第六章 論理の死闘
正直なところ、瑞穂も瑠衣子もその名前を聞いても最初ピンとこなかった。というより、あまりにも想定外の名前過ぎて「一体誰だっけ?」としか思えなかったのである。
だが、この名前に真っ先に反応したのは他ならぬ彩芽だった。
「ど、どういう事……何で彼女が……」
ブツブツ呟く彩芽に、瑞穂が代表して質問する。
「えっと……誰なんですか、あの人」
それに対する彩芽の答えは簡潔だった。
「事件の証拠固めの時に、『事件の三日前、大学からの帰宅途中に吉木宅周辺をうろついている岸辺を見た』という証言をした現場の近所に住む女子大生です。彼女の証言があったからこそ岸辺が事件の数日前からあの家を狙っていた事がわかり、岸辺の犯行を立証する補強証拠になりました。でも……そんな……まさか、あの探偵は彼女を犯人呼ばわりするつもりなの?」
言われてみれば、瑞穂が榊原に見せてもらった事件の捜査資料の中にチラリとそんな証言をした女子大生がいたというような話が書かれていた気がするが、正直瑞穂は全く覚えていなかった。一応、隣の瑠衣子にも尋ねる。
「吉木さんは彼女を知ってるの? 品野さんの話だと近くに住んでいる人みたいだけど」
「し、知りません! 私、あんな女の人と知り合った事なんかないはずです……」
本人もわけがわからず当惑しているが、その間にも、名探偵・榊原恵一と真犯人・高田信奈の間で、この事件における最後の対決の火ぶたが切って落とされようとしていた。
「……いきなり話しかけてきたと思ったら、随分失礼な人ですね。言うに事欠いて私があの事件の犯人だなんて……失礼ですけど、気は確かなんですか?」
困惑気味でありながらもどこか怒気を含みながら言う信奈に対し、榊原は涼しい顔で答えた。
「生憎ですが、確かなつもりです」
「馬鹿じゃないですか。あの事件は何とかいう殺人犯をあの吉木って家の女子高生が返り討ちにしただけの事件でしょう。そこに真犯人も何もないじゃないですか」
「……いえ、調査の結果、あの事件の際に吉木宅には岸辺和則でも吉木瑠衣子でもない第三者がいた事が立証されています。そして、さらなる調査の結果、犯人だと思われていた岸辺和則が実は逆に吉木瑠衣子を守ろうとしていた事、そしてその際に本当に吉木瑠衣子を襲っていた『真犯人』に明確な殺意を持って殺害された事が判明したんです。私は、その『真犯人』があなただと言っているわけなんですがね」
そこまで言われて、信奈の目が吊り上がった。
「いい加減にしてください。探偵だか何だか知りませんし、そもそも何を言っているのかさっぱりわけがわかりませんけど、適当なことばっかり言うんだったら……」
「では、適当ではない事実に基づいた事を述べていきましょう」
相手の言葉を遮るように榊原が告げる。
「何を言って……」
「ひとまず、話をする前に前提条件を確認します。高田信奈さん、あなたは二週間前に吉木宅で起こった殺人事件において『事件前に現場近くで岸辺和則を目撃した』という証言をしており、事件情報の目撃者という形でこの事件に関与しています。これに間違いはありませんか? これは警察の記録にも残っている公式記録なので調べれば事実関係はすぐにわかりますが、本人の口からその点についてちゃんと明言してもらいたいと思っています。いかがでしょうか?」
挑むかのような口調の榊原に対し信奈は反射的に何か言おうとしたようだが、『警察の公式記録に残っている』という言葉が効いたのか、最終的に否定しきれないと判断したらしく渋々頷いた。
「……えぇ。確かに私は二週間くらい前に警察にそんな証言をしました。それは認めます。でも、それだけで何で得体の知れない探偵に犯人扱いされないといけないのか、私には全く理解ができません」
真正面から挑みかかるような口調で榊原の問いに答えた信奈だったが、当の榊原はそれを受け止めた上で冷静さを崩す事無く言葉を返した。
「それを説明する前に、この場でもう一度、あなたが何を証言したのか今この場であなたの口から語ってもらえませんか?」
「だから! 何でそんな事を……」
「あなたの口から言ってもらわないと、『あれは勘違いだった』というありがちな言い訳をされる可能性がありますからね。私はそれを防ぎたいだけです。それとも、何か話すと不都合な事でもあるんですか?」
事務的な口調でそんな事を言う榊原に、信奈の反論が止まった。一瞬、張り詰めた空気がその場に漂い、両者は黙ったまま睨みあいを続けたが、根負けしたのは信奈の方だった。
「……そこまで言われたら話しますけど、事件の三日前の夕方に大学から帰る途中であの家の前を通りかかったんです。そしたら、あの家の前をうろついてじろじろと中の様子を伺っている怪しいつなぎ姿の男が目に入りました。正直、気味が悪かったし、私が見ていた事を気付かれるのも嫌だったからすぐにその場を通り過ぎました。私が見たのはそれだけです」
「それだけではないはずです。あなたは後日、警察から写真による面通しをさせられたはず。その件についてはどうですか?」
「……つなぎの写真と、何人かの顔写真を見せられました。私は自分が見たつなぎと男の写真を選んだだけです。その結果がどうだったのかは知りません」
「ご心配なさらずとも、ちゃんと当たっていましたよ。あなたが言い当てたのは、間違いなくあの日あの家に侵入していた指名手配中の殺人犯・岸辺和則でした。その点は保証します」
「なら、何も問題ないはずですよね。なのに、何で私が……」
そう言って抗議し始めた信奈を遮るように尋ねた。
「最後に確認します。今の証言、本当に間違いないと断言できますか? これだけ何度も念押ししているんですから、後から『間違いだった』というのは通じませんが」
さすがにここまで念押しされると信奈としてもどこか気味悪いようだったが、それでも証言を変える気はないようで、かなりいら立った様子で榊原に言葉をぶつける。
「くどいですね! 何度も言いますけど間違いなんかありませんよ! さっきから何なんですか! 私にばかり喋らせてばかりで……言いたい事があるならはっきり言ってください!」
その直後、榊原は短く、それでいながら鋭い言葉を信奈にぶつけ返した。
「では、遠慮なく。……全く、お話になりませんね」
その場が静まり返った。
「何ですって……」
「お話にならないと言ったんですよ。やはり、あなたの今の証言には大きすぎる矛盾が存在しています。その矛盾が、あなたが犯人である事を明確に証明しているんです」
「何を言い始めるんですか! 私はただ、事件の三日前にあの男を現場近くで見たと言っただけで……」
「それがおかしいんですよ。何しろ、事件の三日前にあなたがつなぎを着た岸辺和則を目撃する事など、絶対に不可能なんですからね」
断言するようにそう言うと、榊原はいよいよ本格的に信奈を切り崩しにかかった。
「今回、私はこの事件を調べる過程で、岸辺和則が事件当時着ていたつなぎに関する情報を手に入れました。それによれば、事実上のホームレス生活を送っていた岸辺は蒲田にやって来てからしばらくしてずっと着ていたジャンバーを破損し、代わりの物を捜し歩いていたそうなんです。そして、その代りの物として彼が見つけたのが、事件前にこの近所の衣類製造工場が不良品として工場裏の産廃用コンテナに破棄したつなぎでした。コンテナは誰でも入れるような場所にあったので、勝手に持っていくのは簡単だったはずです」
「……だから何なんですか? それが私に何の関係があるっていうんですか?」
信奈が不満そうに言うが、榊原は自分のペースを崩さない。
「問題は、このつなぎが『いつ』岸辺和則の手に渡ったのかという事です」
「いつって……」
「問題の工場を経営する仁科という人物に確認したところ、件のつなぎはその工場のオリジナル商品で、今月初頭に初めてカタログに掲載して販売を開始。その週末に初めて発注がかかり、翌日の土日に初めて生産ラインを動かして製造を行ったという事でした。つまり、問題のつなぎの製造が初めて行われたのは今月の最初の土日で、それ以前には問題のつなぎはこの世に存在すらしていなかった事になります。では、具体的にその日付はいつなのか?」
榊原は一度言葉を切ると、すぐに話を続けた。
「今月……すなわち二〇〇八年六月は六月一日が日曜日になっています。『月初めにカタログに載せ、その週末に初の発注がかかった』と言っている以上は六月一日が問題の土日という可能性は低く、従ってその週末の六月六日金曜日に発注がかかり、翌日の六月七日土曜日から六月八日日曜日にかけて生産が行われたとするのが妥当でしょう。とすれば、岸辺和則が問題のつなぎを入手できたのは、早くとも六月七日土曜日の事だったはずです」
そこまで言った瞬間だった。不意に信奈の表情が何かに気付いたようにハッとするのが瑞穂たちのいる茂みからもはっきりと見て取れた。それに気づいていないのか、あるいは気づいていてもあえて無視しているのか、榊原は口調や表情を変えないまま話を続行する。
「さて……今回吉木家で事件が起こったのは、六月九日月曜日の事でした。そして、あなたはその三日前、大学からの帰り道に吉木宅近くで岸辺和則を目撃したと言っている。では、あなたが岸辺を目撃したと言っている日付はいつかというと、六月九日の三日前なのだから六月六日の金曜日という事になります。……ここまで言えば、私が何を問題視しているのかは一目瞭然のはずですが」
そこまで聞いて、茂みの瑞穂たちもようやくなぜ榊原が彼女に着目したのかをはっきりと理解した。榊原がその答えを告げる。
「あなたがつなぎ姿の岸辺和則を目撃したと主張しているのが六月六日金曜日。しかし、先程証明したように問題のつなぎが世に出たのはその翌日の六月七日土曜日で、あなたが岸辺を目撃したと言った六日にはそもそもそんなつなぎなんかこの世に存在していなかったんです。つまり、あなたは警察に対して、この世に存在していなかったつなぎを着た岸辺が吉木宅周辺をうろついていたという不可解すぎる証言をしていた事になるんです。これで疑うなという方に無理があるでしょう」
今度こそ信奈の表情がはっきり歪んだ。たかが一日、しかしされど一日である。たった一日の矛盾が、これまで事件の表舞台に出てすらいなかった高田信奈の証言に致命的すぎる穴を開けてしまっていたのである。同時に、榊原が冒頭であれだけしつこく信奈に証言の正確性を何度も念押しした理由も、瑞穂たちはしっかり理解していた。
だが、それでも信奈はすぐに表情を引き締め、即座に反撃に打って出た。
「……それが本当なら、私がうっかり日付を間違えていたのかもしれません」
「さっきあれほど確認したのに、この期に及んで記憶違いでした、ですか」
どこか開き直ったような言葉に、榊原が少し呆れたように言う。が、信奈は動じない。
「ないとは言えないじゃないですか。もしかしたら、三日前じゃなくて二日前とかだったかも。ほら、一日くらい間違える事なんて誰にも……」
「ありえませんね」
が、そんな信奈の言い訳を榊原ははっきりと否定する。
「な、何でそんなに断定的に言えるんですか!」
「実際にそんな事はあり得ないからですよ。仮に、あなたの言うように日付が違っていたとしても、あなたの証言ではあなたは問題の男を『大学からの帰り』に目撃したと言っています。しかし、先程も言ったように岸辺が問題のつなぎを手に入れたのは七日の土曜日以降のどこかで、事件発生が九日である事を考えれば、あなたがつなぎを着た岸辺を目撃できるのは最大でも七日と八日の二日間しかありません。ところが、この七日と八日は土日。当然……大学は休みのはずです」
「あ……」
信奈が思わず口に手を当てて絶句する。
「大学が休みだったのに、『大学帰りに見た』などという目撃証言をしたというのは明らかに矛盾しています。何なら、問題の土日にあなたが受講している講義なりが大学であったか確認してみましょうか?」
「それは……」
信奈が口を噛む。それを見て、榊原はさらに信奈を追い詰めていく。
「さて、次はどんな言い訳をしますか? 今度は『大学帰りだというのは記憶違いだった』とでも言ってみますか? もっとも……そこまで行くともはやあなたの発言そのものの信憑性に疑問が生じてしまいますがね。警察に対して証言をしているのに、一つならまだしも二つも勘違いをするというのはいささか苦しい話です」
「……」
さすがの信奈も、日付の件で一度『勘違い』と言っている以上、これ以上「記憶違いだった」という言い訳が通じないのはわかっているようである。何も言う事ができず、榊原の言葉に反証できないまま時間だけが過ぎていく。そして、榊原にはそれで充分のようだった。
「どうやら、反論はできないようですね」
「……」
「あなたは六月六日につなぎを着た岸辺を目撃する事はできなかった。また、大学帰りに見たという証言を撤回できない以上は七日と八日に目撃した可能性も低く、当たり前ですが事件当日に目撃したというのもナンセンスです。つまり、実質的にあなたが目撃できた日が一日も存在しない以上、あなたの証言は明らかな嘘という事になる。さて、それが事実だった場合、次に問題になるのは『なぜあなたは実際に見てもいない目撃証言をわざわざ警察にしたのか』、そして『なぜあなたは見た事もない岸辺の顔とつなぎの形状を警察の面通しで当てる事ができたのか』という二点です」
信奈は唇を噛み締めたままだ。どうやら、信奈もこの探偵がはったりや言い掛かりを言っているわけではないと理解したようで、本気で榊原と対峙する構えを見せている。それをわかった上で、榊原も信奈に真っ向から勝負を挑んでいた。
「何度も言うように、あなたは六月六日に岸辺和則を目撃などしていない。それはつなぎの一件から疑いようのない事実です。にもかかわらず、あなたは岸辺の顔と、当日岸辺が何を着ていたのかまで見事に当ててしまっています。しかもその服装は六月六日の時点では絶対に見る事ができないつなぎでした。それを当てたとなれば、あなたは岸辺がつなぎを手に入れる機会があった六月七日以降に岸辺和則をどこかで見ている事になります。ですが、あなたが問題の証言を撤回せず『大学からの帰り道に見た』と言い続けている以上、それが事件前の土日である可能性はあり得ない。となれば、あなたがつなぎを着た岸辺を見る事ができるタイミングはただ一つ……事件当日、あの吉木宅の中のみとなります」
その言葉に、信奈は顔を上げて榊原を睨みつけた。
「そんなの……言い掛かりです!」
「言い掛かり、ですか。では、逆にどの辺が言い掛かりなのか私に教えてもらえますか?」
榊原がそう言うと、信奈は何かを吹っ切ったように息を吐き、キッと榊原を睨みつけて反証した。
「わかりました、認めます。警察に言った『事件の三日前の夕方に大学から帰る途中に岸辺を見た』という証言……あれは嘘です」
「ほう……証言が嘘だったと認めますか」
榊原は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに真剣な顔に戻って言葉を返す。
「ですが、今さら『すべてが嘘だった』『本当は何も見ていない』というのは通りませんよ。先程言ったように、あなたが面通しで岸辺の顔と服装を当てている以上、岸辺がつなぎを手に入れた六月七日以降にあなたが直接岸辺を見ているのは確実なんです。その点はお忘れないように」
そう念押しされても、信奈は榊原を睨み続けながら再反論した。
「確かに六月六日の夕方にあの男を見たというのは私の嘘ですし、今さら何も見ていないなんて言い訳をするつもりもありません。でも、だからと言って事件当日にあの家の二階で見たわけでもない。本当は、あの男を目撃したのは別の日だったんです」
「では、当然の疑問として実際はいつどこで見たのですか? 何度も言うようにつなぎの矛盾がある以上、それが可能なのは六月七日以降となりますが」
榊原にそう言われて、信奈は慎重な口調で答えた。
「……見たのは六月八日の夜です。あの家の辺りをうろついているのを見ました」
その答えを聞いて、榊原は目を細める。
「六月八日の夜、ですか。それは構いませんが、そもそもの話として、あなたは問題の七日と八日に何をしていたんですか? 調べればすぐにわかる事ですが、あなたの口から言って頂けませんかね?」
「それは……」
信奈は一瞬押し黙る。が、榊原の視線に耐えきれなくなったのか、逆に挑むような口調で答えた。
「バイトに行っていました」
「バイト、ですか」
「そうです。休みだから、二日間とも朝の九時から夕方の五時までずっとシフトに入っていました。蒲田駅近くにあるコンビニのバイトです」
「それを証明できますか?」
「疑うなら店長やほかの店員に確認してください。あいつを見たのは、八日のバイトが終わって帰る途中だったはずです」
ここまで強気に言っている以上、彼女が土日にバイトに行っていたというのはどうやら事実と考えてもよさそうだった。
「……いいでしょう。では、それが本当だとして、あなたはなぜ警察に嘘の証言をしたんですか?」
「それは……事件の前日に見たなんて言ったら疑われるかもしれないと思ったから。見たのは間違いないんだから、日付を少しぐらいずらしたって問題ないと思ったんです。もしそれが問題になったっていうなら、後でちゃんと警察に行って謝ります」
その言葉に榊原は目を閉じると、静かに問いかけた。
「最後に確認します。今度こそ絶対に確かな話ですか? あなたが見たのは確かに岸辺和則だったと断言できますか?」
それに対し、信奈は少し怒りながら反駁した。
「今度こそ間違いありません。本当です!」
「そうですか。……だとしたら妙な話ですね」
最後まで聞いた上で、榊原は目を開きながら、はしごを外すかのようにそう言って首をひねった。
「今度は何なんですか!」
「いえ、私の調査によれば、岸辺和則は八日の夜に仲間のホームレスと一緒に話をしていた事がはっきりしているんですよ。何だったら、相手のホームレスをここに連れてきて証言でもさせましょうか?」
「え……」
そう言って絶句したのは信奈だが、それ以上に驚いたのは茂みに隠れていた瑞穂たちだった。というのも、榊原が言ったような情報など、今まで一度も聞いた事がなかったからである。
「ちょっと、今の話、本当なの?」
彩芽が小声で瑞穂に尋ねるが、そんな事は瑞穂が聞きたい事だった。
「し、知りません! もしかしたら、昨日言っていた補充調査の時に聞いたのかもしれませんけど……」
そう言いながら瑞穂は何か違和感があった。と、その間にも榊原たちの勝負は次の段階へ進んでいた。
「どうしますか? また証言を撤回しますか?」
「それは……」
信奈が迷ったような仕草を見せ、言葉に詰まる。が、彼女が何かを答える前に榊原は小さく首を振った。
「いえ、もう答えなくて結構。今のあなたの仕草だけで充分です」
「ど、どういう意味ですか?」
「……私もなめられたものですね。この程度のはったりで動揺するくらいなら、最初から嘘をつかないでもらえませんかね?」
榊原は有無を言わせぬ口調でそう言いながら相手を見据えた。それを聞いて、信奈の顔が真っ赤になる。
「はったり……って事は……」
「えぇ、残念ながら六月八日の夜に岸辺がホームレスと話をしていたなどという証言は実際には出てきていません。しかし、あなたが本当に六月八日に岸辺を見たというなら……実際に本人を見ている以上、さっきの私のはったりが嘘だという事はすぐにわかったはず。そんな言葉に惑わされる事なく、逆に『探偵さんの発言の方が間違っている!』とか、あるいは『そのホームレスの勘違いだ!』くらいの事は言ったはずです。ですが……あなたの反応ははったりの真偽を怪しんだ挙句の『迷い』と『絶句』でした。この反応は、私のはったりが本当かどうかを判断できない……つまり、先程の『六月八日に目撃した』という証言に自分で自信が持てないか、あるいはそもそも証言がでたらめだった場合にしか発生しないものです。そして、あなた自身が先程『自分が見た人間が岸辺和則だ』と明言し、さらに何度も言うようにあなたが警察の面通しで岸辺の顔を正確に当てている以上前者の『証言に自信がなかった』という可能性は低く、すなわちあなたの証言はまたしてもでたらめだったという論理に結びつくのです」
「そ、そんなの……そんなはったりなんて卑怯よ!」
信奈は反射的にそう叫ぶが、それに対する榊原の返答は容赦なかった。
「卑怯も何も、先に嘘をついたのはあなたの方です。ならば、その嘘を暴くのにこちらもはったりを使ったところで文句を言われる筋合いはないと思いますがね」
信奈は唇を噛み締めて榊原を睨んでいた。一方、茂みの中の瑞穂たちは一連の流れを呆然としながら見つめていた。
「そんな……あんなはったり一つで相手の証言を崩すなんて……しかも反応だけで……」
彩芽が呻くように呟いているのが聞こえる。だが、何よりも恐ろしいのは、その何でもないはったりをそうと悟られないように自然な形で推理の中に組み込み、最後まで相手はおろか外野の瑞穂たちにさえ気付かせないまま見事にその罠に引っ掛けた榊原の手腕である。
「さて、どうします? あなたの証言はまたしてもでたらめだとわかったわけですが、まだ何か言い訳がありますか? ないのなら……状況は限りなくあなたに不利になりますが」
「待ってください!」
今や信奈は必死だった。だが、榊原はなおも彼女の話を聞く姿勢を見せる。
「何でしょうか?」
「……また日付を……間違えていたかもしれません……」
自分で言っていてかなり苦しい言い訳である事を自覚しているのか、信奈はどこか歯切れの悪い口調で声を絞り出す。一方、榊原はどこか冷めた様子ではありながらも、その言い訳を正面から受け止めた。
「日付の間違いという事は、つまりさっきの話が六月八日ではなく六月七日だったと言いたいのですか? 六日以前と八日が否定されている以上、犯行当日を除けばもはや該当するのはその日しかありませんが」
「そう……です……」
信奈もその事は重々わかっているのか、榊原の問いかけに小さく頷く。
「では、あなたの口からもう一度証言をしてもらえますかね。今度こそ『本当』の証言を」
「……六月七日の夜にバイトから帰る途中、あの家の周りをうろついていた岸辺を見かけたんです。七日も八日も同じ時間に帰っていたから時間を勘違いしていました」
「勘違い、ですか。言っておきますが、あなたはすでに二度も証言の変更を行っています。この上でこの三度目の証言にも矛盾があったとすれば、あなたに対する疑いは限りなく濃いものになってしまいますが、そのリスクを知った上でなおその証言をしますか?」
信奈は少し揺らいだが、すぐに表情を引き締め直して無言で頷いた。
「そうですか……では、その三度目の証言に対し、私はさっきと全く同じ反論をするとしましょう」
そう言うと榊原は信奈の正面に立ち、わざとなのかはっきり言い聞かせるように告げた。
「『私の調査によれば、岸辺和則には六月七日の夜に仲間のホームレスと一緒に話をしていたというアリバイがあります。だから、六月七日の夜にあなたが岸辺和則を見たというのはおかしい話なんです』。……さて、今私がした話は果たして『真実』なのか、それともさっきと同じく『はったり』なのか。あなたが証言通り岸辺を六月七日の夜に見ているというなら、先程立証したようにこの判断は充分可能なはず。その上で、あなたは私のこの反論にどう反応しますか?」
それは、榊原から信奈に対する真っ向からの挑戦状だった。信奈の顔が大きく歪み、憎悪さえ感じる表情で榊原を見やる。だが、答えなければならない事もわかっているようで、少し間があきはしたものの、即座にこう切り返していた。
「今度は本当です! 私は、間違いなく六月七日の夜に岸辺和則を見たんです! だから、あなたの話は全くのでたらめです!」
「……ほう、思い切りましたね」
榊原は感心したように唸る。そして、緊張した様子を浮かべたままの信奈に対して最終宣告を告げた。
「ですが、物の見事に引っかかったようです」
「……え?」
「とても残念な話ではありますが……今回の六月七日のホームレスの証言、これは先程のような『はったり』ではなく、実際に私が調査する過程で岸辺と同じ場所に住んでいたホームレスが話してくれた『真実』です。疑うなら今度こそ本人を連れてくる事もやぶさかではありません。要するに、あなたは岸辺を絶対に見る事ができない日に岸辺を見たという致命的すぎる証言を、今再びしてしまったんですよ!」
そう言われて、信奈は呆然自失という風にその場で棒立ちになってしまった。そんな信奈に榊原はさらなる追い打ちをかける。
「昨日の事です。私はつなぎの事を聞くために実際に彼が住んでいたホームレスたちのいるたまり場に行きました。そこで話を聞いたホームレスがこう言ったんですよ。『岸辺がつなぎを見つけた夜に、彼と一緒に夕方から夜遅くまでカップ酒で宴会をやった』と。つまり、彼がつなぎを問題の工場のコンテナから失敬した当日の夜、彼には完璧なアリバイが存在する事になるんです」
そういえばあのホームレスがそんな事を言っていた事を、瑞穂は榊原に言われて初めて思い出していた。一方の榊原はいったん言葉を切って、さらに追及を続ける。
「では岸辺がつなぎを手に入れたのが七日以降だとして、今さらながらその日付は具体的に七日と八日のどちらだったのでしょうか。これについては実は問題のこのホームレスが重要な証言をしていて、彼は問題のつなぎを岸辺が手に入れたのは事件の『数日前』だと言っているんです。仮に岸辺がつなぎを手に入れたのが八日なら表現は『前日』となるはずで『数日前』とは言わない。従って、岸辺がつなぎを手に入れたのは七日であり、よってこの日の夜に仲間と宴会をしていた岸辺が吉木宅の周りをうろつくのは不可能という結論になるんです」
榊原は一気に畳みかける。
「さて、どうしましょうかね。今までの話の中で、あなたが岸辺を七日の夜に見たという主張も、八日の夜に見たという主張もすべて崩れ去りました。では、何度目かわからない質問ではありますが、あなたは一体いつつなぎ姿の岸辺を見たのでしょうか?」
それに対して何か答えようとする信奈に、榊原は先手を打ってこう続けた。
「あぁ、一応言っておきますが『実は見たのはバイトに行く途中の早朝だった』という主張は成立しませんよ。何度も言うようにあのつなぎが製作され始めたのは七日ですが、より正確に言うなら七日に問題の工場が始業して以降です。そこからつなぎを作り始めたのなら、完成品ができるのは早くてもお昼頃。つまり、七日の朝にはまだつなぎの完成品は存在していないんです。朝九時にコンビニに出勤したあなたが完成したつなぎを見る事などできないんですよ」
まさに榊原が指摘した事を言おうとしていたのか、信奈は何かを言おうとしたまま固まってしまう。だが、榊原はなおも止まらない。
「だからと言って、八日の朝に見たというのもなしです。先程のホームレスの証言では、彼は宴会の翌日……つまり八日の早朝に自分の段ボールハウスの中で満足そうにいびきをかきながら寝ていて、そのまま昼過ぎまで起きなかったという事らしいですから。つまり、彼は八日の朝に確実に自分の段ボールハウスの中にいて、吉木宅に行くなどという事はしていないのです」
「……」
「あとついでに言えば、七日と八日の日中に関しては、あなたがバイトをしていたと言っている以上、目撃できないのは自明の話でしょう。その頃あなたはコンビニで仕事をしていたはずですから」
ここまで聞いて、瑞穂はさっき榊原が信奈に対してはったりによる罠を仕掛けた本当の意味を理解していた。ここまでの推理を聞いている限り、榊原は例のホームレスの証言から七日の朝と夜、それに八日の朝に岸辺が目撃された可能性はない事を把握していたはずである。だが、信奈を追い詰めるにあたっては『七日か八日の昼に岸辺を目撃した可能性』と『八日の夜に岸辺を目撃した可能性』をすべて潰す必要があった。そこで信奈からバイトの話を聞いて『七日か八日の昼に目撃した』可能性が消えた時点であのはったりを使って信奈の反応を伺い、信奈自身に残る『八日の夜に目撃した』可能性を否定させる事で彼女を追い詰める論理を確実なものに補強したのである。
さらに、榊原は一度八日の証言に対してはったりによる証言崩しを行う事で、続く七日の証言に対しての反証である『本物の証言』を逆にはったりだと誤認させ、相手に失言を誘発させて不利な状況に追い込むという心理的な罠を仕込む事にも成功していた。『本物の証言』という武器を正面から直接ぶつけるのではなく、それを最大限利用して最も効果がある状況を作った上でぶつける事で、相手自身に失言を誘発させてこちらに有利な証拠を増やすという荒業を成し遂げているのである。恐ろしいのは、バイトの話を確認した時点で即座に彼女を追い詰めるためのこれらの算段を組み立て、相手に悟られる事なくそれを実行に移した榊原の頭の回転の速さであろう。それでも一年以上榊原の近くでいくつもの事件を見続けてきた瑞穂はまだ耐性があったが、榊原による犯人との対決を初めて見る彩芽にとっては自分の想像を超える高度な『論理勝負』にもはや何も言えない様子である。そして、彩芽も榊原がその辺の「まがい物の探偵」などではなく、探偵の本分たる推理に特化した「本物の探偵」である事をいい加減に理解しつつあるようだった。
いずれにせよ、これで信奈が岸辺和則を『七日』と『八日』に目撃した可能性が完全に否定されたのは明白極まる事実だった。そして、榊原自身それを信奈に突き付けていた。
「以上より、あなたが六月七日と六月八日に岸辺を目撃した可能性は全て否定されました。すると、六月六日以前につなぎを着た岸辺が目撃できない以上、あなたがつなぎを着た岸辺を目撃できたのは事件当日……六月九日以外あり得ないという事になります」
今度は信奈からも否定する言葉はなかった。というより、否定したくてもできないようで、信奈は拳を握りしめながら耐えるように榊原の言葉を聞いている。
「そして、事件当日にあなたが岸辺を目撃できるのは、事件が発生したまさにその時間帯でしかありえないんですよ。いかがですか?」
だが、それに対して信奈は歯を食いしばりながらもなおも反論を試みた。
「仮に……仮に目撃できるのが九日だけだったとしても、目撃できるのは別に事件発生時間だけとは限らないじゃないですか」
「どういう意味でしょうか?」
「例えば……仮に私が『事件当日の朝、大学に行く途中で見た』と反論したら、どうしますか?」
どこか探るような口調で信奈はそんな事を言ってきた。が、榊原はそれには答えずに逆に信奈に問いかける。
「それに答える前に、ここまで来たら事件当日……つまり六月九日のあなたの行動について説明してもらいたいですね。もちろん、調べればある程度はわかる話でしょうが」
その問いに、信奈は一瞬反抗的な視線を榊原にぶつけたが、やがて無駄だと悟ったのか歯噛みしながら答える。
「朝八時頃に家を出て、九時から始まる大学の講義に出席していました。少人数制の講義なので、確かめてもらえればわかります。その後はお昼過ぎまでずっと大学にいました」
「大学を出た正確な時間は?」
「……午後三時過ぎ頃です」
「それ以降のアリバイは?」
容赦ない榊原の追及に、信奈は吐き捨てるように答えた。
「ありません。そのまま家に帰って休んでいましたから」
「つまり、あなたに事件当時のアリバイはない、という事になりますね」
榊原がそう断じると、信奈は間髪入れずに反論する。
「だから何なんですか! アリバイがないからって即犯人扱いだなんて……」
「アリバイがない上に何度も嘘の証言をしているとなれば、疑われても当然だと思いますがね」
そんな痛烈な言葉を返しつつ、榊原は話を戻した。
「さて、その上で先程のあなたの『事件当日の朝に岸辺を見た』という反論に答えておくと、結論から言えばそれもまたあり得ないと断言できます。なぜなら事件当日の朝、現場となった吉木宅では配電盤の故障による停電が発生し、連絡を受けて駆け付けた業者が朝八時から九時までの一時間にかけて玄関近くで修理工事を行っていたからです」
それを聞いて、茂みの中では彩芽がアッと言わんばかりの表情を浮かべていた。すかさず瑞穂が小声で聞く。
「心当たりがあるんですか?」
「え、えぇ。瑠衣子さんのお母さんに話を聞いたときに確かそんな事を言っていました。事件とは時間帯が違ったし、停電自体も人為的なものではなく老朽化によるものだったって聞いたから事件に関係ないと判断していたんですが……」
実際、停電そのものは確かに事件とは無関係のようだったが、ここへきてその停電の存在そのものが『事件当日の朝に岸辺を見た』という反論を封じる大きなファクターとして復活してきたのである。念のため、瑞穂は隣の瑠衣子にも確認した。
「吉木さん、停電の話、間違いないの?」
「は、はい。確かにあの日の朝、起きたら停電になっていて、お父さんが業者さんに電話していたのを覚えています。私は部活の朝練があったから七時ぐらいには家を出て、その後どうなったかは知らないんですけど……。そう言えば、今朝あの探偵さんから電話があって、その停電の事を聞かれました。何でかなって思っていたんですけど……こういう事だったんですね」
どうやら、補充調査の時点で榊原もこの停電の話には行きついていたらしい。そして、対峙する信奈はそんな修理の事実など知らなかったようで、何も言えずに俯いているのが確認できた。さすがの信奈も、該当時間に岸辺が吉木宅近くをうろついていたら、玄関近くで作業をしていた業者が気付かないはずがない事を理解しているようだった。何しろ、先程の証言から信奈が家を出たのは午前八時で大学に到着したのは午前九時となっており、その一時間が業者の修理時間としっかり重なってしまっている事から、彼女が同じ場所にいたはずの業者が目撃していない岸辺を目撃する事など不可能になってしまっているのである。
「ちなみに、残る可能性としては『九日の午後三時以降、大学から帰る途中に見た』という事になると思われますが、これは考えるまでもなく即座に排除できます。そこまで行ってしまうと、彼が吉木宅の周りを見回っていた行為はもはや『下見』の段階を超えて『実行』の段階です。しかし、実際に岸辺和則が吉木宅に侵入したのは吉木瑠衣子さんが帰宅した頃で、つまり仮に岸辺が午後三時頃に見回っていたのだとすれば、岸辺は住人が誰もいない絶好の機会を見過ごして、わざわざ吉木瑠衣子が帰宅した後に侵入したというおかしな話になってしまうんです。犯人の行動心理的にこの可能性はあり得ません」
「……」
「だからと言って、『事件発生時間帯に家に侵入しようとしているところを見た』というのも無理があります。そうなると、なぜあなたがそれを通報しなかったのかがわかりませんし、そもそも警察の捜査によれば岸辺和則の侵入ルートは道路に面した玄関ではなく裏手にある勝手口です。あなたが侵入を目撃できるはずがないんですよ」
「……」
「以上で、ただ一つの可能性を除いてあなたがつなぎ姿の岸辺和則を見た可能性は全て否定されました。残る可能性はただ一つだけ……事件現場となった吉木宅にあなた自身がいて、そこにいたつなぎ姿の岸辺を目撃した場合です。さて、ここまで立証し、これだけ嘘を暴き続けたとしても、あなたはまだ否定を続けますか!」
だが、ここまできても信奈はまだ諦める様子を見せなかった。
「さっきから意味のわからない理屈をぺらぺらと……あなたが言っているのはただの『想像』と『屁理屈』ですよね! もっともらしい事を言っていますけど、結局私がその時あの家にいたなんていう直接的な証拠はどこにもないじゃないですか! あなたの言うその『論理』とやらが正しいって言うんだったら、私があの事件の時にあの家にいたっていう証拠を持ってきてくださいよ!」
まさに必死の叫びだった。だが、それに対する榊原の言葉は簡単だった。
「証拠、ですか。それなら……さっきあなた自身が証明してくれたじゃありませんか」
「……え?」
「今までの問答の中で、六月六日の目撃証言を撤回した際、あなたはこんな事を言っていました。『岸辺を六月六日に見たというのは嘘だった。でも、事件当日にあの家の二階で見たわけでもない。本当は、あの男を目撃したのは別の日だった』。そうですね?」
妙に真剣な声で聞く榊原に、信奈は恐怖を感じながらも頷くしかない。
「い、言ったけど、それが何か……」
「どうして、あなたは岸辺があの家の『二階』で殺された事を知っていたんですか?」
「……え?」
その瞬間、榊原の眼つきが一気に鋭くなり、その視線が信奈を貫いた。
「確かに、岸辺和則は二階で刺され、階段の踊り場で倒れて死亡していました。でも、警察はそんな細かい事を発表なんかしていませんし、新聞の報道でも報じられていないはずです。事件当時現場にいた人間以外でこの事実を知っているのは、警察関係者と警察から事件の詳細を聞いた吉木家の人間、及びその吉木家の人間から話を聞いた私のような存在だけです。にもかかわらず、なぜ赤の他人のはずのあなたが、被害者が『二階で刺された』事を知っているんですか?」
「そ、それは……」
「さらに言えば、百歩譲って警察が事件の詳細を発表していたとしても、その場合は死体が踊り場で発見された事しか言わないはずです。確かに現場の血痕から岸辺が二階で殺害されたとされていますが、普通警察の記者会見などではそんな不確定かつ言う必要のない事まで言及しません。にもかかわらず、あなたは岸辺が二階で殺害された事をはっきりと言い当てていました。それができるとしたら可能性はただ一つ。……あなた自身が事件当時現場にいて、実際に岸辺が二階で刺される瞬間を目撃していた場合のみです」
今度こそ信奈は完全に何も言えなくなってしまっていた。自分が榊原に対して必死の反論を繰り広げている中で、知らないうちに致命的すぎる発言をしていたという事実にようやく気が付いたからである。
「さて、どうですか? この件について、何か納得できる説明があなたにできるのですか?」
信奈は押し黙る。その様子を見て、彩芽は少し悔しそうに小声でこう呟いていた。
「これは……決まったわね。ここまで追い込まれたら、もうあの女も反論のしようがないわ。個人的には……悔しいけど、あの探偵さんの勝ちみたいね」
しかし、彩芽の予想に対して隣の瑞穂は首を振って小声で告げた。
「まだです」
「え?」
「まだ……彼女の目が死んでいません。あの人、まだ諦めていないみたいです」
彩芽は慌てて信奈を見やるが、確かに顔こそ青ざめていたものの、彼女は拳を握りしめながらまだ反抗する姿勢を見せ続けていた。これには彩芽も狼狽する。
「で、でも、さっきの推理で彼女が事件当時現場にいた事は証明されたから……」
「それでも……この対決はまだ終わっていないんです! むしろ、ここからが正念場です」
意味がわからないまま彩芽が公園の中央に立つ二人を見やると、信奈は闘志を燃やした目で榊原に反撃を試みた。
「わかりましたよ……! そうです、私は確かにあの日、あの時現場にいました! こうなった以上、それは事実として認めます! でも……それだけです! 私はあの日、ただ事件を目撃しただけに過ぎないんです! あなたの言うように私が殺人犯だなんて、そんなの認められるわけがありません!」
何と彼女は、現場にいた事を認めながらも、まだ殺人自体は否認し続けているのである。彼女の予想外の執念に対し彩芽が絶句する一方、榊原自身はこうなる事は想定済みだったのか、その執念の反撃を正面から叩きのめしにかかった。
「現場にいた事は認めながら、あくまでまだ目撃者だと言い張りますか!」
「事実だから仕方がないじゃないですか! 私はただ、帰宅のためにあの家の前を通りかかったときに家の中から変な物音を聞いて、開きっぱなしだった玄関から中を覗いただけです。そしたら正面の階段の踊り場の所に倒れているつなぎ姿の男と、その男の前で血まみれの包丁を持ったまま突っ立っている女の子が見えて、怖くなってその場から逃げました。ただそれだけなんです!」
信奈の反論に、榊原は間髪入れずに突っ込む。
「つまり、あなたは帰宅中に事件の音を聞いて玄関まで入り、そこで階段の踊り場にいる岸辺と吉木瑠衣子を見たというのですか!」
「だから、そう言っているじゃないですか!」
「では、なぜあなたは現場にいた事実を警察に言わず、それどころか嘘の証言をついて真実を捻じ曲げようとしたのですか?」
「こんな事を言ったら私が疑われるかもしれないじゃないですか! 興味本位で現場に入って疑われるなんて冗談じゃありませんし、事件の関係者になるのが嫌だったんです!」
叫ぶように反論しながらも、その反論の筋は意外に通っている。彩芽は、信じられない事だがあそこまで追い詰められた状態から信奈が体勢を立て直しつつあることを実感していた。
「そんな……現場にいた事を暴かれながら、そこからさらに反論してくるなんて……」
少なくとも、今まで彩芽が担当した事件でここまでしつこい犯人はいなかった。そして、そんな犯人と真正面から対峙しながらもなお冷静さを崩さない榊原の規格外さが、彩芽にもはっきり自覚できるようになっていた。
「何て……人なの……」
そんな中、榊原と信奈の一騎打ちは最終段階に移りつつあった。
「いいでしょう。ここまできたら最後まであなたの『言い訳』に付き合う事にしますが……あなたは事件当時あの家の中で事件を目撃した事は認めた上で、目撃したのは踊り場に倒れる岸辺の死体の前で呆然と立っていた吉木瑠衣子の姿だけで、即座に逃げ出したと主張しています。確認しますが、それで間違いありませんか?」
「……」
今まで同じように聞かれて何度も自分の証言をひっくり返され続けてきた事からか、信奈はすっかり警戒した様子で、余計な事を言わないように無言で頷くだけである。
「結構。ならばその前提に立った上で話を進めますが……今の話が正しいとすると、現場の状況にどうしてもつじつまの合わないものができてしまうんです。そしてそれが、あなたがこの事件の犯人だという言い逃れできない決定的な証拠になります」
「今度は何なのよ!」
思わずそう叫んだ信奈に、榊原は淡々と告げる。
「靴跡です」
「靴……跡……?」
「これは、あなたが事件現場にいたと認めたが故に生じた矛盾なんですがね……事件発生直後、当然警察は現場となった吉木宅を徹底的に捜査しています。そして、その現場からは家の住人たちと犯人の岸辺和則以外の痕跡は検出されませんでした。もちろん、あなたの痕跡も、です。というより、さすがに現場から目撃者の痕跡が出ていたら警察も追及くらいはするでしょう。それがなかった時点で、警察があの現場からあなたの痕跡を発見できなかったのは容易に推測できます」
さて、と言ってから榊原はさらなる一手を突きつけにかかる。
「だとすれば逆に妙ですね。現場からはあなたの痕跡は一切発見されていない。しかし、あなたはたった今、あの家の玄関の中に入って踊り場の犯行を見たと証言しました。ならばなぜ……あの家の玄関からあなたの足跡が検出『されなかった』のでしょうかね?」
「あっ……」
そこまで言われて、信奈の顔が青ざめた。証拠がない事が逆に証拠になる……その問題に、初めて気づいたと言わんばかりだった。
「あなたが今はいているその靴……どうやらパンプスのようですが、そのままあの玄関に飛び込んだら、玄関にはそのパンプスの足跡が残るはずです。ですが、事件後の警察による徹底した捜査にもかかわらず、あの家の玄関からあなたの靴跡は見つかっていません。しかし、あなたはたった今事件当時あの家に飛び込んだ事を証言していますし、さらに先程までの論理からあなたがつなぎ姿の岸辺を目撃したのは事件発生時の吉木宅内でなければあり得ない事も立証できています。つまり、あなたは事件当時確実に現場にいたにもかかわらず、その痕跡が残っていないというおかしな事が起こってしまっているんですよ」
その上で、と榊原は続ける。
「その状況が成立するとすれば可能性は二つのみ。家に入る前にあなたが足跡の残らないような対策……例えば靴カバーをかぶせるなどをしていた場合か、あるいは事件後にあなた自身が自分で足跡を消す工作をしていた場合のいずれかです。そして、いずれの場合にしたところで、これらの行動は『たまたま現場に飛び込んで事件を目撃した目撃者』ではなく『自分の痕跡を消そうとする犯人』が行うものとしか考えられません!」
信奈は言葉を返せない。そして、榊原はさらにそこに畳み込んでいく。
「それに、あなたが犯人だと立証できる証拠は一つではありません。例えば凶器の包丁です」
「それが一体……」
「警察の捜査で、問題の包丁は現場の吉木家ではなく外部から持ち込まれたものだという事がわかっています。今まではこれは岸辺が持ち込んだものと判断されていましたが、事がここに至ればその前提さえ覆る。岸辺が純粋な被害者なら、包丁を持ち込んだのもあなただという事になります。となれば、次の問題は……あなたはこの包丁をどこから持ち込んだのか?」
榊原は信奈を睨む。
「自分の痕跡が付着している可能性のある自分の家の包丁を使うとは思えません。確実に新品の包丁をどこかで購入しているはず。あなたに絞ってここ数ヶ月分の行動でも調べれば、引っ越し時期でもないのにあなたが似合いもしない包丁を買ったかどうかなんてすぐにわかりますよ。おそらく、購入場所は自宅からそう遠くない場所でしょうしね」
「でも、それだけじゃ私が犯人だなんて……」
信奈はすがるように言うが、榊原は容赦なく切り捨てる。
「えぇ、これだけでは証拠としては弱い。だから、面倒でも証言崩しをしてあなたが現場にいた事を立証しなければならなかった。包丁を買っただけでは証拠にならなくても、事件当時現場にいて、その事実を隠すために何度も嘘をつき、あまつさえ靴跡を消す工作まで行っていたとなれば、包丁を買ったという事実が重い証拠として復活してくるんですよ。単独では力にならない証拠でも、それ以外の証拠の組み合わせいかんでは強力な証拠に変貌する事もあり得るという話です。さっきから苦労してあの証言崩しをしたのは、元々の段階では弱い証拠に過ぎない包丁という証拠に証拠能力を付加するためでもあったんです」
「そんな……」
信奈は絶句する。が、「現場にいた」事を認めた時点で、すでにこの場は榊原の独壇場になりつつあった。
「まだあります。現場の状況から考えて、岸辺は犯人に刺されながらもなお犯人にしがみつき、そのまま階段を踊り場まで転げ落ちたと考えられています。これは岸辺の体に残った打撲痕から確実な事です。となれば……一緒に転げ落ちた犯人側もただでは済まなかったはずです」
「……」
「現場に第三者の血痕がなかった以上、血が流れるほどの怪我だったというわけではないでしょうが、あの急な階段から転げ落ちたとなればそれ相応の怪我を負った可能性は充分にあります。試しに、事件から今日までの二週間におけるあなたの医療機関への受診記録を調べてみましょうか? 保険証の使用履歴を調べれば、こんなものは具体的な症状と一緒にすぐにでもわかる話ですよ」
「それは……」
「仮に犯行がばれるのを恐れて医療機関にかかっていなかったとしても、その場合は医者の処方なしで自然治癒するのを待つほかなく、そうなれば事件から二週間しか経過していないこの段階ではその傷がまだ癒えていない可能性もあります。警察が令状を取ればあなたの身体検査をする事は可能でしょうし、それこそ専門医が調べれば外傷の有無など一目瞭然です。もしその検査で何らかの外傷が見つかったとしたら、あなたはその外傷の理由を説明できますか?」
もはや信奈が反論する隙はない。が、それでもなお榊原は止まらない。
「さらにもう一つ。これだけの犯行となれば、あなたは犯行時に吉木瑠衣子と岸辺和則双方の返り血を浴びているはずです。もちろん、刃物を使う犯行を計画した以上は返り血がかかる事は想定内でしょうから防水性の雨合羽を着るなりの対策はしていたでしょうが……岸辺と一緒に踊り場まで転がり落ち、さらに血だまりの中で格闘したとなれば、想定外の場所に返り血が付着している事も考えられます。聞きますが、事件から二週間たった現在、あなたはこれら返り血のついた衣服をちゃんと処分できているのでしょうか?」
この問いに対し、信奈は黙ったままだ。茂みに隠れている瑞穂自身、さすがに事件から二週間が経過した今となってはさすがにそうした衣服の処分は済ませていると思った。だが、その次に榊原の口から出たのはこんな言葉だった。
「まぁもっとも、仮に処分していたとしても立証に支障はないんですがね」
「……え?」
「いいですか。血の付いた衣服を処分しようと思ったら、一番確実なのはゴミと一緒に出してしまう事です。ただし、血が付いたまま出せば一発で怪しまれてしまいますから、この場合衣服等を一度ちゃんと洗うなりして見かけ上は血が付着していないように見せかける必要があります。さて……確かに、これで衣服自体は処分できるでしょうが……その衣服についた血を洗い流した、浴槽なり洗濯機の中からは確実に大量のルミノール反応が出るはずですね」
「っ!」
「試しにあなたのアパートの部屋の浴槽や洗濯機を調べてみましょうか? もしそこに、日常生活の中では到底付着しないような量の血液反応が出たとすれば、あなたが血痕の付着した衣服を自宅で処分したという何よりもの決定的な証拠になるはずです。仮に血痕が洗い流しきれずに一部でも床や壁に残っていて、それが吉木瑠衣子か岸辺和則のDNAと一致したらなおよいのですが、まぁ、そこまでいかなくてもルミノール反応が出るだけで立証には充分でしょう」
「……」
「それに、吉木瑠衣子が事件前に友人に語った話では、事件の五日くらい前に自分を監視しているような視線を感じていたという事でした。今まではその視線は事前の下見をしていた岸辺のものだと考えられていたわけですが、岸辺がそんな事をしていないと判明した今となっては、あなたが犯行の下見をするために彼女の行動をつけていた時の視線だと考えるのが自然です。おそらく、事件前に吉木瑠衣子が立ち寄った場所なりを調べれば、不審な行動をするあなたの目撃証言がこれでもかと出てくるでしょう。それに対する言い訳があなたにはできますかね?」
信奈は答えない。そして、榊原は鋭く告げる。
「さて、いかがですか。ここまで立証してもなお、あなたは犯行を否定するというのですか!」
その瞬間、二人の視線の間に、一筋の火花が散った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます