13:路上のゴミ
僕は路上でゴミを見つけても、すぐに拾うことはしない。
拾いたいという気持ちはある。
ただ、拾うのは良いとしても、どこに捨てればよいのかと考えあぐねている間に、通り過ぎてしまうことがほとんどだ。
そして、一度通り過ぎてしまえば、わざわざ引き返すこともない。
それでも、同じ場所にゴミがあり続けていることは稀である。
誰かに拾われたのか、風にでも吹かれたのか。
その真相を知らずとも、生きていくことはできる。
そう、ゴミを拾おうが、拾うまいが、何も関係ないのだ。
僕はそう思っていた。ずっと。
※※※
僕は市長になった。
別に、政治家になりたかった訳ではないし、立候補した訳でもない。
そもそも、その日暮らしの中年男性に、立候補に必要な資金が用立てできるはずもなく、よしんば立候補したとしても、誰が僕に投票するというのだろうか。
それでも、あなたは浮遊都市シエル・シティの市長になったのですと、うら若き女性秘書のアマネさんから告げられてしまっては、ぐうの音も出なかった。
市長となった僕がやるべき仕事はただ一つ。
十五分という任期の中で、「生贄許可証」にサインをすることだけだった。
「何か飲み物でも?」
アマネさんの申し出に、僕は素直に従うことにした。
コーヒーを待つ間、広々とした市長室をぐるりと見渡す。
今は僕の部屋だけれど、とても我が物顔する気にはなれなかった。
本棚に収められた本も、壁一面の賞状も、キラキラと輝くトロフィーも、やたらと座り心地の良い椅子も、前任にして後任の市長一色に染まっていた。
「お待たせしました」
コーヒーを淹れてくれたアマネさんにしても、真の市長であるカトウ氏から指示を受けているだけで、内心、どう思っているのかなんて、考えたくもなかった。
僕はコーヒーカップを口に運び、思わず「おいしい」と声を出してしまった。
きっと、高級な豆を使っているのだろう。
あるいは、アマネさんの淹れ方が上手なのかもしれない。
僕はコーヒーの味わいを楽しみつつ、時計に目を向ける。
僕が市長になってから、すでに五分が経過していた。
僕はコーヒーカップを皿に戻し、口を開く。
「あの」
「何でしょう?」
「何度も同じをこと聞いてしまって、恐縮なのですが……」
「お気になさらないでください。イシズ様の状況を思えば、無理もありません」
「そう言って頂けると、助かります。あの、全部、本当のことなんですか?」
「はい。ですが、嘘だと思って頂いても構いません」
「それは、どういう?」
「この町は長年、生贄によって
「……確かに。初めて聞く話でした」
「私もです」
「そう、なんですか?」
「機密中の機密、とのことですから」
「アマネさんは、信じているんですか?」
「信じるとまでは言えませんが、納得はしました」
「納得、ですか」
「この町は平和ですから。ずるいぐらいに」
それだけ言って、アマネさんは口を閉ざした。
……そうかもしれない。
人々が地上を離れ、空で暮らし始めてから五十年以上。
今でこそ当たり前となっているが、翼もない人々が空で何不自由なく生きているという事実は、奇跡と言うには余りにも不自然かもしれなかった。
奇跡の帳尻合わせ……そんな言葉が、僕の脳裏に浮かぶ。
「もう少し、生贄……制度について、詳しく教えて貰えませんか?」
「申し訳ございません。私自身、伝えられていることは僅かなので」
「では、生贄が誰とも、生贄になったらどうなるかも……」
「わかりません。ただ、生贄にはこの町の住人がただ一人選ばれ、その命を失うと聞いております」
「……僕がこの許可証にサインをしなかったら?」
「この町は滅ぶ、と聞いております」
「滅ぶと言っても、色々な解釈ができると思うのですが、即座にこの町が消滅するとか、墜落するとか、そういった類の滅びなんですか?」
「申し訳ございません。私に開示された情報では、ただ滅ぶとだけしか」
……これだけの情報で、僕は何を判断すればいいと言うのだろう。
ただ、僕がサインをするためのお膳立てが整っていることは確かだった。
僕がサインする、しないに関わらず、僕には多額の報酬が支払われる。
無駄使いをしなければ、一生働かなくても生きていける程の額だ。
そんな人生を謳歌したいなら、僕はサインしなければならない。
僕が生贄に選ばれている可能性もあるけれど、サインをしなかったらこの町が滅んでしまうのだから……いや、その滅びの定義次第では──
「申し遅れましたが、町が滅ぶと、全ての住人の命は失われると聞いております」
「全員? それは、生贄に選ばれた人もですか?」
アマネさんが頷くのを見て、それなら選択肢は一つだと僕は思った。
僕はペンを取り上げ、時計に目をやる。残された時間は、あと三分。
「……どうして、僕なんだろう」
「路上でゴミを拾ったから、とお聞きしております」
「えっ……そんな、それだけのことで?」
アマネさんの表情は硬く、冗談を言っている顔には見えなかった。
僕は許可証に目を向ける。
あれはたまたま……本当にたまたま、拾っただけだ。
いつもなら見て見ぬ振りだったろうし、気づかなかった可能性もある。
そう、気づかなけれな拾うこともなく、生きていられたのに。
僕はペンを手放し、大きく溜息をついた。
「サインしないんですか?」
「はい」
「この町は滅びますが」
「ごめんなさい」
「謝る必要はありません。でも、なぜですか?」
「……気づいてしまったから、かな」
「私は死にたくありません」
バンッと、アマネさんが机を叩き、僕にぐいっと顔を近づけた。
「どうすれば、サインしてくれますか?」
「それは──」
アマネさんは僕の手を掴んで引き寄せると、自身の胸に押し当てた。
「サインをしてくれたら、私を好きにしてくれて構いません」
「ちょっ、落ち着いてください!」
「これから死ぬって時に、落ち着いていられますか!」
アマネさんは震えていた。蒼い瞳から、ぽろぽろと涙が零れる。
僕は今日知り合ったばかり、この睫毛の長い女性のためだけでも、サインをしてもいいように思えたが、実際は手を引いて、首を横に振ることしかできなかった。
「……失礼、致しました」
アマネさんは僕から身を放し、後ろを向いた。
僕は市長を強く恨みながらも、無理もないなと許すしかなかった。
こんな重責、誰だって逃げ出したくなるだろう。
僕が生贄だったらいいのにと、心から思う。
自己犠牲ではなく、ただその方が、気が楽だったろうと思うからだ。
僕はペンを握る。
だが、もし生贄がアマネさんだったらと思うと、手が動かなくなった。
サインをしなければ、アマネさんも、僕も、命が失われるというのに。
時計を見る。もう一分もない。
いちかばちか。
数十万分の一。宝くじよりはマシな確率だろう。
はずれたところで、自分が選ばれたかったのにと、言い訳するだけだ。
あと何秒か。
僕の脳裏には、あの日に拾ったゴミが浮かんでいた。
気づかなければ、拾うこともなかったのに。
※※※
僕はサインしなかった。
十五分の任期を終え、僕は一般市民へと戻った。
町は滅ばなかった。
いや、そう見えているだけかもしれない。
命も失われていないが、それも遅かれ早かれ、なのかもしれない。
確かなのは、僕の口座に振り込まれた大金だけ。
僕はそれを全額、適当に寄付しようと思っている。
慈善ではなく、ただその方が、気が楽になるだろうと思うからだ。
適当といっても、どうせ寄付するならまともな団体がいい……そんな僕の希望を叶えるべく、有識者に話を伺うことになっていた。
待ち合わせの場所へと向かう路上で、僕はゴミを見つける。
しばし眺めてみたが、誰も拾うことはない。
僕はゴミに近寄り、手を伸ばす。
その手は、一つではなかった。
手を止めて顔を上げると、睫毛の長い女性の顔が間近にあった。
オムニバス 埴輪 @haniwa
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