第3話 関東大会
直樹は二ヶ月もしないうちにボクシング部を辞めた。練習がきつくてついていけなかったのだ。退部後は以前より数多く喧嘩をしたりバイクに乗ったりしたものだから、学校から自主退学を迫られた。直樹もあっさりしたもので、すぐにそれを承諾し学校を辞めてしまった。
退学してからも僕の部屋にはちょくちょくやって来た。
「今は親父の知り合いのところでアルバイトしてるんだ。ジュースやビールをトラックに積み込む仕事だよ。フォークリフトの運転ができれば楽なんだけどなあ。」直樹はそう不満そうに言った。
「十八にならないと、免許取れないんだよな。かったるいよ。」
直樹は本当にかったるそうに呟いた。そんなものかな、と僕は思った。
「おい、今日は泊まっていくからな。」直樹はそういうとゲーム機のコントローラーを一人でピコピコし始めた。
ゲームを終了して、蒲団に入っても直樹はなかなか寝付けないようで、色々なことを話しかけてきた。僕はもう眠かったが、直樹に付き合った。
「俺も誰かとつながっていたいんだよ。恥ずかしい話だけど。ワルじゃない誰かとさ。自分をこれ以上落とさないために、普通のやつらとつながってたいんだよ。」
直樹のほうを見ると、彼はまっすぐ天井を見つめていた。
「やっぱり、学校辞めないほうが良かったんじゃない?」
「馬鹿言え、あんな窮屈なところいられるか。」
「直樹はさ、俺の部屋では煙草を吸うけど、ケントの前では絶対吸わないよね。」
「俺には他に色々楽しみがあるけど、ケントはボクシングしかないからさ。」
直樹は少し照れていたみたいだ。
「お前は知らないだろうけど、ケントは本当に強いんだぜ。あいつは俺の誇りだよ。あいつが強くなるために友達として少しは協力したいしさ。」
僕は天井の木目が何かに似てるなと思った。おかしいなあ、毎日見ているはずなのに。何に似ているのか思い出せない。
「俺なんか、いい所ないんだよな。もし誰かに自慢できるとしたら、ケントの友達ってことぐらいしかないんだ。それってどうよ?」
僕は直樹のその質問にはもう答えることができず、天井の木目が何に似ているのかも思い出せないまま、眠りについた。
直樹が学校を辞めてからも三人でよく遊んだ。それは三人のうちの誰かの部屋だったり、ゲーセンやカラオケ、ボーリング場だったりした。ごく当たり前の高校生がやるような遊びを僕らはやって楽しんだ。
ただし秋になるとボクシングの大会が近づき、ケントは練習で来られないことが増えた。
「悪いなあ、また行けないよ。」ケントはすまなそうに謝った。
「仕方ないよ。それに今のお前にはボクシングが一番大事なことなんだからさ。」
直樹はそう言って慰めた。
「そうだ、今度練習を見に行くよ。俺も久しぶりにボクシング見てみたいしさ。なあ、コースケも来るだろ。」
僕はどうせ三人で遊びに行くつもりだったし、ボクシングってものをまだ見たことがなかったので、誘いに乗ることにした。
学校にはリングがなかった。体育館のトレーニング室みたいなところで十人ばかりの部員が練習していた。まず入念にストレッチをしてから、ウォーミングアップ代りに縄跳びを三ラウンド。次にシャドーボクシングを三ラウンド。その後顧問の先生相手にミット打ち。連打やコンビネーションで気を抜いたりタイミングが合わなかったりすると、すぐに顧問の罵声が飛んでくる。パンチがミットに当たる音は迫力がある。その中でもケントの音は格段に大きく鋭かった。ミット打ちをしていない者は、サンドバッグを打ったりシャドーボクシングをしていたりする。誰も休んでいない。たっぷり二時間ほど練習した後はロードワークが待っていた。およそ十キロの距離を走るのだ。ケントはそこでも一番初めに帰ってきた。
その日の練習は終わった。あんなに運動する人たちを見るのは僕は初めてだった。こんな厳しい練習だったら直樹がついていけないのも納得できる。その直樹はため息をついていた。
「俺、こんな練習を二ヶ月もやってたんだ。我ながらすごいよね。」
「慣れだよ、慣れ。お前ももう少し我慢してれば何とかなったさ。どうだ、もう一回ボクシングやってみないか?」
ケントが笑いながら直樹を言った。たぶん半分は本気だったのだと思う。
「いやあ、無理、無理。マジ無理だね。」
「そうか。でもやる気になったらまたいつでも一緒にやろうぜ。俺の通ってるジム紹介するから。」
「ああ、あまり期待しないで待っててくれよ。それよりケント、県大会近いだろ。どこでやるんだ?」
「いつもの体育館だよ。勝つと関東大会に出られるんだよ。近いから見に来いよ。」
その体育館というのは隣町にある、リングを設置できる体育館のことだった。あそこなら自転車で行けるな。僕はケントの試合を想像してわくわくした。
県大会当日、リング上にいたのは僕の知っているケントじゃなかった。相手の目から視線を離さない。相手の視線からパンチの出方を見極めようとしているのだ。まるで獲物を狙う獣のような目付きだったが、ケントには妙に自信というか、風格があるのが素人目にもわかった。ケントは強いのだ、そのことを僕は最初の試合で理解した。試合が進むにしたがってその思いは確信に変わった。別の階級と比べても、ケントのスピードは断トツだった。ケントは一、二回戦を大差で勝ち、翌日の決勝に進んだ。
決勝の相手は前回の優勝者だったが、スピード、テクニックともにケントの方が上だった。ケントは第一ラウンドからラッシュをかけた。すぐに相手をコーナーに追い詰める。その後のコンビネーションは見事だった。右アッパーで相手の体が九の字に曲がったところに左のショートアッパーが顔面に直撃した。その後ダメ押しの右ストレートと左フックで、あっけなくレフェリーストップとなった。一ラウンド三十五秒での完璧な勝利だった。翌日の地方新聞には、ケントの記事が写真入りで載っていた。
県大会で優勝した後、何人もの女の子から付き合って欲しいと言われたが、全部断ったらしい。今のケントにはボクシングしかない。そんなケントを直樹はよくからかった。
「やっぱり新聞の威力はすごいね。あんな可愛い子を振っちゃって。お前はボクシングと結婚する気か。」
直樹は半分羨ましそうに、半分は怒りながら言った。
「ああ、そうするよ。」
ケントは軽く答えた。
「オナニーもグローブしたまますれば。」
「ああ、そうだな。グローブにローション塗ってするよ。」
「何オンスのグローブにするんだ。」
「一番重くて厚いやつにするよ。右手に感触が伝わらないようにね。」
直樹はそのケントの言葉を聞いて笑った。
「そりゃ、いいや。今度俺も試してみるよ。」
「馬鹿言え。顧問にばれたらすげえ怒られっぞ」
「何だよ。自分だってするって言ったくせに。」
「冗談に決まっているだろう。」
「なあ、ケントさん。恵まれない俺たちに少し女の子を回していただけませんかね?」
直樹がおどけてそう言った。僕は会話には加わらずに、ただ笑って二人の話を聞いていた。
今のような時間がずっと続けばいい、と僕は思った。穏やかで楽しい時間がそこにはあった。しかしそれはあまり長くは続かなかった。関東大会が一週間後に控えていた。
関東大会は各県の優勝者が代表となる大会で、当然レベルは県大会よりも高かった。隣接の県で行われたその大会に、僕らは電車を乗り継いで一時間ほどかけて向かった。
関東大会でもケントは一、二回戦を楽に勝った。両方一ラウンドレフェリーストップ勝ちだ。
しかし決勝の相手は、強かった。彼も小さい頃からボクシングをやっているらしく、アマチュアの全国ランキングで上位にいた。
その試合は激しい打ち合いとなった。相手はアマチュアの試合を熟知しているらしく、あまり踏み込まずに、手数を数多く出すようにしているようだ。ダメージを与えるパンチのポイントが高いプロと違って、アマチュアでは手数の多さ、つまり何発当たったかが重要となってくる。軽いパンチでも数多く打った方がポイントは高いのだ。相手は固いガードから手数を多く出してポイントを稼ぐ、勝つために洗練されたボクシングをしていた。
途中ケントがレフェリーから注意を受けた。「今の何?」と僕が聞くと、直樹が答えて言った。
「バッティングの注意だよ。アマじゃ頭を下げちゃいけないんだ。ケントはプロとも練習をしているから、頭下げて懐に飛び込む癖が出ちゃったんだろうな。」
試合は三ラウンドでも決着がつかず、判定に持ち込まれた。結果は一対二でケントの判定負けだった。どちらが勝ってもおかしくないような試合だった。あんなに強いケントでさえ負けることもあるんだ、と僕は感じた。試合後、ケントは悔し涙を流していた。俯いたまま顔を上げることはなかった。
準優勝でも立派な成績であるのだけど、ケントは納得していなかったようだった。彼は前よりも一層練習に打ち込むようになった。朝に十キロのロードワーク、放課後は部活、夜もジムに通った。明らかにオバートレーニングだった。気になって練習を見に行った僕に、ケントは、最近なかなか寝付かれないんだ、と言った。
ノルアドレナリンが出すぎているのだ、と僕は思った。昼間の激しいトレーニングと厳しい減量、それでノルアドレナリンが出すぎていて、筋肉も脳も興奮して眠れないのだ。ケントの体はノルアドレナリンによって常に戦闘モードになっているのだ。
「ちょっと練習量落としたほうがいいんじゃないか?」
「ダメだよ。俺、もっと強くなりたいんだ。強くなるには練習しかないんだ。」
そう言ってケントはロードワークに出て行った。ケントはボクシングの鬼だった。敗戦でケントは勝利を渇望するようになってしまった。
しかしケントの体は悲鳴をあげているように見えた。厳しい減量を伴うボクシングの練習は、成長期の少年の体にはただでさえ過酷だ。ケントの練習は限界を超えていた。僕はいやな予感がした。
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