王弟殿下と政略結婚
MASK⁉︎
王弟殿下と政略結婚
聖歴885年、多くの家臣に護衛された1人の姫がハイルバーン王国に辿り着いた。
姫の名はジェシカ。芸術の都と謳われるマイル皇国の第一皇女である。
絶世の美貌を持つと噂に名高いジェシカ姫を一目見ようと沿道には多くの国民が集まっていたが、姫はそちらに目もくれず厳しい表情でじっと前を見つめていた。
その厳しい表情の奥に潜む感情は喜びか悲しみか、はたまた怒りなのか。
王弟リンクスとの結婚式の準備は粛々と進められていた。
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「兄上!私は恋愛結婚がしたいと言っていたではありませんか!」
「嘘をつけ。ただ結婚したくないだけであろう?」
休暇明け初日から恐ろしい報告を受け、私は一回り年上の兄がいる王の執務室へと駆け込んだ。
「休暇申請が急に通ったから何か怪しいと感じていましたが、いきなり結婚だなんてご無体な。」
「リンクスよ、王命である。諦めて受け入れよ。」
我が兄上はこうなる事が分かっていたかのように取り付く島もない。
確かに今年で26歳。とっくに子供がいてもおかしくない年齢で、再三兄上にも結婚はまだか相手はいないのかと尋ねられてきた。
しかし、しかしである。勝手に結婚を決めるような横暴、私が反発せずして誰がする。
「お前もこの政略結婚の意味が分からないでもないだろうに。」
「はいはい、そりゃ分かりますよ。
「そう言ってやるな。あくまで同盟の証よ。」
「マイル皇国の第一皇女がねぇ。」
マイル皇国は芸術の都として名を馳せているが軍事力はほぼ持たない。その皇国が隣の帝国の目に止まったらしい。
皇国には宝石や貴金属の産地が多く存在し、その資金力によって傭兵を雇い入れるなどしていたらしいがそれも限界が近づいている。
帝国も鉱山を目当てに仕掛けてるって話だから皮肉なものだ。
「どちらにせよ憎き帝国との戦争に参加するのは決定事項だ。あと半年の休戦の後、我らも参戦するぞ。」
帝国は私達兄弟の父と母を奪った元凶とも言える存在。兄の気持ちは痛いほど分かる。
「そこに関しては文句ありませんよ。
問題は何故結婚相手が私なのかって話です。兄上の息子の誰かをねじ込めなかったのですか?」
「敢えて説明が必要か?私の息子達は皆婚約が決まっているのだぞ?」
「あーーっ、そうですよね。確かに私が1番丁度いいですけど!でもでもぉぉ!」
我がハイルバーン王国とマイル皇国では圧倒的な国力差があり、同盟の力関係ははっきりしている。
しかし相手がマイル皇国の第一皇女ともなると家臣レベルでは格落ちとなる。王家の中で相応しい者を考えた時に明らかにフリーの奴が居るんだよなぁ。
「はぁ、ジェシカ姫って13歳でしたっけ?」
「いいや、まだ12歳だ。」
「あのー、倍以上も歳が離れているんですがそこら辺はどうお考えで?」
「政略結婚ともなれば常識の範囲内だ。
そろそろ諦めて仕事に戻ってはどうかね。休暇中の溜まった仕事を片付けねばならんのだろう?」
もう一度大きく溜め息を吐くとリンクスはヒラヒラと手を振りながらあっさりと執務室を去っていった。
「ギャリー君とか年齢的には丁度いいと思うんですけどねー」と捨て台詞を残して。
リンクスが去った後、王は机の上に小さな紙切れが残されているのに気が付いた。そしてそこに書かれた文字を確認すると小さく口元をゆがめる。
「こんな物をいったい何に使うのやら。まあ良い、結婚祝いとしておこうではないか。
それにしても私が決めた事とはいえリンクスもとうとう結婚するのか。我が子の側にあやつの子が居てくれると思うと、とても安心するのだがなぁ。」
静かになった執務室の中で王はそう独りごちた。
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王城
お天気にも恵まれた結婚式当日、
身長は父上よりも高く、それでいてしなやかな身のこなし。くすんだ金髪と垂れた目尻が印象的で、優しそうというのが第一印象でした。
しかし王気や覇気といったものは感じず、言葉を選ばずに言えば地味な方だとも言えます。身につけてらっしゃる装飾品の少なさも相まって、もっと低い位として紹介されていても納得してしまったと思うのです。
ですが何処か不思議な存在感がある。そんな方が私の結婚相手でした。
「初めましてジェシカ姫、ハイルバーン王国王位継承権第1位のリンクス・ハイルバーンと申します。どうぞリンクスとお呼びください。」
「ご丁寧にありがとうございます、リンクス様。マイル皇国第1皇女ジェシカです。」
その時の私は分不相応にも自分がマイル皇国を代表していると思い込んでいました。お爺様や家臣の皆が居る前で、夫となるリンクス様になめられてはいけないと過分に力が入っていたのは認めましょう。
ですがそういった自己紹介の後に緊張に震える手でカーテシーを行うと、こともあろうにリンクス様が腹を抱えて笑っていらっしゃったのです。
余裕のない私はつい彼を睨みつけてしまいました。
「ああ、申し訳ありません。ですがそこまで緊張なさることはないでしょう。
私たちは結婚式という大舞台を共に乗り越える仲間みたいなものです。もっと気を楽にいきましょう。」
そう言って手を差し伸べられました。
少しして握手を求められているのだと気が付いた私は慌てて手を握り返します。
「よ、よろしくお願いします。」
この時になってようやく肩にものすごい力が入っていた事に気が付きました。
きっと彼の私よりもずっと大きくそして少し冷たい手に安心感を覚えたため、緊張が少し解けたのでしょう。
そう、私の目をしっかり見て話しかけて下さった彼の手に。
挨拶もそこそこに私は母国から持ってきたウェディングドレスに身を包みます。プロの使用人の方々の手によって髪に化粧にと飾り立てられていきました。
こうして迎えた結婚式。残念な事に緊張し過ぎて内容はほとんど覚えていません。
お爺様と共にバージンロードを歩いた事も、初めて殿方とキ、キスをした事も。
リンクス様に一度緊張をほぐして頂いたにも関わらずこの体たらく。私もまだまだ未熟でした。
ようやく意識を取り戻したのは披露宴が終わり、歓迎の宴が始まっていた頃。
目の前には大きなお肉、具材がたくさん入っているスープ、白くて柔らかそうなパン、その他見た事の無い料理の数々。ハイルバーン王国の豊かさを机いっぱいに見せつけられていたのです。
食欲をそそる匂いに涎が溢れそうになるのを慌てて抑えます。
「……美味しそう。」
「我がハイルバーン王国の自慢の品が揃っていますので、是非ともお召し上がりください。お口に合えば良いのですが。」
「あ、ありがとうございます。」
繋いだ手の先からリンクス様が優しく語りかけてくださった。やはり初めはスープから頂くべきかしら、ですがこの暴力的なお肉の匂いにはついつい惹かれて……
……てて、手っ!…つ、つなっ⁈
てっ……、えっ?
「ああ失礼しました。手を繋いだままでは食べられませんね。」
私の困惑を察したのかリンクス様が手を離していかれました。
手に残った温もりが気恥ずかしいような、でも心強かったような。
「あっ……、で、ではいただきます。」
動揺を隠すように料理に目を向けるジェシカ姫に、王弟リンクスは柔らかい笑みを浮かべていた。
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宴の後も飛ぶように時間が過ぎ去っていきました。
ひと通り挨拶回りを終えると私は裏に下がります。そして体の隅々まで磨き上げられ、結婚式とは違った意味で飾り立てられていきました。
それはもちろん初夜のためです。
初夜にどんな事をするのかは何となく聞き及んでいます。夫婦となる為の最大にして最後の儀式であると。
基本的には夫となるリンクス様の言うことを聞いていればいい。リラックスして体の力を抜いているのが大切だと。
ですが嫌な事はハッキリと嫌と言いなさいと耳にタコが出来るほど言い聞かされました。
初夜の心得を思い返しながら使用人の方に連れられていくと、遂にはリンクス様がいらっしゃる部屋の前まで来てしまいました。
何度か落ち着きたくて深呼吸はしてみたものの心臓は痛いほど脈打っています。
ここまで連れて来てくださった方は既に離れてしまったため、私が自分で扉を叩かなければならないのです。
……心の準備が出来ていないからといって自分のタイミングでなんて言わなければ良かったかも。
「泣き言なんて駄目よね、頑張らないと。」
小さく自分を鼓舞すると意を決して扉を叩きます。
「はい。」と穏やかな声が部屋の中から聞こえてきました。
「ジェシカです。入っても宜しいでしょうか?」
静かに扉が開かれ、リンクス様が顔を覗かせました。
「どうぞ。」
促されるままに部屋に入ると、まず感じたのはアロマオイルでしょうか。なんとも落ち着く香りが部屋中に漂っていました。
そして目に付くのは部屋の中央に鎮座する天蓋付きの大きなベッド。あまりの大きさに私も圧倒されてしまいました。
「ジェシカ姫は何故ここに連れて来られたのかご存知ですか?」
「え?……ええ、この部屋で初夜を執り行うと。」
「なるほど。」
美しい意匠の服ではありますが生地も薄く肌の露出が多い造りなので、流石の私もじっと見つめられると恥ずかしくなってしまいます。
「な、なんですか?」
「あ、いえ。世に名高きジェシカ姫が私の為に着飾って頂けたのかと思うと、改めてその美しさに心奪われてしまったのです。申し訳ありません。」
「ありがとうございます?」
ですがリンクス様相手では緊張が続かないのは不思議なものです。気負っていらっしゃらないからかしら。
こういう場面で褒めて頂けると気持ちが楽になりますね。
「リンクス様もカッコいいですよ。」
「ジェシカ姫にそのようなお言葉を頂けるとは光栄の至りにございます。
では早速ですがベッドの方へどうぞ。立ったままでは何も始まりませんので。」
リンクス様に促されるまま私はベッドに上りました。ベッドは柔らかく滑らかな手触り、それでいて反発性もある初めての感覚で少し気分が上がります。
このベッドに座れば良いのかしら、それとも寝転ぶ方が良いのかしら。
どうすれば良いか分からず、思わずリンクス様の様子を窺ってしまいました。
「ああ、真ん中にいくつか枕がありますよね。それはいくらでも使って良いので仰向けになって頂けますか?」
教えて頂けたことにホッとしつつ枕を触ってみると、これまた高級品だと分かる作りをしていました。
じわじわと凄いところに来てしまったという実感が押し寄せてきました。
全身をベッドに預けると目を瞑ってその時を待ちます。
パサっと天蓋を降ろす音がして、ベッドのキシキシとした音が近付いてくるのを感じました。
「もっと嫌がっても構わなかったのですよ?」
何と答えれば良いのか分からず首を振りました。
すると、ふふっと言う笑い声と共に大きな手が私の頭を撫でます。
「安心してください。悪いようにはしませんから。
少しの間目を瞑ったままでいてくださいね。」
そう言われてから少しして体の上に何か乗せられたような気がした。その記憶を最後に私は意識を失ってしまったのです。
次に目が覚めた時には辺りはすっかり明るくなっており、リンクス様もいらっしゃいませんでした。
後から話を聞いた所によると私たちは初夜を過ごしたと認められ、正式な夫婦となれたようです。
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「随分とひどい噂ばかりではないか。王弟リンクスは嫌がるジェシカ姫に無理矢理結婚を迫っただの、幼女趣味を姫に押し付けただの。
そんな噂が市井にまで広がっておるようだぞ。このような場所で油を売っていて良いのか?」
「さて、私を気に入らない者とジェシカ姫に好意的な者がいるというだけの話でしょう。大した噂でもなさそうですし何もしませんよ。
それよりも好戦ムードを高める方法でも考えた方が良いのではないですか?ジェシカ姫の祖国守るためなら民衆は立ち上がりますよ。」
王の執務室には歳の離れた兄弟が2人、朝の爽やかな空気に小鳥の囀りが聞こえてくる。
「もちろん戦の準備はさせて貰うがの、もう少し自分の評判も気にして良いのではないか?」
「別にそこまで間違った噂は流れていませんし、真実はもっとつまらない物だと大抵の人は分かるでしょう。
まぁ真実を詳らかにするつもりは毛頭ございませんがね。」
「はぁ、こんな事なら噂通りであってくれとすら思うぞ私は。
ジェシカ姫に初夜からあれを使ったのだろう?」
「せっかく兄上に頂いた贈り物ですから使うに決まっているではありませんか。
“眠りに
王は深い溜息を吐くとカップに残った紅茶を一気に飲み干す。
「やはり姫には全く手を出していないと。」
「そうなりますね。」
対照的にリンクスはカップの紅茶を小さく飲み進めていた。
「結婚は認められたのですから良いではありませんか。
それにあの布団は潜在的な眠気を呼び覚ますだけで絶対に眠れる道具ではないとご存じでしょう?
ジェシカ姫はそれほどお疲れだったという事です。寝かせておいてあげましょうよ。」
「はぁ、これだから我が弟という奴は……。
自分がもう既婚者である事をゆめゆめ忘れるでないぞ。それにこれからは王弟ではなく1地方の主となるのだ。跡継ぎが必要な身の上となったと理解しておろうな。」
「はいはい、分かっていますとも。」
「本当だろうな。なんなら立会人を変えてもう一度初夜をやり直させても良いのだぞ?」
「お願いですからそれはやめてください。もう一度同じ事をするのは流石の私でも心が痛みます。」
「…………。」
「それにしても実質的に領地の一部割譲とは兄上も良くやりますね。マイル皇国としては不良債権を引き受けて貰えて良かったのでしょうか?」
協議の結果、マイル皇国の山岳地帯のハイルバーン王国と隣接する一部地域をリンクスが治めることで同意されていた。
帝国が狙う大きな鉱山がある山系とはまた別の地域である。山岳地帯であるが故に実りも少なく頼りの鉱脈も少ないため皇国内でも貧しい地域とされていた。
「お前が対帝国戦に使えると言っておった場所であったからのう。向こうもそれならばと納得してくれた訳よ。
それにジェシカ姫の嫁ぎ先が近くなるという考え方もあったやもしれぬか。」
「ふーん、なるほどねぇ。ジェシカ姫は愛されているようですね。」
「自分の妻であるというのに随分と他人事ではないか。」
「あーそうかもしれません。」
リンクスは遠くを見ながらゆっくりとカップを傾けていた。
数日前に出会ったばかりの年端もいかぬ少女の事を思い返す。
「なんだ、ジェシカ姫の事が嫌いなのか?」
「残念な事に好きか嫌いかで言えば‘大好き’の部類に入ります。まぁ第一印象の話ですが。」
「お前も子供ではあるまいに。」
「あーもう分かりました。分かりましたよ仕方ないですね。
兄上がそんなに仰るなら手は打っておきますよ。自分の方針を変えるつもりはありませんが構いませんね。」
可愛さとはそれだけで罪だな。外見だけならまだしも言動の節々から溢れ出る可愛さには対処のしようが無い。
何故嫌そうな顔をしているのかと不思議がる者も多いのかもしれないが、まず私は他人によって意図せず感情が動かされるのが得意ではないのだ。
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結婚式から約一月後、私はようやく領地となるダムス領へと辿り着きました。嫁いだ私がすぐにマイル皇国の近くに戻って来るのは何だか不思議な気分になります。
ですがダムス領は元々マイル皇国の地ではありましたが、新天地に赴くという心持ちに違いはありません。私が都を離れた事はありませんでしたから。
それもあって不安は尽きません。
ダムス領について知っていることといえば、かの帝国に面していますが貧しい山岳地帯のため戦場にならず、かつ支援の手も薄かったため父上たちが不満そうに話題に出していた事くらいです。
今の私に出来る事は何もありませんでしたが、リンクス様は先にダムス領へ入り屋敷や運営の引き継ぎを行なっているそうです。
ですが私もマイル皇国の皇女として、リンクス様の妻として何もしない訳にはいきません。短い時間、限られた場所ではありますが民がどのような暮らしをしているのか見て回りました。それが何かの役に立つと信じて。
最後の休憩から数時間馬車に揺られ続け日も落ちようかという頃、ようやく御者から目的地が見えてきたと告げられました。
窓から先を見てみれば周囲の景色からは不釣り合いなほど大きな建物が目に入ります。マイル皇国特有の建築様式が夕日に照らされ、その美しさを存分に輝かせていました。
「……あれですか。」
これまで見て来た民の暮らしぶりとの差異に違和感を覚えて何とも言えない気持ちになってしまいました。
その気持ちは目的地に近づけば近づくほど大きくなっていきました。
「到着いたしました。これからドアを開けますので出る準備をお願いします。」
ゆっくりと馬車が止まると御者から小さく声を掛けられます。それと同時に周囲のざわめきも大きく聞こえてきました。共にダムス領へ来た皆の安堵の声であったり荷物を運び込む声だったりです。
私の心は安堵やワクワク感、緊張や不安がない混ぜになっています。ですがここで頑張ろうという気持ちが1番強いと思うのです。
馬車のドアが開かれました。
屋敷の前にはリンクス様を中心に多くの方々が私達を迎えてくれています。見知った顔もちらほら見受けられますね。
「お手をどうぞ。」
エスコートに出された手をいつもよりしっかりめに掴み馬車を降りました。静かに吹く風がひんやりと感じられます。
「長旅ご苦労様でした。ダムス領へようこそ。」
「お出迎え感謝致しますわ、リンクス様。」
リンクス様の手の冷たさに衝撃を受けました。結婚式で手を繋いだ時から手は冷たかったという印象がありましたが、その時の比ではありません。
私を待っていてくださったのだと思えて申し訳なさで胸が締め付けられます。ですが待っていただけた嬉しさみたいなものも胸の片隅から離れて行きません。
「部屋の用意は出来ているのでどうぞゆっくりしてください。
あと、お借りしていた側仕えのグレースはお返ししますので詳しい事は彼女から聞いてください。」
「分かりました。グレース、お願いね。」
グレースは私より3歳年上の側仕えです。生まれた時からずっと一緒に居て本当の姉妹のように育てられてきました。今回はリンクス様に同行するマイル皇国側の代表としての役割を仰せつかり、一足先にこちらで仕事をしていたようです。
1週間以上離れるのが初めての事でしたので、隣に居ないだけでこんなに心細く感じるとは思ってもみませんでした。ですのでグレースと目が合った時にはきっと頬の緩みを抑える事が出来ていなかったのでしょう。
でもだからといってあんなにニヤニヤしなくても良いと思います。
「姫様、寂しかったんですか?あーんなに顔を蕩けさせちゃって。」
部屋へ案内される道すがらグレースは私の頬をつつきながらニヤニヤと喋りかけてきました。
「イジワル言わないでよグレース。嬉しかったのがちょっとだけ顔に出ちゃっただけでしょ!」
「やっぱり姫様は分かり易いですねー。まだまだ精進が足りないですよ♪」
「もう、いいから早く案内してよ。どんなお部屋か気になってるの!」
「はいはい仰せのままにー」
彼女と話している時はついつい声が大きくなってしまいます。でもそんなやり取りに心地良さを感じるのもまた事実なのです。
そんなこんなで屋敷の中に入り幾つか階段を上って廊下を渡り、更に階段を上ってようやくグレースは足を止めました。
「着きましたよ姫様。ここが今日から姫様のお部屋になります。」
予想以上に大きく豪華な部屋だ。はっきり言って宮殿にあった私の部屋よりも広いのです。
更には日当たりも良く景色も良い。
「こんなに良い部屋を使わせて頂いて本当に良いのかしら。」
家具や絨毯など所々にグレースの趣味が見られるのは気にしないでおいてあげましょう。
「もちろんです。こちらは姫様の為に用意したお部屋ですので。」
「ありがとう。」
豪華な部屋だったりやけに大きな屋敷だったり、聞いておきたい事は沢山あるんだけど……とりあえず。
「とりあえずお腹が空いたわ。」
私はもうすっかりハイルバーン王国の食文化の虜になってしまいました。
お昼は馬車移動の途中でしたし少なめに済ませていた訳で、いつお腹が鳴ってもおかしくないのです。
それにさっき歩いている最中に私の鼻はご飯のいい匂いを嗅ぎ取りました。もう我慢なりません。
「食事はどこで取ればいいのかしら。」
「でしたら早速お食事をお持ちしますね。領主様からは基本的に部屋で取られるのが良いだろうと。
食堂もあるのですが流石に今日は手が回らないので……、よろしいですか?」
「ええ、じゃあお願い。」
グレースは頷くと一度部屋を出て行き、そしてすぐに帰ってきた。その手には何もない。
「……?」
「すぐにお食事を用意するように伝えたので、早く着替えちゃいましょうか。」
……そ、それもそうね。ずっと旅装という訳にもいきませんし、早く着替えてしまいませんと。
「今ちょっとガッカリしましたねー。そんなにお腹空いてました?」
グレースがまたニヤニヤしだした。いつもこうなんだから。
「もう、そういうのいいから!
着替えが何処にあるのか教えてちょうだい。私と一緒に持ってきた荷物はまだ下にあるでしょう?」
「ではこちらへどうぞ。ここを早く見せたかったんです。」
そう言って部屋の奥にある扉を開けた。
「うわっ、すごーい。」
扉の先はそれはそれは大きなドレスルームだった。部屋全体の3分の1も服は入っていないが、それでも煌びやかな服から普段使い出来そうなものまで各種揃っている。
確かにグレースが早く見せたがるのにも頷ける。とてもすごい。
「こちらにある服は領主様がご用意して下さいました。」
「そうなのですか!リンクス様には何とお礼申し上げれば……。」
「でしたら明日か明後日に領主様の執務室へ来て欲しいとの事でしたので、その時に直接伝えられるのがよろしいかと。」
「分かりました。では今は楽な服装に着替えようかしら。」
「そうですね、こちらの服がよろしいかと。脱いだ服はそちらのカゴに入れておいてください。後ほど回収します。」
グレースが選んでくれた服に急いで着替えて食事が着くのを待ちます。
着替えた服はサイズも着心地も抜群で、何も言わないけどグレースも色々考えてくれていたんだなって感じます。彼女にもまた何かお礼がしたいなって思うのです。
ご飯は大変美味しく頂きました。楽な服装に着替えておいて本当に良かったです。
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ダムス領到着翌日
私はグレースに連れられ屋敷の中を見てまわっていました。大小様々な部屋があり複雑に通路が伸びるこの屋敷を案内なしで歩き回れば間違いなく迷子になっていたでしょう。
その案内中に話に上がるのはこの屋敷を作り上げ先日更迭された前ダムス領主の事と、グレースから見たリンクス様の事です。
どうやら前ダムス領主は民から搾り取れるだけ搾り取ると、その財のほとんどを屋敷の設備に注ぎ込んでいたらしいのです。そのため周囲の雰囲気に似つかわしくない豪華な建物が建ち、戦への支援が疎かにされていたという話でした。
グレースに聞いたリンクス様の印象については一言「掴みどころのない方でした。」とだけ言うのです。淡々と必用な事をこなし感情を表に出すところを見なかったと。
グレースの事を信用していない訳ではありませんが、私の抱いていた印象とあまりにもかけ離れていたため驚きを隠せませんでした。
確かに派手な印象を抱かせるような方ではありませんが、少なくとも渋い顔をして語る様な方だとも思えません。
1か月近くそばに居て食事の好みも察せなかったのですから、案外グレースの目が節穴だったのかもしれません。
「ちょっと姫様、何か失礼な事を考えていますよね。」
「仕方ないじゃない。貴女が私の夫を侮辱する様な顔をしていたんですもの。」
「私が悪いんですか。領主様の近くに居た時間だけで言えば私の方が長いんですからね。」
グレースとちょっとした言い合いをしながらも屋敷の中を見て周り、ようやくリンクス様の執務室へ辿り着いたのは夕食を作り始めていようかという時間になってからだった。
私の部屋とは建物の逆方向の端っこ、その最上階にやけに豪華な扉が現れたのです。
掘り込まれた彫刻に埋め込まれた宝石の数々。宮殿の父上の部屋の扉にも勝るとも劣らない出来栄えです。
「ええっと、ここ?」
「そうです。少々ここでお待ちください。」
そう言ってグレースは扉の横に居る護衛の方に声を掛けに行きました。
しばらくすると内から扉が開き、中から若い男性が現れました。
「ジェシカ姫ですね、どうぞこちらへ。中で領主様がお待ちです。」
彼について部屋に入れば、中の威容に思わず圧倒されてしまいました。凄い、凄い以外の言葉が思い付かない。
「ここまで新鮮な反応が見られるとは、なかなか面白いものだな。」
「おっしゃる通りでございます。」
部屋に圧倒されて気が付きませんでしたが、先程の男性の隣にリンクス様がいらっしゃった。
「失礼しました。とても素晴らしいお部屋で言葉を失ってしまいました。」
「いえいえ、私も初めてこの部屋を見た時は驚きましたから。これ程までの優雅さ品位の高さはそう見れるものでもありませんよ。
それに加えて機能性にも手を抜いていない事がこの城を作りあげた者の腕が確かである事の証でしょう。
……っと、この様な話をしている場合ではなかったか。
お二人とも、そこにお掛けください。」
グレースと一緒にソファに座ると、すぐにお茶が出てきました。こういう所でハイルバーン王国の使用人のレベルの高さを実感します。
とても良い香りに丁度良い熱さで落ち着きます。
「では早速ですが本題に入りましょうか。」
リンクス様は隣の男性を指差しながらこうおっしゃった。
「こちらは家令のエジルリブです。
先日ダムス領の指示系統を一新しまして、現在領内の税収から城内の清掃までこの者が一手に引き受けています。ここから適宜権力の分散を測りますが新体制が確立するまでの間このエジルリブに出来ない事はありませんので、何かあればエジルリブに言い付けてください。」
「ご紹介に預かりました、エジルリブと申します。
王都からの応援も来ているので正確に一手に引き受けているとは言えないかもしれませんが、ご用命がございましたら是非お気軽にお申し付けください。」
リンクス様の隣の男性、家令のエジルリブさんはそう言って綺麗にお辞儀をしてみせた。
「リンクス様の妻となりました、ジェシカと申します。これからよろしくお願いしますね。」
「はい、という事でエジルリブの紹介が一つ目。二つ目はジェシカ姫への制限についてです。」
「私への制限ですか?」
リンクス様はしっかりと頷かれる。
「ジェシカ姫にはこの城、及び城下町以外への外出を禁じます。」
「ええっと、それはダムス領内であってもですか?」
「はい、その通りです。少なくとも状況が変わるまではこの地に留まって頂きます。」
リンクス様が仰るのだから何かしら理由があるのでしょうし、特別制限に
それに宮殿からほとんど出たことの無かった私からすれば十分広いのかもしれない。
「分かりました。」
「良かった。ではわざわざご足労頂いたのですが伝えるべきことはこれで終わりです。」
「……えっ、終わりですか?妻としての仕事は何かないのですか?」
エジルリブさんを紹介されて移動に制限を掛けられただけでまだ何も聞いていない。
「仕事ですか?特別に姫に求める事はありませんね。直近で社交が開かれる可能性はほぼありませんし。
あー、交流がしたいという話ならここに招く形にして下さい。幸い部屋はいくらでもありますし、割りと大きいパーティーでも開く余裕はあるので。
ただここ1、2ヶ月はバタバタしてるのでそれ以降でお願いします。」
リンクス様の言葉は宮殿で聞いていた話とだいぶ違う。
それに聞かされていた1番大切な役割と言えば……。
「私に求める事がないとは?
例えば、……その、夜の事とか。」
「ええ、不要です。」
「本気なんですか?妻の役割として1番大切だと聞かされていたのですけど。」
「ここは貴女の知るマイル皇国ではありませんので。それに貴女の行動を咎める者はほぼ居ませんので。
どうしてもそういう事をやりたければ適当に人を見繕ってきてください。後からどうとでもなります。」
「…………は?」
何を言われたのか一瞬意味が分からなかった。噛み砕いて意味を理解し切る前に隣のグレースが爆発した。
「今の発言、ご領主様と言えど聞き捨てなりませんよ!もう一度私の目を見て言えますか!」
しかしリンクス様はグレースから殺気を浴びせられようが意に介さず首を振った。
「何度だって言えますが。その程度で気にしないでください。
ただ大切なのはジェシカ姫が自由に行動出来るというだけの事です。」
唐突に自由と言われましても……。
「それは……、とても困ります。」
「何かしたいと思うのであればエジルリブの近くに居ると良いでしょう。
中庭に雑草に埋もれた花壇があったのでそこで土いじりするのも良いですし、近日中に王都から本が届くのでその整理、鑑賞でも良いでしょう。
民の為でもよし、自分の為でもよし。何も気にせずご自由にお過ごしください。」
私が呆然としている間にリンクス様は部屋の奥へと去って行かれた。
「申し訳ございません。私もそろそろ仕事がございますので失礼させて頂きます。
何かありましたら気軽にお声がけください。」
そう言ってエジルリブさんも去っていった。
気が付けば出されたお茶はすっかり冷め切っている。それでもまだグレースは怒りが収まらないようだ。
「姫様、流石にこれはおかしいです。妻としての役割に期待していないだけならまだしも、適当に人を見繕えだなんて。
一体どういうつもりなのでしょうか!」
グレースの怒りはもっともだ。私だってグレースが居てくれなかったら同じように叫び散らかしていたと思う。
ただ彼は何の理由も無くこのような事を言うお方ではないように感じてしまうのです。
「分からないわ。本当に分からない。
でも私はね、分からないという理由だけで怒りをぶつけるのは良くない事だと思うの。」
「ですが姫様……」
「良いのよグレース。私たちはまだリンクス様について何も知らないわ。
それに彼は肝心な事について何も語っていないの。」
私に何が出来るのか考えないと。
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「領主様、ジェシカ姫様にあのような事を言ってしまってよろしかったのですか?
グレース殿の怒りもさることながら姫様自身も呆然とされていましたよ。」
書類に目を通すリンクスに向かってエジルリブが問いかける。
「良い。そのような些末な問題はお前に任せると言っていたであろう。」
「陛下からも姫様を大切にするよう言われたのではありませんでしたか?」
「王都にはこれまでの噂を活かす形でジェシカ姫が大切にされている旨を噂に流しておいた。
それ以外にも布石は打ってある。後はお前が領の経営を軌道に乗せるだけで良いのだ。」
「それが一番難しいんですよ!」
「筋道は立ててやっただろうが。それに失敗した所で何も文句は言わんさ。
或いは本当にジェシカ姫にやらせてみるのも面白いかもな。元マイル皇国民の為ならば力を発揮出来るかもしれないぞ。」
このやり取りの最中にあってもリンクスの目が書類から離れることはなかった。
「はぁ、これは最終確認なのですが、領主様は何をなさるおつもりなのですか?」
「私は都に行っているとでも伝えると良い。」
「陛下に頭が硬いと言われる理由が分かりました。ではやはり……。」
「ああ。私の役割は戦場をおいて他にあるまい。」
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皇国王国同盟軍と帝国の戦争は開戦から2年を経て終戦へと向かっていた。
当初帝国はマイル皇国への圧力を強め、着実に戦線を押し上げていった。
20年程前のハイルバーン王国への勝利も記憶に新しく勝ち戦だと油断した帝国は一気呵成に侵略を続け、戦線が伸びきっている事に気が付かなかったのだ。
伸びきった帝国の横っ腹を同盟軍の精鋭部隊が食い破り帝国の主力部隊は壊走。同盟軍は反転攻勢を仕掛け一進一退の攻防の後、難攻不落と謳われたマロック城の攻略にまで至った。
ここで帝国は停戦を求め、現在は終戦協定が結ばれようとしていた。
「今回の戦のあらましは
それで?せっかくここまで来たんだ。そっちの様子も聞かせてくれるんだろ?」
同盟軍の指揮を取っていたリンクスは占領したマロック城のベッドに寝転がっていた。横の椅子に座るエジルリブに向かって話しかける。
「聞かせてくれるんだろ、じゃありませんよ!どれだけ心配したと思ってるんですか。」
感情を露わにするエジルリブを見てリンクスは小さく笑みを浮かべた。
「お前の気持ちなどどうでも良い。わざわざ兄上が遣わせたのだから何かあるのだろう?」
「簡単に言いますとダムス領の成長著しく、空前の好景気です。」
「……、くっはっはっは!なんだお前褒められに来たのか。」
「違います違います!その好景気を起こしたのはジェシカ姫様なのです。」
「ほう?聞かせてみよ。」
エジルリブの話を簡単にまとめると、王太子や大商人を巻き込んで規模の大きい商売をやってるそうだ。
初めは服飾関係だけだったが道の整備をしたり果樹園を作ってみたりと更に手広くやっているらしい。
「ふーん、良かったじゃないか。」
「反応小さくないですか?」
「いちいち文句が多いな。他にはもうないんだろう?お前の持ってきた資料には目を通しておく。」
「お願いします。では私は一足先にダムス領でお待ちしていますので。」
ジェシカ姫にやらせてみれば良いと言った覚えは確かにある。だが大成功と言って差し支えのない活躍を見せるとは夢にも思っていなかった。
当初の予定とは状況がだいぶ異なっている。
リンクスはダムス領に帰らなければならない事実に気が滅入る思いで一杯だった。
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「おう、久しいな。」
隠れてダムス領に帰ってから2日後、ジェシカ姫が血相を変えて執務室に飛び込んできた。
15歳になった姫は小さい事に変わりはないのだが雰囲気が随分と大人になった。
「リンクス様、いつお帰りになられたのですか。」
「一昨日だ。よくこの短期間で私の帰還に気が付いたな。
ん?なんだその顔は。」
ジェシカ姫の目は驚きで見開かれていた。百面相にも程がある。目線が一点に集中しているので何を考えているのか想像に容易かった。
「これが気になるか?」
「気になりますよ!一体どうされたのですか?」
ジェシカ姫が見ているのは私の左目、……正確に言えば左目のあった場所に着けた眼帯だろう。
「一言で表わすならば私の失敗の証といったところか。」
姫は全く納得してなさそうだ。話すまで逃がさないという執念すら感じる。
「こちらからも一つ聞いて良いか?どうして私が帰ってきたと気が付いた、これでも目立たないようにはしていたのだが。」
「始めに気が付いたのは私に知らされていない馬車の存在です。昨日エジルリブにその事を尋ねると挙動不審になりまして。
先程誰もいないはずのこの部屋に人影が見えたような気がしたので急いでここまでやって来ました。ですのでリンクス様がいらっしゃると確信していた訳では無いのですが……」
「いや参考になったよ、ありがとう。」
なんとなくわかっていた事だが、ジェシカ姫はただの美しいだけの子供ではないのだ。
視野も広い、知恵も回る、思い切りも良い。ある程度の覚悟はしていたがそれでもなお過小評価だったようだ。
「ではリンクス様のお話も聞かせてください。この2年間何をしてらっしゃったのですか?」
もう少し時間があると思っていたが仕方ない、いずれ避けては通れぬ道だ。
「少し長くなるぞ、それでも良いなら奥の部屋で話そう。」
帰ってくれないかなと多少は期待していたのだがジェシカ姫は迷いなく私に付いて部屋に入ってきた。
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「帝国との戦が終わった事は聞いているな?公式には総大将が我が兄たるハイルバーン国王が座り、将軍は騎士団長が務める事になっている。
しかし彼らが前線に赴くことはほとんどない。実質的に戦闘の指揮を取るのが私の仕事だったという訳だ。」
深刻な顔をするジェシカ姫を尻目にエジルリブに語ったような戦の概要を淡々と話していった。
「……、とまあこのようにして我々連合軍は勝利を手にした。文官たちの交渉の結果幾許かの賠償金を得て、先日マロック城から引き上げてきて今に至る。
戦の流れはこんな感じかな。聞きたい事じゃなかったかもしれないけどまぁいいか、何か質問は?」
「まずは感謝させてください。ありがとうございました。
あまりにも平和に生活出来ていたので戦争中だと思い出す事も少なくなっていました。その間にもリンクス様たちは戦っていたのかと思うと申し訳なくて堪りません。」
「いやいやそれが兄上の方針だったから、まぁ気にしないで。1ヶ月後に王都で凱旋パレードをやる予定だからその時兵に声をかけてやるといい。」
「では、傷の具合は大丈夫なのですか?」
1番聞きたかったのはやはりそれか。
顔の傷が大きなインパクトを与えると知ってはいたが、今まで見てきた誰よりも痛々しい顔で傷を見てきていた。
心優しいお姫様は傷付けられた人を見るのが苦手なのだろう。
「ああ。衛生兵の必至の治療によって今では痛みもなく、生活に支障はないだろうと言われたよ。」
「それは一安心ですね。衛生兵の皆さんには感謝しなければなりませんね。」
安堵の表情を浮かべる姫に対してちょっとした悪戯心が働いた。
感情の高揚、その場の思い付き。良くない傾向だ。しかし良くないと分かっていても簡単には止められない。そういう性質なんだよ私は。
「あの時死んでいれば話はもっと簡単だったのだが。」
時が止まったかのように感じた。目を見開いたまま固まるジェシカ姫を私はエジルリブも似たような反応をしていた事を思い出しながら無表情で眺めていた。
「……冗談ですよね?」
「いや、本気だったけど。」
「やめて下さい!私はリンクス様が生きていてくださって本当に嬉しく思っています。
助けてくださった衛生兵さんに感謝したいという話ではないのですか?」
「実際戦略的に考えても私の死は帝国との早期講和に繋がる一手だった。」
これは嘘じゃない。連合軍に確実な勝利をもたらす準備が整っていたし、後は帝国側に戦いを止めるきっかけを与えてやるだけだ。
帝国からすれば私の死ほど甘美な果実はなかっただろう。彼らの怨嗟の声はそれほどまでに大きかった。
「将校達が上手くやってくれたおかげで私は生かされてしまったまま終戦を迎えたがね。」
「では良いではないですか。生きていて何が悪いと言うのですか。」
「いやなに、少し面倒事が増えるというだけの話ですよ。」
そう言いながら私は簡素な紙をジェシカ姫の前に差し出した。
「これは?」
「離婚届さ。ここにサインして欲しいんだけど。」
姫の口をポカンと開ける様はいつにも増して幼さを強調していた。
「そんなに悪い話じゃない。白い結婚だと簡単に認めてもらえるだろうし、15歳の貴女なら他にいくらでも相手は見つかる。
それに王国と皇国の同盟関係もひとまず解消する。貴女をこの地に縛り付けておく必要も無くなった。」
「……私は一生この地で暮らしていくのだと思っていました。」
「そうしたいならここに留まってもらっても構わない。離婚したからといって貴女が出て行かなくても済むようにする事ぐらい私の力でも出来る。」
「違います、私はリンクス様の妻なのです!」
彼女の言葉は純粋で真剣で、一片の打算も感じないほど誠実だった。
「はぁ、ジェシカ姫は真面目だなぁ。こんな男と添い遂げようなんて思わない方が良いよ。」
「真面目も何も私達はもうずっと前から夫婦なのですよ。」
「あんな誓いのキスすらしていないハリボテの結婚式なんて気にする必要無いのに。」
「……、えっ?キスしていない?」
「ああずっと緊張してたから覚えてなかったか。」
どうやら大変な思い違いをされていたようだ。
良くない。良くないなそれは。私の手が姫を穢した事など一度もないというのに。
「だとしても私達は結婚して夫婦になりました!そこは間違えないでください。
では一体どうして離婚しようと考えているのか教えて下さい。私ではリンクス様が何を考えているのか良くわかりません。このままの関係を続けるでも良いじゃないですか。
私だってこの2年間ダムス領の為に頑張ってきたんです。せめて理由は聞かないとサインなんてしませんよ。」
まさかこのタイミングで問答が詰まるとはなぁ。これじゃあまるで……、いや違う。あくまでもダムス領の運営と商会の発展への懸念が彼女にこういう態度を取らせているのだろう。
「こんな私でも戦場では王国一の知将なんて呼ばれていますがね、私はダメな男でしょう?私と夫婦にさせられた貴女ならわかるのでは。」
「私は自信を持って夫婦だと言える程リンクス様について分かっていないと思うのですが。しかしなんだかんだ言いつつも頭の良い方だと感じています。
そうでなければ仮にも知将だなんて呼ばれないでしょう?」
何だか先程から過剰に評価が高いような気がする。多少の虚栄心やプライドは私も持ち合わせているが真正面から褒められるとむず痒くなるな。
「本当に頭の良い人であれば戦を起こさせるまでもなく目標を達せられますよ。
それに私がやっているのは対処に過ぎません。被害が大きくなる行動を避け、相手には血を流させる。
つまり私の本質は人を傷つける事なのでしょう。どうにもその類の事柄を他人よりも得意としていまして、これまでに多くの者を傷つけてきました。
この2年間は特にそうです。口に出すのも憚られる様な事もたくさんやってきましたよ。帝国からはさぞ恨みを買っている事でしょう。
きっと私は貴女を傷付ける、それも取り返しの付かない傷を。
ですから私は傷つけない内に……いや、もう傷つけているのかな。まぁこれでも1番傷の少ない道を選ぼうとしていた訳です。
離婚したい理由はお分かり頂けたかと思いますがどうです?」
「……えっとつまり、私を傷つけたくないって事ですか?自意識過剰だったらすみません!
その、他に好きな人がいるとかだと思っていたのですが。」
「いやこれでも棺に入って帰って来ようとしてたんだけど。」
「そ、そうでした。では本当に?」
「貴女を傷つけたくない、穢したくない。言葉にするならそんな所でしょう。
それに好きな人が居るのは貴女の方ではないのですか、ジェシカ姫?」
「どういう意味ですか。私が浮気をしていたとでも?」
「違う違う、そんなつもりは滅相も無い。ただ私が命を落としていた場合、次の相手として選びたい人が居たのではないかという話だ。」
エジルリブがまとめたダムス領の運営記録から目星は付けてある。本来なら裏をとって身辺調査して私の方でも見極めておきたかったのだが、流石に1日では出来るはずもない。
「この情報からだと商会の幹部であるアッシュ、親衛隊のヘラグ、マイル皇国でのまとめ役をしているムリナール辺りが最有力だな。
エジルリブの可能性もあるし、王都から王子であるギャリー君も良く来ると聞いている。
君はもう選べる立場だ。どんな未来があってもおかしくないだろう。」
その時目の端で立て掛けた杖が倒れそうになるのに気が付いた。
カランと音を立てて倒れる杖にジェシカ姫の目が吸い寄せられる。その瞬間、私は姫の背後をとった。
姫の目線が正面に戻ると同時に背後から彼女を抱きしめる。「へっ?」と言う声と共に大きくビクッと体を震わせた。
不意の思い付き。つい体を動かしてしまったがもう既に少し後悔している。
「おとなしく離婚届にサインするといい。」
そう言いながらリンクスの指がジェシカ姫の首元を滑る。
「私の手がどれほど汚れているのか知らないんだろう。私の評判の悪さを知らないんだろう。
私がどんなに酷い人間なのか知らないんだろう。
最初に言った通り君に非は一切ない、そう世間的にも認められる。だから安心して。」
流石にこれはやり過ぎたか?こんな脅すような事をするつもりじゃなかったのに。
「すまない、流石にやり過ぎた。ちょっとした冗談だから……」
リンクスが手を離そうとするとジェシカ姫はその腕を押さえつける。
「待って下さい。許します、私達は夫婦なので。」
「そ、そうか。それはありがたい。」
「ですが申し訳ないという気持ちがあるなら、私を褒めて下さい。」
「え?褒める?」
「そうです。リンクス様も色々考えていたのかもしれません。しかし私だってこの2年間頑張ってました。
せっかく生きて帰ってきてくれたんです。それくらいしてくれても良いと思います。」
「この格好でか?」
「ほら早く!」
ジェシカ姫を褒めるなんて腕を離してもらうよう説得するよりもずっと簡単だ。
「あ、ああ。そうだな。初めエジルリブにジェシカ姫に領の運営をやらせてみれば良いと言った時は半分冗談だった。しかし貴女はやったんだ。
王国流の書類整理、経営法、知らない事だらけだっただろうに良くここまで軌道に乗せられた。素晴らしい。」
「もっと。」
「商会も凄いね。人の求める商品を扱う力、商機を逃さない目、従業員を引っ張るカリスマ性。その全てが合わさってここまで成長出来たんだ。
ダムス領と共にこれからも発展し続けるのは貴女の力だ。本当に頑張ってくれてありがとう。」
「もっと。」
「えっと、そうだな。
肌は白く滑らかで、髪はサラサラで良い香りがする。服は威厳が出てとても似合っている。
上に立つものとしての身だしなみが出来ていて、ってこれはちょっと気持ち悪いか。」
「もっと!」
「ええ、これ許されるのか。
初めて会った時から貴女は美しかった。ついつい姫の元に目が留まってしまう。生まれてこの方、貴女以上の人は見た事がない。
言動一つ一つが愛らしく、なぜ他人に愛されるのか私にだって分かったさ。」
「……。」
「でもだからこそ貴女は私と別れるべきだ。私より良い奴はいくらでも居る。貴女には好きな人と幸せになって欲しい。」
ジェシカ姫が後ろを向くと同時に唇に柔らかい感触が襲った。
「へへっ、キスしちゃいました。」
「ちょっと何をして……」
「だって私達は夫婦ですよ。許して下さい。」
ジェシカ姫は小さくはにかむ。その目は私に何を期待しているのか雄弁に語っていた。
正直に言って私の頭の中は薔薇色だった。どこまで許されるのだろうかという興味がちらつく。
「良くない、良くないよこれは。このままじゃ手を離せなくなる。」
「私が傷つくような事があったとして、リンクス様は守って下さらないのですか?」
「きっと後悔するよ。あとで泣いても知らないから。」
リンクスの手がジェシカ姫の服の下へと伸びていった。
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ジェシカ姫は我らが光であり、リンクスの業を背負いし者である。
王弟殿下と政略結婚 MASK⁉︎ @castlebreak
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