開演

万雷の拍手と共に幕が降り、客席に明かりが灯る。私は椅子から動けず、身をこわばらせてジッと息をひそめている。

 感動で胸が一杯になった訳ではない。恐怖でだ。この瞬間が1番怖い。明るくなって、もし私の思い描く光景が具現化していたら…間違いなく、発狂するだろう。ショック死してもおかしくない。



 私は、暗闇が怖い。ただの暗闇じゃない。大勢の、見知らぬ他人と共有する暗闇が、怖くてたまらない。

 例えば、劇場。明るいのは舞台の上だけ。客席の様子は、闇に包まれて分からない。暗転などしようものなら、目を閉じているのと変わらない暗闇に視界を閉ざされ、周囲に息づく無数の他人の気配に押しつぶされそうになる。

 それに映画館。スクリーンの明かりで多少周りの様子は見えるが、なまじ見える分、自分の左右の人間の様子を伺うことに必死で内容など頭に入ってこない。


 なぜみんな、平気なのだろう。なぜ、なんの疑いもなく、周囲の人々が舞台やスクリーンに目を向けていると信じられるのだろう。なぜ…実はみんな、自分の方を見ているのでは、という疑念を抱かないのだろう。


 私の恐怖はそこにある。自分の気付かないうちに、周りの視線がこちらに向けられていたら。なんの感情もない、ただただ虚無だけを湛えた無数の目が、ジッと私の姿を映していたら。あるいは、理由の分からぬ満面の笑みを浮かべてこちらを見ていたら。鳴りやまぬ拍手が、なぜか私に向けられていたら。想像しただけで、気が狂いそうになる。

 もちろん、そんなのはあり得ない妄想だと頭では分かっている。自意識過剰だと、笑われても仕方ない。それでも、一度嫌な想像が広がり始めると、もう自分ではコントロールできない。カウンセリングなども考えた事はあったが、自分でもこの奇妙な強迫観念をうまく説明できる自信がなく、二の足を踏んでいる。


 今日だって、本当は来たくなかった。母が仕事でお世話になっているという人から、面白い舞台があるからと、チケットを譲り受けたのだ。母は私と違ってお芝居などを好んで観に行くタイプなので、喜んでその誘いを受けたらしい。それはいい。問題はその人がなぜか、娘さんも一緒に、などといらぬ気を回し、私の分までチケットを送って来たことだ。はっきり言って、いい迷惑である。


 私は最後まで、行きたくないと抵抗した。都合が悪い、大学の課題があるなどとあれこれ言い訳をしても、その日は大学もバイトも休みだと母には知られていたし、丸一日潰れるわけじゃないのだから、課題なら帰ってきてからやればいいなどと、無茶なことを言い出す。母は昔からそういうところがあった。私の用事など大したものではないと頭から決めつけ、自分の都合に付き合うのが当然だとばかりに、勝手に予定を押し付けてくる。

 しまいには、正直に怖いのだと正面から説得した。今までも母には、自分の抱える得体の知れない恐怖のことを、それとなく伝えたことはあったが、真面目に取り合ってもらえたことは無い。でも今回は、きちんと説明の時間を設け、いかに自分が恐怖を感じているか、子供の頃からどれほど長期間それに悩まされているかを、懇切丁寧に伝えた。

 しかし、長い時間をかけて伝えられた私の言葉に対して、母から返ってきたのは「なにバカなこと言ってるの」という素っ気ない一言だった。


「お母さんにとってはバカなことでも、私にとっては大問題なの。別にいいでしょ、お母さん一人で行けば。無理に私が一緒に行くことないじゃない」

「そうはいかないでしょ。せっかくご厚意で下さったのに。この舞台、人気だからなかなかチケット取れないのよ。チケット代だって高いし。無駄にするわけにいかないじゃない」

「だったら友達でも誘って行けば。私じゃなくても…」

「あのねえ、大学生にもなって、暗い所が怖いなんて、情けない事言わないでちょうだい。誰もあんたのことなんか見てるわけないでしょ。もう娘も一緒に行くって伝えちゃったんだし、あとで連絡先教えるから、あんたからもちゃんとお礼と舞台の感想伝えておくのよ」


 一方的に話を切り上げると、母はさっさと台所に引っ込んでしまう。これ以上は何を言っても無駄だろう。薄々予想はしていたことだが、どん底まで落ち込む気持ちを切り替えることは出来なかった。

 大学生にもなって、と母は言ったが、大学生にもなってこんなことを心底怖がっているからこそ、事は深刻で異常だと思うのだが、そういう発想は母には欠片も無いらしい。


 そもそもいつからこんな考えに取り憑かれたのか。あれは、まだ幼い、小学校に上がって間もない頃だった。ある映画を観た。両親が居間のテレビで観ていたのを、私も一緒になって眺めていたのだ。その映画の主人公は、自分の事を平凡な日常を過ごす一般人だと思っているが、実はその生活は無数の隠しカメラによって生中継され、知らない内に人生をテレビ番組にされて、世界中の人間から24時間その姿を見られ続けているのだ。小さかった私には細かい内容は分からなかったが、その設定を朧気にでも理解した瞬間、凄まじい恐怖に襲われた事を覚えている。

 正確には、それまでにも漠然と感じていた不安の正体が、はっきりとした輪郭を持ったのだ。


 見られている。


 街中で、学校で、ふとした瞬間に感じる視線。それは、本当に何かの理由で私を見ていたのかもしれないし、たまたま目が合っただけなのかもしれないが、とにかく私は、人から理由も分からず見られることに人一倍不安を感じる子どもだった。あの映画によって、その事を強く自覚させられた。そして自覚してしまったことにより、漠然とした不安は、明確な恐怖に成長を遂げてしまった。

 そして時とともに、その恐怖の形は少しずつ変化していった。最初は、単に見られることが怖かった。やがてそれに、自分の知らないところで見られていたら、という新たな不安が加わった。更には、遠くから、近くから、あらゆる方向から同時に見られていたら。自分とはなんの関わりもない大勢の人たちが、自分だけが知らない何らかの理由を共有して、その視線をこちらにむけていたら。


 そしてそのことに、ある瞬間、突然気づいてしまったら。


 自分はどうなってしまうのか。


 劇場で、客席が一斉に明るくなる時、その瞬間が訪れるのではという恐怖が最も強くなる。ましてや、明らかに皆の視線が前を向いてなくてはおかしい状況だ。そんな中で、もし恐れていた情景が広がっていたら。もう逃げ場はどこにもないではないか。



 万雷の拍手と共に幕が降り、客席に明かりが灯る。私は椅子から動けず、身をこわばらせてジッと息をひそめている。


「どうだった?来てよかったでしょう?」


 上機嫌の母が、鼻歌交じりに問いかけてくる。私は曖昧な返事を返しながら、どうにか当たり障りのない感想を絞り出そうと頭をひねった。内容なんて、これっぽっちも入ってこなかった。暗転の度に押し寄せる恐怖に死に物狂いで抗い、舞台上から差すわずかな明かりを頼りに、周囲の様子を伺う。三時間弱という長い観劇時間の間、ずっとそんなことをしていたせいで、終わった時にはヘトヘトになっていた。

 当たり前だが、私の恐れていたことは起きなかった。分かっている。起きなくて当然だ。何度も自分にそう言い聞かせている内に、少しずつ気持ちは落ち着いてきた。

 それに少しだけ、自信がついた気がした。今まで怖くて逃げ続けていた劇場で、集中できなかったとはいえ三時間もの舞台を見終えることが出来たのだ。その結果、何も恐ろしいことなど起きないと、こうして身をもって知ることが出来た。これをきっかけに、少しずつ克服していくことだって可能かもしれない。今回ばかりは、母の言う通りだ。来てよかった。



 突然、ワーっという歓声とともに、拍手の音が響いた。反射的にそちらに目をやって、思わず悲鳴を上げそうになる。

 通りをはさんだ向こうの路上で、サラリーマンと思われる十人ほどの集団が、こちらを向いて一斉に拍手を送っているのだ。まるで、私の浅はかな喜びを見透かして、祝福でもするかのように。



 心臓が痛い程脈打っている。…なに?どうして?やめてよ、拍手なんかしないで。こっちを見ないで。



 パニックになりながら、助けを求める様に母の方を向くと、その姿越しにやはり一人のサラリーマンがいるのが見えた。手には花束を持ち、通りの向こうの集団に向かって、おどけたようなお辞儀を繰り返している。

 …なんだ。全身から力が抜けた。おそらく送別会か何かの帰りだろう。拍手は、そのサラリーマンに向けられたものだった。紛らわしい。

 理不尽な怒りを感じつつ、深呼吸を繰り返す。大丈夫。怖いことなど何もない。ついさっき、あの暗闇を乗り切ったばかりじゃないか。

 母は相変わらず、興奮気味に舞台の感想を喋り続けている。その声に意識を集中し、駅までの道をひたすら歩く。大丈夫。大丈夫。


 すれ違った若い女性と目が合った。ドキリとしつつも、何とか平静を装う。それがなんだ。そんなことは、珍しいことでもなんでもない。だから気にすることはないんだ。


 …そう、気にすることはない。今もすれ違った老人と目が合った気がしたが、何も問題ない。小さな子供を連れた年配の女性とも、チャラチャラとした雰囲気の若い男性とも、穏やかに歩く中年の夫婦とも。道行く全ての人と、不自然に目が合ったとしても、それは全て気のせいだ。バカげた強迫観念が見せる幻だ。

 誰も私のことなど見ていない。現実は、映画とは違う。だから、先程から感じる痛いほどの視線だって、私の脳内で作り上げられた錯覚なんだ。


 脂汗を滲ませ、なるべく視線を落として周囲を見ないようにしながら、必死に自分に言い聞かせる。気づけばもう、駅のホームに立っていた。

 もうすぐ家に着く。電車に乗り込み、じっと息を殺していれば、私の姿など誰の注意も引かないまま、無事に帰りつくことが出来る。母はいつの間にか、お喋りを止めていた。周囲が異様に静かな気がする。まるで、開演直前の舞台に、極限まで期待が高まった客席のように。ひたすらに、自分のつま先だけを見つめ続ける。 


 やがて静寂を破り、ホームに電車が滑り込んできた。ちらりと車内を覗き込むと、満員という程ではないが、それなりに乗客の数は多かった。皆スマホをいじったり、座席で眠りこけていて、こちらを向いている者はいない。

 ほらね、やっぱり大丈夫だ。怯えていた自分が滑稽で、なんだか笑いが込み上げてくる。そうだ、せっかく自分を変えるチャンスなんだ。いつまでも妄想に脅かされて生きるなんて、もったいない。明日は映画館にでも行ってみようか。それがいい。ちょうど面白そうな新作が公開されていたはずだ。


 意気揚々と、車内に乗り込み、顔をあげる。


 その瞬間。





 乗客達の万雷の拍手とともに、電車の扉が閉じた。

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