妹のデートに用心棒としてついて行くことになった

大魔王ダリア

第1話 水族館デート

 空を見上げれば、揺れる青の中で悠々と魚が泳いでいる。


「鯵に、鯖に、鰈に、鱧に……腹が減った」


 羽澄統弥はすみとうやは胃の腑が叫ぶ悲鳴に悶える。

 煮ても焼いても美味しく食えそうな魚群が、百八十度泳ぎ回っている。

 煩悩を振り払うように、視線を戻す。

 統弥の視線の先には、ひと組のカップルがいる。

 白いベレー帽を被った小柄な女と、緑色のパーカーを着た中背の男だ。

 ベレー帽の方が、統弥の妹で、鈴鹿すずかという。兄の贔屓目を抜きにして、稀に見る美形だと思っている。

 その隣に立つ彼氏が木月征也きづきゆきやという。付き合って二ヶ月、デートは六回目。

 それに兄の統弥が巻き込まれるのも、六回目である。

 征也は統弥がついてきていることを知らない。絶対にバレないようにしろと妹に厳命されている。

 せっかくのデートに用心棒がいるなんて、心の荷物にしかならないでしょ、と悪びれもなく言ってのけた。


「ねえ、南国コーナーだって。行こうよ」

「へぇ~、いいね」


 腕を組み合っている妹と顔しか知らぬ男を見ていると、朝から何も食べていないのに胸やけしてくる。

 ――大体何なんだ、あの取ってつけた笑顔は。家の中じゃ鬼も蛇も恐れる夜叉の化身みたいな顔してるくせに。

 統弥の心中は不満であふれている。

 別に、妹がどんな男と付き合おうが知った事ではない。しかし、デートするたびに用心棒として駆り出される統弥にしてみれば、自分と恋人の身くらい片手で守ってやれるような屈強な男と付き合ってほしいものだと思う。

 征也は鈴鹿と同じ高校でバレー部のレギュラーメンバーだと聞いている。運動部らしく引き締まった体つきで、体を支える体幹もしっかりしているが、腰の粘りが足りない。いざ荒事に巻き込まれたら、大仰な立ち回りを熟すことができないだろう。

 ――夜辺あたりと付き合えばよかったのに。何が不満だったんだろう。

 宮下夜辺みやしたよるべは、統弥の道場仲間だ。見た目は細いが、いざとなると山崩れのような重い攻撃を連続で繰り出せる。彼とのデートなら、用心棒なんて不用のはずだ。

 周囲を見渡せば、デートルックスの男女連れや呑気に騒ぐ子供連れの家族だらけだ。

 統弥の格好は浮いて仕方がない。

 黒の着流しに、同じく漆で黒く塗った鞘と、それに収まった二尺三寸の名刀、白樫包永しらかしかねなが。脇差は京極政宗きょうごくまさむね。どちらも四国の大貴族京極氏ゆかりの業物である。

 年号が令和に変わってはや数年が過ぎた。

 長く続き、停滞した平和に馴れた国民は日々を漫然と暮らし、生産力、技術力は海外に追い抜かれて年々差を開かれ、日本は国際的に嘲弄の的になっていた。

 その状況に一石を投じたのが、時の草薙元康くさなぎもとやす内閣である。

 草薙総理大臣は、いま日本がこうして堕落してしまったのは、戦国の気風を忘れ去り、泰平の枕に顔をうずめているせいだと唱えた。

 そして、いつまでも起きようとせぬ国民の顔に目覚めの冷や水をぶちまけようと、俗にいう『冷水ひやみず法案』を国会に提出した。

 内容は多岐にわたるが、大事な部分を抜き出すと、


 ①銃刀法の廃止。刃物類の所持を無制限に許可する。国民に対して、刀剣による自己防衛を推進する。銃に関しては、拳銃程度の小型のものは届け出を提出すれば所持可能とする。ライフル銃など、殺傷能力、破壊能力が強すぎるものに関しては原則所持禁止とする。

 ②自力救済の推奨。司法面で国家の負担を減らすために、小さな揉め事の解決に関しては個人間において平和的、もしくは暴力的な解決を推奨する。その結果負傷者、死傷者が出たとしても、他方がもう他方の権利を侵害している又は双方に暴力的解決に足りる争点であるとの認識があれば司法は関与しないとする。

 ③公開処刑の再認。暴力的気風が先立ち治安が悪くなる恐れがあるため、重犯罪を犯した者は最高で斬首のうえ晒し首に処すことを可能とする。また、公務員に限り、犯罪行為や公務執行不行き届きが認められた場合、切腹に処することを可能とする。

 ④武芸の推奨。そもそも、自分の身は自分で守るべきものである。日本男児たるもの、いつ命を落とすかもしれないと自覚し、いざというとき不覚後を突かれぬように鍛えておかなければならない。


 と、こんな具合だ。

 議会は大荒れだった。あまりに前時代的だと、反対の声が続出した。一方、少ないが賛成に手を上げる者もいた。

 議決の前に、草薙大臣が国会に乗り込んで、テレビ局の生中継で全国に映像が流れる中、反対に手を挙げた軟弱者どもを片っ端からなで斬りにした。議事堂全体に血の臭いがこもり、結局国会は現住所に新築、移転された。現在は廃墟になり、心霊スポットとして人気を集めている。

 反対派がゼロになったので、当然冷水法案は可決され、施行された。

 国民もまた反発した。

 例えば、こんな問答があった。


『総理。可決された冷水法案について、反対の声が高まっているようですが、どう思いますか』

『反対ですか。自らの命と権利を自ら守れと言っただけなのに、反対ですか。それこそが堕落の証左』

『自力救済を認めては、司法の存在価値がなくなるという意見も出ています。どう思いますか』

『司法の役目は、国民の皆さんが死体となったとき、その犯人を死体にすること。自らを死体にしないために行動するのは、自らでなくてはいけない。これからは、そうなります』

『公開処刑について、死刑反対派から反発の声があります。どう思いますか』

『公開処刑制度を採り入れなければ、凶悪犯罪が続出しますよ。私は国民の皆さんが戦国の気風を思い出し、なおかつ現代的秩序の中で暮らすことを願っています。自らを、もしくは他人を救済するために実力を行使するのは尊い行為。しかし私利私欲に走った犯罪を容認することはできません。凶悪犯罪には極刑で臨まねば』

『公務員のみ切腹とは、どういうことでしょうか』

『私が総理大臣に就任した際、一番目についたのが役人の怠慢でした。彼ら彼女らは公の看板を掲げる身。そのような立場の者が違法行為を働いた際の責任は、一般市民よりも重いというのは当然のことです』

『日本国憲法の『残酷な刑罰の禁止』に抵触するのではないかという批判もあります』

『残酷な刑罰。そのようなことを言う前に、まず歴史を学んでください。日本史でも中国史でも西洋史でもイスラム史でも構いません。本当に残虐な刑罰とはどんなものか、斬首晒し首が本当に残虐と呼ぶに値するか、考え直してください』


 無礼で有名な日本のマスコミも、この時ばかりは慎重だった。記者会見の時も、大刀を肌身離さず携えていたからだ。

 このようにして、日本に荒々しい戦国の気風が吹きこんできた。

 もっとも、まだまだ帯刀や刃傷沙汰に慣れない者も多い。

 一時期は刃物や拳銃を用いた犯罪が急増したが、実際に悪人が衆人環視のもと公開処刑に処されると、それも数を減らした。日本の死刑制度が意味をなさなかったのは、誰も見ていない暗い部屋の中で絞首刑に処すからだった。

 日本刀で首を落とされる瞬間を生で見せられれば、自分はああなりたくないと中途半端な悪党は大人しくなる。それでも凶悪犯罪を犯すような輩は、どんな法の下でも凶悪な輩だ。

 というわけで、統弥が腰に業物を落として周囲を警戒しながら歩いていても特段おかしくはない。ただ、水族館にデートに来るような連中は武装と縁がない様子で、統弥のことを水族館が雇った警備員だと思っている者もいる。

 さっきも親子連れに、自動販売機の場所を聞かれた。たまたま記憶にあったので、教えてやった。


「腹が減った」


 また呟く。

 前を歩く妹カップルは、さっきうまそうにご飯を食べていた。

 統弥もよほど食べようかと思ったが、ぐっとこらえた。値段がありえないほど高い。大してうまくないであろう唐揚げやパフェが四桁の値札を下げていた。

 妹の命令を突っぱねられない理由は、金である。用心棒として提示される金額がかなり有難い額なのだ。

 統弥はかなりの借金を背負っている。

 初めはコンビニ強盗と遭遇した時だ。暴風雨のように暴れ狂い、三人組の武装強盗を叩きのめしたが、店もまた叩きのめされた。

 一応かなり大目に見てはくれたものの、弁済を迫られてスーパーでバイトを始める。しかしそれも、万引き犯を捕まえて店内でフルボッコにした挙句、大量の商品とレジを四つ破壊して、弁済と解雇を告げられた。

 その後もどうにか稼いで返そうと前向きになればなるほど借金と出入り禁止の店が増えていくばかり。

 ひとえに血の気の多さが原因だ。

 こうして膨れ上がった借金は、用心棒や内職で得た金でどうにか返済している。

 とても、千円を超える昼食を摂っている余裕はない。

 妹カップルは南国コーナーを満喫している。

 黄色と黒の縞模様の魚が目立つ、円柱形の水槽の陰から見張る。駕籠舁鯛かごかきだいだ。極彩色で、下手すると毒でもありそうな見た目だが、実はかなり美味な食用魚である。統弥は、癇性な反面、趣味は釣りと穏やかなものである。

――そういえば釣りにも久しく行ってないな……

 余裕がないのだ。心の余裕は、ある。借金程度でいまさらガタガタ喚くことはない。生きることはすなわち借金であると若くして悟った。並いる自称常識人だってくだらぬ事に金を使うし、健康を質入れして酒を飲むではないか。

 ――俺はやるべきことをやっただけなんだから、何も恥じることはない。

 と、自己肯定感の強いところを見せる。

 実際に、統弥の活躍で刑務所送りになった悪党はかなり多い。しかし、統弥自身が警察のお世話になった回数もどっこいだ。しかも、悪党は必ず一度病院送りになってから護送されてくるので、いつも先に統弥が送られる。今や警察官とはつうかあの仲で、取調室で将棋をさすまでになった。

 統弥は、二人を追いつつ、南国コーナーと称した空間をなんとなしに見物している。

 おかしい、と思った。

 ――半分くらい、南国が関係ないやつがいる。

 駕籠舁鯛だって、生息域は北半球の方が広い。『色とりどりの熱帯魚』と銘打たれた水槽に、地中海限定の魚が我が物顔で泳いでいる。出身より、色鮮やかさを基準にしている気がする。

 担当者が適当な奴なんだろうと思った。

 しかし、誰もそんなことは気にしていないようで、『あのお魚きれいだね〜』だの『君のほうが綺麗だよ』だのと何もない胃の中身を吐きそうな会話をしている。

 ――どうみても、その女より魚の方が綺麗だろ!

 と、身も蓋もないツッコミを心の中でいれる。その後、美的感覚は人それぞれだよな、と自分の感覚を押し付けたことを反省する。

 続いては、水族館の帝王、鮫が泳ぐ巨大水槽だ。

 映画館のスクリーンのような巨大水槽を奥を雄大に泳ぐ鮫の姿に、統弥は初めておお、と声を出して感動する。

 統弥にとって、今まで見ていた魚は川や海で釣り上げる対象であった。だから、本命か外道か、食用かそうでないか、といった視点で見てしまう。純粋に鑑賞して楽しむ感覚が欠けているのだ。

 しかし鮫ともなると釣りの対象ではないので、自然に感動することができる。


「すごい……」


 近くにいた二十歳くらいの、気の弱そうな男が思わずと言った感じでつぶやく。

 男にちらっと目を向けると、鮫に目を奪われているようだ。

 もう一度水槽に目を戻して、水槽の中で作業をしているウェットスーツ姿の飼育員に気づいた。

 鮫は意外におとなしいと聞くが、いざ目の前にあの巨躯が迫ったと考えると、心穏やかではいられない。そして野生動物は心穏やかでない人間がそばにいると、気が立つものだ。

 統弥は国の方針に賛同して、剣や槍だけでなく馬術も身につけている。その経験から、どれだけ温厚な馬でも乗り手の精神状態によって暴れ馬になることを知っている。いや、乗らずとも、気を荒立てたまま近づけば、鞍をつけることすら許してくれない。

 鮫とて同じだろう。いや、鮫は恐竜と幼馴染の原始的生物だ。より本能的に、身の危険には敏感に対応するだろう。


「あ……綺麗だ」


 隣の男が、また思わずといった感じで声を出した。

 その顔がだらしなく緩んでいる。

 上着のポケットから、水族館のフリーパスが半分見えている。結構値が張った記憶がある。よほど頻繁に通い詰めているようだ。

 ――目当ては鮫じゃなくて、鮫の世話するお姉さんか。


「バイトに応募してみようかな……」


 ぼそりとつぶやいた。

 どういう経緯か知らないが、鮫の飼育員に相当惚れ込んでいるらしい。

 鮫なんて目の前にしたら、心臓が止まってしまうんじゃないかというほどの、気弱な雰囲気だ。妹やその彼氏より、よっぽと用心棒が必要な気がする。

 ふと思い出して、妹カップルの居場所を探す。

 鮫の水槽の前から、非常口案内の看板下を通って深海魚コーナーに向かおうとしていた。


「あ……」


 残念そうな呟きが隣から聞こえる。飼育員が水槽の上部に見切れたのだ。作業が終わったらしい。

 ――面接、がんばれよ。

 何やら決心したらしい顔を一瞥して、二人の後を追った。

 非常口看板の下で、通路が直進と左の二つに分かれる。左の奥に進むと非常口、両側面に関係者以外立ち入り禁止の部屋がある。

 片方は鮫の水槽のすぐ横に位置する部屋だ。おそらく、水槽内の温度調節や水質管理などの機械があるのだろう。ブオォンという機械の作動音が不断に聞こえる。

 深海魚コーナーは、かなり暗い。照明を絞っていて、壁が黒く塗られている。おまけに壁の一部が岩肌のようにゴツゴツと盛り上がっている。深海の環境をあしらったのだろう。

 統弥はすぐに、暗闇に目を慣らした。普通、危険は夜に襲う。戦国回帰が声高な世の中といえど、どこぞの漫画のような世紀末世界ではない。強盗、恐喝、辻斬りといった直接的危険は、暗い時間、暗い場所で行われる。

 よって、自らの身を守るためには、いちはやく暗闇に順応する技術と、暗闇の中少ない視覚情報で戦う技術が求められる。

 統弥の通う道場では、十人余りが目隠しして乱闘を繰り広げる荒稽古を月に一回行う。『ブラインドロワイヤル』と門弟の間で呼ばれている。

 もし、妹を襲う物好きがいるならば、こういう場所だろうと思った。

 暗闇の中目を凝らす。

 見られていないと思い込んでいるカップルが、不埒な行為に及んでいる。唇から、透明な粘液が糸を引いていて、思わず目を逸らした。逸らした先には、服を弄り合うインモラルカップル。何もここでやらなくてもいいだろう、と背後でのっそり動く深海魚がジト目を向けている。

 ――あれは。

 鈍い光を見た。暗いが、一応提灯鮟鱇ちょうちんあんこうをかたどった照明がある。

 その照明に、ぬらっと光る刃が見えた。

 すぐに消えて、見失う。光を見たあたりには、四人くらい人がいて、誰のものか分からない。

 ――確かに、誰かが刃物を持っていた。

 勘違いではない。他はいざ知らず、刃物の鈍い輝きは、どんな状況でも見分けられる自信がある。ヘアピンや缶バッジを見間違えたなんてことは、ないと言い切れる。

 ――だけど、殺気はなかったよな……俺に向けられてないから、気づかなかっただけか。

 こちらには、あまり自信がない。他人の気配や視線を読むのは不得手なのだ。自分に向けられた視線はまだしも、他人が他人に向ける視線にまでは気が付かない。

 それに、いくら暗がりでも、水槽から目を離して細めれば、それなりに視界は確保できる。刃物で人を傷つければ、絶対に気付かれるだろう。

 暗く閉塞した空間を演出するために、深海魚コーナーには出入り口が二つしかない。


「そろそろ次行こっか」


 鈴鹿の声が聞こえた。

 入ったのとは別の出入り口から、コーナーの外に出る。

 長い通路を通って、明るい場所に戻った。

 次は、『極地特集』だ。この水族館の目玉で、北極圏、南極圏の海棲生物を特集しているらしい。公式ウェブサイトではわざわざ特設ページを設けている。かなり力を入れているようだ。

 超低温の水温や、リアルな氷山を再現している。

 南国コーナーとは比較にならない力の入れようだ。水の中には及ばないが、寒い。統弥は思わず手を擦り合わせた。


「寒いね……」

「手、繋がない?」

「うん……」


 妹の、こんな会話を聞かされる兄の気持ちといったら、氷山よりも冷え冷えとしている。

 ――鈴鹿め、俺がいることを都合よく忘れてるんじゃないだろうな。

 もしそうなら、統弥の隠密ぶりが板についているということであり、褒められるべきことだ。陰から守りつつ、気取られるなとの命令を守れているということだから。

 しかし、寒い中『寒いね』と言える相手がいないのは、すこぶる寒いものである。

 わざわざ十一月に見にくるようなものなのか、と文句をつけたくなる。他にもデートに適した場所なんて山ほどあるだろうに。

 しかし、極地特集コーナーは常設展だ。この極寒を年がら年中管理している者がいるのだ。温暖湿潤な日本に生まれて、年間を通して極地の気候と向き合うことになるとは、水族館の職務の過酷さが偲ばれる。飼育員に見惚れていたあの青年は、耐え切れるだろうか。


「綺麗だけど、寒いね……」

「うん。この寒さの中に暮らす魚を尊敬するよ」


 征也が言うと、小さくくしゃみをした。

 あまに長居をすれば健康に響くと、二人は名残惜しみながら場を離れた。

 建物の外に出た。

 十一月、霜月とも呼ばれる。今年はやや暖冬だそうだが、極地から抜け出してきた肌には温水のように優しい空気の温度である。

 付近にいる人は、みんな気持ちよさそうな顔をしている。

 征也がトイレに行きたいと言い出して、二人は開けた広場を右に進む。売店や自動販売機、白い円卓と椅子の食事スペースが設けられている。トイレは、売店に併設されている。

 売店の反対側、統弥から見て左には大きな扉がある。ちょうど館内を一周した形になり、扉の奥には入退館受付がある。

 征也が男子トイレに姿を消す。鈴鹿はそれを確認して、統弥を手招きした。こっちに来い、ということらしい。


「なんだよ」

「どう?」

「どうって、なにが」

「変なやついない?」

「公衆の面前でキスしたり、体を触り合ってる変質者ならいくらでもいた」

「は? そんなのは聞いてないから。じゃなくて、征也を狙ってるようなやつ、いなかった?」

「いなかったと思うけど……なんだ、お前じゃなくてあの彼氏の用心棒か」


 確かに、考えてみれば、勝ち気な妹が自分のために兄に頼み事をするとは思えない。それに、もし危険が迫っても、鈴鹿ならばそれこそ鮫のように噛みついて引きちぎるくらいのことはしそうだ。

 六回もデートに付き合わされたが、そういえば何を恐れているのか、まだ知らされていなかった。金さえもらえればそれでいいと思って聞かなかった。


「あ、言ってなかったっけ。征也がバレー部なのは知ってるでしょ」

「前に聞いたな」


 兄を兄とも思わない暴妹も、彼氏は彼氏扱いしていて、機嫌がいいと聞いてもいない惚気を聞かせてくる。

 鈴鹿が通う高校は、そこそこ運動部が強く、強豪校として名を馳せている。

 バレー部も、何度も全国大会で活躍した実績を残している。去年と一昨年は惜しくも敗退したが、今年は二年陣の活躍が目覚ましく、全国三位に輝いた。

 そんな強豪バレー部のレギュラーとして大活躍した彼氏を、ことあるごとに自慢してくる。

 そんなことを聞いても、腹の足しにも借金返済にも役立たないと、常から苦々しく思っている。


「征也は、今年の全国大は絶対に優勝しようと必死だった。部活のチームはみんな、必死に頑張ってた。あんたがのんべんだらりと夜釣りなんかしてる間にね」


 鈴鹿は統弥の釣り趣味を、あまりよく思っていない。特に夜釣りから帰った後は、家の中に海のにおいを持ち込むなと文句を言われる。

 夏の間、暖かい夜を東京湾の海上で過ごす心地よさを知らないなんて、勿体無いとしか思えない。


「それで、なんだ」

「全国大会の三回戦で、怪我人が出たのは知ってる? 知らないよね」

「知らない」

「やっぱり。妹の彼氏なんて、興味ないもんね」

「そんなことよりもっと気にしなきゃならんことが色々あるんだよ。それで、その怪我人がどうかしたのか」


 鈴鹿は男子トイレを気にしながら、手短に説明する。

 その試合で、征也たちのチームは劣勢に陥っていた。相手のうち二人、化け物のような強さの選手がいたのだ。

 その二人が、休憩中に腹を押さえて悶絶し始めた。ドリンクに下剤が混入されていたのだ。

 主力戦車砲を二門失った相手チームは瓦解するように敗北した。相手は異議を申し立てたが、いざドリンクを調べてみても下剤の痕跡が見当たらず、妨害工作の証拠が認められなかった。二人の選手は急な体調不良とされ、征也たちは順調に勝ちを重ねていくのを爪を齧って眺めているしかできなかった。


「それで、報復されるかもしれないと警戒してるわけか」

「てか、もうされてる。全国大会のメンバーが二人闇討ちされた」

「なるほど」

「確かに、みんな気は昂ってたけど、汚い手を使って勝ちにいくほど腐ってないから。兄貴とは違ってね」

「いちいち噛みつくなよ。可愛げがないやつ」


 スポーツは戦争の代理行為のような一面がある。その意味で、卑怯も糞もないと言う意見は、統弥もおおむね賛同するところである。

 しかし、人は無秩序に流れる本能とともに、秩序を重んじる心を併せ持たねばならない。

 闘争を規律に則って行うのがスポーツである。多少その規律を逸脱する行為は、穏やかな背徳感として高揚を煽る。しかし、薬を盛って相手の戦力を殺ごうという策略は、興醒めものだ。観客だって、コート上の戦いを見たいのであって、そんな盤外の争いで決着がついては席を離れたくもなるだろう。


「やってないのか」

「……少なくとも征也たちは関係ない」

「ってことは、他の誰かがやった可能性があるってことか」

「それは、そう。だけどそれで、征也たちが襲われるのは理不尽じゃん。だから、腕っぷしだけは立派な兄貴の手を借りたわけ」

「ふーん」


 気の抜けた返事に、鈴鹿の額に青筋が浮かぶ。


「そんな睨むなよ。聞いてたから」

「なんかムカつくんだよね。征也のこと話してもまったく興味なさそうじゃん。そろそろ引き合わせようと思ってるのに、そんな態度じゃさ……」

「なんで引き合わせられるんだよ」


 いかにも、嫌そうな顔で返す。

 今まで散々尾行していた相手と、初対面のフリをしなければいけないなんて、ストレスが溜まるだけだ。たいして話したい内容があるわけでもなし、勝手に交際してそのうち持ってってくれれば御の字と、そんな認識だ。


「会いたくないなら、会わせないよ」

「それで頼む。気まずいだけだ」

「結婚式にも呼ばないから」

「気の早いやつだな。別にいいさ、めでたい席は苦手なんだ」


 まだ何か言い足りないようだが、男子トイレから緑色のパーカーが見えて、統弥はすぐに三歩離れた。

 征也は怪しむことなく鈴鹿に笑いかける。


「待たせてごめん」

「ううん。だいじょぶ」

「この後どうする?」

「お土産見て、いいとこで解散しようか」

「そっか……わかった」


 二人は売店に入っていった。

 統弥は店の中に入らず、売店の中がガラス越しに見える椅子に座る。白いプラスチック製の椅子だ。同じく白い机を三つの椅子が囲んでいる。

 飯時でないため、座っている人は少ない。

 頬杖をつき、店を眺めながら、考え事をした。

 気になることがいくつかある。

 つらつら考えていたら、横から会話が聞こえてくる。

 若い女の声だ。若いと言っても、二十代半ばだろう。統弥はわりと年長者に囲まれて生活しているので、若さのハードルが低い。


沢北さわきたちゃん、やっぱりまだ……」

「昨日も五通。警察にも相談したんですけど」

「動いてくれないよね。元々、ストーカーって実被害がないうちは動いてくれないのに、自衛が当たり前になってからは更に動いてくれなくなったし。警察が聞いて呆れるよ」


 ストーカー。

 穏やかならぬ単語が聞こえ、顔を向ける。

 二人とも、私服姿だ。

 女の顔はさっき見たばかりだ。鮫の水槽にいた、飼育員である。化粧もしていないのに、美しい顔立ちだ。あごや頬がつるんとしていて、肌の悩みと無縁そうである。

 男は、恋人ではなさそうだ。四十代半ばで、結婚指輪をはめている。沢北と呼ばれた飼育員ははめていないので、男女関係ではないだろう。雰囲気に爛れた感じはない。

 休憩時間にユニフォームを脱いで、上司にストーカーの悩みを相談しているようだ。


「物を盗まれたとか、身に覚えのない噂を流されたとか、そういうのはあったりする?」

「それはまだ……」

「だよね。私もそんな噂をを耳にしたことはないから」

「ごめんなさい」

「謝ることはないよ。直接被害がないことを、なんで謝るんだ」

「直接……でも、いっつも視線を感じるんです。今も」


 統弥は慌てて目線を逸らした。

 元々半分視界に収める形で見ていたので、気付かれなかったようだ。


「あの着流しのお客さんじゃないだろうね……」


 ばっちり怪しまれている。

 視線はともかく、怪しい格好には間違いない。国の方針に従っているとはいうものの、和装に人斬り包丁を佩いた格好はまだまだ浸透していない。


「違うと思います。前に、視線を感じて振り返った時、半身だけ体が見えたことがあるんですけど、背が低くてパーカー姿だったので」

「そうか」


 その会話を聞いて、思い浮かんだ顔がある。

 背が低くてパーカーといえば、今日出会った中に一人いる。あの気弱な青年の顔を思い浮かべる。

――ただ惚れてただけじゃなくて、暴走してたか。

 そんな大それた行動に出られるようなタマではない。しかし、一歩踏み出せない性格だからこそ声をかけられず、尾行や差出人不明の手紙で感情を発散させようとするかもしれない。

 統弥は視線を回して、自動販売機の陰からこっちを伺う男を見つける。

 表情も読み取れる。とても不安そうな表情だ。相談を受けている上司を、恋人だと勘違いしているのだろうか。あの距離では結婚指輪も見えないだろうし、そもそも冷静な判断が下せるようならストーカー行為なんてしない。


「そろそろ休憩時間が終わりますね」

「戻るか。人に囲まれて仕事をしてれば、何かしてくることもないだろうし」

「そうですね……」


 二人は仕事に戻ろうと立ち上がった。入退館受付の方の扉に向かう。ちょうど、鈴鹿と征也が売店から出てくるところだった。

 気弱な青年(ストーカー属性)は、自販機の陰からこそこそと出て、おっかなびっくり後をつける。挙動不審だが、なぜか目立たない。見た目が陰キャなせいで、挙動不審がデフォルトみたいに見える。

 昼飯時でないために、食事スペースには人が少ない。

 鈴鹿と征也が食事スペースのそばを通ろうとした時、奥の建物から四人組が飛び出してきた。

 揃って鬼面を装着したような、恐ろしい形相だ。

 四人とも筋肉逞しく、深海魚コーナーで見た光の正体も持っている。刃渡り十五センチくらいのソビエト式ナイフだ。軍人が常に持ち歩いている、刺突にも投擲にも用いられる危険なナイフだ。


「木月征也ァ! 覚悟しろォ!」


 先頭を駆ける男がナイフを逆手に持ち、振りかぶって征也に突撃する。

 統弥が動いた。座ったまま跳び、反動で軽いプラスチック製の椅子が後ろに倒れる。

 征也の前に飛び出して、振り下ろされる刃の下を潜り、組み付く。

 相手も刃物を持ち出したのだから、刀を抜いても問題はない。しかし、統弥は抜かなかった。


「バレーには詳しくないが、六人制のスポーツだってことは知ってる。お前たち、腹壊した二人のチームメイトだな」

「おう。そこの卑怯野郎に、全部潰されちまった恨み、ここで晴らさなきゃァ収まりがつかねェ」

「お前は何だ、関係ない野郎はすっこんでろ」


 組みついた相手を押さえつけている統弥の脇腹を刺そうと、横から突進してくる。

 身体をそらしてかわし、腕を掴んで固める。そのまま中腰になって、膝蹴りを鳩尾に食らわせた。

 中腰の姿勢からの蹴りなので、大した威力ではない。それでも、男は白目を剥いて失神した。


「野郎ッ。邪魔すんな。俺たちはそいつをぶっ殺さねえことにゃ、部員のみんなにもケツを汚した村瀬むらせ坂川さかがわにも申し訳が立たねえんだ!」

「そうか……間に合わなかったのか」


 色々悲惨だったようだ。

 恨みはもっともだが、向ける矛先が征也だというのは、鈴鹿がいう通り筋が通らない。

 何より、このまま放置すれば征也をめっためたにして、それに食らいついた鈴鹿もどうなるかわからない。

 妹が傷つけられるかもしれない状況をそのままにしておくわけにはいかない。用心棒の務めを果たさなければならない。


「や、やめてくれ! あれは本当に、俺たちの知らないことなんだ!」


 征也が顔を青くして叫ぶ。その言葉に偽りはあるまい。

 三人が統弥を囲み、ナイフを構え直す。三人とも顔が真っ赤になっているが、体の動きが少し固い。極寒の極地特集コーナーに長くいたため、体が冷えている。

 正面の男が猛烈に突進してきた。猪を思わせる突進だ。そのまま統弥の腹を抉るかと思いきや、直前で右に飛んだ。

 右に目を向けたとき、左側にいた男が走り出した。

 そのまま高く高く跳躍し、ボールを強烈に打ち込む要領で逆手に構えたナイフを振り下ろす。

 明らかに何度も訓練を重ねた連携っぷりだ。恨みを晴らすため、一生懸命考えたのだろう。

 最悪斬ろうと思ったが、その心意気を買って抜かずに鞘ごと天に突き出す。

 落ちてくる男の股間に、鐺が見事に突き刺さる。

 目玉が溢れるのではないかというほど瞼が見開かれ、痙攣しながら地面に転がる。

 先に突進してきた男が向き直って突いてきた。鞘で首を打ち、勢いのままテーブルに突っ込んで、テーブルも椅子もひっくり返る。

 三人がのびてしまった。

 残った一人は、それでも逃げずに震えている。


「ち、ちくしょう……」

「もう、やめてくれ! こんなことしたって、どうしようもないだろ……もう大会は終わったんだよ」


 征也が叫んだ。それはその通りなのだが、征也に諭されても、逆効果にしかならない。


「くっそおお」

「お客様、落ち着いてください!」


 沢北と上司が騒ぎを聞いて引き返してくる。

 錯乱した男は、止めに入ろうとする沢北に向かってナイフを刺そうとする。

 もう敵の区別がつかなくなっている。

 統弥が仕方なく脇差を抜いて投擲しようと構える。

 その前に、飛び出した青年が男の足に縋り付いて、バランスを崩した男と共に地面に転がる。


「う、うあああ……お、おねえさん……う」


 ストーカー青年が、鼻血をダラダラ流してうめく。

 男もまた、転んだ拍子に地面で頭を打ってのびてしまった。

 漢を見せたストーカーを称賛するように頷いて、統弥は脇差を鞘に戻した。



 襲ってきたバレー部の連中は、警察を呼んで連行してもらった。基本的に、争いごとに関して司法は不干渉の姿勢なので、罪に問われることはないだろう。

 征也の知らぬこととはいえ、用心棒を雇って対応させた以上、双方が暴力的解決を認めたとみなされる。


「危ないところをありがとうございました」


 征也が統弥に頭を下げた。

 水族館から出て、近くの喫茶店に場所を移した。入る前に、鈴鹿に目配せを忘れない。代金は払えよ、と。鈴鹿が頷いた。

 結局、用心棒のことも鈴鹿の兄であることもバレてしまった。

 鈴鹿はあれだけの騒ぎを目にして、平然としたものだ。


「椅子の背もたれが折れて、机が割れただけで済んだじゃん。よかったね。借金が増えなくて」

「まったくだな。妹のデートを見せつけられて、得られのが借金じゃ哀しくて仕方ない」


 あの後、騒ぎを知らされた館長がやってきて、統弥と鈴鹿と征也、気絶したバレー部の四人、沢北と上司の石橋いしばし、そしてストーカー青年こと近所の大学の情報システム科三年生上杉秀増うえすぎひでますらを館長室に誘導した。バレー部の四人は揃っていい体格をしていたので、運ぶのが大変だった。

 警察が到着して、気を取り戻していた四人を連行した後、統弥たちも解放された。

 暴漢を無力化した結果ということで、壊れた施設の弁償はしなくていいと言われた。

 上杉と沢北は、ストーカーの件でまだ話し合うそうだ。

 上杉は驚愕していた。自分がストーカー扱いされているなんて思いもしていなかったようだ。まあ、自覚あるストーカーなんてそうそういない。

 それどころか、沢北がストーカーに悩まされていると知った上杉は毎日のように来館して見守り、SNS経由で個人情報まですべてハッキングして入手、ほぼ二十四時間体制で安全を見守っていただけだと言っていた。


「ストーカー行為で女性を悩ませる悪者を許せなくて……そいつを捕まえたら、お姉さんにもアピールできるんじゃないかって」


 そう言って、涙ぐんでいた。

 その後どうなったのか、三人は知らない。

 征也は感謝しつつ、不安そうに鈴鹿の手を握っている。


「これで終わると良いんだけどな……」

「あんだけ痛い目見させられたら大人しくなるでしょ。一人股間潰されてたし……兄貴、容赦ないから、しばらく立ち直れないと思うよ」

「かなり手加減したんだけどな。同情の余地があるって思えるし」

「一体誰が、飲み物に薬なんか盛ったんだろうな。許せないよ」

「それで勝てたんだから、感謝すべきなんじゃないのか」

「あれは、勝ちじゃあない。ずっと気になってたんだ……本当はあそこで棄権すべきだったんじゃないかって」

「馬鹿馬鹿しい。恥じることがないんなら、気にする必要ないだろうが。それともなにか、後ろめたいところがあるのか」

「兄貴! もう黙ってて」


 普段惚気話で聞かされている腹いせに、言うことが意地悪くなってしまう。


「それに、終わったわけじゃないと思うぞ」

「え……」

「気にしないで。兄貴はやっかみで言ってんのよ。二十歳越えて恋人もいない寂しい奴だから」


 ぎろっと統弥を睨みつける。

 

「酷い言いようだな。そうじゃなくて、他にチームのやつらが二人襲われたんだろ?」


 征也が頷く。

 鈴鹿はむすっとしているが、その鈴鹿の口から聞いた話だ。

 二人は、闇討ちされたと言っていた。

 それが意味通りならば、なぜ今回は白昼堂々人前で襲ったのか。


「他の二人を襲ったのはあの四人じゃないのかもしれない」

「そんな……俺たちを狙うやつが、他にもいるっていうんですか」

「心当たりは?」

「ありません……」

「なら、気をつけることだな。てか、襲われてもいいように鍛えろ。鈴鹿の彼氏なんだろ? 暴漢の一人や二人軽く殴り倒せるようでなきゃのちのち困るぞ。なにせ鈴鹿はそんじょそこらの暴漢より暴力的……いてっ」


 言い終わらないうちに、統弥の後頭部に拳骨が落ちた。

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