一、かすのみ

1-1安是

 遥野郷はるかのごうの最奥、安是あぜの里では恋をした女は光る。

 これは比喩でもなんでもない。つきのものを迎えてしばらく、子を宿す準備が整った女は、意中の男を前にすると身の内から光を発するようになる。

 最初はか弱く、ぽっとかすかに、いかにもおぼこく。歳月を経て女の身体が成熟するにつれ、光は輝きを増す。隠し切れぬほどに光を滴らせてすっかり準備が整った女は、男の前で衿を掻き開き、囁くのだ――貴方が光らせたこの身体、貴方でなければ鎮められぬ、と。


 男は心ときめかす。恋心を膨らませ、こんなにも光に濡れた女をいやつと。

 女は心得ている。この甘く誘う光を、自尊心と支配欲から男が絶対に拒否できないと。


 こうして一対の幸福な夫婦ができ、子が誕生し、里は緩やかに繁栄を続ける。それが連綿と受け継がれてきた安是の里のことわりだった。

 かすみは十八。とっくの昔に初潮を迎えていたが、この歳になっても一向に光らない。普通ならば十から十五、どんなに遅くとも十六には光り始めるというのに。


 かすみは〝滓の実〟。あるいは〝幽の身〟。


 片親しかおらず、唯一の母親には学がなかったため、名に適当な字を当てられてしまう。

 それも当然のこと。なにせ己は光らない。光らねばこの里では女としての価値はなく、かといって男のように力仕事ができるわけでも、古老たちのように知恵やよしみを持つわけでもない。せめて見目が良ければ他人を不快にさせないだろうが、髪は赤黒く波打ち赤猿もかくやあらんというふうで、およそ美人の条件からかけ離れていた。

 ――学がなく、大罪を犯した母は、里一番の器量良しだったというけれど。


「あんた、こんなところで何油を売ってるんだい?」


 井戸場の前で声を掛けられ、抱えていた籠を取り落としそうになった。

 振り返れば娘宿のかしらである駒が腰に手を当てて立っていた。

 里の娘は十二、三になると生家を離れ、婚姻するまで娘宿と呼ばれる宿舎兼作業場で共同生活を送る。そして年嵩の娘が下の娘を教育して、里の一員としての仕事やしきたりを学ぶ。もちろん、あまり裕福でない家に限ってのことであり、里長や土地持ち、巫女などのお役目のある者は除外されるが。口を減らす必要が無ければ、誰も可愛いひいを手放さぬ。

 かすみが娘宿に入ったのは、八歳の頃だった。普通よりも多分に早いが、理由は簡単だ。祖父母が亡くなり、身寄りがなくなったゆえ。

 小さな里だ、縁者がなかったわけではない。なれど、どの家も引き取ろうとはせず、しらんふりを決め込まれた。

 けったいな髪色、母の所業、どこの誰とも知れぬ父。こんな業を背負った餓鬼を引き取ろうという物好きはない。夜中に川へ流されなかっただけでも幸運だったのだろうが。


「夕餉の準備やわいで忙しくなるのわかってるだろ」


 駒は大股で歩み寄ってくる。彼女の口調と表情には険があった。

 自分よりも一、二歳年下のはずだが、上背の高い彼女は妙に迫力がある。この春から娘頭を引き継いだ彼女にはまだ気負いがあり、人当たりがきつい。八歳から娘宿にいるかすみの方が古株なのだが、当時から下働きをして、今も同じ仕事を続けている自分はこの先も永遠の下っ端であり続けるのだろう。


「……黒沼へ。黒ヒョウビを採ってこようと思って」


 駒は寄った眉根をわずかに緩め、けれど鋭く問う。


「今から? 洗い物は済ませたのかい」


 小さく首を縦に振る。


「全部?」


 続けて頷く前に、駒は胡乱げな眼差しを井戸場の裏手にある干し場へと向けた。

 そこには大量の手拭いやら敷布やらがはためいていた。今朝申し付けられた洗い物は、命じた本人が終わらせたことを訝るほど大量で、先ほどようやく終わらせた。もっとも、嫌がらせというわけではなく、かすみが仕事量を配慮してやるには値しないというだけなのだろう。


「明朝までには戻るから」


 秋祭も近いから、と言い添えると駒はああと得心しかけたが、それでもなお許可するか迷っているようだった。

 黒沼は、山間にある安是の里よりも高い中腹に位置する。その黒沼周辺では油の原料となる黒ヒョウビの実が採れる。

 黒ヒョウビの油――黒ヒ油くろひゆは、灯りとしてはもちろん、里の貴重な現金収入源となっている。次の満月に控えた秋祭にも大量に使われるが、先日、卸先である油屋がやってきたため、今現在、黒ヒ油の蓄えは少ない。黒ヒ油はどれだけあっても足らず、特に娘宿では夜なべして晴れ着を縫うため、黒ヒョウビ採りは歓迎されるべき仕事だった。

 しかし、今から里を出れば、帰路に着く頃にはとっぷり日暮れてしまう。いくら慣れた道とはいえ、暗闇の中、山道を戻るのは危険だ。そうなれば、黒沼で一晩野宿しせねばならない。娘宿の娘に不始末があれば、責を問われるのは頭である駒だ。他の娘であれば言下にはねつけていた。だが所詮は〝かすのみ〟のこと。何かあったとしても、内輪で収めてしまえば、誰も文句を言いやしない――そう駒が考えているのがありありと伝わってきた。


「さっき、若衆組の頭が作業小屋のあたりを歩いていた。誰かを捜しているふうだったけど……」


 思案顔の駒に伝えるというよりも、ひとりごとめかして呟く。

 と、駒のうなじのやや浅黒の肌に淡い黄色の光が灯った。袖口からも早春の花が開いたように、ほろほろと光が零れる。まだ陽の高い時分のことですぐに消えてしまったが、頬にのぼった朱は肌を染め上げたまま。

 そわそわし始めた娘頭は、姉さん被りの手ぬぐいを外して髪を指で梳きながら、


「朝餉の準備までには戻っておいでよ」


 とだけ言い捨てて、早足に歩き出す。だが、いくらも行かないうちに振り返り、


「山姫が下りてくる時分だ。面倒を起こすんじゃないよ」

 ――まあ、あんたにゃ、くだる・・・心配はないだろうけど。


 くっと一笑を残し、駒は走り出した。かすかな光を引き連れ、作業小屋の方へ一目散に。

 娘頭の姿が完全に見えなくなり、嘆息一つ落として。

 用意していた風呂敷包みを背負い籠に入れて負い、黒沼へ向かった。寄合所や里長の屋敷が置かれている里の中心を通るのは避けて、田畑の畦道を往く針路をとる。

 山あいの里に農地は少なく、猫の額の土地にわずかな稲田が作られていた。収穫の時期を過ぎ、刈り取られた稲は稲木に掛けられ、天日干しされている。脱穀を待つこの間、稲田は閑散としている。真っ赤な彼岸花が風に揺れて人気は無く、都合が良かった。

 里を抜け、黒山へと続く傾斜を上がると、里が一望できた。山裾にへばりつく里はあまりに小さく、閉ざされている。

 かつて都の政権を巡る戦に負けた落人おちうどあずまの果て遥野郷に棲み付いたと伝えられている。山々が立ち塞いだ奥に在るこの山あいは、隠れ里としてはうってつけに違いない。

 横を通るたびに、なんと贅沢なのかと溜息をつかされる里長の家もここから眺めればあまりにちっぽけだ。生家や娘宿などは言わずもがな。

 しかし、それらの中で、一つだけ異彩を放っている屋敷があった。里長の屋敷より、寄合所よりも広く、白木造りのそれは〈白木の屋形〉と呼ばれる。先日、男衆が総出であく洗いをしたせいだろう、遠目からもうっすらと輝いて見えた。

 自分が生まれる前から建っているが、足を踏み入れたことはない。客人をもてなすための屋形だというが、ここ十数年、外の者は油屋以外誰も訪れていない。そもそも隠れ里で客人をもてなすとは滑稽だ。どのみち、縁も用もないが。


「おぬし、どこへ行く?」


 ぎょっとして振り向けば、小柄な老女がミズナラの巨木の背後から姿を現した。芳野嫗よしのおうなだ。里長とはまた違う立場から発言力のある人物で、〝嫗〟とは一種の尊称でもある。娘時代には〈白木の屋形〉の祭事を取り仕切る巫女であったという話だった。


「山へ、茸を取りに」


 事前に用意してあった台詞を読み上げる。


「人手がいる時分だろう」

「……夕餉の菜が足りないから」


 急いで戻ります、そう付け加えると、嫗は切り込みのごとき眼差しを向けてくる。いつもながら、障子紙が差し入れられようか否やという細い隙間で、こちらの様子が見て取れるのが不思議だった。

 かすみは古老らの覚えがめでたくない。里で自分を好いている者などいないが、彼らの間では特に忌み嫌われていた。赤黒の髪だけでなく、それに足る理由があってのことだが。

 古老うちで、芳野嫗は表だって辛い仕打ちをしてくるわけではない。少なくとも、すれ違いざま杖で足を打ったり、性根を直すと言って、自分を木に縛り付けたりはしない。

 だが、無関心というわけではなく、折につけて嫗は声を掛けてくる。それは気に掛けてくれている、というわけではなく、一挙手一投足、監視されているというふうで、いつも居心地の悪さを感じていた。

 嫗はそうかとだけ呟くと、里の中心へと足を向けた。安堵しつつ、その反対、山の領域へと踏み出す。と、


「最近、変わったことはないか」


 突拍子も無く投げつけられ、籠を負った肩越しに嫗を見やった。その皺深い顔からは、どんな表情と感情が潜んでいるのか窺えない。

 黙したまま首を横に振ると、嫗は歩みを再開させた。

 かすみは二人の間が広がるまで嫗の背を見送り、今度こそ山へと入った。

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