単に。


「鬼火には個々に違いがある。おまえが放つ光が唯一無二の暗紫紅のように。お前と同じ色の光はいるか?」


 思い返すが、安是の女もそれぞれ放つ光が違う。

 娘頭の駒は満作の黄色。西外れに住む若後家は新緑、姉娘のりんは純白。かすみと同系色の紫色の光を放つ娘もいるが、やはり自分の暗紫紅とは微妙に違う。そして、あれから十年経つが、阿古ほど鮮烈な赤光しゃっこうにはお目にかかったことはなかった。


「俺の色はあれだ」


 燈吾が手を取り、天のてっぺんを指す。そこには一際明るい青白い星がいた。白みかけた空で星々は存在を薄れさせつつあったが、その星は未だ力強く輝いていた。


 ――天狼星てんろうせい。それが星の名前だという。


「もう少し経って冬になれば一晩中見える、光輝全天随一の星だ」


 星に名前がついているとは驚きだった。自分の名は音しかなく、特段の意味もないというのに。

 少しやっかむ一方で、天狼星という響きは美しいと思った。天狼星。何度かその響きを舌の上で転がす。


「もしも、」


 燈吾はそこで短く間を置いた。何かを計るように。


「もしも、俺を見失うようなことがあれば、あれと同じ光を捜せ」


 ――もしも、燈吾を見失うことがあれば?


 不吉な言だった。里のしがらみにより、自由に会えない夫婦にとってなおさら。二人の足場は小舟の上に立っているように不安定ではあるが、さしあたって海は荒れておらず、凪いでいるはずだった。それなのに、なぜだか燈吾の眼差しが不安げに揺らいだように見えて。

 燈吾は、かすみの手を下ろさせて、今度は赤黒の髪を梳いてくる。上質の絹織物でも扱うごとく、注意深く繊細な指先で。

 ふいに、すまないような、騙しているような、懺悔しなくてはならない心持ちになった。

 髪だけではない。己の出生、里での暮らし、狂った母。どうしたって愉快ではないそれらの話を、初めて出会った夜に愚痴をこぼして以来、ほとんどしてない。信用していないわけでは決してない。知られて許されるのなら、こんなに嬉しいことはない。

 だが、燈吾にはすでに十二分に救われた。これ以上過去をほじくり出し、全部を洗い流してほしいとはあまりに強欲だ。同時に、逢瀬の時ぐらいは日々の辛苦など忘れて、ただの可愛い里娘でありたいという思いもある。


 ……燈吾は?


 かすみは燈吾の身の上をほとんど知らない。将来の話は繰り返しされるが、来し方は何も語られていない。いと優しき手つきで髪を梳いてくれる夫について、何も知らなかった。揺らいだ瞳は蝋燭のかそけし灯を彷彿させる。

 秘密はお互い様か、あるいは自分の方が多いと思っていた。


 でも、本当に……?


「燈吾、」

「不思議だな」


 葛藤の末、開きかけた口を制したのは呼びかけようとした夫自身だった。そのことに情けなくも安堵させられる。


「昔は里を出ることばかり考えていた」


 かすみの髪に触れながら、燈吾は呟く。


「遷都されて二十年弱。新都じゃ、維新だ、文明開化だと声高に叫ばれているが、里では何も変わらない。相変わらず古老と因習が幅を利かせている」


 どこか茫洋とした眼差しを宙にさまよわせながら。


「こんな田舎うんざりだった。金を貯めて、遥野郷を出て、新都の学舎に潜り込んでやろうと躍起になっていた」


 なれど、と燈吾は微笑む。どこか自嘲気味に。


「今じゃ、お前と里での暮らしを一番に考えている」


 かすみ、そう呼ぶ声と眼差しはひどく優しい。髪に触れていた指を頬に沿わせ、燈吾はこんなことを言ってくる。


「お前は、俺を一変させた」


 ――ああ。いっそ、今、死ねたら。

 夜と朝、昨日と明日の狭間のこの一瞬、死んでしまいたかった。

 わかっていた。幾度身体を重ねて、熱い快楽に溺れようと、水底にはひやりと冷たい不安が横たわっていることに。燈吾の語る将来は明るく光に満ちている。しかし光で何もかも塗り替えられるはずもなく、ただ目が眩んでしまっているだけだと。そして、おそらくは燈吾も承知しているけれど口には出さず、かすみ自身も抱える不安を告白できず、互いにやり過ごしてきた。二人の関係はなんの後ろ盾もなく、不安が気持ちを凌駕すれば仕舞いだ。言葉の約束も、身体の繋がりも泡沫に帰す。


 でも、今、燈吾は伝えてくれた。

 かすみが燈吾を、燈吾がかすみを、互いが互いを一変させた。

 重みは違う。その意味も、深さも。でも、ほんの少しでも重なるのなら……それだけは幻ではない。

 これが自分にとっては奇跡であると伝えたかった。謝意を示したかった。なれど気の利いた言葉は浮かんでこず、笑おうとするのだが、顔の筋肉が強張ってしまう。しまいには喉の奥まで、ひっくひっくと引き吊ってしまった。

 燈吾は苦笑して、柔らかくかすみを引き寄せ、子どもをあやすように背を撫でてくれる。心地良さが、あたたかさが、いっそう自分を駄目にした。もう夜明けだ。里に戻らねばならないのに。しがみついて声を上げて泣いてしまいたい――こんな衝動は、子どもの頃でも抱いたことがない。


「……お前のか?」


 しばらくの抱擁の後、ふと燈吾がかすみの背から何やら摘み上げた。夜明けのまっすぐな光を受けるそれは、黒沼までの道中、顔に当たった白銀の糸だった。払い落としたと思っていたが、付けてきてしまったのか。

 若白髪だな、と軽口を叩きながら白糸を放る燈吾に、違うとむきに言い返す。糸はふわり風に乗って黒沼に落ちる。水面に映り込んだ藍色の山の稜線は、黄金色に縁取られ、朝の到来を告げていた。


「次に会えるのは秋祭の晩だな。それまでは、まあ自家発光で我慢しとけ」


 ほくそ笑む燈吾に、一瞬意味が分からずきょとんとして、次に思い当たり、赤くなった。娘宿では三十名弱が大広間にて眠る。一人遊びに耽ることなどできようがない、そもそも、するつもりなぞ――

 あれこれ反論するが、燈吾は全く取り合おうとしない。洋灯を消し、草庵の入口を筵と枝葉で隠して、着々と帰り支度を整えてゆく。


「燈吾!」

「止まって良かったな」


 言われて気付けば、喉の引き吊り感が無くなっていた。止めるために冗談を言ったのか、ただの結果なのか、わからない。

 そう、燈吾はよくわからない。こんなにも濃密な夜を過ごしても、淡々としていて、今も片付けの手を止めない。

 情熱的で、用意周到で、優しく、そのくせ意地が悪い。どれが本当なのか。どれにだって翻弄されるのだが。

 燈吾の背中に恨めしげな視線を送れば、唐突にくるり振り返り、ぶつかりそうになった。文句を言う前に、かすみのうなじに唇を押し当ててくる。刻印するかのように、強く、熱く、濃く。己の喘ぎと共に、耳元に落とされた囁きを聞く。


「他の誰ぞに光れば、殺してやる」


 そして最後に衿を正させ、もう一度帯代わりの紐をきつく締め直したのだった。




 黒ヒョウビを入れた籠を背に負い、山路を急ぐ。籠は行きに打ち捨てたものではなく、逸るかすみがうっちゃらかしてくると見越した燈吾が事前に用意しておいてくれたものだった。元々の籠は、帰る道すがら木のうろに隠してきた。後日、回収しなくてはならない。

 娘たちが起き出す前に戻り、身繕いを整えなくてはならない。帰りは下りになるため、間に合うだろう。

 木々の間を、薄衣のような朝霧が巡る。餌を探し始めた鳥たちのさえずりが響き、枝を駆け巡る小動物の気配が感じられた。山の住人たちは、人よりも早く目覚めている。 

 早朝の空気に昨夜の熱はすっかり冷めていたが、肌に、口に、項に、甘やかな疼きが焼き付いている。そして何より、燈吾は想いをくれた。

 里まであと一息というところで籠を降ろす。

 そして、打ち掛けを結ぶ紐に手を掛けた。里の者に見られる前に、この黒打掛を脱がなくてはならない。

 唯一、安是女の光を通さぬ、特別な黒衣。これを持ち出すということは、そういう相手との逢瀬の証だ。本来ならば、持ち出してはならない形見。安是の娘は、安是の里を出てはならない。わかっていながら、母と同じ禁を犯している。母の末路を教訓とせよ――

 けれどかすみは、この珍妙な着付けの、燈吾がきつくかたく結んだ紐を解くのが惜しくてならなかった。

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