第41話 可哀想な子供

 礼拝堂へと続く大きな扉の前にたどり着いた玉砕は、痛む傷を気にする暇もなく、扉に手をかけて力一杯開いた。扉は音を立てて開き、玉砕の目に礼拝堂の中の様子が映る。


 礼拝堂の一番奥の中心に位置する玉座の上で、うなだれた様子で座るハイドラ。だが、その空間は歪み、ハイドラの様子はおかしかった。身体が大きくなったり小さくなったりを繰り返し、その年齢も小さな子供になったり大人になったり、時には老人のように皺々になったりと慌ただしい。


 そして、そんなハイドラの前に転がった美萌草の死体が、玉砕の目に飛び込んだ。美萌草の死体の下にはすでに乾き始めている血溜まりがあり、美萌草の左胸に空いた穴が、その血が美萌草のものであることを証明していた。


 ハイドラはブツブツと何かを呟いている。その声も聞こえないほどに玉砕は美萌草の死体に釘付けになった。


 まるで暗闇の沼の中にはまっていくような感覚が玉砕を襲う。愛しい人が、心の底から守りたいと愛した人が、目の前で、変わり果てた姿で転がっている。その光景は、あまりにも残酷で、あまりにも無慈悲なものだった。


 玉砕が拳を握りしめる。間に合わなかった自分の無力さと、ハイドラへの怒りを噛み締めて。そして、玉砕は通信機を取り出すと、リンネ全体に事実を告げた。


「リンネ全員に告ぐ。……美萌草が殺された」


 その声はリンネ全員に伝わった。廊下で戦闘不能状態だったところを救援部隊に保護された鈴凛と瑠璃はお互いに顔を見合わせる。残っていた猛者を処理していた部隊の人間は、各々が拳を握りしめ、怒りの叫び声を上げ、亡くした者への後悔を叫んだ。陽を撃破した直後の陰とチカゲは、その言葉をうまく飲み込むことができず、ただ放心する。


 玉砕は怒りに任せて通信機を投げつけた。ハイドラは一向に反応を示さない。玉砕がハイドラを睨みつけた。


「おい」


 玉砕の呼びかけで、ようやくハイドラが顔を上げた。いつもの朗らかな玉砕からは想像ができないほどの、冷たく、芯から凍りつくような声。


 ハイドラの歪みが一旦止まり、元の幼い少年の姿に戻る。ハイドラの瞳には影が落ち、黒く染まっていた。


「お前が殺したのか」


「……」


 ハイドラは答えない。じっと玉砕を見つめ、美萌草の死体を一瞥した。


「答えろっ‼︎」


 声を張り上げた玉砕に、ハイドラがゆっくり玉砕の方を向き、息をついた。


「……我を殺しに、また愚かな人間が来た……なぜわからぬ……それがどれほど無駄なことなのか……」


「黙れ……黙れ黙れ‼︎」


 玉砕が声を張り上げ、ハイドラを睨みつけた。その拳が怒りで震えている。ハイドラはさもくだらないというように立ち上がった。


「お前が殺したのかと聞いている……‼︎」


「だったらなんだ。貴様は我を殺せない。我を殺せるのはチカゲだけだ」


 ハイドラがゆっくりと歩き出した。足元に転がった美萌草の死体を踏まないように避け、玉砕に向かってくる。


「存在しない者を貴様ら人間が殺せるはずがないだろう。存在しない者を殺せるのは存在しない者のみ。我と同じチカゲしかいない」


「チカゲはお前と同じでは無い……‼︎」


「同じだろう。元々別世界の人間であったチカゲはこの世界で存在してはいけない者。だが、それに我が干渉したことで、本来交わるはずのないものが交わり、チカゲは存在するはずがない者……我と同じになった。居場所のない、死ぬことだって許されない存在にな。我を殺せるのはチカゲのみ、そしてチカゲを殺せるのも我のみ。チカゲではない貴様が、我に何ができるというのだ」


 そう言うとハイドラは、一瞬美萌草を視界にとらえ「この女も」と呟いた。玉砕がハイドラに銃口を向ける。


「それでも、仇を打たねばならない。それが、せめてもの花向けだ」


「……できるものならやってみせればいい」


 玉砕がハイドラに向けて撃った。銃弾は真っ直ぐハイドラに向かっていき、ハイドラに当たる直前、ハイドラの周りの空間が歪み、銃弾が消えた。まるでそもそもそこに存在していなかったかのように、音もなく消滅した。


 玉砕がハイドラを睨みつけた瞬間、玉砕の右耳が何かに食われたように抉れ、血が落ちる。玉砕がギョッとして、流れ落ちた血を見た。


「最後の警告だ」


 ハイドラが冷たく言い放つ。玉砕はそれでもハイドラに銃口を向け、撃った。ハイドラはくだらないというようにため息をつき、銃弾はハイドラに当たる前に消える。


 ハイドラが瞬きをして目を開けると、目の前にいた玉砕が消えていた。ハイドラが驚いた様子で振り返る。玉砕は変わり果てた姿の美萌草を、かろうじて動いた左腕で抱き寄せていた。


「……守れなくて、間に合わなくてすまなかった……」


 美萌草はそれに応えない。その様子を見て、ハイドラが大きく目を見開くと、拳を握りしめた。ハイドラの瞳に美萌草の血が反射して赤くなる。


「……くだらない……くだらない……! 貴様ら人間は本当に愚かしい……‼︎ 目障りだっ‼︎」


 ハイドラが叫び、玉砕が美萌草をギュッと抱きしめる。自分の身体が弾け飛ぶか、消滅するかを覚悟して、美萌草を守るようにハイドラに背を向けた。


 その瞬間、二人の頭上で大きな音が響いた。


 ハイドラが驚いて天井を見上げる。玉砕も天井を見上げ、天井が大きな音を立てて崩壊した。ガラガラと落ちてくる瓦礫に、玉砕が美萌草を守ろうと抱きしめる。


 ハイドラは静かに天井を睨みつけ、ハイドラに降ってきた瓦礫がハイドラに当たる直前に消える。崩壊した天井から何が落下して、着地した。


 落下してきたものは、血塗れのチカゲ。胸部から腹部にかけて亀裂が入り、そこからとめどなく血が溢れ、チカゲの足元を濡らしている。荒い息を口から漏らし、真っ直ぐハイドラを睨みつけたチカゲの両目からは血の涙が溢れていた。


 チカゲとともに落下してきた陰はチカゲの血に受け止められ、血塗れになりながらも起きあがろうとする。チカゲの視界に玉砕が抱き締めている美萌草の姿が映り、チカゲの体の亀裂から再度血が溢れた。チカゲの口から嗚咽が漏れ、血の涙が地面に落ちると共に、ハイドラに血の刃が襲いかかる。


「……愚かな……」


 ハイドラに襲いかかった血の刃が歪んだ空間によって弾かれる。それでもチカゲの血は止まらずに、あたりの壁や地面を切り刻みながらハイドラに襲いかかった。


「玉砕っ‼︎」


 陰が玉砕に叫び、美萌草を抱いた玉砕を引っ張って、落ちてきた瓦礫の影に隠れた。


「陰……これは……」


「チカゲが暴走した! 美萌草さんが殺されたって……」


 陰が玉砕の腕の中で眠る美萌草を見て目を見開き、泣きそうな顔をして目を逸らす。その後ろでは、チカゲがハイドラに猛攻を仕掛けていた。


「……チカゲがそれを聞いて暴走して……」


「陽は?」


「……死んだ」


「……そうか」


 後ろで轟音が響いた。チカゲの血が力任せに大きな瓦礫をハイドラに投げつけたようだ。


 チカゲは今にもハイドラに噛みつきそうな鬼の形相で、ハイドラを睨みつけている。ハイドラに投げつけられた瓦礫は、ハイドラに直撃する直前に消滅し、ハイドラが冷たい目でチカゲを見た。


 チカゲが何かに気がついて、横に飛びのいた。その瞬間、チカゲの右腕が消滅する。切断面から血がボタボタと流れた。


「……歪みを避けるのか……貴様も我と変わらぬな」


 チカゲは口からフーッフーッと荒い息を漏らし、ハイドラを威嚇する。チカゲの右腕は再生しない。流れ落ちた血がハイドラに襲いかかるが、ハイドラに届く前に空間の歪みによって弾かれた。


「お前も哀れだな。ただ不幸にも世界の亀裂に巻き込まれ、こちらの世界に来ただけの、哀れな人の子。まぁ……我が見つけなければ世界の理によって、存在してはいけない者として排除されていたのだ、感謝してほしいぐらいだ。永遠の生を与え、完全体にしてやったのだから」


 ハイドラの言葉に陰の青筋が浮き上がる。玉砕も物陰に隠れながら、その拳が怒りで震えていた。


「黙れっ‼︎」


 耐えかねた陰が物陰から飛び出し、ハイドラに叫んだ。ハイドラを睨みつけ、飛び出した陰をハイドラが横目で見る。その間もチカゲの血はハイドラに襲いかかるが、ハイドラは傷一つ負わない。


「不幸だったなんて、そんなくだらない理由で人生を狂わされてたまるかっ‼︎ ただお前は不幸だったから仕方ないなんて言われて、諦められるわけがないっ‼︎ そんな……‼︎ そんな……‼︎ そんな理不尽許されてたまるかっ……‼︎」


 陰の瞳から涙が溢れた。ボロボロと流れる涙は地面に落ちて、チカゲの赤い鮮血と混じる。ハイドラの瞳に、陰への憎しみの色が浮かんだ。


「返せよっ……‼︎ 陽を……っ‼︎ 美萌草さんをっ……‼︎ みんなの大切な人たちをっ……‼︎ 返せよ‼︎」


「……うるさい……」


 ハイドラが陰を睨みつける。地面の血を反射して、ハイドラの瞳はドス黒い色へと変化していた。幼い少年とは思えないほどのハイドラのおぞましい顔に、陰の涙が止まる。


「貴様ら人間は、いつも、いつも耳障りなことを言う……‼︎ 悪いことは全て誰かのせいにして、物事の本質を見ようともしない‼︎ 簡単に汚し、奪い去り、踏み躙る‼︎ それが貴様ら、愚かな人間だっ‼︎ 貴様ら人間が起こした戦争が世界を歪めたっ‼︎ 我を産み落としたっ‼︎ 全て‼︎ 全て‼︎ 貴様らのせいだっ‼︎ 我が死ねないのも‼︎ 居場所がないのも‼︎ ……母が死んだのも……っ‼︎」


 ハイドラが声を張り上げて叫び、陰を睨みつけた。その瞬間、血の刃が陰に向かって伸びてきて、陰を消滅させようとしていた歪みを弾き返した。


「陰っ‼︎」


 玉砕の叫び声に、陰が再度物陰に隠れる。ハイドラは怒りでその小さな肩を震わせ、自分に猛攻を仕掛けてくる血の刃を睨みつけ、その不思議な色をした瞳から、黒い涙を流した。真っ黒な深淵のような涙の色は、地面に落ちてシミを作る。


「……我は母に問いたいだけなのだ……‼︎ 我を産み落とした理由を……‼︎ 愛される方法を……‼︎ 人という者の本質を……‼︎ 我は……我は……‼︎」


 チカゲがハイドラの様子にピクリと反応した。血がチカゲを守るように取り囲む。


「……人に……なりたかっただけなのだ……‼︎」


 ハイドラがそう言った瞬間、チカゲを取り囲んでいた血の障壁に大きな穴が複数開き、チカゲがその場から逃げる。歪みはチカゲを飲み込もうとその後を追いかけ、地面にボコボコと穴が開いていった。


 チカゲがハイドラに飛びかかり、手が届く寸前に弾き飛ばされる。チカゲが地面に転がり、すぐに立ち上がろうとして、チカゲの目の前に歪みが生じ、チカゲがそれを咄嗟に避けた。チカゲの鼻先が、ジッと歪みに触れた音がする。


 チカゲが立ち上がり、血が周りに生じた歪みを弾き返したが、歪みはどんどん出現し、チカゲを追い込んでいった。


 チカゲが声の限り叫び、胸の亀裂から流れ落ちた血が歪みを弾いて、一瞬歪みが消滅した。その隙に、チカゲは自分を取り囲んでいた歪みから飛び出し、ハイドラに向かって血の刃を向ける。


 ハイドラが顔を覆っていた手を外し、黒い涙で濡れた瞳が覗いた。その瞳に、飛びかかってくるチカゲの姿が映る。


 ハイドラの冷たい瞳と目が合って、チカゲの背筋にゾワリと悪寒が走った。ハイドラは飛びかかってくるチカゲに対して避ける姿勢も見せず、歪みがチカゲを弾き返すこともなく、ただチカゲに向かって小さな手を伸ばしていた。


 その手にチカゲが触れるその瞬間、物陰から飛び出した陰が、ハイドラの腕を掴みながら体当たりした。


 チカゲがバランスを崩して地面に落ちる。陰の体当たりによってバランスを崩したハイドラは、静かに陰に手を伸ばし、ハイドラの手が陰の頭に触れた。


「愚かな」


 ハイドラがそう呟いた瞬間、陰の身体から中から弾けたように血が吹き出した。


 チカゲがその様子に目を見開く。チカゲの視界は、世界が全てスローモーションになったようにゆっくり流れ、陰が辺りに血を撒き散らしながら倒れる。ドシャリと地面に叩きつけられた陰を、ハイドラは冷め切った目で見つめていた。


 チカゲがふらりと立ち上がり、倒れた陰の元へと歩いていく。陰の白い髪も白い肌も真っ赤に染まり、前髪から覗いた赤い瞳は虚で、光が灯っていなかった。


 チカゲが陰のそばで膝から崩れ落ちる。先程まで憎しみに満ちていた瞳はその憎悪を失い、流れ落ちる血の涙が陰の頬に落ちた。


「……げ……」


 陰の口が微かに動き、チカゲがその声を聞こうと顔を近づける。


「……チカ……ゲ……ご……めん……」


 陰が力なくチカゲに笑いかける。柔らかい笑みを浮かべ、掠れた弱々しい声で、陰は言葉を続けた。


「……約……束……守れ……なかった……」


 陰の手が微かに動き、チカゲの頬に伸ばされる。陰の体当たりによって倒れていたハイドラがゆっくりと立ち上がり、二人の様子を眺めて、一歩を踏み出した。チカゲが震える手で陰の手を握ろうとする。


「……ごめん……ね……チ……カ……」


 陰の手がふっと力を無くす。チカゲがその手を取ろうとして、陰の手はチカゲの手をすり抜けて地面に落ちた。チカゲが恐る恐る陰の頬に触れる。まだ温かい陰の体温がチカゲの手に伝わったが、陰はピクリとも動かない。血はドクドクと陰の身体から流れ、チカゲが流した鮮血と混じり合った。


「……や……」


 チカゲが陰の身体にすがりつく。瞳から血の涙をボロボロと流し、陰がもう一度動くことを願って、陰の身体を揺さぶった。


「……いや……いやっ……いやあっ……‼︎」


 ハイドラが一歩ずつチカゲに近づいてくる。チカゲは陰に縋りつき、その場を離れようとしない。ハイドラは冷たい目をしていた。


「やだっ……やだあっ……置いて……行かないでっ……! お兄ちゃ……」


 チカゲが陰の頬に両手で触れ、開いたままの陰の赤い瞳が見える。その瞳にチカゲが映ることはない。ただ虚な目をして、陰の身体は冷たくなっていく。


 チカゲの頬に一筋だけ、ほんの一筋だけ、赤色ではない涙が流れた。


「……陰っ……‼︎」


 ハイドラが陰に縋り付いたチカゲの前で立ち止まった。冷たい瞳で逃げようともしないチカゲを見下ろして、手を伸ばす。


「……愚かだな……」


「チカゲッ‼︎」


 物陰から様子を見ていた玉砕がチカゲに向かって叫んだ。立ち上がろうにも、玉砕の腹の傷から赤い血が溢れ、包帯を汚している。折れた左腕を使うこともままならず、立ち上がることが困難だった。


 チカゲは陰の身体を抱き締めて泣き喚き、その場から動かない。ハイドラの手がチカゲの頭に伸び、玉砕がチカゲに逃げるように叫び続けた。チカゲは動けない。


 ハイドラの手がチカゲに触れる。と思われた瞬間、赤黒い液体がチカゲと陰を取り囲むように包み込み、液体に触れたハイドラの手がドロリと溶けた。


 ハイドラが目を見開く。そして、崩落した天井から降りてきた人物を睨みつけた。


「貴様……裏切ったな……!」


 ハイドラの瞳に映ったのは、右手が液状化しているテト。テトはゆっくりとハイドラに向かって歩き、液状化した右腕は陰とチカゲを守っている。


 不意に液体がハイドラに襲いかかり、ハイドラが後ろに飛びのいてそれを避ける。


「……申し訳ありません、ハイドラ様。……もう、終わりにしたいのです」


「ふざけるなっ‼︎ 今更人間にでもなったつもりかっ⁈ お前はっ、お前はっ‼︎」


 ハイドラの身体が怒りに震えている。テトのすぐそばに歪みが生じ、テトの茶色の長髪が揺れた。


「お前は、ただの失敗作のくせにっ‼︎」


 ハイドラの叫びに、テトが悲しそうな顔をする。


「……えぇ。私はあなた様の初めの失敗作であり、最大の失敗作。不死身の人間を作りたかったあなたの望みとはかけ離れた、化け物です」


「わかっているのなら、我の邪魔をするなっ‼︎」


「いいえ。終わらせねばならないのです。この戦いも、悲劇も、あなた様自身も」


 テトがハイドラを睨みつけた。ハイドラは親に怒られた子供のように一瞬たじろぎ、拳を握りしめると、涙を堪えるように手を振り下ろす。その瞳には、どこか悲しげな色が浮かんでいた。


「できるものならやってみるがいい。理解しながら飛び込んでくる愚か者めっ‼︎」


 ハイドラが叫んだ瞬間、周りの空間が軋み、壁や地面に亀裂が走った。テトは全身を液状化させ、辺りに飛び散っているチカゲの血の中に紛れる。


 液体はまるで竜のように姿を変え、ハイドラに襲いかかった。

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