ミシェルにくちづけを
hibana
ミシェルにくちづけを
アンリがヴンサン家の養子となったのは、八つになった年の秋のことだ。あの日のことをよく覚えている。実の両親は精一杯アンリに上等な服を着せ、送り出した。そしてヴンサンの家に迎えられ、服を剥ぎ取られ、
アンリも元は裕福な家の生まれだった。父の会社が立ち行かなくなり、商売敵のヴンサンの家に養子に出されたのだ。
ヴンサンの家でアンリはボロ布をまとい、朝から晩まで掃除をし、食事をする気力もなく眠る日々だった。ブンサンはかつての商売敵への当てつけでアンリを買ったのだ。養子とは名ばかりで、アンリの扱いは奴隷のようなものだった。
ある日あまりにも
そんなアンリを迎えに来たのが、ミシェル・ヴンサンだった。
「だあれ、僕の弟をいじめるのは」
ミシェルはヴンサン家の一人息子で、赤毛の美しい少年だった。アンリとは同い年だったが、生まれた月の分だけミシェルのほうが上だった。
「アンリは僕のなんだから、勝手に捨てたら怒るよ」
アンリを追い出そうとした執事は降格させられ、その日からアンリはミシェルの側付きになった。
使用人としての仕事が免除されることはなかったが、あれほどキツかった同僚たちのアンリへの当たりが幾分か柔らかくなった。
最初のうち、それは困惑だったが、すぐに優越感へと変わった。他の使用人にない優遇は、アンリの擦り切れそうだった自尊心を満たした。
「僕たちはふたりきりの兄弟だ。ミシェルと呼んでよ。ずっと弟が欲しかったんだ」
ミシェルはアンリの手を引き、どこへでも連れて行った。アンリはいつだって、ミシェルに手を引かれるのを待っていた。
「ずっと一緒にいようね、僕たちは同じ鳥籠の中だから」
よく、ミシェルはそう言った。僕たちは鳥籠の中なのだ、と。その感覚はアンリにも何となくわかった。アンリだって今は買われた身だが、元はミシェルにも引けを取らない裕福な家の子供だったのだ。どれほど大事に扱われようと、それはつまるところ自分では将来を決められないという事実と直結している。その感覚を知っていた。
「いつか、こんなところ飛び去ってしまいたいな」
ミシェルがアンリの手を握り、にっこりと笑う。そうしたらついて来てくれるよね、と。
アンリは迷いを口にした。おれは、と視線を彷徨わせる。
「いつか父さんの会社を立て直すのが夢だ」
「そう……。素敵だね」
ミシェルは前を向く。目を細め、口を開いた。
「それじゃあ、こうしよう。君が君のお父さんの会社を立て直して、社長をやる。僕は君の部下だ。ずっと君を助けるんだ。ね、いい考えだと思わない?」
ミシェルはそう、アンリの愚かな夢を肯定した。いっそこの時に、笑われていればよかったものを。
十四歳になったころ、アンリは他の使用人から悪戯をされるようになった。顔だけならば少女のようだったアンリへの悪戯は、最初のうちただのからかいであったと思う。それが徐々に熱を帯び、否応がなく性的な行為であることを否定できなくなっていた。
とてもじゃないが、ミシェルに言うことはできなかった。
ミシェルはといえば十四の歳になっても朗らかで、無邪気さを振りまいていた。そんなミシェルの様子に救われもし、そしてたまらなく苛立ったりもした。
二、三年前までは共感できたミシェルの境遇がどうにも恵まれたものにしか思えなくて頭にきた。鳥籠を出て飛んでいきたいなどと、そのようなないものねだりをよくも自分の前で言えたものだと考えもした。
それでも。
「ねえ、アンリ。いつか二人で自由になろうね」
そんなミシェルの言葉に、縋らざるを得なくなっていた。ミシェルと対等でありたいという間違ったプライドが、弱みをひけらかすという選択肢をアンリから奪っていた。
ミシェルさえいればいい。ミシェルにさえ憐れみを受けなければそれでいい。逆にいえば、ミシェルに同情され慰められることだけはアンリのプライドが許さなかったのだ。
ある日アンリを抱いた若い使用人が声をかけてきた。焼けた肌の厚かましい男だったが、同僚の中では比較的好感を抱いていたので行為の後も時々口をきいた。
「あんた、昔はいいところのお坊ちゃんだったんだってな」
「お前に何か関係あるか?」
「そういう態度何とかした方がいいよ。顔だけなら可愛いんだからさ」
ルーカスというこの男は、言いながらアンリの頬を撫でた。アンリは何も言わずに同僚を睨む。
「あんた、ヴンサンのことを恨まないのか? 自分らが潰した家の一人息子を買い取って使用人にするなんて、まともな人間の考えじゃないぜ」
何を言っているのかよくわからなかった。ルーカスはそんなアンリの反応を転がすように見て、「ふうん」と呟いた。
「あんた、ガキの頃たいそう大事に育てられて今もそうなんだな」
「そうって?」
「悪意の耐性がねえのよ。こういうのは流行り病と同じで、ガキの頃にかかっておかないと重くなるもんなんだ」
「何を言っているのかわからない」
「いいか? あんたの家はヴンサンに潰されたんだ。ヴンサンさえいなければあんたは今もぬくぬくと、家族と暮らしていたに違いないんだ。あんた、自分の家族が今どうしているか聞いたことはあるかい? この世の不幸を煮詰めたような暮らしをしているか、それとも暮らせちゃいないかのどちらかさ」
アンリはうろたえて、視線を泳がせる。ぐい、と顔を近づけてきたルーカスが「考えたこともなかったか?」とにやついた。
「まあ、あんたはあんたで必死だっただろうから無理もない。かく言う俺も、ヴンサンに生家を潰された口でね。あんたとは違って元々吹いて飛ぶような商家だったが、それでもここの当主には思うところがあんのさ。まあ今は、自分で商売を始めて、ヴンサンなんて目じゃないほど大きくしてやるのが一番の仕返しだと思ってるけどな」
シャツを着ながらルーカスが立ち上がる。またな、と軽薄に手を振って部屋を出て行った。
その場に残されたアンリは宙を睨み、しばらく黙っていた。
ヴンサンの屋敷に来て六年が経つ。もちろん耐え切れないほど辛い日もあったが、それでもこの家を恨んだことはなかった。
アンリが困惑していたのは、その真実に対してではない。誰かを恨むという選択肢が唐突に目の前にぶら下がったことについてだった。
シャワーを浴びて、アンリはミシェルの部屋を訪れた。ミシェルは何か書き物をしていたようで、顔を上げて頬を緩める。
「どうしたの、アンリ。こんな夜更けに」
そう問われて、アンリは黙る。
しばらく考えてはみたが、ルーカスの言っていたことが本当だったとしてそれはヴンサンの当主の行いだ。ミシェルには何も関係ないことなのだと自分の中で納得することにした。
ミシェルのことを恨まなくていい理由をいくつも考えていた。この少年のことを支えにしなければ、アンリにはもう何もないのだから。
「……ねえアンリ、紅茶を淹れてくれない? アンリの紅茶を飲むとよく眠れるんだ」
「もっと上手く淹れられるやつはたくさんいるのに」
「アンリのじゃなきゃダメなんだよ」
時間をかけて紅茶を淹れてやると、ミシェルは美味しそうにそれを飲んだ。
こうして二人で夜を過ごしたのはこの日が最後だったかもしれない。この頃から、少しずつミシェルと話すことが少なくなっていった。ヴンサンの当主が、ミシェルとアンリの必要以上の接触を嫌がったというのもある。
ミシェルとアンリはあまりにも近くなりすぎた。当主としては、アンリが使用人たちの鬱憤や欲求の捌け口となることを狙っている節もあったろうし、それをミシェルに感づかれることを危惧したのかもしれない。アンリはアンリでそのことをミシェルに隠したかった。だから、もうこの頃には自分から距離を置いていた。
それから更に四年が経ち、アンリとミシェルは十八歳になっていた。ますます美しく成長したミシェルは、随分と背も伸びた。学校に通いながら父親の仕事を手伝い、政治家の娘と婚約をした。
対して、アンリは小汚い召使いだ。ミシェルの隣にはもっと育ちのいい、きちんとした教育を受けた使用人が立つようになっていた。
コツコツと部屋のドアをノックする。本当に久しぶりに、アンリはミシェルの部屋を訪れていた。
中から、ミシェルの声がする。
アンリはドアを開き、「ロランス様がお待ちです」と平坦な声で告げる。ロランスというのはミシェルの婚約者の名だ。
「そう……。悪いけど僕のコートを取ってくれる?」
いつもの使用人はいないのか、とアンリは思う。会釈をし、目を伏せながら部屋の中に入った。クローゼットルームからコートを出してきて、大股でミシェルに近づく。
「ミシェル様」
「ありがとう」
袖を通してやりながら、本当に背が伸びたなとアンリは思う。ミシェルはふと、「なぜこのコートを?」と尋ねてきた。何かまずかっただろうかと、アンリは少し俯く。
「一番お似合いだと思ったので」
くすくす笑ったミシェルが、「アンリ」と囁いた。
「随分と他人行儀になってしまったね。僕たち、たった二人きりの兄弟じゃないか」
「……お戯れを」
「嫌?」
会釈をして部屋を出ようとするアンリの腕を、ミシェルが掴む。そのまま引き寄せ、抱きしめられた。突然のことに驚いているうちに、唇が重ねられる。
必死に顔を背けて離れようとするアンリの頭は押さえられた。
「なんで……」
「兄弟が嫌なら、どんな風に僕と一緒にいてくれる?」
思い切りミシェルのことを突き飛ばし、アンリはその場を離れる。頭が真っ白になっていた。ミシェルに呼び止められた気がするが、足は止まらない。
部屋を出て速足で屋敷の中を歩く。周りが見えていなかった。
突然腕を掴まれ、反動で後ろにひっくり返りそうになる。それを受け止めた誰かが、そのままアンリを暗い部屋へ引っ張り込んだ。
「よお、アンリ。なんかあったのか? そうせかせか歩いてちゃ危ないだろ」
「ルーカス……」
「そんな顔で仕事なんかするもんじゃない。ちょっと気を落ち着かせたほうがいいぜ」
部屋を出て行こうとするルーカスの腕を、思わず掴んでしまった。
腕を離せないままで、アンリは唇を噛む。ため息をついたルーカスが近くの椅子に腰かけて、アンリの顔を見上げた。
「ミシェル坊ちゃんと何かあったんだろ?」
「…………」
「事情も話さないつもりか? ここまで来て。俺はあんたのことを心配して仕事を中断してんだぜ」
「……ミシェルに口づけを。されたんだ、今」
ルーカスは楽しそうに口笛を吹いて、「安泰じゃん」と言う。そんなルーカスを睨み、アンリは拳を握った。
「今さら、キスの一つや二つ。一体何が不満なんだ?」
「ミシェルだけはそうじゃないと思ってた。あいつは変わってしまった。いつからか俺を心の奥底で馬鹿にするようになった」
「ふうん」
腕を組んで目を細めたルーカスが、アンリのことを真っ直ぐに見る。
「キスじゃなけりゃ、何が欲しい?」
「……自由が。このままミシェルが家を継げば、俺はもっと支配されるような気がする。自由でさえあればいいんだ」
「ミシェル坊ちゃんに支配されたくないんなら、簡単な話だ」
ルーカスは何かポケットから出して、アンリの手のひらに握らせた。冷たいものが指先に触れる。
「前に言ったろ? 俺の夢は、自分の力で商売をやってヴンサンの家ほど大きくすることだって。よかったらあんた、俺のとこに来いよ。上手くいく保証はないが、考えようによっちゃあ誰より自由だぜ」
「これ……何?」
「いいかい、ミシェル坊ちゃんがあんたにそんな屈辱を味わわせるのは、あんたを正しく評価していないからだ。あんた自身が“支配されている”と感じたのであれば、今こそ飛び立つ時だ。応援するよ。俺とあんたは似てるからね」
手の中には小瓶がある。小瓶の中には、何か粉のようなものが確認できた。
「あんたの兄弟が、もうすっかり変わってしまったと思ったならそれを飲ませて俺のところに来な。あんたが自由になれる、最後のチャンスだ」
唇の前に人差し指を立て、ルーカスは去っていった。一人残されたアンリは呆然とする。不意に後ろめえたさを覚え、小瓶はすぐにポケットにしまった。
ミシェルは若くして父の会社で役員に就任することが決まっていた。明日はその就任を祝うパーティーである。そんな日に、ミシェルはアンリを部屋に呼んだ。紅茶を淹れてほしいと言う。
「この間はごめんよ」
ミシェルが言った。アンリは身を強張らせながら「いえ」と答える。
ねえアンリ、と呼びかけられて目線だけを寄越した。ミシェルは困った顔をして、アンリを見ている。
「ごめんってば」
「……明日はミシェル様の役員就任を祝うパーティーです。奥様もいらっしゃるのでしょう。妙な気を起こしませんよう」
「彼女はまだ僕の妻じゃないよ」
「でも、婚約者でしょう?」
困惑というよりは疲弊に近い表情で、ミシェルがため息をついた。
「昔みたいに話そう、アンリ。僕、明日のことが憂鬱なんだ」
「なぜ? 成功が約束されているのに」
「……そうだね」
ティーカップからは湯気が立っている。いい香りだね、とミシェルが呟いた。その美しい青年は、ベッドの上で片膝を抱えてぼんやりと虚空を見つめている。アンリは俯きながら「ミシェル」と呼んだ。
「ミシェル、俺の夢は……いつか父さんの会社を立て直すことだった」
「素敵な夢だ」
「だけど父さんの会社なんてもうないんだ。父さんだって……母さんだって、どうしているかわからない」
「いつか探し出すよ。僕が大人になったら」
「いいよ。いいんだ、もう。俺はただ子供の頃に戻りたかっただけだ。そして、そんな段階はとうに過ぎ去ってしまった」
呆然としていたミシェルが、段々と厳しい顔つきに変わっていく。何が言いたいかわかったのだろう。元々頭のいい子供だったから。
「十四の時、この屋敷で男に抱かれた。俺が捌け口になるのを、お前の父親がよしとしたからだ。俺は養子という名目で安く買われた奴隷だった。明日が憂鬱だって? 馬鹿にするなよ。やりたくないことばかりやらなきゃ生きていけない人間だっているだろう。お前はいいな、そんな時は俺みたいなのを慰み者にして自尊心を保てるから。俺には尊厳の欠片もないよ。子供の頃はお前と同じように、未来を約束されていたのに。すべて、すべてお前たちのせいだ」
あくまで淡々と、アンリはそう言った。ミシェルは黙っている。少し冷めた紅茶を出して、アンリはミシェルを見る。
ミシェルはそれを受け取り、しばらく何か考えていた。考えながら、カップを傾ける。一口含んで、不意に息を漏らした。信じられないような顔でカップの中身を見つめる。
眉をひそめ、一瞬目を閉じ、また目を開け、「――――なるほど」と呟いた。
「俺のことを放り出せよ」とアンリは吐き捨てる。
「側に置いていたら、何度だってお前を殺そうとするよ」
「……僕を殺してまで、一体何が欲しいの?」
「自由が」
ティーカップに両手を添えながら、ふとミシェルは笑った。それが妙に穏やかで、微笑ましげにも見えるのがアンリには不気味だった。
「ばかだなぁ、おまえは」
確かに、そう聞こえた。言葉とは裏腹に、そこには愛おしげな響きがあった。
ミシェルはどこか遠くを見ながら微笑んでいる。瞬きをして、それからゆっくりとアンリを見た。
「またずいぶん、くだらないものにとり憑かれたね。アンリ、いまおまえ言ったじゃないか。やりたくないことばかりやらなきゃ生きていけない人間だっている、って。それがわかっていてどうして我慢できないの? ねえアンリ、比較対象を間違えているよ。何もかも上手くいったのと比べれば不満があるのは当たり前だろ? だけどお前は恵まれている。だって僕がいるんだから」
「……どうしてそんな傲慢なことが言えるんだ?」
「別に傲慢じゃない。現実的な話をしてるんだ。期待させたなら謝るけど、お前は鳥籠の中の鳥ですらない。僕が巣に持ち込んだガラス片みたいなもので、誰から見てもゴミでしかない。だけど僕にとっては宝物だった。この世界でたった一人、僕だけがおまえを大事にできた。わからないの?」
短く息を吐いたミシェルが、ティーカップを口に運び、静かに傾けた。アンリは驚いて、「何をしているんだ」と困惑の声を上げる。
ミシェルは紅茶を口に含んだまま、指先で口づけを促す。そうして、じっと、アンリを試すように見た。その意味を理解した上で、アンリは言葉を失う。うろたえ、僅かにうつむく。ミシェルはすっかり失望した顔で――――それを飲み込んだ。
「おまえと一緒なら、地獄でも楽しいだろうと思ったのに」
長い長いため息の後で、ミシェルはベッドに寝ころんだ。ぼんやりと天井を見つめている。
「おまえは人殺しだ。僕と同じところにはいけない。だからもう二度と会えないだろう。いつかきっと、僕に会いたくなった時には思い出すんだよ、アンリ……僕の可愛い弟。僕だけの大切な宝物。僕を殺したのはおまえだ。だから、二度と、会えない」
ミシェルは横を向き、膝を抱えるようにした。それからしばらく、くぐもったうめき声が聞こえ――――二、三度痙攣して動かなくなった。
近づいて、ミシェルの肩に触れる。まだあたたかい。あの赤い髪が指先をくすぐる。
一瞬だけ、幼い頃のミシェルが『アンリ』と呼んで手を差し伸べてきた日を思い出した。ミシェルは変わってしまった。いつからかアンリのことを心の奥底で馬鹿にするようになったのだ。
だから、何も後悔などない。
静かに部屋を出ると、ルーカスが待っていた。片手をアンリに差し出している。アンリはそれを掴んだ。
ルーカスはアンリを異国の地に連れて行った。自分の会社だといって連れてこられたのは、ほんの小さなログハウスだった。
「しばらくはここに住みな。まあ、本当に俺んとこで働くかどうかはゆっくり考えればいい」
そう、ルーカスは言った。何の商売をしているのかと聞いたが、『そのうちわかる』と言われただけだった。
そしてルーカスの言うとおり、そこが何をする場所なのかというのはすぐにわかった。ルーカスが従業員と呼ぶ男や女が、ひっきりなしに小さな子供を連れてくるからだ。
まさかと思いながらルーカスにこの子らは何なのかと尋ねると、『商品だ』と返答があった。
「一体何をしているんだ……」
「商売だ。そう言っているだろ」
絶句するアンリの前で、ルーカスは煙草に火をつけた。
ゆっくり煙を吐き出しながら、ルーカスは目を細めた。教え諭すような声色で「あのな、アンリ」と口を開く。
「別に出て行きたきゃ出て行けばいい。だけどあんた、今さら人間を商品にするくらいで血相変えて、自分が何をしたか忘れたのか? 生かして売り買いしているだけ、俺たちの方が良心的じゃないか。あんたは世話になった主人を殺したろ?」
「……俺とミシェルの問題だ」
「そりゃそうだ。あれから跡継ぎがいなくなったせいで先行きが不安になったヴンサンの会社は一気に経営が傾き、半数近くの従業員はじきに首が切られる見込みだが別にあんたのせいじゃない。クリスマスに本当なら可愛い子供にプレゼントの一つや二つ買ってやるはずだった父親が、職を失くして代わりに首を吊るかもしれないがあんたのせいじゃない。そして父親を亡くして立ち行かなくなった家の子供がこうして商品として取り扱われるようになってもあんたには関係ない。まったくもってその通り」
アンリは驚いて、口もきけないままルーカスを見た。ルーカスはなんでもないような顔で笑っている。
「お、お前が」
「俺が、何?」
二の句が継げず、拳を握る。ミシェルを殺したのは、確かにアンリの意思だった。ルーカスは優しげにアンリを見ている。慰めるように、アンリの肩を抱いた。
「あんたはまだ、わかっていないのか。どうして自分がミシェルの坊ちゃんを殺したのか」
「それは、ミシェルが」
「嫉妬だろ。あんたはミシェルに婚約者ができて、自分から離れていくことが許せなかった。そんなみっともないヤキモチを焼く割にはプライドが高くて、どうしてもミシェルと対等な関係でありたかった。人魚姫気取りでよ、仕方なく王子を殺したと思っていやがる。あんなに大事に飼われていたのにな」
アンリはルーカスを突き飛ばす。
「俺を利用したのか?」
「いいや? ヴンサンの家に恨みなんてないし、あいつらがどうなろうと知ったこっちゃない。あんたのダンスを気に入ったから手拍子してやっただけじゃないか」
じっと睨みつけると、ルーカスはくすくす笑った。アンリの手を掴み、強引に抱き寄せる。
「あんたは本当に愚かで救いようがないが、救いようのないガキに尽くしていると、俺もいい人間になった気がして気分がいい。だからいつまでだってここにいていいんだぜ。仕事なんてしなくてもいい。俺がずっと世話してやる」
ばかだなぁ、おまえは。
そう言ったミシェルの顔が浮かぶ。
違う、と思った。何もかも違う。誰もアンリの気持ちなんてわかりやしない。嫉妬なんかじゃない。ミシェルの側にいたら、一生惨めな思いで過ごさなければならなかった。
そんなはずではなかった。本当なら、アンリにだって人並みの名誉と尊厳があった。一生ミシェルの顔色を伺いながら、ミシェルが離れていくことに怯えながら、飼われ続けることに喜びを見出すなんて。そんなの本当の自分ではない、そんなの人生じゃないと思い続けていた。
どうして奪われ続けた自分だけがこのように責められなければならないのかわからない。
ルーカスはアンリの腕を引いて、ゆっくり歩き出した。
「どうなんだ? 俺たちのやってることに目をつむりながらここにいて、俺の世話になるか?」
「そんなこと、できない」
なら、とルーカスがドアを開ける。外は雨が降っていた。
「死んで来い。どうせ一人じゃ生きていけないよ、あんたは」
一歩、外に出て立ち尽くす。ルーカスはじっとアンリを見て、何も言わずドアを閉めた。
アンリは歩き出す。あっという間に髪が濡れそぼり、頬に張り付いた。
異国の地で言葉もわからず、身分も明かすことのできないアンリにまともな職など見つかるはずもない。日雇いの仕事はどれも辛く、懸命に働いたところでその日の食事が何とかなるくらいだった。もちろん住む場所もない。
雨ばかり降る街だった。橋の下にはアンリと同じような暗い目をした子供たちがたくさんいる。時折帰ってこない子供がいると、アンリはルーカスのことを思い出した。思えばルーカスが商品と呼んでいた子供らがその後どうなったのかアンリは訊かなかった。今となってはどちらが幸福なのかよくわからなかった。
そんな日々を続けて、数か月だろうか。一年経ったかどうか。
体を壊したアンリは次第に起き上がるのがつらくなり、ついに仕事に行けない日が二日続いた。一日目は同じ場所を寝床にしていた子供が食べ物をくれたが、これきりだよと言われた。それはそうだろうとアンリも思い、礼を述べた。
三日目、雨が降っていた。このごろ思い出すのは、子供の頃屋敷から追い出されたあの日だ。迎えに来たミシェルが傘を差しだして、帰ろうと言っている。だから何だと言うのか。首輪に繋がれただけだ。そうわかっていても嬉しかった。自分が濡れるのも厭わず、両親から怒られても一歩も引かず、ミシェルはアンリを側に置きたいと言ってくれた。
ミシェルは、変わってしまった。それなら自分はどうか。自分はずっと、あの嵐のなか震えていた時のままだ。
視界の端に傘が揺れた。アンリは思わず体を起こす。
「久しぶりだな。自由の味はどうだ? 元気そうには見えないが、よく生きてたもんだ」
頬杖をつきながら、ルーカスがアンリを見下ろしている。あんな別れ方をしたというのに、知った顔を見たアンリは少し泣きそうになった。
「色々と厳しいことを言ったが、あんたがミシェルを殺したのは仕方ないことだったとも思ってるんだぜ。人間はな、アンリ。現状に不満がある時に新しい選択肢を与えられたら判断力が鈍る。すぐに飛びつきたくなる。どんな人間もそうだ、あんたが悪いわけじゃなかった」
ルーカスはアンリの頬に手を添えて、上を向かせる。瞼に軽く口づけし、囁いた。
「あんたにもできる仕事を教えてやる。俺んとこに来な」
片言の、異国の言葉で客を取る。一晩買われて客の相手をすれば食事にありつけるばかりか、住む場所も清潔な衣服も心配なく、毎晩柔らかなベッドで眠れる。
幸福なのだろうと思った。もう、尊厳がどうのと泣くほど悔しがるような気力がアンリにはなかった。ルーカスはたまに顔を見せて、アンリのことを慰めてくれる。あんたが一等綺麗だよ、女なんかより綺麗だよ、と言ってくれる。
この地で初めて見た花がある。客がその名前を教えてくれた。ミシェルの赤毛を思い出させるような、美しい紅い花。咲いているというよりは燃えて散るような造形のその花には、毒があるのだと言う。
紅い花が波のように揺れているのを見た。そこでミシェルが振り向いて、アンリに笑いかけている。そんなはずはない。屋敷にいた頃あの花を見たことはないのだ。だからそんなはずはないのに、アンリは懐かしく思う。
「いつか、こんなところ飛び去ってしまいたいな」
そう、ミシェルが言った。奔放な赤毛を押さえつけながら、笑って、笑って。
「一緒に行こうね、アンリ。どこまでも飛んでいこうね」
ミシェル、と呼んだ。力いっぱい呼んだ。ミシェルは目を細めて手を差し伸べる。俺だけに、手を。
おい、と頬を叩かれる。知らない男だ。アンリは涎を垂らしながら、視線を彷徨わせる。視界が波打っていて、気持ち悪い。
「これからって時に他の男の名前を呼ぶなよ。なんでもうトんじゃってんの?」
男の手が首に伸びてくる。苦しいが、この頃はなんだかずっとこんな風に息が詰まっていたような気がする。
あの紅い花の中をどれだけ歩いて行ったって、踵が擦り切れるほど歩いたって、ミシェルには会えないんだよなとぼんやり思った。どうしてだったかなと思いながら、視界が霞んでいく。頬が濡れる。
そうだ。そうだった。
ミシェルはあの時、俺が殺したんだった。
だから、二度と、会えない。
ミシェルにくちづけを hibana @hibana
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