あやまられる

「あやまられたんだよ」


 久々に会った友人は、ギプスを付けた右足に視線を落としてボソリと呟いた。大学の同期である彼は、最近講義に姿を見せて見せていなかった。体調でも崩したかと思っていたが、ようやく姿を見せたと思ったら、松葉杖を付き、大層なギプスを足にはめている。


「どうしたんだよ、それ。事故った?」


 驚いて聞いた俺に対して返ってきたのが、上記の言葉だ。あやまられた。一瞬、何を言っているのか理解出来なかった。


「あやまられたって…何?」

「あれ?言ってなかったっけ?女の話」


話が噛み合わない。若干の苛立ちを感じつつ、なんとかそれを隠して俺は尋ねた。


「女って何?あ、彼女出来たとか?そんで怒らせて、喧嘩して怪我したんだろ。何があったか知らないけど、お前が悪い。」

「なんでだよ!違うよ。そっか…。お前ホラーとか好きだから、もう話したつもりでいたわ」

「え、何、そっち系?」


 思わず身を乗り出す。俺は3度の飯より…と言うのはやや言い過ぎだが、ホラー映画や怪談噺が好きだ。メジャーなホラー作品は大体観てるし、ネット掲示板やYouTubeなどで視聴できる有名どころの話は、あらかた知ってる自信がある。が、こんな身近にその手の話を持ってる奴がいたとは、盲点だった。


「なんだよ、聞いてないって。何何、どんな話よ?」


 途端に目を輝かせる俺に、友人は苦笑した。怪我人相手に随分と不謹慎な態度だったと、後から反省したが、この時の俺は目の前に大好物をぶら下げられた動物さながらだったのだ。


「いやー、大した話じゃないから、そんなに期待しないで欲しいんだけど…」


そう前置きして聞かせてくれたのは、こんな話だった。



 友人…ここでは仮にTとしよう。ひと月程前、Tが自室で寝ていた時のこと。夜中にふと目を覚ますと―怪談噺では実にありがちな状況だが―足元にぼんやりと何か、黒い影の様なものが見える。

 暗い部屋の中でも特に黒い、そこだけに人型の闇を集めた様な影。窓から差し込む街灯と月明かりを頼りに目を凝らすと、それが黒い着物を着た、小柄な老婆である事が分かる。Tは一人暮らしだ。


(ああ…いるな)


寝ぼけた頭で妙に冷静にその存在を認識した瞬間、それは聞こえた


「…め…ねえ」


 老婆が何か言っている。暗い影に覆われた顔はよく見えないが、それでも微かに口元が動いているのが分かる。


「ごめ…ねえ」「…ごめんねえ」「ごめんねえ」「ごめんねえ」


 少し背を丸め、いかにも申し訳なさそうな震える声で。繰り返し繰り返し、老婆はTに謝罪していた。涙声のようにも聞こえる。


(これは久々に、でかめの奴だな)


 泣きながら謝る老婆の声を聞きながら、Tはうんざりしながらも諦めたように目を閉じた。こうなったらもうどうしようもない。


アパートの外階段で足を滑らせ、右足を複雑骨折したのはその翌朝のことだった。



「なんだよ、その話」


 いつもの事と言わんばかりの口調で異様な体験を語るTに、なんと言葉を返していいか分からず、ざっくりとした質問を投げかける。

 色々聞きたいことはあるが、とりあえずなぜこいつはこんなにも落ち着いているのか。口ぶりからして、おそらく初めての体験ではないのだろうが、それにしてもよく分からない。老婆は何者なのか?なぜTに謝罪するのか?怪我との関連性は?


 頭上に無数の疑問符を浮かべている俺の顔を見て、Tは苦笑する。


「いや、初めてじゃないんだよ。その婆さんが出てくんの」


 やはりそうか。こちらが促す前に、Tは言葉を続けた。


 聞けばその老婆が初めて現れたのは、小学校三年の夏だったという。決して広いとは言えなかった実家には自分の部屋はなく、寝室で両親と三人、川の字で眠っていた時。

 やはり夜中に、ふと目が覚めた。隣からは、両親の規則正しい寝息が聞こえる。


(おきちゃった…)


 いつもなら、こんな夜中に目がさめることは無い。時間が気になって壁にかかったアナログ時計に目を凝らすが、暗くてよく見えない。普段なら起きていることなどあり得ない時間だろう。再び眠ろうとするが、夜中に起きているという事実に興奮してしまい、寝ようとすればするほど、あべこべにどんどん目が覚めてくる。

 ただ夜遅いというだけなのに、なんだか非日常の世界に迷い込んだような、ワクワクするようなスリルを覚えていた。それと同時に―この上なく心細かった。両親は隣で寝ているのに、まるでこの世界に一人ぼっちにされた様な、感じたことのない不安を覚える。

 不意に、恐怖を感じた。隣の両親が、もう二度と目覚めないような、永久に朝が来ないような、そんな気がして。思わず右隣の母を起こそうと身を起こしたその時だった。


 ――足元に、いた


 闇の中に、殊更暗く。黒い着物をまとった小柄な老婆。表情は見えないが、じっとこちらを見つめているのは分かる。

 思ってもみなかった事態に、体が固まって動けない。


「ごめんなさい…」


 突然、声が聞こえた。優しいが悲しげな、涙まじりの声。


「ごめんなさい」「ごめんなさい」「ごめんなさい」


 まるで自分の無力さを嘆くようにも聞こえるその声が、足元の老婆から、自分に向けて発せられてると気づいた時、喉の奥から潰れたような奇妙な叫びが漏れ出た。

 同時に体が動いた。母親の体に覆いかぶさるように、叫びながら激しく揺さぶる。慌てて飛び起きた母親にしがみつき、知らないおばあちゃんが、と泣きながら訴えた時には、足元の老婆は跡形もなく消えていた。

 怖い夢を見たのだろうと宥められ、優しく体をさすられている内に気持ちも落ち着き、その夜は再び眠りについた。


 翌朝、40度近い高熱が出た。そのまま夏風邪を拗らせ肺炎を発症して生死の境を彷徨ったことと、謝罪する老婆の存在はその時には繋がらなかった。自分でも夢だと思っていたのだ。


 しかしそれ以降、老婆は度々Tの元に姿を現した。


 体育の時間に捻挫した時、食あたりを起こした時、些細なことで親友と喧嘩し絶縁状態になってしまった時、第一志望の大学に落ちた時。

 病気や怪我、その他Tの人生においてマイナスと思われる出来事が起こる前夜、老婆は必ず現れ、謝罪した。

 興味深いのは、起こる出来事の大きさと謝罪のテンションが比例していることだ。一言だけ「ごめんね」と言われた時は、紙で指先を切ったり、傘を失くしたりといった程度のことしか起こらない。しかし泣きながら何度も「ごめんなさい」と言われた時は覚悟がいる。経験上そういう時は、骨折レベルの怪我やそれに相当する不幸が降りかかる。


「最近出てこなかったから油断してたんだけど」


 なんでもない事のように言うTに、俺は呆れた目を向けた。


「油断してたって…メチャクチャ怖えじゃん。なんだよその婆さん。お祓いとかしねえの?」

「あー、実は子どもの頃したことあんだよ。最初は親も信じてなかったんだけど、あんまり俺が同じこと言うから心配してさ。でも全然ダメ。まあもう慣れたし、謝ってるってことは悪い奴じゃないんじゃね?ご先祖様的な。悪い事があるから気を付けろよって言ってくれてんのかもな」

「気を付けろったって、気を付けて回避できたことあんの?」

「いや無理。家族と同じもん食って俺だけ腹壊すとか、回避しようがないじゃん」


 それでは出てくる意味はなんなのか。もしかすると、災いを忠告するために出てくるのではなく、その老婆が出現するせいで災いが起こるのではないのか…とも思ったが、本人が気にしていないのにわざわざ嫌なことを言うのも気が引けたし、講義の時間も近づいていたので、その日はそれで終わった。


 それからさらに三日程たった昼食時。学食で会ったTの顔色は冴えなかった。というか、見たこともない程青ざめている。


「どうしたんだよ、顔色悪いけど。調子悪い?」


 俺の言葉に力なく顔を上げたTは


「また出た…」


 と沈んだ声を返した。


「出たって、例の婆さんか?また?」

「……俺、もうダメかも」


 数日前の呑気な様子からは想像も出来ない悲観的な言葉に面食らう。一体どうしたというのか。


「…何があった?」


 一瞬くちごもった後、Tは昨夜の出来事を話してくれた。


 深夜、いつもの通り目が覚めた。足元に感じる何者かの気配。目を向けると、見慣れた黒い着物が視界に入る。


(またかよ…勘弁してくれよ)


 前回の出現からまだ日が浅いことが気になったが、ここまではいつもの流れだ。とは言え、さすがにそう何度も大きな怪我など続いてはかなわない。

 一言、軽めに謝って消えてくれよ。そう念じながら老婆を見つめるが、いつまでたっても動きが無い。謝罪も泣き声も、何も聞こえない。


(…なんだ?)


 こんな事は初めてだった。こちらを見つめているであろう顔は、影になって見えない。

 そういえば、この老婆の顔を見たことがない。いつだって、どんな角度から見たって、まるで隠すように影に覆われた顔。その顔に向かって問いかけるように、Tもまた視線を返す。見つめ合うこと数分か、数十分か。


 不意に、窓から月明かりが差し込んだ。いや、本当に月明かりだったのか、それにしては不自然な光だったような気もする。とにかく、老婆の顔を覆う影が薄くなる。

 ドキリとした。初めて、その顔を目の当たりにする。綺麗になでつけられた真っ白な髪の下の、しわくちゃの顔。目も、鼻も、口も、まるで皺に埋もれるようで、特に細い目はどこにあるのか、そもそも存在するのかも一瞬分からない程だ。想像していたよりずっと年をとっている。恐ろしい程に。

 亡くなった祖母でも、その他の知る限りの親類の誰でもない。完全に見知らぬ老婆だ。皺だらけの表情は、笑っているようにも泣いているようにも見える。その細い目が、突然カッと見開かれた。黒目が異様に小さい。次の瞬間













「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!ごめんなさい!!ごめんなさい!!ごめんなさい!!あたしは、あたしは、あ゛た゛し゛は゛、な゛に゛も゛、な゛に゛も゛、て゛き゛な゛・・・あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!こ゛め゛ん゛な゛さ゛あ゛あ゛あ゛い゛こ゛め゛ん゛な゛さ゛あ゛あ゛あ゛い゛こ゛め゛ん゛な゛さ゛あ゛あ゛あ゛い゛」


 耳をつんざくような絶叫。すぐには何が起きたのか分からなかった。

 目の前の老婆が、この世の終わりかとでもいうような凄まじい勢いで泣き叫んでいる。しわがれた、まるで断末魔のような叫び声。でも違う。これは謝罪だ。


 呆然としているTに向かって、老婆は叫び続けた。もはや言葉にもなっていないその声が恐ろしくて、しかし目を逸らすことも、耳をふさぐことも出来ない。ただ半身を起こし、固まって身動きできない。

 初めて老婆が現れた時を思い出す。あの時も動けなかった。ただ自分に向けられる謝罪をじっと聞くことしか出来なかった。あの時と違うのは、隣の両親はおらず、一人だということ。そして、あの時の謝罪はもっと穏やかだったという事。


 降りかかる不幸は、謝罪のテンションに比例する。ならばこの後起こるのは__



 気づけば、部屋には朝日が差し込んでいた。いつの間にか意識を失っていたのか、老婆がいつ消えたのかは覚えていなかった。


「あんなの…初めてだよ…。耳について離れないんだ、あの声が。あんな絶叫……。なあ、俺、どうなるんだ?」


 すがるような目を向けてきたTに、言葉を返すことは出来なかった。気にするなよ、そんなの夢だよ、きっと大したことないって。そんなありきたりな慰めの言葉は、とうとう口から出てこなかった。


「悪い…こんなこと言われても困るよな…」


 おそらく、最初から答えなど期待していなかったのだろう。何も言えずにいる俺にそれ以上話を振ることもなく、Tは学食から出て行った。呼び止めることは出来なかった。


 怪談としては実にありきたり、という言い方は語弊があるが、それがTの姿を見た最後だった。翌日彼は、大学に姿を現さなかった。その翌日も、その次の日も。

 当然俺も連絡を試みたが、電話もメールも、つながることも返事が返ってくることもなかった。どうやら実家にも帰っていないらしく、噂では警察に捜索願いが出されたらしい。その他にも、駆け落ちしたとか自殺したとか、様々な憶測が飛び交っていたが、それらはあくまで憶測の域を出るものではない。

 Tの身に何が起きたのか、あの老婆の話と関係があるのかは分からない。


 ただ一つ確かなことは、少なくともTは、最後に学食で言葉を交わした日の夜までは、この世にいたということである。あの日の夜、日付が変わる直前にTからラインがあったのだ。たった一言、前後の脈絡も何もないメッセージに、とうとう俺は返信できなかった。

 本当に警察沙汰になっているなら俺も話を聞かれるかも、と思ったがそんな事もなく、その後も俺の生活に特に変化は訪れなかった。しかし、その平穏が破られないという確信も無い。

 消去も返事も出来ず、いつまでもスマホに残るTの最後のメッセージを思い起こすとなおさら、日常など簡単に崩れ去るという不穏な予感は強くなる一方である。






「ごめんな」

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小説や怪談 柳家花ごめ @yanagiyakagome

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