第2話 競技場デート

 打ち上げられた球が焦ったいほどゆっくりと、放物線を描く。

 かと思えば、生命が芽吹いた瞬間の産声のごとく、直線的に相手のコートへ突き刺さる。

 これまで球技に興味を示したことのなかった統弥であるが、かなり見応えを感じていた。それを認めると鈴鹿に負けたような気がして悔しいので、大声で応援したい気持ちを抑える。

 隣の席で、竹馬の友である宮下夜辺が熱狂している。特にバレーボールファンというわけではないはずだ。どんなことでも、盛り上がれば全力で応援できるノリのいい男だ。

 試合の趨勢はすでにほぼ決しており、逆転の余地はない。片方のチームが二セット先取しており、その後も時を刻むかのように順々点を増やしていく。勝ちに乗ったチームは、それでも容赦なく相手の陣地を抉る。

 戦功はほぼ一人の男に集約される。もちろん他の選手たちのサポートあってこそ映えた活躍なのだろうが、それを抜きにしても、とんでもない火力である。

 冗談抜きで、あの球を受けたら体に穴が開くのではないかと思うほどの破壊力だ。歯を見せて軽く笑いながら腕を振りかぶり、球に手が当たる。須臾の裡に火薬の炸裂のような音がし、遅れて風が吹く。球の軌跡は全く追えない。


「あれが近頃うわさの櫂ノ木直胤かいのきなおたねだな。大手セラミック会社が抱える社会人チームの主砲。大手仏具販売店所属の比企飛礫ひきつぶてと、人気を二分してるらしいぜ」


 夜辺が嬉々と説明してくれる。色々調べてきたらしい。

 ここまで楽しんでくれるなら、わざわざ自腹で入場券を二枚都合した甲斐があったというものだ。

 先日、稽古が終わって、滝の汗を拭きつつ水を飲んでいる夜辺に、バレーボール観戦を持ちかけた。別に鈴鹿や征也の影響ではない。たまたま興味が湧いただけだ。


「お前もまあ変わらず面倒臭いやつだな」


 夜辺は一瞬で事情を察して、ニヤニヤ笑いながら誘いを受けた。訳知り顔に腹が立った。

 左右から、燃え上がるような熱気を含む応援の声が沸く。コートでは、すでに試合ではなく虐殺が行われている。

 拮抗した手に汗握る試合もいいものだが、大衆娯楽時代劇の殺陣のように圧倒的な実力差による蹂躙もまた、観衆に快感をもたらす。

 櫂ノ木選手が最後の一撃を、コートの端に叩き込み、球が反動でありえないような高さまで飛び上がる。反発係数がバグっている。球が点になって空中に止まっている間に、試合終了の笛が鳴る。

 歓声と拍手が響く。

 櫂ノ木選手をはじめ、奥州セラミックスの選手が笑顔で手を振り応える。


「征也も、こんな試合をするのか……」


 もしそうなら、評価を改めなければならない。

 もっとも、国内で人気を二分する選手と、強豪とはいえ高校の部活のレギュラー選手では、格が違う。

 その征也はというと、統弥から見て視界の左下、前から三列目の低い席にいる。その横には、鈴鹿がいる。

 鈴鹿もバレー部のマネージャーになるくらいだから、好きなのだろう。

 水族館の一件の後、統弥はお役御免になった。征也に対する危険が去った確証はないが、征也がもう大丈夫だと言い張った。

 統弥もこれ幸いと用心棒を辞めて、妹の痴態を二度と見なくて済むことを喜んだ。我儘放題の妹が男に媚びる様子は、強酸性の毒液が混ざった薬でうがいをしたかのように喉をイガイガさせるのだ。

 しかし、もう大丈夫と言われると、かえって心配になってきてしまった。

 強気な妹だが、ごく稀にナーバスになることがある。そんなとき、デリカシーの片鱗すら持たない統弥は、慰めることもできずに気まずい思いで生活しなければならない。

 もし征也になにかあれば、鈴鹿の落ち込みようは半端ないと予想できる。そんな事態は避けたい。

 それに、高確率で未来の義弟となるだろう男に親切にしておくのも、人の道というものだろう。もしかしたら困った時に金を貸してくれるかもしれない。


「だから、別にあいつらのためじゃない。俺の精神安定と、未来への投資ってだけだ」

「その後、勘違いしないでよねっ! って続けるつもりか?」

「口調が気になるけど、そういうことだ」

「で、何か分かったか」


 微笑ましいものを見た、とでもいうように薄く笑う夜辺が、試合を終えて控室に消えていく選手を見ている統弥に聞く。


「さあて。分かったのは、バレーが案外面白いスポーツだってことと、その分選手は死と隣り合わせだってことだ」

「そこまで大袈裟な話じゃないんだけどな……」

「もしかして、あっちこっち工事中なのも、熾烈な戦いの痕なんじゃ」


 バレーコートをコの字型に観客席が囲んでいる。統弥は下の辺の、中段くらいの高さから観戦している。いわゆるエンド席というやつだ。

 向かい側の観客席は工事中だ。今は試合中なので作業をストップさせているが、ブルーシートで覆われて作業着姿の人が時々姿を見せる。


「いや、あれは梅雨の大雨のせいで電気系統がショートして、焼けちまったらしい」

「電気系統?」

「観客席の下に、倉庫とか照明管理室とかが格納されてんだって。ほら、パンフレットにも」


 パンフレットの地図には、なるほど観客席の真下、一階部分に小さめの部屋が整列している。


「バレーコートだけじゃなくて、あっちこっち工事中で立ち入り禁止の置き看板が立ってた」

「よく知ってるな」

「早めに着いたからな。ちょっと中を見学しようと思ってさ……」


 そうしようと思う気持ちはわかる。

 バレーコートがある体育館を含むこの運動競技場は大正の末年に建築された。設計の責任者は辰野金吾の薫陶を受けた、当時一流の建築家であった。

『アヴェ・エンペリアル運動競技場』というのが、名付けられた施設名だ。『帝国万歳』という意味である。

 この体育館は後から増設されたものだが、それでも古い。大正の末年とはつまり1926年、若槻禮次郎内閣が発足した年だ。この年の一月に普通選挙を実現した加藤高明が死去し、年末に大正天皇が薨去あそばされた。ちなみに、この年のクリスマスはバカボンのパパの、大晦日はヴォルデモート卿の誕生日である。二人はタメなのだ。

 とまあ、昔の話である。つまり、かなり力を入れてメンテナンスしているとはいえ、方々ガタがきているのだ。火事がなくても、大規模な工事は避けられないところだった。

 劇場や古手の寄席など、古式ゆかしい建物が老朽化でどんどん壊れていく。歴史豊かなこの競技場も、最近は利用団体に恵まれず、依頼があれば工事を中断してでもこうして利用してもらっている。


「資金難らしい。まあ、どっかのどえらい商売人がスポンサーになって、かなりの額を援助したらしいから、だいぶん持ち直したみたいだけどな」

「よくそんなことまで知ってるな」

「たまたま聞いたんだよ。中を見物してる間にな」


 征也の全国大会もここで行われた。

 先人の汗と涙と、歓喜と後悔の染みついた床に立ったとき、どれほど緊張しただろうか。

 しかしその床も、目を凝らせば目立つ傷や凹みが見える。二階の観客席の中段から見えるのだから、相当弱ってきているのだろう。

 それに、見た感じセキュリティも甘い。人間の管理はともかく、施設が追いついていない。

 監視カメラが少なく、選手が飲む飲料に誰かが近づいても気づかない可能性がある。いや、実際気づかれなかったのだ。地図を見れば、控室にも更衣室にもアクセスしやすく、プライバシーの観点からも少々いただけない。女性の更衣室も同じく……まぁ、これは女性の人権意識に乏しい時代的限界もある。普通選挙だって、男性限定なのだ。それがいまや女性限定に無料サービスを提供する相席喫茶や、カップル限定のイベントなどがまかり通る世の中になった。平塚らいてうは、いまの世に何を思うだろうか。

 統弥は、道から外れ出した思考を修正する。別に、カップル限定イベント中のカフェに鈴鹿たちが入って、寒風吹く中密かに用心棒の務めを果たしたあの経験を恨みに思っているとか、そういうわけではない。


「腹下しか……誰も気づかないもんかね。口に含むものだろ、誰か一人くらい見張っててもいいと思うけどな」

「やっぱり、協力してやるつもりなんだな。彼氏のためか、それとも可愛い妹のためか?」

「黙れ。貴様の首をぶった斬ってさっきのボールみたいに叩きつけてやろうか」


 噛み付く統弥をいなして、夜辺が考える。

 観客はもうほとんどいない。鈴鹿と征也はまだ下で何かしている。スマホを二人で覗き込んで、どうやら動画を見ているらしい。録画した試合を見ているようだ。


「全国大会ともなると、激しく緊張するだろうな」

「征也もそう言ってたな。俺だって、月一の格決め試合の前は緊張するし」

「なら、下剤なんて勘違いで、そのストレスで腹を下したって公式の説明を、都合の良い言い訳と切り捨てることもできなくないか」

「どうだろうな。それまで快進撃で、かなり優勢だったらしい。突如緊張しなおすなんて、あるか?」

「ない、ともある、とも言えないな。スポーツと武芸じゃ、同じ試合でも感覚が違うから。あ、お前は勘違いしてそうだけど、スポーツが劣ってるわけじゃないからな? 命のやり取りだけが覚悟じゃない」

「……わかった認める。俺が間違ってた。生命を懸けない闘争は不覚悟者の所業だと思ってたけど、改めます」


 征也と実際に話してみれば、確かに戦いには向かないが、芯の通った気持ちいい青年であることがわかる。

 それに、これは鈴鹿に散々言われたことで、統弥自身も認めることだが、人間的魅力では統弥の及ぶべくもない。

 政府が国民に益荒雄の気骨を求め、生来の気性もあって武力解決をよしとして生きてきた。それは、間違っていないと思う一方で、すぐに刀を抜く人間は好かれないよな、とも思う。

 ――釣りと同じだ。荒ぶるほどに、魚が逃げていく。

 最近は時々、今までの生き方についてぼんやりした疑問を持つことが増えてきた。

 頼まれてもいないのに未だ征也の身を案じるのも、そういった葛藤の現れである。


「これくらいにしようか」

「そうだね」


 下の方から声が聞こえる。

 歓声と人の気配が落ち着いた体育館は、小さな声も意外なほど聞こえる。

 鈴鹿たちが立ち上がって、観客席の出入り口……コの字の行き詰まりの位置に向かう。

 別に二人の後を追う必要もない。


「何か気になることでもあるのか」


 夜辺が聞いてくる。


「……征也の前に、部員が二人襲撃された。それがどうも腑に落ちなくて。夜道での闇討ちで、しかも後頭部や背中を硬いもので殴られたって、征也は言っていた」

「それで?」

「殴られたのは一発だとも言ってた。もしあの怒れる四人の部員が襲撃犯なら、一人一発でも四回は殴りそうなもんだろ」


 集団で単数を攻撃するときは、大抵力を込めた一発ではなく、数を恃みに嬲るような暴力に発展することが多い。

 しかしとなると、他に征也たちのチームに恨みを持つ人物がいるということになる。

 他は知らないが、征也がそこまで恨まれるような行動をするとは思えなかった。

 ――俺も、随分ほだされたな。

 と、格好をつけて自嘲する。

 話をして、しばらく接して、連絡先も交換した。

 そうこうしているうちに、木月征也のことがどうも気になってしまっている。

 もちろん男色趣向はもっていないが、やはり兄妹で感性が似通う部分があるのかもしれない。どれだけ口喧嘩が絶えなくても、血液中の部品は同じ規格なのだ。


「まあ、あんまり考えすぎるなよ。他人に興味を持つのはいい兆候だと思うけど、あんまり入れ込みすぎるのはお前らしくないぜ」

「だよな。とりあえず、俺たちもそろそろここを離れるとするか」


 そう言って、体育館から出る。

 出ると左に降り階段が伸びて、一階に繋がる。降りて左に向かえば屋外に繋がる。そこから露天の競技場がいくつかと、駐車場に行ける。

 右に向かうと、運動競技場にしてはかなり凝った内装の廊下が伸びている。アメリカ式の巨大なスタジアムというより、フランス貴族御用達の観戦施設といった感じだ。統弥は、国民議会が不解散を結誓した球戯場はこんな感じなのではと想像する。


「飲み物に細工するには、選手の控室に入るか、控室同士の間にあるコートに結ぶ廊下を通るか、更衣室から直接行くか、どれかみたいだな」

「それと、スタッフ専用の出入口もある。それから、更衣室の線はないと思う。さすがに施錠が厳重だろうし、それにほら」


 夜辺がまたパンフレットを取り出して、地図を見せる。男子の更衣室から直接出ると、観客席の端あたりからコートに出ることになる。ドリンクを置くはずの休憩位置から遠い。いくらなんでも、誰かに気づかれるだろう。

 征也の話では、ドリンクを置いていたのは、控室への扉のすぐ横だったと言っている。姿を見せなくても、扉を開けて手を伸ばせば届く位置だったそうだ。

 控室には鍵をかけることができるが、基本的にかけないらしい。征也たちは、かけないと言っていた。貴重品は更衣室のダイヤル施錠式ロッカーに置いていたから、入られても困ることはないのだそうだ。アイドル事務所や劇団の楽屋とは違う。まさか薬を盛られるなんて思ってもみないのだろう。

 控室の扉を見た。重厚な深い茶色の扉で、蹴破るにはかなり力が要りそうだ。しかし鍵はひとむかし……いや、それに輪をかけて古臭い。素人でもピッキングできそうな気がする。おまけに、そこまで管理が行き届いていないのか、蝶番が錆びついて金槌で叩いて壊せば扉ごと取り外せそうだ。


「探偵小説に出てくる殺人現場にはうってつけだな」

「お前ミステリなんて読むのか?」

「雨で釣りに行けないときは、図書館で暇をつぶすことが多いからな」

「風流なのか知的なのか、野蛮なのか……ギャップ狙うのもいいが方向性は絞れよな」

「狙ってるわけじゃない。男が一人で楽しめることっつったら、そこらへんに行き着くってだけだ」

「悲しいねえ。いい年して友達が少ないってのは」

「お前が言うな……しっ」


 ドアノブががちゃりと震える。

 二人は飛蝗のように飛び上がり、蜥蜴のような素早さで廊下の角に逃げ込む。

 扉が緩慢に開く。出てきた男はほおっかむりをしていて、体全体に『不審者』と書いてあるような風体だ。

 手には何も持っていない。


「ここにもなかったか……」


 廊下に誰もいないと思って、不用心にも鼻歌混じりに角を曲がる。

 曲がった目の前に、統弥と夜辺がいる。

 泥棒もどきは目をぱちくりして、鼻の頭をかき、軽く会釈をして、体のむきを反転し、走り出す。

 夜辺がひょいっと足を繰り出して、転ばせる。漫画のように転んで額から着地した。上品な緑色の絨毯の上からなので、それほど痛くもない。


「ま、まってくだせえよ。あっしは、怪しいもんじゃないんで」

「そうだな。恰好と挙動と行動と顔つき以外は怪しくないな」

「顔つきは別に怪しくねえでしょう……母親譲りなんですぜ」

「母親譲り……」


 その言葉に反応して、ほぼ外れかけたほおっかむりの下の素顔を覗き込む。おちゃらけた半笑い顔と、こめかみ近くにある点線のような傷跡に、あっと声を上げる。


じょうじゃないか。お前、こんなところで何盗んでやがる」

「いやだな、人を盗人みてえに」

「いまのお前を見て、真っ当な仕事人に思うやつはいないと思うぞ」

「おい、知り合いかよ」


 そういえば、夜辺は磯月帖句いそつきじょうくと初対面だったか、と思い出す。

 統弥は少し考えて、簡単に紹介した。

 

「こいつは、盗人だ」

「違いますぜ⁉︎」

「そう変わらねえだろ」

「変わりまさあ! 変幻自在でさあ!」


 と、意味の分からないことを喚き散らす。

 小金のために小狡いことを色々やらかす小悪党だ。小が連続して並ぶ小心者で、誰ぞに金で頼まれて人に下剤を盛るなんてことくらいなら、やりかねない。


「あ、あっしは何も悪いこたあしてませんぜ。こいつぁお上の御用で、へい」

「ああ、そっちか」


 といいつつ、そんな気もしていた。

 帖句は軽犯罪で数度留置所に押し込められ、ある時三日ほど、とある暴力団の鉄砲玉と同じ牢で過ごした。そこでどんな無礼を働いたのか、娑婆に出た後その暴力団のチンピラ三人に殴る蹴るの暴行を受けたのだ。『地獄の責めってのああいうもんを言うんでしょうかねえ』と、いまでも思い出せば膀胱が緩むくらい震えあがる。

 襲われた時に助けに入ったのが、三崎火依みさきひよりという巡視中の警部補だ。

 その時以来、三崎の小間使いのような雑用を押し付けられたり、捜査の手伝いをして小銭を貰ったりしている。

 そしてまた、統弥も三崎の意を受けて捜査や犯罪者の追捕、もしくは殲滅に協力したことが幾度もある。時々、いやそこそこの頻度で暴れまわっても手が後ろに回らずに済むのは、警察との協力関係があるからだ。


「へへ、三崎の姉さまから聞きましたぜ。佐久良さくら高校の暴れ者を、四人のしちまったらしいじゃないですか」

「三人だ、一人は、健気な変態の手柄だからな」


 上杉はあの後どうなったのか、少し気になった。ちゃんとお天道様の下で歩けていればいいのだが。

 夜辺が、ああ三崎さんの目明しか、と納得する。夜辺も、道場内の若手で統弥と双璧を成す腕利きなので、警察からの協力を要請されることがある。ただ、懇意にしているのが三崎ではなく、その上司の長部噴霧おさべふんむ警部だ。

 

「で、結局ここで何してたんだ。三崎さんは、来てるのか?」

「いえ、ここにゃいませんよ」

「お前ひとりか」

「へえ。いやね、あっしもどこから手えつければいいか判断しかねてて」


 具体的な指示が与えられているのではないらしい。

 とりあえず、場所を移すことにした。

 回れ右して、屋外で話すことにする。不規則な煉瓦敷きの地面だ。冬に片足を踏み込んでいるこの季節、太陽は出ていても肌寒い。

 

「あそこに座ろうか」


 夜辺が、植え込みの縁を指さす。尻が冷たくなりそうだが、植え込みが死角になって目立たないし、すぐ片側は薄茶けた壁になっているので、前だけ注視していれば内緒話にはもってこいだ。


「へへ、寒いですね。一本いかがです?」

「お、気が利くな……生温い」


 微妙な熱を持つ缶コーヒーを渡される。


「懐で温めておきやしたぜ」

「秀吉か。今時その程度じゃ出世しないぞ」


 といいつつ、プルタブを開けてくぴりと飲む。生温い液体を、喉に絡みつくように嚥下する。寒いだけでなく、喉が渇いていることに今更気づいた。スポーツの応援というのは殊の外エネルギーを消費するらしい。

 帖句は夜辺にも緑茶缶を渡している。一体何本隠し持っているのかと不思議に思う。


「で、あっしがこの競技場で不本意ながらこんな泥棒の真似事をしていた理由ですが」


 と、不本意であることを念押ししながら話し始める。


「この競技場で、ここ半年くらい、おかしなことが起きてんですよ」

「というと」

「試合中に腹を下したり、頭痛を訴える選手が頻繁に出てきてるそうで。一応、極度の緊張で体がおかしくなんのは、めずらしかねえそうですがね」

「なんだって」


 征也たちの試合だけでなく、他にも急遽体調を崩した選手がいた。しかし、征也はそんな事を言ってはいなかった。


「どういうことだ」

「もちろん、メンタルのせいだって話で片付けることもできるんですが、三崎の姉さまが怪しいから調べて来いって」

「調べるったって、何を」

「さあ」

「……相変わらず人使いが荒いな」

「へえ、そうなんでさ」


 この広い競技場を、なんの当てもなく手掛かりを探せと言うのは無理難題としか言いようがない。かぐや様も驚きだ。

 ということは、三崎さんも大して期待していないんだろうな、と推察する。帖が馬鹿なことをしないように、仕事という体で行動を縛っているのだ。ろくでもない人間がろくでもないことをしでかすのは、金欠か酒に酔っているか、さもなくば暇な時だ。三崎は常々そう言っている。


「それに、この競技場、ちっと阿漕な噂もあるんでさ」

「うわさ?」

「改修工事と客離れで運営資金にも困る有様ですからね。ありがちっちゃありがちですが、競技を利用して裏で賭博をやってるって」

「ありそうな話だな」


 このご時世、賭博くらいでしょっ引かれることはまずない。時々警導と称して、無差別に数人引っ括ることはあるが、基本は見逃される。そもそも、国がカジノを誘致しようとしているくらいだ。射倖心を煽って経済を潤す、利用しない手はない。

 ――だが、選手に薬を盛って勝敗を操っているとしたら……。

 それが事実なら、度が過ぎる。金を稼ぐのは大いにけっこうだが、人の努力と夢を破壊してまでやるにしては、あまりに粗末すぎる話だ。


「だけど、多額の支援金で持ち直したんじゃなかったのか? 公式サイトには、そう書いてた」


 夜辺が言った。

 帖句が難しそうな顔をする。


「それが、怪しいんでさ。支援金をどっかの会社だか富豪だかから受け取ったってはなしは、四ヶ月くらい前のことらしいんですが……賭博のうわさが出始めたのも、その頃なんでさ」

「……支援金ってのは、真っ赤な嘘か」

「それに、こりゃ従業員の立ち話を聞き齧ったんですが、その援助した会社の名前を、誰も知らされてないんだそうで」

「変だな」


 変だが、やはり賭博程度で三崎さんが動くはずはないと、統弥は考える。それに薬を盛られたといっても、毒薬うんぬんではなく、薬局で買える下剤の類だ。


「とにかく、姉さまがそれなりに乗り気だってことは、大悪が関わってるか、さもなきゃ金になる話ってことでさ」


 三崎警部補は、悪徳とまではいかないが、金に汚い司法官である。もっとも、清廉な警官なんて、そうそういない。

 草薙総理の冷水法案は荒療治ながら、それなりの成功を見せている。本人が反対派をごっそり狩っているから、というのが大きいが。

 しかしそれでも、全く功を奏していないのが、役人の汚職対策である。大抵の悪党は公開処刑を恐れて大人しくなるが、役人はたとえ腹を切ることになっても蓄財と豪遊に走る。

 三崎警部補も、統弥の前でぐでぐでに酔っ払いながら、金欠の素面で生きるより上等な酒で酔っ払いながら腹切りたいじゃん、と言っていた。

 もちろんこの思想は、上司であり師匠である長部警部から伝えられたものだ。


「その話が本当なら、征也のチームメイトが襲われた理由も想像できる」

「襲われた?」


 帖句に、簡単に説明してやった。

 相手チーム主砲の急激な体調変化を不審に思ったのは、征也たちもおなじである。それを調べようとしていたから、これ以上踏み込むなと警告の意味を込めて襲撃したのではないだろうか。

 もし想像が当たっていれば、征也の身に危険が迫ることはないと思える。征也はこのことを知っているそぶりを見せなかったし、知っていて黙っていられる性格でもない。

 このまま、あの四人組の襲撃に間違いないということで終わらせるべきだと思った。

 ただ、征也のチームで襲われていないのが後三人いる。その三人が、狙われていないという確証はない。

 火種には、火の粉がかかる前に水を注いでおくべきだ。


「運動部の高校生とか苦手なんだけどな……まあ、奴らも怪我すんのは嫌だろうし、殴られる前に警告しておくか」

「それがいい。進んであやうきに近づく大莫迦が、義弟の周りにいたら安心できないだろうからな」

「何が義弟だ」


 急に空気が冷たくなった。

 太陽が、白い雲の陰に隠れたのだ。思わず足踏みしたくなるような寒さだ。


「冷え込んできやがった。あっしは、今の話含めて三崎の姉さまに伝えに行きやす」

「そうしてくれ」

「もし、競技場の運営から金を巻き上げられたら、羽澄のあにさんと宮下の兄さんにも、お裾分けが来ると思いやすぜ」

「だといいな」

「ほどほどにしとけよ」


 夜辺が心配そうに言う。

 帖句はさておき、三崎は強請りたかりの加減を心得ているプロの警察官だ。心配は何もないと、統弥は知っている。

 統弥はゆるりと吹く冷たい風を睨むように、斜め上を見上げる。華美な、しかし日本人の美意識に反しない建物がそこにある。和洋折衷ではなく、洋式をいかに受け入れられるデザインにするか、考え尽くされているのだと思う。

 戦前の文化の爛熟期に造られた建造物も、あと何年こうして形を保っていられるのだろうか。

 諸行無常にわずかばかり哀惜を憶えつつ、温もりを失ったコーヒーを飲み干して缶を握りつぶした。



 ――残るは一人。

 今、空へ手を伸ばすように道を開ける遮断機の前で、線路を横断し始めた男だ。

 なかなか男前な顔つきである。男っぷりなら、征也よりも上かもしれない。普段の表情に浮き出る、決然としたなにかが男らしく見せている。

 既に、征也と襲われた二人以外のうち二人には、顔を隠して、脅しつけた。余計なことに関わるな、妙なそぶりを見せたら次は殺す、と直截な脅しをかけておいた。市民が帯刀する時代、殺すという脅し文句は以前と重みが違う。二人とも硬直して震え上がっていた。一人は訳がわからないという反応だったが、もう一人は、涙目で手を引きますと誓った。

 最後の一人、苅田光人かりたみつひとこそ競技場の不法行為を疑って、仲間を誘い嗅ぎ回らせた張本人だ。

 正義感が強いのは素晴らしいことだが、反撃をねじ伏せる力もなしに叫ぶ正義は地獄へ消えていくことになる。

 地獄の釜の煮えたぎった湯に落ちるくらいなら、スポーツマンシップなんて捨てて仕舞えばいい。

 人気のない場所で背後から脅そうと、覆面を取り出す。しかし、妙な気配がする。

 人気のない場所へ、自ら進んでいるかのようだ。

 ――まさか、気づかれてるのか。

 誘い込まれているような感覚になる。

 しかも、部活帰りに行く道としては、物騒過ぎる道のりだ。むかし、ある会社が山を切り拓こうと開発に乗り出して、途中で倒産し、人足たちの居住地がそのまま残った限界集落である。

 朽ちた荷車の車輪や、野良犬の赤く光る目が散見される、恐ろしい夜である。その上、寒い。ただ冬の夜だからというわけではなく、雨でも降ってきそうな寒さだ。

 光人は、粗い砂利道を進む。

 二十時前に、こんな場所になんの用事があるのだろう。

 人目を忍ぶということは、ろくな事ではあるまい。それが善事であれ、悪行であれ。

 予想通り、身を刺す雨が落ちてくる。

 人が増えた。やはり誰かと待ち合わせていたようだ。

 何か話し込んでいる。

 かなり小声で、身を隠せるぎりぎりの位置まで近づいても聞き取れない。

 ただ、話し相手がかなり大柄であることは確認できる。大柄な男は、とても怯えているようだ。


「頼む、話してくれ。もし予想が当たっていたなら、見過ごすわけにはいかないだろ」


 光人の声が昂った。

 その声に反応するかのように、統弥が身を潜める木箱から斜め前の小屋の扉ががらっと開く。ほとんど朽ちかけた、腐れ板のような扉だ。

 中から現れた人物を見て、光人の目が見開かれる。そして、大柄な男を鋭く睨みつけた。


「まさか、この場所を知らせたのか!」

「わ、悪いとは思ってるよ。だけどなぁ、逆らうべき相手じゃないだろ。薬を盛られた俺自身が納得してるんだから、それで手を引いてくれていいだろ……」

「残念だが、無傷で引き返すには茨の奥に進み過ぎた」


 小屋から現れた男が無情に告げる。

 その顔が、統弥にもはっきり認識できた。

 競技場でコートを抉り続けた巨砲、櫂ノ木直胤である。

 なぜ、社会人選手の巨頭がこんな場所にいるのか。

 親切なことに、理由は自分からペラペラと話してくれた。


「ギャンブルで身を持ち崩してな。なまじ稼いでたばっかりに、作った借金も大きすぎた。それで切羽詰まって社長に泣きついたら、さすがに商売人は違うな。怒るどころか、賭博で一儲けしようかと言って八百長賭博を始めたってわけさ」

「じゃあ、黒幕は大泊おおどまりセラミックスの……」

「ああ、そうだ。お前の試合、テレビで見てたぞ。余計なことを気にせずに一心不乱に練習を重ねてたら、いずれは大成したかもしれないのに……言った通り、もう引き返せないぜ。お前の四肢は棘だらけの茨でがんじがらめだ」


 櫂ノ木が、鈍器を取り出す。鳶口のような形状だ。当たり所と力の入れ具合で致命傷にもなりかねない。


「お前の友人……木月だったか? あいつだけは、無駄なことを気にせずに次の大会に向けて鍛錬を積んでいるそうじゃないか。あれはいい選手になる。お前は、もう無理だな。悪いが腕と足、一本づつ折らせてもらう。二度とこの件に関わろうなんて気を起こさないようにな」


 闇夜に、不気味な目が光る。冷たい雨の中、大柄な男が「すまない」と言って、逃げ道を塞いだ。

 冷厳な宵闇を焦がすように、光人が気炎を吐く。

 

「あんたに憧れてる人が大勢いる。こいつだって、きっとそうだ。それを、あんたは……」

「ああ、ギャンブルなんかに狂う野郎は大馬鹿だ。その大馬鹿を利用する側に立って、俺は賢明に生きることにした」

「くそっ」


 光人がつかみかかろうとする。

 その襟を大柄な男が掴み、閉められた喉から熱い息が白く漏れる。

 雨の夜空に、櫂ノ木が跳躍する。疎らに立つ粗末な小屋の庇と同じくらいの高さに飛び上がり、重力と遠心力を込めて鈍器を振り下ろす。

 狙うのは肩だ。当たれば砕けて、一生使い物にならなくなることは必定だ。

 ここで、統弥が飛び出る。

 ぬかるみ始めた地面を蹴って、地を掠める燕のように低く鋭く跳躍する。

 鈍器が肩にたどり着く前に、櫂ノ木の姿勢が中空で反転する。

 後頭部からぬかるんだ地面に落ちて、呻きもせずに泡を吹く。

 足が、とんでもない方向に曲がっている。まるで骨が綿に詰め替えられたように、ぐにゃりと歪んでいる。

 抜いた刀の峰で、膝を痛撃した。光人の目には、横合いから現れた怪鳥の翼に叩かれて吹き飛ばされたように見えた。


「何が……」


 大柄な男が呆然と立っている。悔いるような、安堵したような、苦い表情になって、地面に膝を屈する。

 雨が冷酷に注いで、夜が深みを増していった。野良犬の遠吠えも、震えて聞こえた。




 その後の動きは早い。

 三崎警部補の主導で、アヴェ・エンペリアル競技場と大泊セラミックスに手入れが入った。セラミックス社長の大泊粉介おおどまりこなすけと競技場の主だった運営委員が逮捕された。

 初めは櫂ノ木のさじ加減で試合を動かして稼いでいたが、欲をかいた大泊と運営委員が他の選手にまで手を伸ばして抱き込んだり、脅し上げたりした。脅し上げる役目は櫂ノ木だ。

 あの大柄な男も、下剤は脅されて自分で飲んだものだと白状した。ドリンクに混じっていたのではなく、錠剤とともに飲み下したのだ。

 競技場の方は抵抗もなく簡単に連行することができたが、大泊セラミックスはそうもいかなかった。

 さすがに大会社なだけあり、屈強な用心棒が数十人がかりで社長を逃がそうと必死で戦った。

 捕物で獅子奮迅の活躍を見せたのが統弥と夜辺だ。夜辺も、長部警部から借り受ける形で参戦した。

 既に捕縛されて、片足を浮かせた櫂ノ木の証言もあり、大規模な八百長賭博と襲撃事件は検察所へ送検されることになった。

 動いた金が意外なほど大金であったことと、独断専行のきらいがある社長を常々忌まわしく思っていた大泊の理事会が見放したことで、有罪はほぼ確定と見られている。悪くすれば、数人打ち首になるかもしれない。

 このニュースを聞いて、征也は驚くやら喜ぶやら、悲しむやらで大忙しだ。


「あの櫂ノ木選手が、こんなことをするなんて信じられない。あの力強いプレーに励まされた人だって多いのに」

「偶像なんて、そんなもんだ。表だけ見ても、なんにもわかりやしない」

「それにしても、本当に警察に協力してるんですね……凄い」


 この純真な男は、統弥の事をかなり尊敬している。今回も自分たちのために動いてくれたと思い込んでいるらしい。

 この一件で少なくない金が転がり込んだ身として、申し訳ない気持ちになる。現社長が犯罪の首謀者とあっては、いくら殺伐とした世でも会社の評判はがたおちだ。そこで、大泊セラミックスは一年前にさかのぼって、大泊粉介社長は退任して甥が社長の椅子に座っているとでっち上げることにした。一年前、というのは粉介社長がメディアに露出した一番新しい時期だ。

 もちろん、それには工作が必要で、三崎警部補にも賂が送られてきた。

 そのおこぼれを、統弥と夜辺と帖句で分けた。この上純粋な感謝を向けられても、両腕がふさがっていて抱えきれない。


「だけど、あの櫂ノ木の言い分にも、もっともな部分がある。余計なことに首を突っ込むのは莫迦のやることだ」

「でも統弥さんは、首を突っ込んでくれましたよね。鈴鹿に頼まれた用心棒の仕事も終わってたのに」


 そこは、統弥本人が不思議に思っている。関わらずに済ませられることだった。結果的に財布が潤ったが、金の当てがあって始めたことではない。

 ただ、久しぶりに、刀を抜いたときに高揚を覚えた。峰打ちで、斬ったわけではない。高揚の正体は、他者のために武力を用いることからくる快感だ。

 他人の危機を、颯爽と攫っていく救世主。誰でも一度は憧れるものだ。

 冷水法案では、自力救済とともに利益を求めず、純粋な救済を目的として、他者を救うために用いる暴力も許容される。用心棒が認められる根拠だ。

 世のため人のためを我が物がおに振り回せるほど真っ直ぐな性格をしていないが、それでも余計なお世話を焼いたことに、後悔はなかった。


「まあ、鈴鹿の態度が少し柔らかくなったし、それでいいか」

「あ、そういえば鈴鹿からこれ、持たされたんです。珍しく気を利かせた兄貴に渡してくれって」


 緑色の紙袋から、白い紙箱が取り出される。

 洋酒の香りが、開かないうちに鼻腔を撫でる。

 開けてみれば、白い粉を吹いた茶褐色の礫が詰まっている。


「マロングラッセ」

「鈴鹿、奮発したんだなあ。普段我関せずの統弥さんが気にかけてくれたって、喜んでましたよ」

「やめろ、そんな話は聞きたくない……おつかいついでに、うまかったって伝言しといてくれ」


 まだ口に入れてもいないうちから、仏頂面でそういう統弥を見て、微笑ましく思う征也であった。

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妹のデートに用心棒としてついて行くことになった 大魔王ダリア @mithuki223

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