第43話 世界の亀裂

 ハイドラの身体の亀裂から溢れ出した影はハイドラを包み込み、次第にハイドラの身体を覆い尽くして隠した。歪みを作れなくなったハイドラは、目の前で佇むチカゲに対抗する術をなくし、黒い影はチカゲを前にして尻込みするようにゆらゆらと揺らめいている。


 チカゲは血溜まりから伸びた血の刃に囲まれ、その影を見つめていた。両目から血の涙が落ち、陰の亡骸を守るように立ち塞がる。右腕をなくしたチカゲは身体のバランスが取れないのか、足元がふらついていた。


 不意に血が陰の亡骸を持ち上げ、瓦礫に隠れている玉砕の元へと運んでいった。玉砕は陰の亡骸を受け取ると、悔しそうに顔を歪め、涙を堪えて陰の目を閉じさせる。陰の顔は血で濡れていて、すでに冷たくなっていた。


「……貴様が我を殺しても、貴様が解放されることはない。永遠に生き続けるのだぞ。死んだ者を追いかけることもできず、ただひたすらに生を貪るのだぞ。貴様はなによりも死を望んでいるはずだ。それなのになぜ、我に牙を剥く」


 影の中からハイドラの声が聞こえた。その声はしわがれた老人の声のようで、幼い子供の声のようで、若い青年の声のような、全てが入り混じったような声だった。


「……解放してやると、そう言っているのだ」


「いらない」


 チカゲが冷たく言い放った。チカゲの瞳は瞳孔が開き切っている。溢れる血は地面を濡らし、あっという間に当たりを血の海に変えた。


「いらない。お前から与えられる解放なんて必要ない。私が、私が欲しいのは、心の底から望むのは」


 チカゲが背中のホルダーに手を伸ばす。ずっとチカゲの背中で、お守りのように冷たい刀身を光らせていた、玉砕がチカゲに与えた短剣を握り、チカゲはその刃を自分の首に向けた。


「お前が奪った大切な人たちだけ」


 短剣の刃がチカゲの首を貫く。首から飛び出した刃先に流れる血が姿を変え、大きな手のような形を作り、チカゲの首の後ろから飛び出した。


 血でできた大きな手は、真っ直ぐに影へと向かって行き、それに導かれるように辺りで蠢いていた血の刃が一斉に影に襲いかかった。血でできた手は、影を握りつぶそうと大きく指を広げる。血の刃は影を貫いて、中に隠れているハイドラに刃先を向けた。


 だが、刃はハイドラから溢れ出した影に阻まれ、刃先が違う方向へと曲がる。手には影が絡みつき、身動きが取れないように縛り上げていた。


「空間を歪ませられない? 貴様に対抗する術はない? 我自身が歪みであることを忘れるな」


 影が手を縛り上げ、手が弾けるように血の雫に変わる。血の雨がハイドラに降り注ぎ、雫の一つ一つが針のように変化して、ハイドラを傷つけようとしたが、全て影に阻まれた。


「貴様の血も歪みのような物だろう。歪み同士のぶつかり合いでなされるのは消滅のみ。いつまでもそんな小さな刃で我を傷つけようとも、我は死なぬぞ」


 血の刃が弾かれると共に、ハイドラを囲む影が小さくなっていく。だが、ハイドラから溢れ出す影はそのたびに勢いを増し、ハイドラを守り続けた。


 否、影もハイドラの身体そのものだった。決まった形を持たない、不安定な身体。歪みそのものであるハイドラの正体は、黒い影の化け物だった。


 突如、ハイドラの右目を短剣が貫いた。ハイドラが血に気を取られている隙に、チカゲが投げた短剣は、ベットリと付いたチカゲの血に守られて影を貫通し、ハイドラの右目に突き刺さる。そして、刃に付着していたチカゲの血がハイドラの体内に入り込んだ。


 ハイドラが人の声とは思えぬほどの化け物のような悲鳴を上げた。ハイドラの体内に入り込んだチカゲの血が、ハイドラの身体を食い破り、消滅させ、ハイドラが影の中で身を捩る。


 影が不意に動き、チカゲの足をなぎ払った。チカゲの両足が消滅し、切断面から血を流しながらチカゲの身体が地面に叩きつけられる。倒れたチカゲを飲み込もうと影が迫ったが、血によって阻まれた。


「ヴァ……‼︎ ギイッ……‼︎」


 ハイドラが苦しげな声を出す。チカゲは片腕だけでなんとか身体を起こし、流れた血は影を襲い、ハイドラを狙い続けた。


 ハイドラが影の中で震える手で短剣を突き、地面に放り投げた。短剣が影に飲まれて消える。


 ハイドラを囲む影が薄れ、チカゲはその隙を見逃さなかった。足から流れ出た血が刃に変わり、姿を現したハイドラに向かって伸びていく。


 身を捩り、苦しげにうめいていたハイドラがそれに気がつき、空間を震わせるほどに大きな声で叫んだ。ハイドラを囲んでいた影はハイドラを守るのをやめ、一つにまとまると、チカゲに向かって伸びていく。


 そして、チカゲの血の刃がハイドラの身体を四方八方から貫くのと同時に、影はチカゲの身体を貫いた。


 チカゲの口から血が飛び出す。だが、血に貫かれたハイドラは力なくだらりと手足を垂らし、影はすぐに薄れて消えた。チカゲの身体は地面に落ち、血が飛び出る。


 血に貫かれ、身動きが取れなくなったハイドラは、苦しげな呻き声を出し、力の入らない身体を無理やり動かして顔を上げた。短剣が突き刺さった右目には穴が空いている。地面に横たわるチカゲを睨みつけ、ハイドラは口から掠れた弱々しい声を出した。


「我を殺すのか……? 本当に……? 我を殺せば、貴様は永遠に生き続けるのだぞ……。貴様を殺せるのは我だけなのだから……」


 身体に大きな穴を開けたチカゲは地面に横たわったままハイドラを見つめた。その目に迷いはない。ハイドラはチカゲの様子を見て、諦めたように笑った。


「馬鹿め……貴様は永遠に一人だ……」


 辺りに飛び散ったチカゲの血が一箇所に集まっていく。それは大きな、大きな血溜まりとなり、大きな赤い化け物のように姿を変えた。


 化け物は大きな口を開け、動けないハイドラに迫っていく。化け物は牙を剥き、赤い化け物の口がハイドラを飲み込もうと、大きく開かれた。


「後悔するがいい」


 化け物は口を閉じ、ハイドラを飲み込んだ。


 その瞬間、化け物はただの血液に戻り、地面に落ちて血溜まりになる。ハイドラは跡形もなく消えていた。元々存在しなかったかのように、なんの残骸も残さず消滅した。存在しない者になった。


 ハイドラが消滅したことにより、ハイドラによって生じた歪みが消えていく。世界に入った亀裂が薄れていき、空間が世界の理によって修復を始めた。


 チカゲはそれを気に留めることもなく、大声を上げて泣き出した。だが、血を流しすぎたせいかチカゲの瞳からは涙も血さえも流れず、チカゲはただ大声を上げた。二度と戻らない者を思って響くチカゲの鳴き声が、辺りに響いた。


「チカゲッ‼︎」


 その声をかき消すほどの大きな声が響き、チカゲが驚いて声を止める。瓦礫の後ろに隠れていた玉砕がなんとか立ち上がり、チカゲに向かって叫んでいた。


「チカゲッ! その亀裂に入れっ‼︎」


 チカゲは玉砕の言葉がうまく飲み込めず、目をパチクリと瞬かせる。亀裂は徐々に塞がろうとしていた。


「お前は戻れるっ‼︎ 人間に戻れるっ‼︎」


 玉砕は必死で、理解できていないチカゲに叫んだ。


「お前はハイドラとは違うっ‼︎ チカゲは帰る場所がある‼︎ お前が元いた世界に戻れば、お前は存在していい者だ‼︎ 存在してはならないのは、お前が受けたハイドラからの干渉‼︎ 世界の理が存在してはならないものを排除するなら、ハイドラの干渉を消し去るはずだ‼︎ お前は人間に戻れるんだよ‼︎ 存在するはずがない者でも、存在してはならない者でもない、存在する者だ‼︎」


 玉砕の言葉にチカゲが目を大きく見開いた。目の前の亀裂を見て手を伸ばそうとし、顔を曇らせて「…でも…」と玉砕の方を見る。


「私……私……私だけがそんな……だって……陰も……美萌草さんも……」


「不幸だったなんてくだらない理由で人生を狂わされるなっ‼︎ 仕方ないなんて諦めるなっ‼︎ お前は! お前はっ!」


 玉砕が一瞬俯き顔を上げ、泣きそうなそして優しげな笑みを浮かべた。


「お前には、帰る場所がある。愛してくれる者がいる。不幸なんかじゃない。だから、救われろ」


 玉砕の顔にチカゲが泣きそうな顔をして、最後の力を振り絞り、片手を使って亀裂の元に這って行って、震える手を亀裂に伸ばし、玉砕の方を振り返った。亀裂から漏れる光がチカゲを照らす。その光はチカゲを飲み込もうとしていた。


「玉砕さん……私……」


 チカゲが笑った。目を細めて、少し悲しげに、満面の笑顔を玉砕に向けた。


「みんなに愛されて幸せだった」


 チカゲの言葉に玉砕の瞳から涙が溢れる。


 光はチカゲを飲み込んで、玉砕の目には、光の中、消えていくチカゲの口元が、最後に「ありがとう」と微かに動いたように見えた。


 光が晴れ、その場所にあった亀裂は塞がり、チカゲの姿は消えていた。


    ◇

 

 亀裂に入ったチカゲの魂は、世界の理によって浄化された。ハイドラの干渉が存在してはいけないものとして排除され、ハイドラが存在した痕跡はどの世界からも消え失せた。


 ハイドラは元々存在しない者になり、消滅した。


 ハイドラからの干渉を受けたチカゲの情報は全て初期化され、不死身の身体も、人間離れした能力も、チカゲという名前も、すべて別世界の存在してはいけないものとして排除された。


 チカゲの魂は次元の狭間を抜け、元いた世界へと辿り着き、新たな命が産声をあげる。


 病院の中で、優しげな母親と父親の愛しい赤ん坊は産声を上げ、周りの人々が喜びの声を上げた。母親は我が子の顔を見て歓喜の涙を流し、父親は愛しい妻に感謝を述べて、看護婦から赤ん坊を受け取った。


 赤ん坊の小さな手が、瞳を涙で濡らした母親に伸ばされる。

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