1-3初光

 軽快でありながら、どこかもの悲しい笛の音が風に乗って届く。

 祭り囃子が遠く黒沼までも響くのだと知ったのは、ちょうど去年の今頃だった。

 その晩、里では秋祭が催されていた。秋祭は男女の仲を取り持つ行事だ。いくら安是の女が意中の男に身を光らせるといっても、やはり女から求愛するのは慎みに欠く。だが、秋祭の晩だけは別だ。

 煌々と満月が照る晩、篝火かがりびを焚き、楽を奏で、火を囲み歌い踊る。熱狂と興奮と高揚に紛れ、女が誰に向けて光を発しているのかわからない。もっともそれは公然の秘密で、よっぽどうぶ・・でのろまな娘でなければ、いつまでも隠し通すものでもない。

 とまれ、女は踊りに紛れて、寄せては返す波のように男へ近づいては離れ、なれどいつのまにか満ちる潮のように確実に男に添い、そっと袖を引く。踊り疲れて輪を離れる時だったり、踊りの一重輪と二重輪が入れ替わる時だったり、形ばかりにさりげなさを演出して、しおらしく、たおやかに、女らしく。そして二人は一緒に、あるいは別々に木立の向こうへ消えてゆくのだ。夫婦の契りを結ぶために。

 今宵、里の若い男女は、誰もが心浮き立たせて祭りに参加しているというのに、一人きりで山道を歩いていた。祭りには十五歳以上の者が参加する。かすみはとっくに十五を過ぎていたが、祭りに参加したことはなかった。理由は簡単だ。光らぬ〝かすのみ〟。誰に想いを伝えることもできないし、相手にされるはずもない。

 だからこそ祭りの輪を離れた。祭りはきらびやかで、年頃の娘としては心惹かれてしまう。しかし、祭りの熱に浮かされ、何かの間違いで夫婦の契りを結んでしまえば、それこそ相手に迷惑をかけてしまう。憎まれ、疎まれ、殺されかねない。女の光は思慕の証であり、男はしばしば酒の席で己の妻がどれほど光り濡れるのか自慢し合う。もしも光らぬ女と契ったと知れたら、男は里で男として生きてゆけぬ。


 ――なぜ、自分は光らないのだろう。


 追い立てられるように祭りの喧噪から逃れ逃れてついには黒沼まで辿り着き、ようよう足を止めた。

 幼い頃は、恐ろしくてならなかった黒沼。今では唯一の逃げ場であり、息がつける安息所でもあった。だがそんな親しんだ黒沼も黙して答えず、ただ虫の音が響く。風に乗ってかすかに届く祭囃子はいっそう己を惨めにさせた。

 今年こそ、今年こそ、今年こそ。秋祭が近づく度に、焦げ付く想いで願っていた。

 光りさえすれば、ごく普通の里娘の幸せを得られる。幼い時は、大人になって光りさえすれば、ぶたれることも、飢えることも、蔑まれることも、きっとなくなるのだと信じていた。ずっと耐え忍んできたし、努力も重ねてきた。けれど結局は思い知らされたのだ。お前はやっぱり〝かすのみ〟なのだと。


 ――母親が犯した罪がお前を呪っておるのだ。


 それは古老の一人の言葉だった。

 母の名は阿古あこといった。里一番の器量良しでよく光り濡れ、同時に悪鬼のごとき性分だった。

 阿古はその美貌と光で里男のほとんどと縁を結び、虜にしていた。他の里娘としてはたまったものではない。ある年など若衆が阿古をあがめるばかり、秋祭が成り立たなかったという。どれほど他の里娘らが想いを募らせ光っても、若衆の誰一人、阿古以外の光になびかなかったのだ。

 怒りと光を滾らせた里娘らは阿古に若衆の一人を選べと詰め寄った。意外にも阿古はあっさりと了承し、翌年の秋祭までには夫を選ぶと宣言した。そして古老や里娘の親たちも胸を撫で下ろしたのだ。

 しかし、そこから阿古の悪鬼たる性分が本領を発揮する。冬が過ぎ、春が過ぎ、とうとう夏が終わっても阿古は夫を選ぼうとしない。それどころか里男の全てに気がある素振りをする。男たちは、もしや選ばれるのではと、阿古にかしづいた。

 我慢に我慢を重ねていた里娘たちは、ようよう気付かされる。阿古が夫を選ぶ気など毛頭ないということに。丸二年、持て余された里娘の光は炎となり、阿古を焼き尽くそうとした。

 けれど、悪女は誰より娘たちの心裡こころうちを見抜いていた。己の身が危ういと悟ると、里を抜け出し、遥野郷を出奔し、宮市で男をつかまえ、都へ行ったという。里の禁忌を破って。 

 阿古の行方がようとして知れなかったのなら、それはそれで幸せだったろう。里にとっても、阿古にとっても、自分にとっても。

 阿古は一年後、里に帰ってきた。どこの誰のものかも知れぬ子種を胎に宿し、全ての記憶と正気と人の心を失って。


 ……二十年近く昔の話だ。どこまで正確なのかはわからない。けれどはっきりしているのは、自分は里中から憎まれる罪人の娘であり、父親は誰とも知れぬということ。

 阿古の髪は黒々と豊かだった。祖父母も白く染まっていたが元の髪色は黒く、係累に赤黒の髪はない。ならば、髪こそは父親譲りなのだろう。母はどこの誰の子を孕んだのか。獣か、妖か、鬼か。まともな相手ではない。

 沼の岸辺に跪く。月明かりで、水面にくっきりと己の容貌が映る。束ねていた髪を解けば、禍色が広がり、青白い面を縁どった。冴え冴えとした月光に照らされた姿は、夜叉さながら。

 髪だけは阿古に似てくれたら良かったものを。

 視線の先には漆の艶を湛えた黒沼が横たわっている。見惚れるほどの黒。母の髪と同じ。魅入られたように、黒沼に顔を寄せて――と。


 沼の奥底で何かがゆらめいた。一筆、すぅっと光で描いたような。魚影だろうか。なれど、黒沼に魚が棲んでいるなんて聞いたことがない。黒沼は普通の沼ではなく、黒く粘性のある水が湛えられ、およそ何物も生きられぬ。もしも何かが棲んでいるとしたら……それは、この世の生き物ではない。

 こくりと喉が鳴り、身を乗り出して黒沼を見据える。水面ではなく、その奥底。光の色は、赤い――



「黒沼の水は口にはできん。そんなことも知らんのか、安是の娘は」



 夜陰に明朗な声が響いた。水面に映り込んだ姿に弾かれたごとく振り返れば、いつの間に現れたのか、黒狐の物の怪がいた。

 かすみはしばしば、物の怪を目にする。幼少より、ひとりっきりで過ごす時間が長かったためか、そういうものによく気付く。孤独ゆえの妄想の産物なのかもしれないが、特に害はなかったので放っておいた。これもその類なのだろうが、話し掛けられるのは初めてだった。


「……飲もうとしてたんじゃない。髪を染めようとしていただけ」


 そしたら、光る魚影のようなものを見掛け、つい覗き込んでしまっただけ。

 物の怪に応えれば、物の怪の世に引きずられてしまう。祖父母に言い含められていたが、つい答えてしまった。自暴自棄になっていたのかもしれない。


「なにゆえ染める」

「こんな髪では誰も相手にしてくれない」

「そんなにも美しいのにか」


 思わず噴出しそうになった。やはり感性が物の怪だ。人とは違う。


「こんな髪の美人はいない」

「確かに珍しい。だが、新都にいとには赤やら青やら多彩な髪色の者がいるぞ」


 都は、阿古が戻った同じ年に起きた大火後、西から東へと遷都されていた。昔に比べて近くなったのだろうが、ここから何百里も離れた場所にいると言われても意味はない。里の外へ出れば、母の末路を辿るだけ。黙したままのかすみに物の怪は、それに、と続ける。


「都にいるなし関係なしに、俺は美しいと思う。まるで炎じゃないか」


 物の怪が一歩、二歩と、草を踏み分けこちらへと寄ってくる。

 別段怖いとも思わず、物の怪がうねった髪に触れるのもそのままにした。手つきは乱暴ではなかったゆえ。

 物の怪は墨色の長着に、浅葱袴を履いていた。袖が夜風に揺られ、かすみの頬をふわりと撫ぜる。


「それはあんたが物の怪だから。普通の人はそんなふうに思いやしない」

「そうかもしれん。まあなんにせよ、黒沼で髪は染まらん。ただ汚れるだけだ」


 そう、と力なく呟き、物の怪に背を向け、沼の前に座り込んだ。一瞬だけ見えた怪しい光はもう消えていた。見間違いなのだろう。かすみは小さく嘆息した。

 本気で染髪しようとしたわけではない。ただやりきれない気持ちを衝動的に発散しようとしただけ。それで物の怪にさとされているのだから世話がない。


「私はどこにも嫁げない。誰にも光らない。かすみ――〝かすのみ〟だから」


 ぶちりと草を千切っては沼へと投げ込む。いじけて、誰にもしたことがない身の上話を物の怪相手にするなんて。人ではないからむしろ本音を吐けるのだ、と気付いてますます惨めの沼地に沈んでゆく。

 祭囃子はもう聞こえない。きっともう各々が秘密の場所で契りを交わしているのだろう。

 ふうむ、とどこか滑稽な唸りが聞こえ、


「なら、どうだ。俺の嫁にならんか?」


 肩越しに顔を向けて目を瞬かせた。なぜか物の怪は悠然と腕を組んでかすみを見下ろしている。

 人に好かれることはないと思っていた。なれど、まさか物の怪に求婚されるとは。一笑に付そうとしたその時。


「――火のごとく ひかり輝く かすみ燃ゆ 我いざないて 妻とせん」


 それは古いしきたりに則った求婚だった。

 男が求愛の歌を詠み、女は返歌で答える。昔はこの里でも行われていたというが、今はもう廃れてしまった儀式。よほど身分の高い人々の間では今も続けられていると聞くけれど。

 どうして、物の怪が、とか。どうして、私が物の怪なんか、とか。思うことは色々あった。だが。


「……安是の里 よわい十七 かすのみなれど わが背となりて もののけの君」


 口をついたのは、求婚を受け入れる歌だった。

 想像だにしていなかった。求婚され、答えを返すなんて。すんなり返せたのは、いつかは我もと分不相応な夢を見ていたからか。我に返り、恥ずかしくなって逃げ出そうと立ち上がる、と。


「なら決まりだ」


 物の怪はあっさりとこちらの腕を捕らえ、軽々と抱き上げた。その拍子に肩が物の怪の顔にぶつかり、奇妙な硬い感触を覚える。よくよく見ればそれは黒狐の面で、面が剥がれて素顔がのぞく。涼やかな目元の若い男。書生風の細い姿であるが、体躯は頑健だった。

 どうして容易く男の姿形が見て取れるのか。満月にしても、やたらと明るい晩だ。眩しいほどに。

 ふっと、目の前を青白い蛍が横切る。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……蛍はどんどん増えてゆく。季節外れにもほどがあった。蛍は男の周囲を巡り、ふいに消える。男にふれるか否やのところで。いや、燐火は男の内から発され、男の元に戻っているのだ。

 総毛立った。ああ、この男はやはり物の怪だ。母のように里の禁を犯してはならない。あの末路を教訓とせよ。強張った手足を叱咤して男の腕から逃げ出そうとしたその時。


「俺は寒田さむだの里の燈吾。今日よりお前の夫だ」


 男は晴れやかな笑みを浮かべ、高らかに言い放った。大きな魚でも釣り上げたような、得意げな、嬉しげな、誇らしいみたいな表情で。

 今の今まで、かすみにこんな顔を向けた者はいない。身内ですら。誰も彼もが自分の存在を疎んでいたというのに。

 どくり、と血が逆流した。顔が熱い。熱くて熱くて堪らない。苦しくて熱い息を吐いた途端、ぽぅっと喉から胸のあたりにかけて暗紫紅の光がともった。燐寸の火先ほどの、ささやかなともしび。男が放つ蛍火とは明らかに違う色の。

 驚きと、恥じらいと、当惑に襲われる。どうして今になって。

 そしてかすみは、自身が発する光が炎の色に似ていることを、齢十七にして知った。

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