第42話 失敗作
ハイドラは悔しげな顔でチカゲの血に紛れたテトを探す。竜のように姿を変えたテトの身体はハイドラに襲いかかり、あたりの地面を溶かしながらハイドラを追いかけていた。ハイドラは液体を弾き返しながら、隠れているテトに向かって叫ぶ。
「永遠の生を与えてやったのに、貴様を自由にしてやったというのに、その恩を仇で返すつもりか‼︎」
その姿は、まるで親に怒られた子供が反発しているようで、駄々をこねているようだった。液状化して辺りに散らばっているテトの身体のあちこちからテトの声が聞こえ、響き渡る。
「感謝しております。私に自由を与えてくださったこと、世界を見せてくださったこと。ですが、私にはもう生きる理由もありません。あなたも解放されるべきなのです」
「解放? 解放だと? 我は何者にも縛られていない‼︎ 永遠に生き続けるのだ、永遠に……! 母を生き返らせるまで、否、その先も生き続ける……‼︎」
「あなた様はなによりも死を求めている」
「黙れぇっ‼︎」
ハイドラが叫んだ瞬間、地面が大きく揺れ、床の一部分が剥がれて飛び跳ねた。剥がれた床は空中で粉々に壊れ、破片が雹のように降り注ぐ。ハイドラはそれを避けようともせず、破片はハイドラの身体に多くの穴を開けた。
「……貴様と長い年月を生きてきた。これまで何も否定しなかったくせに、今更我を非難するのか……? 貴様だって人殺しのくせに、人でないくせに……元は人だったと、我とは違うと、そう言うのか……?」
ハイドラに開いた穴が塞がっていく。ハイドラの瞳から黒い涙が溢れ、ハイドラの褐色の頬が濡れた。それでもテトは攻撃を止めず、液状化した身体はハイドラが生み出した歪みの間をぬって、ハイドラの元へと伸びていく。ハイドラが唇をかみしめて、叫んだ。
「もうたくさんだっ‼︎ 貴様ら人間に全て奪われたっ‼︎ お前も人間と変わらないっ‼︎ 死ねぇっ‼︎」
ハイドラが叫んだ瞬間、歪みが液体を弾き飛ばす。飛び散った液体は空中で集まり、ハイドラを覆い尽くすように降ってきた。
液体の中でハイドラの身体が溶けていく。骨もなく、血も流れていないハイドラの身体はドロドロに溶けていき、上半身が溶け切ったところで、液体は弾き飛ばされて消滅した。
「……う……うぅ……」
ハイドラの上半身が再生していき、ハイドラは顔を覆ってその場にうずくまった。口から嗚咽を漏らし、子供のように肩を震わせて黒い涙を流す。その様子に液体がハイドラに襲いかかるのをやめた。
「……認めてください、ハイドラ様。母親は生き返りません。あなた自身が世界の理から外れていたとしても、死んだ者は戻らないのです。あなた様が成功例だとした者も、結局は人間ではなく化け物なのです。人間は不死身になれません。不死身になれるのは化け物のみなのです」
「……我は……我は……」
「駄々をこねるのをおやめください。あなた様は小さな子供のまま、成長できていないのです。この先ずっと生き続けても、あなた様は人にはなれません。もう、終わりにしようではありませんか」
テトの優しげな声が響く。肩を震わせて泣いていたハイドラは、泣くのをやめた。指の隙間から黒い涙が伝って落ち、ハイドラが顔を覆ったまま、口を開く。
「……なぁ……テト……」
「どういたしました?」
ハイドラが顔を上げる。優しげなテトの声とは裏腹に、右目から一筋だけ黒い涙を流したハイドラは、光のない目をして言い放った。
「貴様、それで隠れたつもりか?」
その瞬間、辺りの空気が重くなった。空間の歪みが次々と生まれ、地面に流れたチカゲの血を次々と飲み込んで消滅させていく。
空間が軋み、どこからかバチンッと何かが弾ける音がした。ハイドラは目の前の血溜まりを見つめ、あくまで冷静な冷たい声色で、淡々と言葉を綴った。
「貴様を作った我が知らぬと思ったか、愚か者め。貴様は我の最大の失敗作なのだ。たとえ、お前が液状化し、分裂し、その液体を全て消し去らぬ限り貴様が死なずとも、我は知っている」
ハイドラがふっと冷たく笑う。初めて見せたハイドラの笑顔は、芯から凍りつくほどに冷たかった。
「貴様には核があることをなぁ」
ハイドラの目の前にあった血溜まりが突如動き出した。壁を伝っていき、壁にも飛び散っていたチカゲの血に紛れようとしたが、その瞬間、壁になんの前触れもなく、大きな穴が開く。かろうじて血に紛れた液体は、徐々に空間の歪みに追い込まれていった。
「貴様の核は頭だ。頭だけは液状化できまい。その水溜りの中に隠しているのだろう? それに……」
壁から液体が飛び出し、ハイドラに襲いかかった。ハイドラはわざとそれを避けず、液体がハイドラの身体にまとわりつく。ジワジワと溶けていく自分の身体を見て、ハイドラは笑った。
「貴様の身体など、我にとっては水に等しい」
ハイドラがそう吐き捨てた瞬間、液体は弾き飛ばされて辺りに飛び散る。壁や地面に落ちる前に、歪みに飲み込まれて消滅した。
「見つけたぞ。さあ、どうする? わかっているだろう、愚か者。貴様は我を殺せない。我を殺せるのはチカゲのみだと。いつまで無駄な障壁で、チカゲを守り続けるつもりだ? 瓦礫に隠れた男も守っているのだろう? 大切な攻撃手段をそんなことに使っていいのか?」
陰に縋り付いて動けなくなった陰と、瓦礫の後ろで動けない玉砕を、赤黒い液体が取り囲み、守り続けていた。歪みにどれほど穴を開けられようと、必死で障壁だけは無くすまいと、テトは身体の一部を使い続けている。
「貴様、死にたいのか?」
ハイドラは笑みを浮かべている。その瞳はテトの核が隠れているであろう場所を見つめていた。ハイドラはテトを鼻で笑うように、向かってくる液体を消滅させる。
テトは半身をほぼ全て、チカゲと玉砕を守るために使っていた。本来、身体から分離した腕や足は機能を失い、美麗やニケなどの人型の猛者の身体であっても、分離した身体は崩れ落ちる。
テトはその身体の性質から、分離した身体を動かすことができた。だが、分離した分の身体が新たに核である頭から増殖されることはない。テトはあくまで消滅した分を再生させることしかできない。
「死にたがりめ。今更なのだよ、テト。貴様はすでに踏み外した。何に縋ると言うのだ? くだらない。くだらないなぁ、テト。殺すのが惜しいほどに、お前は愚かだった」
「……あなた様も踏み外したのですよ、ハイドラ様」
テトの言葉に、ハイドラがピクリと反応した。眉間に皺を寄せ、いまだに争い続けるテトを睨みつける。どれだけ身体を消滅させられようと、テトはハイドラに牙を剥いた。
襲いかかる液体を、ハイドラが煩わしそうに手で振り落とす。その瞬間、液体にボコボコと穴が開く。
「今更です。えぇ、今更なのです。遅すぎました。どうしようもないと思っていた。……あなた様は可哀想な方です」
テトの言葉にハイドラの瞳に憎悪が浮かび上がった。
「……貴様も、あの女と同じことを言うのか? 下等な生物のくせに、我を侮辱するのか? ふざけるな、ふざけるのもいい加減にしろ‼︎ 我は哀れなどではない、我は奪われたもの求めただけだ‼︎ 何が悪いっ‼︎」
「あなた様も多くを奪いました」
テトの優しげだった声色が冷たく変わる。ハイドラが怯えるようにビクリと身体を震わせて、テトの言葉を聞きたくないと言うように耳を塞ごうとした。
「人を、物を、命を、奪いました。憎まれるほどに、多くを奪いました。奪われたから奪った、それは哀れな人間と変わりません。あなた様が愚かだと笑った人間と、あなた様がなりたいと願った人間と、変わりありません」
ハイドラの身体が震える。息をしていないはずの口から荒い息を漏れた。過呼吸のような不安定な呼吸を繰り返し、ハイドラは泣き出しそうなほどに歪んだ顔で、テトの頭が隠れているであろう場所を見つめる。
「……我が……我が愚かだと……? そう……そうか……もう、それでいい……なんとでも言えばいい……戯言は十分だ」
ハイドラの顔の右半分が崩れ、ザラザラとした影のようなものが溢れ出した。子供の姿を維持できないほど感情に溺れたハイドラは、化け物の片鱗を露にし、テトに向かって憎悪を向けるわけでもなく、ただ全てを諦めたように、目の前の血溜まりに向かって手を伸ばした。
「終わりにする」
ハイドラがそう言った瞬間、チカゲと玉砕を守っていた液体と、ハイドラの目の前以外の血溜まりが全て消え失せた。そこに存在していなかったとでも言うように、音もなく静かに。
ハイドラは残った血溜まりに歩いていくと、血溜まりに両手を突っ込み、何かを掴んで引き抜いた。赤黒い液体に塗れたハイドラの両手には、包帯が解けかけたテトの首が乗っている。テトはゆっくりと目を開き、ハイドラの瞳にテトの瞳の色が映った。
「……あなた様は自由に姿を変えられるにも関わらず、最後までそのお姿なのですね。母親が殺された理由であったはずの、忌まわしいその黒い肌をローブの下に隠し、見たことのない母親の瞳を探そうとしたのは、ただ母親に愛されたかったからですか?」
「答える義理もない。貴様の望み通り、終わらせてやろう」
「……本当に終わりですか?」
「は?」
突如、崩れていたハイドラの顔の右半分から亀裂が走った。ハイドラの後ろでビキビキと音を立てながら空間が剥がれていく。剥がれた空間から、大きな亀裂が覗いた。
「な……」
「あなた様は歪ませすぎました。いっぺんに世界に歪みを作りすぎた。世界はそれに耐えきれず、崩壊を始めています」
「なん……だと……」
「亀裂が入りすぎたのです。あなた様が歪ませすぎたせいで。世界が崩壊すればどうなるか、ハイドラ様、わかっていらっしゃいますね?」
「……貴様ぁっ‼︎」
ハイドラが憎々しげにテトの頭を睨む。テトは口元に不適な笑みを浮かべた。
「これ以上歪みを増やし、世界が崩壊すれば、全て無に帰ります。永遠に続く無の空間に、あなた様は死ぬこともできず、生きることもできず、永遠に閉じ込められるのです。そうなれば、あなた様は母親を生き返らせることはおろか、解放されることもない。……そうなるのは嫌でしょう?」
ハイドラが怒りで震えている。テト顔は徐々に崩れ始め、包帯が赤黒い液体で汚れていった。
「あなた様はもう、チカゲに対抗する術がありません」
ハイドラが目を見開いた。後ろを振り返らなくても、チカゲがゆっくりと立ち上がり、ハイドラの方を見ているのがわかる。押さえきれない憎悪がハイドラに向けられ、後ろでボタボタと血が落ちる音がした。
「これで終わりです。ハイドラ様」
テトがハイドラに優しく笑いかける。ハイドラはその表情をちゃんと目に映す前に、テトの頭を握りつぶした。テトの頭は液体に変わり、ハイドラの指の隙間から流れ落ちていく。
肩を震わせるハイドラの褐色の肌に無数の亀裂が入っていき、そこから影が溢れ出した。
チカゲは胸の亀裂から夥しい量の血を流し、ボコボコに穴が空き、亀裂が入っている地面が、また赤く染まっていく。空間に開いた亀裂は、ハイドラが座っていた玉座の前で大きな口を開け、何かを待ち構えるように空間を揺らめかせた。蜃気楼のように揺らめく空間は、波打った水面のようにハイドラとチカゲの姿を映す。
「……愚か者だ……」
ハイドラの呟きをかき消すように、チカゲの血が無数の頭を持つ龍のように変化し、その牙をハイドラに向けた。巨大な龍はただ、小さな子供を見つめていた。
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