第4話 ケントの死
ケントが練習中倒れたという知らせは直樹からのメールで伝わってきた。僕はケントが運び込まれた病院を聞くと、自転車を全速力で漕いで向かった。直樹はもう病院にいた。直樹が言うにはケントは他校との合同練習中に倒れた、症状はかなり悪い、ということだった。
「かなりってどれくらいなんだ。」
「詳しいことはわからない。今、医者の話をケントの親が聞いている。とにかくかなり悪いらしい。」
ケントの両親が集中治療室から出て来た。二人とも目を真っ赤に腫らしている。母親のほうはかなり泣いた様子だった。彼女は僕らを見つけると近づいてきて言った。
「倒れてすぐに手術をしたのだけど、硬膜下出血でもう回復の可能性がないって。」
そう言って彼女は泣き崩れた。「硬膜下出血」「回復の可能性なし」僕の頭の中をその二つの言葉がグルグルと駆け巡っていた。初めて僕を友達として認めてくれた、命の恩人のケントが死ぬかもしれない、そう思うと僕の膝はガクガクと震えだした。
集中治療室のケントは呼吸器をつけられ、カプセルみたいなものの中で横たわっていた。体には何箇所も管が刺さっていて、それは生命維持装置につながっていた。ケントはそれによって無理やり生かされているだけなんだ。
「こんな箱に入るためにケントはボクシングをやってきたんじゃないぞ。」
不意に直樹が唸るように言った。
人は本当に悲しい時は声も出ないらしい。直樹は肩を震わせ顔を真っ赤にして声も出さずに泣いた。僕はその隣で呆然と立ち尽くしていた。
ケントがいなくなってから僕らは一緒にいても会話することが少なくなった。スマホを一日中見ていた。
「俺さ、あれからいろいろ考えたんだけど、またボクシングやることにした。」
突然直樹が言った。不意を突かれた僕が顔を上げて見ると、少し思いつめた表情の直樹がそこにいた。
「本当にボクシングまたやるのか?」
「ああ、やる。」
直樹は空中のどこか一点を見つめながら、低く短くそう言った。
「ブランク長いから最初は厳しいと思うけど、今度は絶対にやめないから」
普段の直樹からは想像できない重い決意であることが想像できた。
とりあえず僕らはケントが通っていたジムを訪ねることにした。
「あそこのオヤジ、相当変なやつらしいから注意しろよ」
そう直樹に注意された。僕も以前にジムのトレーナーの事をケントから聞いていた。どんな風に変なのか聞いたが、ケントは「会ってみないと分からないよ、言葉じゃ言えない。」と言っただけだった。
そのジムは町外れにあった。すぐ近くに畑が広がっているような場所だ。ジムはプレハブの二階建てで、「Hボクシングジム」という看板が掲げられていた。ドアを開けてみると、中央にリングがあり、サンドバッグとパンチングボールが数個づつあった。
「何か用かい?今はちょっと休業中なんだけどなあ。」
突然二階からウイスキーのポケットビンを持ったおっさんが降りてきた。歳は四十半ばといったところだろうか。髪の毛はもう薄くなっている、中年太りの髭面だ。かなり酔っ払っている様子だ。足元がおぼつかない。直樹が話を切り出した。
「あの、俺たちケントの知り合いで、ボクシングを習おうかと思って来たんだけど。」
おっさんは少しびっくりした様子だった。
「お前ら、ケントの知り合いか?」
「そうです。」
「悪いんだけど、俺はもうボクシングを教えられないよ。ケントが死んでからやってないんだ。」
直樹に失望の表情が現れる。おっさんはそれに構わずしゃべり続けた。
「ケントが死んでから大変だったよ。新聞記者とか警察とかひっきりなしにやって来て、どんな練習してたとか、体調はどうだったとか、根掘り葉掘り聞いていった。それで俺もやる気を無くして休業中さ。」
おっさんは誰もいないジムを指差して言った。
「俺のところの練習中に死ななくてよかったよ。」
おっさんはウイスキーを一口飲んだ。
「あとが面倒臭いからな。」
この人はどうしてこんな憎まれ口を利いているのだろうか。直樹はケントのことを侮辱されたと思い、今にもオヤジに殴りかかろうとする。
「どうした。少しは怒ったか。怒ったなら、かかって来いよ。そんな腰抜けじゃ、誰も倒せんぞ。」
おっさんは挑発するような目でこっちを見た。直樹はおっさん目がけて殴りかかった。しかしおっさんは上半身を反らせて軽く直樹のパンチをかわした。直樹は勢い余って床の上に転がった。それはケントがヤンキーのパンチをかわした動作と全く一緒だった。
直樹は立ち上がってまたおっさんに殴りかかろうとしていた。僕はそれを羽交い絞めにして懸命に止めた。
「お前たちのことはケントから聞いてるよ。どんなやつかも知っている。だから言っておくがな、ケントは死んだってよかったんだよ。あいつは生きていたからな。一所懸命に生きてたんだから。」
「何言ってんだ。このクソじじい。」
直樹が僕に羽交い絞めにされたまま叫ぶ。
「お前たちはまだ生きてもいないんだ。わかるか?」
おっさんは声を一段下げ、ゆっくりとした口調で言った。
確かに僕らはまだ生きてもいないのかもしれない。生きているっていう充実感を感じたこともないし、自分が何のために生きていて、どこに向かおうとしているのかもわからない。
「ケントはこの酔っ払いにいい夢見せてくれたよ。やつがチャンプになって、俺は名トレーナー。ジムをでかくしてさ。本当にいい夢だった。でも神様はそれを許しちゃくれなかった。ケントをさっさとこの世から引き上げちゃってさ。俺の傍には置いておけないってね。」
このおっさんはケントのことを誰よりも愛していたのだ。直樹はもう殴りかかろうとはしていない。
「ケントには少し無理をさせたかもしれないな。あいつは元々ボクシングをやるようなファイターじゃなかった。俺が無理やりやつの闘争心に火をつけてしまったんだ。今から思えば、弱くても生きていて欲しかったよ。かわいそうなことをしたもんだ。でも本当にいい夢だったよ。」
そう、ケントは僕らの夢だった。憧れのヒーローだった。
おっさんはジムの二階へと階段を登って行った。その途中こちらを振り返り怒鳴るように言った。
「まずは生きてみろ。死んだように生きてるんじゃない。死ぬ気で生き抜くんだ。ボクシングはその後からでいい。」
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