粉雪と麻薬

大出春江

粉雪と麻薬

 セピアカラーに思われた高校時代は、彼女、新橋桜との事件と交際を経て、極彩色の印象派絵画のように塗り替わった。


 彼女、新橋桜の生まれは北海道である。高校卒業後は故郷に帰って大学進学を目指すとのことで、私も同じ大学を目指して、北海道で一人暮らしをしようと、そう思い立った。反対したのは高校の教師くらいで、良い意味で放任してくれた両親には感謝してもしきれない。

 高校の卒業式が三月の初めに終わり、家族との祝い事を済ませ、早々に北海道に飛んできた。溶けきらぬ雪を踏みしめる。


 アパートの一室。

 五畳半の世界に最低限の家具を詰め込む。

 それなりに古いアパートだが隙間風などは問題なさそうだ。

 荷解きが一段落し、ストーブをつける。


 火を起こしたいときに起こせるというのは、やはり素晴らしいことだと、そう思った。

 インターホンが鳴る。


「おばんでした~、引っ越し祝いに来ました~」


 素人目でもわかるほど流暢な北海道弁。

 挨拶を「でした」と過去形にするあたり結構訛りが強そうに感じる。

 ――いや、正直そんなことはどうでもいい。

 来訪者は引っ越し祝いと言ってはいるが、今時引っ越しの一つや二つでそんな人情めいたことをする人が本当にいるだろうか。

 たしかに、声に聞き覚えはない。しかし、心当たりはあった。


「はいはい、どうもおばんです」


 扉を開ける。

 粉雪がふわりと吹き込む。

 やはり、というべきだろう。

 新橋桜その人であった。


「丁度今しがた荷解きが終わったところです。段ボールが山積みですが……」

「今から捨てに行くかい? 」

「いや、少し休もうかと」

「それじゃあ、お邪魔します」

「どうぞ」


 黒いロングコートに身を包んだ姿は、何故だろうか、絵になる。いつも完璧のように感じる立ち振る舞いをしているにもかかわらず、どこかふわりと浮くような、そんなアンバランスさを感じるからだろうか。


「さっきの声、どうだったかな?」

「流石、上手すぎますよ。まぁ、いつものことですから、慣れましたが」


 沸かしていたお湯でティーバッグの紅茶を作り、彼女に差し出す。


「今日はどのようなご用件で」


 そういうと


「引っ越し祝いだ。形式上ね。恋人とは用がなくても近くにいたいものだよ? 」


 微笑んで、フフンと笑った。


 『恋とは脳のバグである』と、誰かが言っていた気がするが、この言葉の意味がようやく分かった気がする。

 おそらくだが、恋とは麻薬なのではないだろうか。恋を知るまではその良さというものは分からないし、そこにあるのは好奇心だろう。しかし、一度それを知ってしまえば、もう今までの無垢ではいられない、恋を求め、恋に寄り添いたいと、そう思うのである。


「そういえば、『恋は脳のバグである』と聞いたことがあるな」

「私も丁度そのことを考えていました」


 彼女は紅茶を一口飲んだ。


「前々から思っていたのだがね。恋は脳のバグというのは、字面通りに受け取れば、『人間が恋をするという行為は、脳がバグを起こした結果である』ということになると思う。しかしだね、私はこれをバグだとは思えないのだよ」


 そういうと、彼女は私の近くまで寄ってきて手を取った。


「私は、バグではなく、仕様だと思うのだよ」

「詳しくお願いします」


 彼女はジッとこちらの顔を見て、手を撫で始めた。


「いいだろう。そうだね……、人間は有性生殖によって個体数を増やすだろう? これはバグなんかじゃない、人間という生物の仕様だ。だが、ここに仮に、有性生殖を行わずとも個体数を増やせる人間が現れたらどうだろう」

「それは……バグ、ですかね」

「その通り。しかし、その個体が残り、数を増やし、一つの種族と認められた瞬間、それはバグではなく仕様になる」

「恋もそれと同じ、ということですか」

「その通り」


 手を放して、今度は頭を撫で始めた。


「我々人間も、元々はそこらの獣と変わらない。欲に生きて、その過程で子孫を残し、命を落とす。しかし、人間は頭がほんの少し良かった。子孫を残す過程で生まれる原始的な欲と、その欲が手にできる相手を好んだ。好むという思考自体は、生物としてなんら矛盾はない。この「相手を好む」ことによって得た快楽的な感覚、それを誇張、拡大解釈してしまった結果が、恋だと思う」

「しかし、そう考える個体も初めはバグだった?」

「正解!」


 頭から手を離した彼女は、紅茶を手に取って二口ほど飲んだ。


「そんな個体の成れの果て、それが私たち。ここまで増えてしまって、誰も違和感も持たずに恋をする。世界のほとんどが恋を認めてしまった。こうなっては、もうバグではない。仕様だよ。——麻薬にも似た、仕様なのさ」

「えっ?」


 つい声が漏れた。


「あぁいや、麻薬と言い切るには問題があるか。少なくともこの国では麻薬は認められないし、私も認めない。あくまでも比喩——」

「いや、私も麻薬のようだな、と思っていたので。ちょっと驚いたんですよ」

「そうか、なるほどなるほど……」


 彼女は立ち上がり、ストーブの前に座り込む。


「どうかしましたか?」


 そう彼女に聞くと


「とんでもないことに気が付いたのだよ」


 呟くように答えた。

 私も彼女の横に、ストーブの前に座り込む。


「私も君も、恋は麻薬のようである、と。そう結論付けた訳だろう? 」

「まぁ、そうですね」

「二人とも、恋は麻薬と認めたわけだ」

「なるほど」

「と、すれば? 」


 体が火照る感覚。きっとストーブの前にいるからではない。

 人の繋がりとは一番身近な依存の形なのだろう。しかし、そんな中でも、恋や愛の伴う繋がりは、特別に深く、重く、温かい。そして、なるほど、彼女には敵わないなと、そう思う。


 恋は麻薬で仕様である。

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