第40話 歪みの化け物
チカゲが目の前の化け物を見つめている。何度も何度も兄を呼びながら、陽は歪んだ笑みを浮かべていた。濁った瞳に陰の姿は映っていない。陰は頭を抱えて、譫言のように呟き続けていた。
「……嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ……! 陽は……陽は……死んで……!」
「オにぃチャん」
陽がゆっくりとおぼつかない足取りで近づいて来た。陰は震えながら顔を上げることができない。顔を上げて瞳に映る妹の姿が、人とかけ離れた、化け物であることが認められなくて。
陽が近づくたびに、足にはめられた枷がカシャカシャと音を立てた。
「ヤくそク」
陰が大きく目を見開く。その声はあまりにも 不気味で、本当に陽から発せられているのか疑うほどに、歪んだものだった。
チカゲは二人の様子に困惑し、どうすればいいのか分からず、ただ陽を警戒している。手を出そうにも、陰が言い放った「やめろ」という言葉に、動けずにいた。
陰が震えながら、おそるおそる顔を上げた。頭部の左半分が陥没した、愛おしい妹が手を伸ばしている。
「ずうットいっショ」
陰の両目からとめどなく涙が溢れた。それと同時に、チカゲの右目から赤い血が一筋流れ落ちる。チカゲが困惑した様子で流れ落ちた血を手のひらで受け止めた。
「……違う……」
陽は変わらず笑顔を浮かべている。陰が言った言葉をまるで理解できていないかのように、それはただの無邪気な子供のように、ただ笑顔で冷たい手を伸ばしていた。
「お前は陽じゃないっ‼︎」
陰はその手を振り払った。
陽の身体がよろめく。その瞬間、チカゲの血が陽に襲いかかった。陰の拒絶を合図に、血は化け物に襲いかかる。陽が後ろに飛び、血を避けた。陰は自分が発した言葉を信じられないというように、顔を覆って声を上げる。
「違うっ‼︎ 違うっ‼︎ 陽じゃないっ‼︎ 陽は……‼︎」
チカゲの瞳から血が流れる。その血が地面に落ちるたび、その姿を変えて血の刃となり、陽という化け物に襲いかかった。
「……陽は……死んだんだ……」
膝から崩れ落ちた陰の様子に、チカゲが攻撃を止める。陰に駆け寄ろうとして、聞こえた声に足を止めた。
「オニいチャん」
チカゲが陽の方を向いて目を見開く。陰は力なくうなだれて、その姿を見ることができない。陽の胸部から腹部にかけて、縦向きに大きな亀裂ができ、裂けた身体から肋骨らしき白い骨が伸びて、うねうねとありえない動き方をしていた。
「オにいチャンおにイチャんオにイちゃんおにイチャンオニいちゃン」
陽の背中から骨が飛び出した。陰がその声を聞かないように耳を塞ぐ。陽の背中から飛び出した骨が真っ直ぐ隠に向かって伸びた。
「陰っ‼︎」
チカゲが叫んだが、陰は動かない。骨が陰に届く直前に、血の障壁が骨を弾き、陰を守った。陽がふらりと身体を起こし、その後ろで白い骨が蠢いている。
「オにイちゃんオ ニちゃン クケケケケ」
チカゲが陰に駆け寄ろうとした瞬間、陽がチカゲに腕を伸ばし、手の平から骨が飛び出した。チカゲに向かって骨が襲いかかり、チカゲがそれを避ける。
「イラ な イ」
白い骨が一斉にチカゲに襲いかかる。血の障壁がチカゲを守り、その瞬間、その障壁を突き破って陽がチカゲの目の前に迫っていた。陥没した頭部から飛び出した数本の骨が触手のように蠢き、チカゲの顔を貫く。
チカゲが陽を睨みつけ、血が陽を貫こうと迫ったが、その瞬間チカゲの頭に「やめろ」と叫んだ陰の必死な表情が浮かび、血が止まった。陽がチカゲの身体を殴り、チカゲが吹っ飛んだ。
「ケ ケケケ クケケケ オにいチャん」
陽が座り込んでいる陰の方を向いた。陰は動かない。ゆっくりと陽が陰に向かって歩き出し、その身体を血の刃が貫いた。陰が目を見開く。
振り返った陽の瞳に、頭が再生しきっていない状態のチカゲが立ち上がる姿が映った。陽を静かに睨みつけるチカゲは、身体から血も流さない化け物に敵意を向ける。
陽が突然口を大きく開いた。口が裂け、骨が軋むような不気味な音を立てながら陽の口から飛び出したのは、猛者のような肉塊に牙の生えた口を持った化け物。
化け物は牙を光らせ、チカゲに向かって伸びていった。チカゲが走ってそれを避け、陰に手を伸ばす。その手を陽から伸びた骨が切断した。
切断された腕から飛び散った血が、刃となって陽に襲いかかる。その瞬間、陽の肋骨が陽を守るように取り囲み、チカゲの血の刃を弾いた。
「⁈」
想定外のことにチカゲが目を見開く。陽は腹部に穴を開けたまま、口から飛び出した化け物を陰に向けた。チカゲがそれに気がつき、声の限り叫ぶ。
「陰‼︎ 避けてっ‼︎」
陰は動かない。光を失った瞳に、妹から飛び出した化け物が、牙を光らせて迫ってきているのが見える。
それを分かっていながら、陰は動こうとしなかった。絶望に落ち、足を動かす気力などなく、ただ迫ってくる死を求めていた。
陰の目の前で赤い血が飛び散る。辺りの地面はチカゲから飛び散った血で赤く染まっていた。チカゲの腹部には化け物が噛みつき、ミシミシと肉を食いちぎる音を立てている。
ブチンッと音がして、チカゲの上半身と下半身が切断された。チカゲの身体が地面に叩きつけられる。倒れたチカゲは陰に血塗れの手を伸ばし、柔らかく笑った。
「お兄ちゃん……」
陰がその手を取ろうと震える手を伸ばす。それを遮るように化け物が奇声を上げた。
陽が陰に手を伸ばしながら迫ってきて、その手が陰に届く寸前に、陽の左目は陰の肘当ての仕込み刃によって貫かれていた。
「……お前は陽じゃない」
陽は目を見開いている。その顔に、愛しい妹だったはずの化け物に、陰は悲しげな笑みを浮かべて、陽から刃を引き抜くと、陽の頭に回し蹴りを食らわせた。踵の刃が陽の頭を貫く。
「ごめんね」
陽の身体が吹っ飛ばされる。地面に落ちて滑っていく陽を見て、陰の両目から涙が流れた。
「弱いお兄ちゃんでごめんね」
陽が奇声を上げる。助けを求めるような、怒りに満ちているようなその絶叫は、辺りに響いて反響した。陰が陽に向かって行って、足を振り上げ、陽の脳天を踵の刃で貫こうとする。
陽が陰を睨みつけ、背中から伸びた骨が、陰の右肩を貫いた。陰のバランスが崩れて、それを待ち構えるように陽の肋骨が、虎挟みのように伸びる。
陰が落ちる瞬間、何が陰をグイッと引き戻し、陽の肋骨を切断した。尻餅をついた陰が振り返ると、体が再生したチカゲが歩いてきていた。
「ウぅ…ウゥ…」
陽がチカゲを見て呻き声を上げる。立ち上がろうとする陰を静止して、チカゲは陽の前に立ちはだかると、冷たい目で陽を見つめた。
「オにチャン……」
「うるさい」
陽の言葉を遮って、チカゲは冷たく言い放った。
「あなたは陽じゃない。陽であるはずがない。だって陽は死んだから。死んだって言われてるから」
チカゲが陽に笑いかけた。それは冷たい、歪んだ笑顔。
「陰は私のお兄ちゃん」
血が陽に襲いかかる。陽は奇声を上げながら骨を伸ばし、がむしゃらにチカゲを斬りつけた。チカゲはそれをいとも容易くかわして、血の刃が陽の身体に傷を作る。
「チカゲ……」
陰の声はチカゲに届かない。
陽は自分の顔を手で覆って、背骨が後ろで暴れ狂う。血の刃の間をぬって、骨がチカゲの身体を貫く。陽の口から再度化け物が飛び出し、チカゲの首元に噛み付いた。肉を抉ってチカゲの血が流れるたびに、それは刃となって陽を切りつける。
陽が不意に走り出し、チカゲがそれに気がついて血の刃を伸ばした。陽の骨がそれを弾いて、陽は陰に近づいて手を伸ばす。
陰が陽から目を逸らした。陰は陽が伸ばした手から骨が飛び出し、自分を傷つけることを知っていた。
「オニイチャ……」
陽が言い終わるよりも早く、チカゲの血が陽の身体を四方八方から貫いた。
陽の身体が地面に倒れる。動かなくなった陽を見つめて、陰が手を伸ばしてその身体に触れようとして、やめた。
身体中に穴を開け、頭部の左側は陥没し、口から化け物を飛び出させた、人間とは到底思えないそれは、目を開いたまま息絶えていた。息をしていたかもわからない。
「……約束、守れなくてごめんね。お兄ちゃん、ずっと一緒にいるって言ったのに、そんな約束も守れなくてごめんね、陽……」
陰の酷く悲しい声が響く。陽がそれに応えることは無い。
「……死んだ人は生き返らないよ」
陰の後ろでチカゲが言った。酷く悲しげな声だった。
「二度と戻ってはこないよ。だから、それは陽じゃない。陽じゃない、歪んだ何かなんだよ」
チカゲが陰を後ろから抱きしめた。冷たい体温が陰の背中に伝わる。陰は泣いていた。化け物の死体を前に、声も出さず静かに涙を流していた。
「陽は死んでたの。死んだの。陰、大丈夫だよ。大丈夫だから、壊れないで」
「……チカゲ」
陰がチカゲの手を掴んで、自分から引き離した。チカゲが不思議そうに首を傾ける。その顔を見つめて、陰は涙を拭うと、笑った。
「俺はチカゲのお兄ちゃんじゃないよ」
陰の言葉にチカゲの瞳からふっと光が消えた。チカゲが手を伸ばして、その手が陰の頬に触れる。冷たい手は陰の頬から体温を奪った。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……私は、なに?」
チカゲが崩れ落ちる。陰が慌ててそれを支え、チカゲの両目から血の涙が流れた。陰はチカゲの問いかけに答えることができず、ただチカゲを抱きしめる。小さなその身体を守るように、今度こそ離さないように、ギュッと抱きしめた。
その時、陰が持っていた通信機が音を発した。陰がチカゲを離して、通信機を手に取る。辺りに響く音はどこか不気味で、不穏な響きを持っていた。通信機から発せられたのは玉砕の声だった。
「リンネの全員に告ぐ。……美萌草が殺された」
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