1-2蛍火

 山の空気は濃く、甘く、重い。


 かすみはいつもそう思う。人によっては清々しいと感じられるようだが、歩きながら噎せ返りそうになる。里のそれとは密度が違い、手足に髪にまとわりつく。呼吸する樹木、生物が朽ちゆく土、潜む獣、人とも獣ともつかぬけれど確かに在る何か。それらが発する気に満ち満ちていて、あてられそうになってしまう。半時もすれば馴染んでくるが。山の呼気の中、掻くように足を急がせた。

 わずかとはいえ、時間を取られてしまい、歯噛みする。辿り着く前に日暮れてしまうかもしれない。


 夜の山は危険だ。人の領域ではない。


 東の果て遥野郷では、昔から山に入ったまま戻らない女があった。遥野の最奥である安是では、女の神隠しを特に〝山姫下り〟と呼ぶ。山姫は山に棲まう人とも怪とも神ともつかぬ何かだ。山姫が下れば、女が山へと消える。だから決して、女は夕暮れ後、山に入ってはならない。


 ――まあ、あんたにゃ、くだる心配はないだろうけど。


 だからこそ、駒は出立する自分を笑った。

 安是で山に消えるのは、初光済みの女ばかり。〝女〟ではないかすみにはその心配がない。

 そしてもう一つ、女が山に入るとは、人目を盗んでの逢瀬をも意味する。里男の気を引かない自分が間違いを犯すはずはないと嘲ったのだ。そうして、娘頭自身は若衆頭の真仁まひとがいるであろう作業小屋へと駆け出した。


 かすみを嘲弄ちょうろうした次の瞬間、光をのぼらせた恋い愛い女へと為り代わる。その変わり身は、安是女そのものであり、心底嫌う性であった。


 多分、彼女は。枝葉を踏みしめながら思う。今年の秋祭が終われば、娘宿を出て嫁ぐのだろう。そんな娘を何人も見送ってきたのだ、この十年。



 ――十年。思い返せば、人生の半分以上を娘宿で過ごしてきた。



 入宿した頃、当時の娘頭に黒ヒョウビ採りを命じられて泣いた。

 そも、黒沼は神域であり、夜山に入る以前に、滅多に女が訪れて良い場所ではない。娘たちは神罰が下ってもどうせかすのみ、構いやしないと思っている。

 恐ろしくてならなかった。黒沼まで辿り着けないこともあり、食事の代わりに張り手を喰らわされた。

 初めて黒ヒョウビを採った日、ただでさえ罰当たりな身の上、恐怖で眠れなかった。

 なれど、いつまで経っても罰は下らない。繰り返すうちに、黒沼参りは日常となり、日常の作業となれば畏怖は続くわけもなし、むしろ喜ばしい仕事となった。孤独な山の往来は、娘宿よりもずっと自由だ。そしてこの一年で自由以上のものを得た。今では、自ら残油を調整して申し出るほど。我ながら現金なものだ。

 そう考えると、芳野嫗よしのおうなに出くわしながらも足止めだけで済んだのは僥倖だったろう。籠の中身を検められ、黒ヒョウビ採りを知られたなら、折檻され、黒沼に近付くなと厳命されただろうから。

 日々の暮らしの中で辛苦は寄り添うように傍らにあったが、結局は人によってもたらされるのであり、その逆も然りであった。



 そうして一時ほど足を進め、視界が開けた小さな滝沢に出る。絹の白糸を束ねたような流れが苔生した岩の間を這い、その一筋に口づけた。息をついて枝葉の間から空を仰げば、中天は青よりもずっと濃い紺碧、山の端は燃え立つ紫紅。空気は昼間のぬくもりを拭い去り、明度と冷たさを増していた。

 陽が落ち切る前に黒沼に着いておきたかったが、間に合わないかもしれない。大量の洗い物を押し付けられ、無能な娘頭は黒ヒ油が残りわずかなことに気付かず、娘宿を出たのが三時を過ぎていた。舌打ちが漏れる。さほど険しくない山道だが、日暮れの足には勝てそうにない。

 忌々しい心地を振り払い、急いて手足を動かすが、登りは息が乱れる。空気は冷える一方だが、対照的に身体は熱かった。腹の中に熾火があるように吐息が熱い。頭も手足も、髪の先、睫毛の先までちりちりと。

 風が山肌を吹き上げ、怪しげな葉ずれが鳴る。夜鳥の低い鳴き声が響き、辺りは急速に闇に沈みつつあった。


 ――山姫が下れば、山嵐が起きて里を荒らし、女が消える。


 単なる言い伝えで、大して気に留めていない。急いているのも山姫怖さのためではなかった。

 と、焦る顔に何かが当たる。当たるというよりも、掠めた程度でくすぐったい。取り払うと、指先に白く細い糸のようなものが巻きついていた。木々の間に張られていた蜘蛛の巣を引っ掛けてしまったのか。残照を受けてきらりと白銀しろがね色に輝くそれは、生糸よりも細く、蜘蛛の糸よりも長く、強度があるように思われた。しなやかに真っ直ぐで、六尺ほどもあろうか。

 その白銀の糸を見つけるのは初めてではない。田畑で、山路の途中で、娘宿の作業場で揺れるそれを見掛けることがしばしばあった。他の里者や娘たちが気付いている様子はない。不思議なほどに自分の前にだけ現れる。

 指先で風に揺れる白銀の糸をしばらく見つめていたが、無造作に手を振り、絡みついた糸をほどいた。足止めされている場合ではない。陽は山間に吸い込まれるように沈みゆく。白糸が風にさらわれて谷間に消えるのを見届けぬまま、歩みを再開させた。


 しばらく歩き続け、背負い籠を下ろした。道程はあと四分の一ほどだが、闇夜が喉元まで迫っている。ここから先は時間との戦いだ。荷物は邪魔だった。

 籠から小さな風呂敷包みを取り出すと、それだけを胸に抱えて早足に、しまいには駆け足で進む。走りながら包みをほどいた。と、するり風呂敷が腕から落ちるが、拾う気にはなれなかった。明朝捜せばいい。見つからなかった時の後悔も明日すればいい。今は一直線に黒沼を目指す。

 進みながら、風呂敷包みの中身を広げ、羽織った。はらり舞う漆黒の打掛。まだ陽の指先が引っかかっている夕闇よりもずっと深い闇色の。唯一、母から譲り受けた品であり、遺品だった。里で飼っている蚕からとれる絹糸に特殊な染めをして織られたその衣は、里の女なら必ず一枚持っているもので、婚礼時に羽織る。

 里の外では婚礼衣装は白だと聞く。だが白などという儚い色でどうやって隠すというのだ、婚礼の儀で隣に座る夫への思慕の光を。もっと直裁に言えば、その晩、迎える初夜への期待と不安と昂ぶりを。夫に可愛がられて鎮めてもらうまでの、その気の遠くなるほどの時間。


 胸の奥から熱い塊がこみ上げる。下腹部のあたりが疼く。足取りが覚束無く、もつれる。


 胸の辺りを押さえ、前屈みになると、一体いつの間に解けたのか、束ねていたはずの赤黒毛が頬にかかった。小さな胸が大きく疼き、はっと大きく湿った吐息が漏れる。 


 ――もう、堪えきれない。


 一呼吸の後、漆黒の打掛の下で、暗紫紅あんしこうの光が膨れ上がった。自身の身体を見下ろせば隅々から光が放たれ、打掛でも隠しようがなく、全身が染まっている。足なり、腕なり、身じろぎすれば、同調して光が揺らぐ。まるで光の蒸気を吹き出しているように。


 いや、最早、暗紫紅の業火に全身が焼かれているさま。


 肌が熱くて熱くて、膝を折る。喉が乾いて乾いて、喘ぎを漏らす。身体の芯が疼いて疼いて、どうしようもない。己が発する光で、視界がたわんだ。


 山中の暗がり、暗紫紅の焔となり、苦しさに膝をついた。


 と。いつの間にかすっかり暗くなった山路に、ぽつんと一つ、青白の清涼な光が点った。一番星か、季節外れの蛍か、さまよえる鬼火か――いや。光は、うずくまるかすみの上を二三度旋回してから、少し離れた空中で静止する。


 打掛を鳩尾のあたりで握りしめ、よろめきながらも立ち上がった。蛍火は逃げるように少し離れる。追えば、また逃げる。待って、とか細い声を上げ、蛍火を追いかけた。

 山の呼気はますます濃く、甘く、重く、酩酊にも似た眩暈を感じる。それとも、自分自身の光に酔ってしまっているのか。

 そうして蛍火に導かれ、頼りない足運びで山路を進み、小川を越え、鬱蒼とした隈笹の茂みを掻き分けたその先は、ブナの木々に囲まれた、ぽっかりと開けた空間だった。

 山の中腹に忽然と現れた沼地――黒沼。対岸までおよそ五十尋もあろうかという水面は漆のような艶を湛えて星空を映し、夜空に投げ出されたような錯覚を覚える。


 今宵は新月。満天の星が夜空を彩る。気付けば、天に浮かぶ星と沼に映る星とで倍になった星々に混ざり、蛍火を見失ってしまっていた。周囲を見渡すと、すぅっと移動する青白い星が一つある。蛍火はさらに進み、沼の上空を泳ぐように進む。当然、水面を歩けるはずもなく、沼の水際に沿って蛍火を追いかけた。

 蛍火は、対岸までやってくると、中空に浮いたまま停まった。ようよう追いつくと、目線の高さまで降りてきて、ぱっと弾けて青い燐光を撒き散らして消える。その刹那。

 未だ暗紫紅に光る腕がぐいりと引かれ、身体が山肌に沈んだ。


 ――山姫のおくだりか、否。


「はしたないな。燃え盛るほどに光るなんて」


 耳元で囁きが落とされる。

 単なる山肌に見えていたそこはむしろに草葉や枝を重ねて隠した小さな庵の入口となっていた。

 庵の中は暗い。だが、無数に舞う青白い蛍火と自身の光で相手の姿が除々に浮かび上がる。黒狐の面を被った物の怪が、背後からかすみを抱いていた。

 全身から力が抜け、同時に堪えに堪えていた光をどっと放出させる。


「……燈吾とうご、」


 面をずらさせ、首筋を反らして愛しい物の怪に喰らいつくように口付けた。深く深く、湿った音を立て、舌を差し込み、相手の舌とからませる。熱くて、柔らかくて、湿って、とろけて、気が触れそうになる。呼吸が続かなくなり、名残惜しくも唇を離すと、水っぽい唾液がつぅっと糸を引いた。

 突如、着物の合わせから骨ばった手が差し込まれる。乳房全体をこねくり回されるとひうんと情けない声が上がり、先端を摘まれて一段甲高い声が漏れた。手はそのまま腹を辿り、さらに下へ、奥へと這ってゆく。身をよじるが拒んでいるわけじゃない。もっと早く、もっと奥へ、中の中までと誘い込むため腰を振る。ようよう中心の熾火に触れられて思わず呻くと、くっと下卑た笑い声が庵に響いた。同時に、光とはまた違う熱い何かがどっと溢れ出る。


 愛しい背の君。里の男には決して光らない身体が、物の怪の夫にはどこもかしこもしとどに光る。


 二人は互いの着物をもどかしく紐解きながら粗末な筵のしとねにもつれこんだ。

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