第44話 愛しい人たちの話

 赤いチャイナドレスを着た一人の美しい女が、その腕に大きな花束を抱えながら歩いている。


 長く艶やかな黒髪を靡かせ、黄色いすみれの刺繍の入ったシニヨンキャップを二つ付けた女は、大きな英雄像の台に腰掛ける男に手を振った。


 男も右手に花束を持っており、空いている左手で手をふり返す。男の左手は機械義足になっていた。


「ごめんね、瑠璃。お花、選ぶのに時間かかっちゃった」


「いいよ、リンちゃ。全然平気。行こう」


「うん」


 瑠璃が立ち上がり、鈴凛の横に並んで歩いていく。瑠璃が腰掛けていた英雄像には、文字が綴られていた。


『二国の終わりなき戦争に終止符を打ち、この世界に平和をもたらした英雄を、ここに讃える。戦争の恐ろしさを忘れず、永遠に終わることなき平和な世界を、憎しみのない、悲劇を生まぬ世界をここに示そう。失った尊い命に、安らかな眠りが訪れることを願って』


 左目に傷のある、右腕が機械義手になっている英雄像は、その顔に柔らかい笑みを向け、先に続く墓場を見守り続けていた。


 二人は墓へと続く道を歩いていく。腕に抱かれた花束から、優しい匂いが漂った。


「瑠璃、髪伸びたね」


「リンちゃもね」


「切らないの?」


「う〜ん……なんかさ、あの時と変わらないものを一つでも持っておきたくて。鈴凛も髪切ってないでしょ?」


「……うん。忘れたくないから」


 鈴凛が花束を抱きしめる。瑠璃が歩くたび、両足の義足からは機械義足に特有の金属が擦れる音が響いた。


「……ねぇ、瑠璃」


「なあに?」


「並行世界って知ってる?」


「並行世界?」


「そう。パラレルワールドとも言われる、こことは違う世界のこと。同じようでどこか違う、もう一つの同じ世界」


「うん? それがどうしたの?」


「……あのね、これは私が今までずっと調べ続けて、考え続けて見つけた、一つの仮定でしかなくて、憶測に過ぎないんだけど……聞いてくれる?」


「……うん」


「あのね、ちぃちゃんは並行世界の陽だったんじゃないかなって」


 風が吹き、鈴凛の頬を優しく撫でた。


「……陽って陰の妹?」


「そう。ちぃちゃんが並行世界の陽、つまり、陽と同一人物であったとしたら、いろんなことに説明がつくの。陽とちぃちゃんが髪の色、瞳の色を除いて、声、顔、背格好ともに、生写しのように同じだったこと。それは、ちぃちゃんと陽が同一人物で、少し異なった、もう一人の自分だったから。……そして、陽が生き返った理由も説明がつく」


 瑠璃は黙って鈴凛の話を聞いている。鈴凛は言葉を続けた。


「ちぃちゃんがこっちの世界に来た時に、生き返ったのは陽だけだった。それは、世界の理のせいだと思うの」


「……つまり?」


「つまり……わかりずらかったらごめんね。ちぃちゃんはこっちの世界に来た時、存在してはいけない者だった。そして、ハイドラの干渉によって存在するはずがない者になった。でも、ちぃちゃんは元々存在してはいけない者であったから、それに変わりはなかったんだよ。世界はちぃちゃんを排除したかった。でも、ちぃちゃんは存在するはずがない者になったから排除できない。……瑠璃、大丈夫?」


「……うん、うんうんうん。オッケー、大丈夫。ついていけてる」


「わかった、続けるね。ちぃちゃんが並行世界の陽だとして、ちぃちゃんがこっちの世界に来た時にはすでに陽は死んでいたけれど、もし陽が生きていたら?」


「……同じ人が二人?」


「そう。陽とちぃちゃんという同一人物が同じ世界に存在する。そんなありえない状態に陥ってしまう。だから別世界の人間は、この世界にとって存在してはいけない者だった。ちぃちゃんがこっちの世界に来た時、陽はすでに死んでいたけれど、陽が存在したという痕跡は残り続ける。たとえば、陰の記憶のように。そうなれば、同一人物が同じ世界に存在することと変わらなかったんだよ。どちらかの存在そのものを消さない限り……」


 そこまで話して鈴凛は少し呼吸を整えた。


「ハイドラはね、世界の歪みだった。この世界にしか存在しない歪み。でも、ちぃちゃんは違う。陽という同一人物が存在する、人間。だから世界は存在するはずがないちぃちゃんを排除する理由を作るために、陽を生き返らせようとした。陽が生きていれば、同じ人が二人いることになって、ちぃちゃんは存在してはいけない者になったんだと思う。たとえ人でないとしても、それはハイドラの干渉のせい。ちぃちゃんの本質は人間だから」


「なるほど……でも、陽は正しくは生き返らなかったんじゃないの?」


「うん。それも世界の理のせい。死んだ者は生き返らない。それも世界の理だから、世界の理と世界の理が衝突してしまって、変なことになった。そのせいで、陽は正しくは生き返らず、陽ではない何かが生まれて、陽の身体を乗っ取った。だから、あれは絶対に陽じゃなかったの。……死体を見て、ゾッとした。陰も私と同じで……実の妹に対して死んでくれていた方がよかったって思ってしまったと思う。でも、あれは陽じゃなかったんだよ……」


「リンちゃ……」


 鈴凛は溢れそうになった涙をグッと堪えた。


「ちぃちゃんはきっと元の世界に戻れたの。そして、幸せになってるの。そう信じていれば、きっとそう。陽も、きっと生まれ変われる。陽は輪廻の輪から外れていないから……」


「……ねぇ、リンちゃ。陰もきっとチカゲちゃんのところに一緒にいるよ。そして、笑ってるんだ。美萌草さんは意外に近くにいるんじゃない? お姉さんもきっと……」


 鈴凛は瑠璃の言葉に首を横に降り、瑠璃に向かって寂しげな笑顔を向けた。


「ねね様は輪廻の輪から外れちゃった。それに、ねね様は人を殺しすぎたよ。だから、輪廻転生はできない。でもね、いつも見守ってくれてる気がするんだ。もしかしたら、地獄の底からかもしれないけど……一目だけでもいいから、もう一度だけ、会えるような気がするの。姉妹の勘かな?」


 瑠璃は鈴凛の表情に一瞬泣きそうな目をして、優しく笑った。二人の頬を優しい風が撫でる。


「あ!」


「へ? ど、どうしたの、リンちゃ⁈ 体調悪い⁈」


「違う、違うよ。今、動いたの」


「えぇ⁈」


「励ましてくれたのかなぁ」


 鈴凛が幸せそうに笑う。慌てふためいていた瑠璃も安心したように笑った。鈴凛が自分のお腹を撫でる。


「ねぇ、瑠璃。この子の名前、結局どうするの?」


「……うん。ずっと考えて、悩んで、やっぱりね」


 瑠璃が鈴凛の顔にかかった髪をそっと払う。幸せそうに笑っていた。


「海にしたいんだ」


「うん。それがいいよ。一番いい」


「おーい!」


 墓場に並ぶ墓の一つの前で、身長の高い男が二人に手を振っている。右腕は機械義足で、眼鏡をかけた、銀髪の男。


「ほら、瑠璃。英雄さんを待たせてる」


「まったく……玉砕さんは歳をとっても元気だなぁ……リンちゃはゆっくり来てね」


「はあい」


 瑠璃は玉砕に手を振りながら、鈴凛から受け取った花束を抱いて走って行った。


    ◇


 朝、多くの学生が各々の学校へと向かい、登校を急ぐ中、一人の中学生ぐらいの少女は手に持った学生鞄を振りながら、ゆうゆうと歩いていた。


 黒く長い髪を靡かせて、黒い目は朝日を反射する。黒いセーラー服のスカートの裾が風で揺らめく。風に煽られた髪が視界の邪魔をして、少女が煩わしそうに髪を払った。


 そんな少女の横を幼い少年が走り抜けて行った。少女が振り返り、その背中を目で追いかける。


 通り過ぎる人たちの注目を集める、ランドセルを背負った少年は、雪のように白い髪を靡かせていた。集まる視線から逃れるように走って行く少年の瞳は美しい赤色で、明るい朝日を反射する。少女が少年の姿を見て、大きく目を見開いた。


 その瞬間、少年は転んだ。少女から少し離れたところで、足を取られて転んだ。


 周囲の人々はそれを見ていながら目を逸らし、見なかったフリをする。少年は少し不気味なほどに白い腕に力を込め、立ち上がろうとした。


 そして、少年の目の前に差し出された手を見て、顔を上げた。


「大丈夫?」


 先程横を走り抜けた少女が手を差し伸べている。少年は驚いたような顔をするばかりで、差し出された手を取ろうとしない。


 その様子を見て、少女は少年の手を引き、立ち上がらせた。少年の手足を見て、怪我がないことを確認すると、少女は柔らかく笑う。


「怪我ないね。よかった」


 そして、少女は少年の頭をポンポンと軽く叩いて「じゃあね」と去って行こうとした。少年が去って行こうとする少女に向かって、慌てたように声をかけようと息を吸う。


「あの!」


「ねぇ」


 少年が声をかけるのと同時に、少女が振り返った。二人して一瞬驚いた顔をして、吹き出したように笑う。


「名前、名前を教えて」


 少年が少女に問いかけて、少女は少年に柔らかく微笑んだ。少年がその表情に目を奪われる。少女はとても愛おしそうな顔をして、名前も知らない少年に自分の名前を名乗った。


「私、私の名前はね……」


 風が二人の頬を優しく撫でる。進んでいく人々の流れの中で、少年と少女は立ち止まり、お互いに笑顔を浮かべていた。

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生死の狭間 柚里カオリ @yuzusatokaori

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