第5話 退学、そして
僕は一ヶ月間ずっと学校に行かなかった。担任は、とにかく学校に来い、という連絡を電話でしてきた。僕は、知り合いに会うのは嫌なので放課後に行く、と伝えた。もう学校を辞めようと僕は決めていた。ケントや直樹がいない学校に行く理由はないからだ。僕は退学願いを書くつもりで、学校に向かった。
「何してた?」
「何も」
「そうか」
担任とは放課後の誰もいない教室で会った。会話は途切れ途切れだった。
担任は言った。
「どうする?」
僕は必要最小限の言葉だけを言う。
「辞めます」
「そうか」
これで学校を辞めることができるんだ、意外と呆気ないな、と僕は思った。
担任はしばらく黙り込んで黒板を見ていた。僕も担任と目が合うのが嫌で教室の隅のほうを見ていた。
懐かしかった。たった一ヵ月見なかっただけで、教室の何気ない風景がとてつもなく懐かしかった。僕は一ヵ月前確かにここにいたのだ。そう思った時、頬を涙が一筋流れ落ちた。ケントが死んだ時でさえ出なかった涙が。僕は自分がどうして泣いているのかわからなかった。
「コースケ、ちょっとタバコ吸ってもいいかな?」
担任が言った。
「いいです。」
僕は泣いているのを懸命に隠しながら答えた。
「お前も吸うか?どうせ辞めるんだから、黙っておくよ。」
「いや、いいです。普段吸わないんで。」
「そうか、そうだよな。俺も生徒にタバコを勧めるなんて、どうかしているよな。」
「いえ、気にしていませんから。」
担任がタバコを吸っている間、しばらくの沈黙があった。一本吸い終わった担任が言った。
「最初担任を持った時は、生徒が退学していくたびに苦しかった。次に誰かが退学したら俺も辞めようって考えたこともあった。でも結局次の一人が辞めた時、俺は辞めなかった。そして思ったよ。俺にはこの子たちを止めることはできないってね。」
担任は次のタバコに火を着けた。
「それで諦めたんだ。色々なことをどうしようもないって諦めたんだ。」
僕は俯いて、机の間から見える自分の足をじっと見ていた。
「でも今回のケントの死はこたえたよ。相手が死んだら何もできない。教えることも、叱ることも、一緒になって楽しむこともできない。もし死ぬのがわかっていたら、ケントにもっと一所懸命何かをやってあげられたのに。」
僕は視線を上げて担任が何をしているのか見た。彼は短くなったタバコを眺めていた。
「生きているうちにしか関われない。そんな当たり前ことに、やっと気づいたよ。」
担任は灰皿にタバコを押し付けて消した。
「だから俺は今、ハッキリと言うよ。お前は学校を辞めるな。お前は俺の担任している生徒で、俺はまだ何かをしてやれる。だから俺のためにも学校を辞めるな。」
僕は大人を甘く見ていたのだろうか。バーチャルな世界で何もかも分かったような気になっていたのかもしれない。大人になるということは、誰もが夢と現実のギャップにもがき苦しみながら築き上げた歴史なのだ。誰一人として決まり文句などでは言い表せない。
「何でも失敗してうまくなっていくんだ。人間関係も何度も何度も失敗して、やがてうまくなっていくんだ。頭の中でシュミレーションしているだけじゃ駄目だ。他人と関わって、関わって、やっとうまくいく、それが生きるってことなんだ。だから生きることを怖がるな。」
担任は最後のそう言って、教室を出て行った。僕は一人教室に残された。
「死ぬ」というのは、当たり前のことだけど、その人がいなくなるということだ。僕は、そして直樹もきっと、ケントが死んだことを心のどこかで認めていなかったのだと思う。
でもケントは死んだんだ。僕らは彼のいない世界に残され、これからもそこで生きていかねばならない。
「ケント、死んだんだよな。」
僕の部屋でスマホをいじりながら直樹がそう呟いた。直樹は泣いていた。僕の目にも不意に涙が溢れてきた。
そう、ケントはもういないんだ。僕らはもうそれを認めないわけにはいかない。ケントはいない、ケントは死んだんだ。そう思いながら涙が止まらなかった。僕らはなぜ泣いているのか、わけもわけもわからず泣いた。どうしても涙は止まらなかった。二人で声をあげて泣いた。ただただ泣いて泣き続けていた。
目が覚めた時、もう東の空は薄明るくなりかけていた。僕らの顔は涙の跡で汚れていた。目は腫れ、顔はむくんでいた。お互いの顔を見て、その顔のひどさに笑った。最初はすこし照れながら、そのうち声を上げて笑った。
涙は心の中で詰まっていたものを洗い流してくれたようだった。気分は不思議とすっきりしていた。淀んでいた流れが再び動き出したようだった。そして僕らは昨日までと違う世界にいるのだと感じた。
「コースケ、利根川見に行くぞ。橋からなら朝日が昇るのが見えるだろう。」
僕たちはそう遠くない利根川に架かる橋まで歩いて行った。僕の家から利根川の土手に向かい、土手を十分ほど歩いて橋に着いた。
橋の袂まで来ると、どちらともなく歩くのが速くなり、そのうち走り始めた。最初はゆっくりと、だがスピードは徐徐に上がり、いつの間にか二人とも全力で走っていた。利根川に架かるその橋の全長は一キロ以上あった。肺が破裂するんじゃないかと思うほど、全力で走った。僕らは橋の真ん中まで走ると、二人して歩道に倒れ込んだ。何か胃の中にあったら絶対に吐いていた。幸いにも昨夜から何も食べてなかったので、何とかゲロは吐かずにすんだが。
しばらく仰向けに倒れたまま、まだ日の開けきれない空を眺めていた。
「お前、なんで走り出すんだよ。」
直樹が言った。
「お前が先には走り出したからじゃないか。」
僕は言い返した。
「違うよ。お前が先だ。俺はただお前に負けたくなくて走っただけだ。」
「いや、お前が先だ。」
僕らは仰向けになってまだハアハア息をしながら、首だけを回して相手を見た。そして笑った。
しばらく寝転んでいた後、橋の欄干を掴んでやっとの思いで立ち上がり、朝日が利根川から昇ってくるのを眺めた。二人の顔は汗と埃でさらに汚れていた。
「なんだか俺、叫びたくなった。」
直樹はそう言うと「うおー」とか「がおー」とか意味のない叫び声をあげた。まだ早朝散歩の人影もなく、時折大型トラックが車道を走り抜けるだけだった。今なら誰も気にしなくていい。僕は思い切って叫んでみた。
「ケントー」
利根川から昇って来ようとする朝日に向かって叫んだ。
「ケントー、元気かー」
僕は思い切り叫んだ。こんなに大きい声を出したのは初めてだ。直樹がびっくりしてこちらを見ている。
「ケントー、いつか俺たちもそっち行くからなー」
隣で直樹も叫んだ。直樹の声は僕より少し大きかった。でも涙のせいか、最後のほうはかすれていた。
「そしたらまた遊ぼうぜー。」
もうケントはいないし、戻っても来ないのだ。叫びながら、その事実を思い出した。また涙が溢れた。僕は叫んだ。
「絶対お前のこと忘れないからなー。」
直樹も叫んだ。
「ゼッテー忘れないぞー。」
そう叫びながらも僕らはわかっていた、僕らはケントのことをやがて忘れていくのだと。
ケントのいない生活に僕らはだんだん馴染んでいくだろう。そしてやがてケントなしの日常が当たり前になっていくのだ。ケントのことはいつか僕らの思い出となる。
しかしそれでいいのだと思う。いつまでも悲しんではいられない。ケントがいなくても僕らは生きていかねばならないのだから。
ケントが死んでから二年が経った。直樹はアルバイトをしながら、ジムに通っている。あのおっさんのジムだ。先日、来月プロテストを受けると電話してきた。体はしまって、すっかりボクシングの体型になっている。
僕は何とか高校を卒業し、近くの工場に就職した。自動車の部品を造っている小さな町工場だ。毎日汗と油にまみれながら働いているが辛くはない。職場の人ともうまくやっている。
僕らはどうしようもない高校で出会った。確かにそこはどうしようもない学校で、学ぶことは何一つないところだった。
だけどそれがどうしたというのだ。僕らはそこでかけがえのない出会いをし、そして生きるということを知ったのだ。
箱の中のケント クジラ牛乳 @nakajiman
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