第3話:血のデーモン
「良い夜です。確かあの夜も、今日みたいに月が綺麗でしたね」
血のデーモンがふわりと地面へと降り立ち、ゾッとするほど美しい声で語りかけてくる。
それだけで思い出したくもない、だけども忘れることもできない、記憶がフラッシュバックする。
二十二前。俺がまだ、六歳の頃だ。
丁度今日みたいに、満月が月光を降り注ぐ夜だった。
俺の故郷である、〝錆銀砂漠〟の砂が月光を反射して、その夜も幻想的な光景を浮かび上がらせていた。
俺は月夜が好きだった。
いつも優しいジイちゃんや、ちょっと意地悪な兄と一緒に夜こっそり幌から抜け出して、キラキラ光る夜の砂漠を眺めるのが好きだった。
パチパチと爆ぜる焚き火。ジイちゃんが弦楽器で弾く、もの悲しい旋律。
静かな良い夜――だったのに。
『ああ……ああああああ!!』
俺の足下に、苦痛で歪んだ表情を浮かべるジイちゃんと兄の生首が転がってくる。離れた場所にある、親族達が寝ている幌が燃え、悲鳴が上がる。血しぶきが月光を反射して、その惨状を彩る。
『逃げえ! お前だけでも逃げえ!』
父ちゃんが叫ぶ。でも次の瞬間に、その身体から無数の赤い槍が生えた。
違う、あれは槍じゃない――血だ。血が槍状になって、父ちゃんを貫いたんだ。
銀色の砂漠が、朱色に染まる。
『ああ……なんで……なんで』
『ああ、いたいた。ふむふむ、やはり君が一番、
これまでに聞いたどんな音色よりも美しい声。
俺へと一歩ずつ歩いてくるその声の主は、やはりその声同様に美しかった。
時が止まり、息をするのを忘れるほどに――俺は彼女に見蕩れてしまう。
『さて。では君の可能性を、未来をいただきますね。君はどんな獣になるか楽し……おや? おやおや?』
まるで子猫のように、その美女は俺をつまみ上げ、俺の瞳を覗く。
だから俺も見てしまった。その美女の瞳を。暗い、暗い瞳を。
「ああ……ああああああああ!!」
頭が爆発しそうだった。わけのわからない数字と文字の螺旋がぐるぐると脳内に駆け巡る。
『面白い。面白いですね。なるほど、君は正しく砂読み士の遺伝子を受け継いでいるみたいですね。そうか.……そういうことか。そちらの方が、
何かに納得したのか、なぜかその美女は手を放した。
俺の身体が砂の上へと落ちる。
『貴方以外の、その力を引き継いでいる可能性のある人間は全てここで殺します。だからその才能、キッチリ磨いてくださいね。そして君の家族を、君の故郷を奪った私に会いに来てください。忘れないで……私の名前は*****。ああ、そういえば人間達は私をこう呼称していましたね――〝血のデーモン〟、と』
そう言って彼女が微笑むと、パチンと指を鳴らした。
その瞬間――
それからだ。俺の人生がクソほどに狂ったのは。
「カナタ!」
「っ!」
俺が現実に戻ると同時にミオが動いていた。その手に持つドラグレイブを前方へと振り払う。
しかし。
「ふふふ、懐かしいですね。君と遊んでいたあの頃が遠い昔に感じます。あ、実際に遠い過去でしたね――竜狩りの姫よ」
ミオのドラグレイブはあっさりと、血のデーモンの指によって止められていた。
指一本で、あの大質量を止めている光景は傍から見れば異常だ。
そもそもデーモンは異次元の存在であり、この世界の物理法則を捻じ曲げているとしか思えない挙動を取る。本来なら意思疎通すらもできず、その考えや思考は基本的には人類には理解不能と言われている。
だが時折こいつのように、言語能力を有するものが現れる。
俺は素早く足下に落ちている短剣と拳銃を拾い上げ、地面を蹴った。
「てめえだけは……てめえだけはこの手でぶっ殺すと決めていたんだよ!」
この世界で最強クラスの白兵戦能力を持つミオですらその攻撃が通じない相手に、俺の攻撃が通用するわけがない。
そんなことは分かっている。
「違う。そうじゃない。君の戦い方はもっと別だろう?」
血のデーモンが、雑にその長い足で突撃してきた俺へと蹴りを叩き込む。
「あがっ!」
肺から一気に空気が抜けて、激痛と共に視界がホワイトアウトする。
「カナタ!」
「人の心配する程度には成長したんですね、君も。いえ、
「きゃっ!」
ミオの叫びと同時に、鈍い音が響く。
長い滞空時間を経てようやく俺の身体が地面に激突。更なる激痛が全身を襲う。気付けば、俺は大の字になって夜空を見上げていた。もはや立ち上がる闘志さえない。
たった一撃で、俺の復讐心と怒りは霧散した。
だが、これでいい。
ようやく思考がクリアになった。
ようやく冷静になれた。
術式展開……特に
冷静な判断と対象からの一定距離。その二つの為にあえて俺は無謀な突撃をした。もちろん、奴の反撃でそのまま死ぬ可能性はあったが、それはないと踏んでいた。なぜかあのデーモンは俺に固執している。すぐに殺すつもりなら、二十二年前に俺だけを生かした意味がない。
「だからよ……言われた通りにちゃんと磨いてきたぜ、才能。お前をぶっ殺す為だけに、ずっと隠していたとっておきだ」
俺は片膝立ちに姿勢になると右手を地面へと当てて、術式を展開する。
さっき使った【
だけども今から使うものは違う。使ったら最後、魔力の最後の一滴まで搾り取られる特大術式。
それで構わない。あいつを殺せるなら、魔力なんて全部やる。
あとは確実に当てられるタイミングで放つだけだ。
「ミオ! 少しだけ、隙作ってくれ!」
俺の言葉と共に、倒れていたはずのミオが再び起き上がって、血のデーモンへと突撃する。
「僕ごとやれ!」
そう彼女が叫ぶ。ミオもまた、血のデーモンによって人生を狂わされた。
だからその身を投げ打ってでも、復讐を完遂することを望むだろう。
それに俺は知っている。ミオは不変なのだ。
鬱陶しそうに血のデーモンが手を払っただけで、その軌跡を描くように彼女の周囲に渦巻いていた血が伸び、刃となってミオの両手を切断する。
ドラグレイブが地面へと落ち、火花を散らす。それでもミオは止まらない。獰猛な笑みを浮かべたまま疾走。そのまま血のデーモンの振り払われた腕へと――
「おやおや」
「良い狂犬っぷりだ、ミオ! あとで褒美に骨を買ってやるよ!」
血のデーモンが噛み付いてきたミオの腹を蹴り飛ばす、その一瞬を見逃さずに術式を放つ。
「――【
その術式は、その土地で起きた災いを再び召喚・再現するという点では先ほど使った【
だが、大きく違う点は二つ。
まず【
さらに、【
もちろん、条件はある。
それは、過去に【
つまり一度でも【
間違いなく、最後の切り札だ。
「だから――自分で起こした災いで死にやがれクソデーモン」
かつて俺の故郷を砂漠ごとこの世界から滅却した、血のデーモンにしか扱えないと言われる識外術式――【
血のデーモンによる、惨劇の証だ。
その術式の効果はとてもシンプルで、術式の範囲内にある全ての血液を爆発させるだけ。しかも体内にある血液に効果はない。だからこそ、これを効果的に使うには相手を出血させる必要があるし、自分が出血していた場合はただの自爆になってしまう。
だけども、この場に限っては関係ない。
なぜなら血のデーモンはそもそも武器として血を使っているうえに、ミオの両腕を切断したせいで――その足下に血溜まりができている。
さらにミオを蹴飛ばしてくれて助かった。おかげで、術式効果範囲内にいるのは――奴だけだ。
「おやおや。これは少々マズいで――」
血のデーモンの声を掻き消すように、周囲の空気が足下の血溜まりと彼女の周囲に渦巻く血へと吸い込まれ、直後に爆発。轟音と爆炎が血のデーモンを包み込んだ。
物理法則を捻じ曲げるデーモンを討伐するには、二つの方法しかない。
圧倒的飽和攻撃で一気にその身体を消滅させるか、その身体のどこかに必ずある、デーモンがこの世界に降臨する際に使った依代とも呼べる物――〝
個人の術式でデーモンを消滅させるほどの火力を出すのは基本的には不可能。ゆえに、聖杯を探し出してそこを攻撃するのが、対デーモン戦のセオリーなのだが――俺は違う。
俺なら、一度きりだが大火力でその存在ごと消し飛ばすことができる。しかも今使った術式は人類のものではなくデーモンの術式だ。これが効かないわけがない。
「……素晴ら……しい……! でも、血が、火力が……足りて……いません……ね!」
爆心地に血が渦巻く。二重螺旋を描くそれがまるで口のような形に変化し、言葉を放った。その中心には手のひら大の心臓のような形の物体が見える。
「なるほど。それがお前の聖杯か。悪いが……こうなることも想定済みだ。ほら、トドメは譲ってやるよ――ミオ」
俺はその場に座り込むと――真っ白の肌が眩しい
「父上の仇、取らせてもらうよ」
そんな言葉と共に、ドラグレイブが聖杯へと豪速で振り下ろされた。
「未来に期待するのはやめました……今我々に必要なのは、過去。つまり君ですよ、カナ――」
その言葉の途中で――聖杯がドラグレイブによって一刀両断。
その小ささからは想像もつかないほどの大量の血が噴き出し、とっさに腕で目は庇ったが、それでも全身血塗れになってしまう。
「うげ、口に入った」
思わずその場で唾を地面に吐く。
「うー、お風呂に入りたい」
同じく血塗れになっていたミオがそう言って、俺へと手を差し出した。
「……助かった」
俺は素直にその手を借りて、立ち上がった。俺の術式で仮に殺しきれなくても、聖杯の露出ぐらいまではいけると想定していた。だからこそ、そこをミオに物理的に攻撃してもらえれば勝てるという確信があった。
俺だけなら、多分勝てなかった。
「君の想定通りだったね。あはは、復讐ってのはやってみると案外、つまらないや」
晴れ晴れとした笑顔で、ミオがそう言ったのだった。
「組む理由、失っちまったな」
俺には俺の事情、ミオにはミオの事情があった。特にミオは俺以上に複雑で異常なのだが、そのおかげで今回は助かった。
だけどもお互いの目的であった、〝血のデーモン〟の討伐は終わってしまった。
「でもまあとりあえず――帰ろう」
「ああ。だけども……日が昇るまで待とうぜ。流石に帝都まで運転する元気ねえや」
もう一時間もすれば日も昇るだろう。いくら車があるとはいえ、今から帝都までの長時間をドライブする気力は俺にはなかった。
俺は腰のポーチからくしゃくしゃになった紙煙草を取り出し、【
一気に吸い込むと、煙が肺を満たしていく。
「ふう……なんで仕事後の一服ってこんなに旨いんだろうな」
紫煙の向こうにいるミオが呆れたような表情を浮かべた。
「まったく、情けない男だなあ。土下座して〝ミオ様、無力な僕をお助けください〟って言えば、帝都まで背負ってあげるけど?」
「それならここで死んだ方がマシだ。つうか、そっちの方が疲れるわ。徒歩だと三日は掛かるぞ」
「ぶー。美少女の柔肌に触れるチャンスなのに」
「黙れ。俺にも女の好みがあるんだよ」
「ふーん。どういう子が好きなの? 一応、念の為に聞いてあげる」
「第一条件が斧を振り回さねえ女だ。次に名前がミから始まってオで終わらない奴」
「逆に限定的すぎるよ、それ」
なんてバカな会話をしながら俺達は日が昇るまで、交代で見張りをしつつ身体を休ませた。
そうしてようやく朝日が昇り、夜の闇が消える。
「――なあカナタ」
眠りかけていたミオを起こすと、なぜか彼女が神妙な顔つきで、俺を見つめてくる。
「んだよ」
「君はいつから――
その言葉と同時に、朝日を背に受けていた俺は、地面にできた自分の影が目に映る。
「……はあ?」
なぜか俺の背中の片側から、黒い翼のような形の影ができていた。
まるでデーモンのような――片翼が。
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