第五章 逆転の論理

 六月二十四日火曜日、午後六時。ちょうど二週間前、あの事件があったのとほぼ同時刻。現場となった吉木家近くの児童公園に、複数の人間が集まっていた。メンバーは吉木瑠衣子、品野彩芽、深町瑞穂……そして、この集まりを招集した張本人である私立探偵・榊原恵一だった。具体的には榊原が正面に立ち、残る三人がそれに対峙している形となる。

「えっと……何で、刑事さんが……」

 そう言って不安そうに彩芽の方を見やったのは瑠衣子だった。事件後に自分の状況を教えた刑事の事はさすがに覚えていたらしい。瑞穂は不安そうな瑠衣子と怖い表情を浮かべた彩芽の間に割って入るような位置におり、榊原はそれを見ながら瑠衣子にこう尋ねた。

「ちょっと色々あってね。私の話を聞きたいそうだ。構わないかね?」

「構わないかね、って……」

「私は依頼人の意思を尊重する。君が嫌だというなら、その時点で彼女には帰ってもらう。……私の責任で必ず、だ」

 何か言おうとした彩芽を遮るように、榊原は真剣な口調で告げた。それを聞いて、瑠衣子は少し考えていたが、やがてこちらも真剣な表情で頷いた。

「構いません。私は依頼するときにすべてを榊原さんに託しました。榊原さんが構わないと判断したなら、私もそれに従います」

「……わかった。ならば時間もないし、始めよう」

「時間がない、ですか?」

 瑠衣子の問いに対し、榊原はなぜか答える事なく全員を見回した。

「さて、今回、私は瑠衣子君から今から二週間ほど前にこの近くの吉木宅で起こった殺人事件の調査を依頼された。事件は高松市で妻を殺害して指名手配中だった殺人犯・岸辺和則が吉木宅を襲撃してたまたま家にいた瑠衣子君を襲撃。しかしその最中に瑠衣子君の反撃を受けて包丁を奪われ、返り討ちにあって死亡したというのが警察の公表した事件の内容だ。そうでしたね、品野警部補?」

 榊原は彩芽にだけは敬語のままで尋ねた。それが気に食わないのか、彩芽は不機嫌そうな顔をしながらも不承不承頷く。

「……えぇ、そうです」

「私の今言った流れに警察として何か付け加える事はありますか?」

「ありません」

「結構」

 短く答える彩芽に榊原も短く応じ、再度瑠衣子の方を見やった。

「しかし、瑠衣子君はこの警察の出した結末に納得せず、私に対して事件の真相を明らかにするように依頼してきた。その根拠となっているのが、事件以来、事件の記憶をなくしたはずの瑠衣子君が毎晩見ているという『悪夢』の存在だ。その『悪夢』によれば、事件の最中、犯人に襲われる瑠衣子君に対して『逃げろ!』と叫んだ人物がおり、すなわち事件現場に瑠衣子君と岸辺和則以外の第三者がいた可能性を示唆するものだった。この認識で間違いないかね?」

「は、はい」

 瑠衣子は緊張しながらもしっかり頷く。

「よって、今回の依頼において最初に判断すべきはこの一点となる。果たして瑠衣子君が見ているこの『悪夢』は真実なのか……すなわち、事件当時『第三者』が本当に現場にいたのかという点だ」

「馬鹿馬鹿しい」

 そこでようやく彩芽が口を挟んで榊原に反論した。

「そんな人間がいるなら、警察の捜査ではっきりしているはずです。あの事件の際、現場に『第三者』がいたはずがありません」

「なぜそう言えるのですか?」

「仮にそんな人間がいたなら、彼女の聞いた叫び声が『逃げろ』であった以上、その『第三者』は彼女を助けるつもりだったはずです。でも、実際に反撃したのはそこにいる吉木瑠衣子さん自身だった上に、路上で力尽きた彼女に対して救急車や警察を呼ぶ事もなく、その後第三者を名乗る人間が警察に名乗り出るような事もありませんでした。これは彼女を助けに入った人間の行動としては不自然極まります。そもそも、第三者が現場にいたにしてはその存在が希薄すぎる。あの現場に第三者がいたというのは複数の観点から無理がありすぎるんです」

「では、あなたは彼女の『悪夢』を何だと考えているんですか?」

「文字通り『夢』です。事件を忘れられない彼女が見た幻……それでいいじゃありませんか?」

 挑むように言う彩芽に対し、榊原は間髪入れずに鋭く反論した。

「ところがちっともよくないんですよ。なぜなら私の推理によれば、あの現場には確実に『第三者』がいたはずだからです」

 その瞬間、彩芽と榊原の間に一筋の風が吹いた。

「……面白いですね。一体どこをどう推理したらそんな結論に達するのか、後学のために教えてもらいたいものです」

「構いませんよ。今日はそのためにこの集まりを招集したのですからね」

 そう前置きしてから、榊原は本格的にこの事件に対する自身の推理を披露し始めた。

「問題になるのは、昨日現場近くの寺院で遊んでいた田杉将太という少年の証言です」

「昨日も同じ事を言っていましたね……あの少年の証言が一体何だっていうんですか?」

「その前に、証言の内容を瑠衣子君にも話しておきましょう。そうでなければ話が進みませんからね」

 そう言ってから、榊原は昨日の帰宅後に田杉将太から聞いた内容を簡単に瑠衣子に語る。だが、それを聞いても瑠衣子自身ピンとこない様子だった。

「あの……私が事件当日にあの子を助けたみたいだって言うのはわかりました。でも、だからどうしたんですか? 確かに失われていた記憶のピースが判明したのは喜ばしいですけど……それは事件の前の話で、事件そのものには何の関係もないんじゃ……」

「ところが、重要な関係がある。それこそ、この事件の構図そのものをひっくり返しかねないほどの爆弾だ」

 そこまで言って、ついに彩芽が怒りをあらわにした。

「能書きはもう結構です! とにかく時間がないというなら、その根拠とやらをさっさと言ってもらえませんか?」

「……いいでしょう。品野警部補の言うように、時間もありませんからね」

 榊原はそう言って一呼吸置くと、いよいよ事件の核心へと話を進めて行った。

「田杉将太の証言によると、瑠衣子君は寺の石垣の上から落ちた田杉少年を受け止め、そのまま一緒に路上に倒れ込んだらしい。その際、田杉少年は瑠衣子君がどこか痛みを隠すようにしながらも彼の事を心配し、彼の無事がわかるとそのままの状態で去って行った旨を証言している。つまり、彼女は石垣から落下してくる田杉少年を受け止めた際にどこかを痛めた……もっとはっきり言えば怪我をしていた可能性が高い。この点について反論は?」

 その問いに対し、瑠衣子と瑞穂は顔を見合わせてから首を振り、彩芽もさすがに否定する事は出来なかったようだった。

「確かに、そうなるみたいですけど……でも、だからどうしたというんですか? 彼女が怪我をしていたからと言って、事件に何か影響が出るわけでは……」

「では品野警部補、今度は逆にあなたに聞きますが……事件後、瑠衣子君が病院に担ぎ込まれて医師からの正式な診察を受けた際、医者は彼女が負った怪我の中で『事件で受けた以外の怪我』について何か言及していましたか?」

「……え?」

 そう問われて、彩芽は反射的にあの時の病院での担当医との会話を思い出す。確か、医者はこう言っていたはずだ。


『全身の切り傷は大したものじゃありません。命にかかわるものでもないし、刃物が鋭かったのが逆に幸いして、このまま安静にしておけばほとんど跡が残らないまま治るでしょう。性的暴行等の痕跡についても一切確認されませんでしたのでそちらの方も心配しなくても大丈夫です。あと、右手首を軽くひねっていますが、これは無理な体勢のまま右手一本で相手を刺したがためだと思われます。それ以外に外傷はありませんね』


 その瞬間、彩芽の顔色がサァッと変わった。大切なのは全身の切り傷に関する事でも性的暴行に関する事でも手首の捻挫でもない。最後の最後、医者が付け加えるように何気なく言った一言だ。

『それ以外に外傷はありませんね』

 彩芽は咄嗟に榊原の方を見やる。すると、榊原は真剣な表情で口を開いた。

「どうやら、あなたも気づいたようですね。田杉少年の証言と医者の証言……この両者の間に潜むとんでもない矛盾に」

「え、あの……どういう意味ですか?」

 当の瑠衣子は困惑気味に尋ねる。

「田杉少年の証言で、瑠衣子君が事件直前にどこかを怪我した事実ははっきりしている。だが、事件後に瑠衣子君を診察した医者ははっきり言った。『事件の際に負った切り傷と捻挫以外に、彼女が負っている外傷は何もない』と。つまり、事件直前に田杉少年を助けるために負った瑠衣子君の負傷が、たった一晩で影も形もなく消失してしまっているという事になる。断言してもいいが、石垣の上から落下した子供を受け止めた際に負った怪我が一晩で完治するなどという事は、人間として絶対にあり得ない話だ!」

「あっ!」

 ここでようやく瑠衣子と瑞穂もその矛盾に気が付いたようだった。彩芽が動揺を隠しながらも榊原に反論する。

「で、でも実際に傷はどこからも発見されていないんです! やっぱり田杉少年の話の方が間違いなんじゃ……」

 だが、榊原はここで首を振った。

「そう考えてしまうと一生迷路から抜けられなくなります。この場合、どちらの証言が間違っているのかを考えるのではなく、この両者の矛盾する証言が同時成立するのはどのような場合なのかを考えるのが最善手です」

「こ、この証言が同時成立、ですか?」

「そう。そして、私が考えた推理はこうです」

 榊原はそう言ってから最初の切り札を切った。

「瑠衣子君が事件直前に石垣から落下した田杉少年を助けて負傷したという事実は、昨日私が捜査するまで警察すら知らなかった新事実だ。もちろん瑠衣子君を診察した医者もこの事実は知らなかったはず。となれば考えられる事は一つ……事件の状況を聞いた上で彼女を診察した医者が、本当は田杉少年を助けるために負った怪我を『事件の際に負った怪我』だと誤認してしまったという場合だ。まぁ、前提条件が知らされていなかったのだから、この誤診は無理からぬところがあるが」

 それを聞いて、彩芽はなぜかめまいがしたように感じた。もしそれが本当なら……何か事件の根幹になっているものが大きく崩れてしまう。そんな嫌な予感がひしひしとしたのである。そして、その予感は続く榊原の言葉で決定的なものとなった。

「では、彼女の負ったどの怪我が田杉少年を助けた際の怪我なのか。彼女が診察時に負っていた怪我は、全身にあった刃物で切り付けられた傷と、右手首の捻挫の二種類だ。しかし、石垣から落下した少年を助けて刃物による切り傷が発生するはずがないから、前者の刃物による傷が田杉少年を助けた際の怪我という事は考えにくい。となれば、他に外傷が一つしかない以上答えも一つ。『犯人を包丁で刺した際に負傷した』と考えられていた右手首の捻挫、これが実は犯人を返り討ちにしたために生じた物ではなく、事件直前に田杉少年を助けた際に負ったものと考えるのが妥当だろう」

「そんな……」

 それを聞いて、彩芽は自分の立っていた地面が大きく崩れるような感覚を覚えた。この矛盾は、文字通りこの事件のすべてを変えてしまうほど大きな矛盾だった。そして、榊原は彩芽に構う事なく容赦なくその事実を告げる。

「これが本当だとするなら、この事件の構図はまさに一八〇度転換する。今までは、瑠衣子君が自分を切りつける犯人に抵抗して相手の包丁を奪い、反射的に右手一本という不安定な状態で相手の腹部を刺して殺害したとされていた。実際、問題の包丁には彼女の右手の指紋しか残っておらず、また事件直後に岸辺の血が付着していたのも彼女の右手のみだった。この現場の状況から見て、事件当時、彼女が右手で包丁を握っていた事自体は確かだろう。普通に考えれば右手の捻挫はこの時右手一本で犯人の腹部を刺した事によって生じたものと判断されてもおかしくなく、実際に警察はそう判断した」

 そして榊原は『真実』を告げる。

「しかし、問題の捻挫が岸辺の腹部を刺した時ではなく『事件前』にすでに負っていたものだと考えると、このストーリーが根幹から崩れてしまう。なぜならいくら無我夢中とはいえ、女子高生が捻挫した右手一本で人の腹部に致命傷を負わせるほどの勢いで刃物を突き立てるなど不可能だからだ!」

「っ!」

 それを聞いた瞬間、彩芽は歯を食いしばり、瑠衣子自身は自分の口に手を当てていた。

「つまり、ここまでの推理を総合して考えると、今までの『襲撃した岸辺和則に対する吉木瑠衣子の正当防衛』という事件の構図が大きな修正を迫られる事は確実だ。現場の状況から、彼女が現場から右手で包丁を掴み、それを持ったまま家を脱出した事は間違いないだろう。だが、それは岸辺が刺され、その腹部から抜かれて床にでも落ちた包丁を拾っただけだ。捻挫していたとはいえ、刺したり抜いたりする事はできずとも、単に物を拾う程度ならできたはずだからな」

 そして、榊原は瑠衣子に向かってはっきり言う。

「つまり瑠衣子君……君は殺人者でもなければ、正当防衛を主張する必要さえない。贖罪なんか一切負う必要のない、正真正銘、誰も殺していない本当の意味での『無罪』の人間だったという事になる。それは君が事件前に右手を捻挫していた以上、疑いのない事実として認定される。君が帰り道に一人の少年を助けた善行が、君自身の『完全無罪』を立証する最大の証拠として返ってきたという事だ」

 その瞬間、口を押えていた瑠衣子の目に涙が浮かんだ。最初から諦めていた最高の結末……すなわち正当防衛などではない正真正銘の『完全無罪』が立証されようとしているというこの状況に、どう反応していいのかわからないのだろう。そして、それは彩芽も同様だった。ただし彼女の場合は、今の今まで信じ続けてきたものが一瞬に崩壊する様をまざまざと見せつけられた事による放心と言った方が近かった。

 だが、榊原の推理はまだ終わらない。間髪入れる事なく榊原はこう続ける。

「そして、彼女が岸辺を刺していない以上、この事件には最大の問題が再浮上する事となる。すなわち……『誰が岸辺和則を刺したのか?』」

「……」

 彩芽はもう何も言えない。ただ、黙って榊原の推理を聞く他ない。

「立証したように吉木瑠衣子が岸辺和則を刺す事は絶対に不可能だ。もちろん、この事件は岸辺和則の割腹自殺などではない。いくら指名手配犯とはいえ、岸辺が何の関係もない他人の家で自殺する意味などないからだ。となると、残された可能性は後一つ。『現場に吉木瑠衣子と岸辺和則以外の『第三者』がいて、その『第三者』が岸辺和則の腹に刃物を突き立てた』という可能性だけだ。よってここまでの一連の推理により、瑠衣子君の見ていた『悪夢』が真実であり、『悪夢』に登場した『第三者』が実在した事が立証できたと考える」

「っ!」

 その言葉に、再びこの場に緊張が走った。そう、この事件はまだ終わっていないのである。

「よって、ここからの私の仕事は、岸辺和則を刺し殺した『第三者』……すなわちこの事件の『真犯人』の正体を立証する事にある! 今からは、その可能性について徹底的に検証していきたい」

 それは、この事件の推理が次の段階に入った事を明確に示す物だった……。


「まず、存在が立証された『第三者』がいたとした場合、この事件の構図がどうなるのかを整理してみよう」

 誰もが固唾をのむ中、榊原の推理が再開された。

「今の時点で立証されたのは、現場に『第三者』がいた事と、岸辺和則を殺害したのは岸辺本人でも吉木瑠衣子君でもない人間……すなわち問題の『第三者』であるという点だ。これを踏まえて事件を再構築すると、どのような流れになるか? 品野警部補はどう思いますか?」

 聞かれて品野が歯を食いしばる。もはや『第三者』の存在を否定できない以上、榊原の指示に従って『第三者』の存在を踏まえた上で事件の流れをもう一度構築するしかないのは明白だった。

「……そうですね。吉木さんが怪我をしていて岸辺を刺す事ができなかった以上、実際に岸辺を殺したのはその『第三者』という事になるはずです。つまり、吉木さんが岸辺に襲われているところに『第三者』が乱入し、吉木さんを逃がすと同時に岸辺から刃物を奪って返り討ちにした……と考えるのが自然だと思います」

「結構です」

 そう言ってから、榊原はさらに話を続ける。

「その上で、我々が追及する『第三者』について情報を確認しておこう。瑠衣子君の『悪夢』によれば、その第三者は男性で、犯人に襲われる彼女に対して『逃げろ!』と叫んでいる。そして、現場検証からその言葉を叫んだ時その第三者は階段の辺りにいて、二階で襲われている瑠衣子君を見た上で問題の『逃げろ』を叫んでいた事まではわかっている。問題は、この『逃げろ』と叫んだ『第三者』が一体誰なのか、だ」

「それが……わかるっていうんですか」

 瑠衣子が混乱状態のまま尋ねる。それに対して榊原はしっかり頷いた。

「それを明らかにするのが探偵だからね。さて……それを探るための最初の手掛かりは、やはり先程明らかになった新事実、すなわち『彼女が事件前に負っていた右手の捻挫』だと私は考える」

「あの捻挫にまだ何かあるんですか?」

 不安そうに尋ねる瑠衣子に榊原は再度頷く。

「あぁ。田杉少年の証言では、瑠衣子君は怪我……右手の捻挫の痛みを我慢しながらその場を去っていった。その後の事件発生の時間との兼ね合いから考えると、そのまま寄り道もせずに自宅に帰ったと考えるのが妥当だろう。その上で、だ。君はこのような状況の場合、家に帰った後どういう行動に出るかね?」

「どういう行動って……」

「二階の部屋に上がる前に、まずはその怪我を何とかしようとするのが普通ではないかね? 具体的には、一階のリビングにある救急箱を使うとか、だ」

「あっ!」

 瑠衣子がハッとしたようにそんな声を上げた。『救急箱』……その言葉を聞いた瞬間、その場にいた人間の顔色が再度変わった。

「つまり、リビングに出ていたあの救急箱はヘソクリ目当てに岸辺和則が出したものではなかった。あれは田杉少年を助けて右手を捻挫した瑠衣子君自身が自身の怪我を治療するために出したものだと考えるのが自然だ。つまり、君は家に帰った後、二階に行く事なくリビングに向かい、そこで実際に机の上に救急箱を出した事になる」

 さて、というと榊原は言葉を続けた。

「しかし、そう考えると現場の状況にさらなる不審な点が出現する事になる」

「一体……何なんですか?」

 瑠衣子が恐々尋ねる。自分の事なのに、これから何が明らかになっていくのかわからない状況だ。そんな瑠衣子を見ながら、榊原は淡々と言葉を紡いでいく。

「疑問その一。瑠衣子君は帰宅後に治療をするために救急箱を出した。問題は、その割には救急箱の中身に使用の形跡がないという事だ。せっかく救急箱を取り出して蓋まで開けていたにもかかわらず、君は傷テープも包帯もしていない。それは事件後に搬送された時点でそんなものをしていなかった事から明確だし、だからと言って事件の最中に何かのはずみで現場に落としたという事もなさそうだ。それならそれで現場を捜査する警察が見逃すはずがないからな。つまり、君は救急箱を取り出したはいいが、その直後に治療をしている余裕がなくなるほどの『何か』が発生した事になる」

「……」

「疑問その二。もし、救急箱を出したのが君だったとした場合、必然的に岸辺和則は救急箱に手を出していない事になる。しかし、そうなると今度は岸辺の行動に違和感が生じる。そもそも岸辺は、事件の一週間ほど前に君の母親が『家のどこかの箱にヘソクリを隠した』事を耳にして家に侵入したという事になっていたはずだ。今までの警察が想定した流れだと、岸辺は裏口から入った後で冷蔵庫の中のシュークリームの箱や救急箱を荒らした事になっているが、もし救急箱を君が使っていたなら、実際に岸辺が探ったのは冷蔵庫の中に入っていたシュークリームの箱『だけ』という事になってしまう。そもそも彼の目的はヘソクリが隠してある『箱』を探す事だったはずだが、その目的で最初に探すのが冷蔵庫のシュークリームの箱というのも不自然な話だ。正直なところを聞きたいんだが……これが一週間以上も綿密な計画を立て、下調べまでした上で君の家に侵入し、秘密のヘソクリを探そうとしている強盗の態度かね?」

 確かに、そう考えると今度は岸辺の行動にも違和感が残った。

「疑問その三。先の救急箱の想像が正しいなら、瑠衣子君は帰宅後に二階ではなくリビングへ向かっている。一方、岸辺はキッチンの勝手口から侵入してキッチンの冷蔵庫を物色した。だが……これが本当だとすれば、この両者はリビングかキッチンで鉢合わせをしている事になる。この二部屋は隣り合っていて、誰かいたらすぐに気づく構造になっているからだ。そして、仮にここで姿を見られた岸辺が瑠衣子君に襲い掛かったとしてもだ……この場合、瑠衣子君が『二階の自分の部屋の前』で岸辺に襲われていた事に説明がつかなくなってしまう。この推理が正しければ岸辺の襲撃場所はリビングかキッチンになるはずだが、わざわざ二階の自室にまで移動する意味や理由は瑠衣子君にも岸辺にもない。にもかかわらず、瑠衣子君が襲われたのが二階の自室前なのはなぜなのか?」

 ここで、ようやく彩芽が反論を加えた。

「鉢合わせしたのがリビングでも、そこがイコール襲われた場所とは限りません。その後彼女が逃げ出して二階で捕まったと考えれば……」

「その場合、なぜ瑠衣子君は外に逃げなかったんですか?」

 榊原は即座に反証した。

「え?」

「リビングやキッチンから二階へ向かおうとすれば、必ず玄関の前を通ります。にもかかわらず、なぜ彼女は外ではなく二階に逃げたんですか? 普通の人間なら助けを求めるためにも反射的に外へ逃げ出そうとするはずです。実際の所、そのような状況になったら、君自身はどうすると思うかね?」

 こうした方が手っ取り早いと言わんばかりに榊原は瑠衣子に尋ねる。瑠衣子は少し考えた後で慎重に答えた。

「多分……その状況だったら私も外に逃げると思います。二階に行ったら追い詰められるだけなのはわかりますし……」

「だそうですよ」

 本人にそう言われてしまっては反論する事もできない。彩芽は唇を噛んだ。

「あの……第三の疑問について考えた事があるんですけど」

 そう言ったのは、今までずっと黙ったままだった瑞穂だった。全員の視線がそちらへ向く。

「ほう、言ってみなさい」

「えっと、要するにリビングやキッチンで吉木さんと岸辺が鉢合わせしなければいいんですよね。それが実現したとしたなら、可能性は二つしかないと思います」

「その二つの可能性とは何だね?」

「一つは吉木さんがリビングに救急箱を取りに来るより前の時点で岸辺が家の中に侵入していて、彼女がリビングに来た時点ではすでにキッチンから二階に移動していた可能性。もう一つは、岸辺の家への侵入は吉木さんがリビングに救急箱を取りに来るよりも後の話で、彼女が二階に戻った後で岸辺が勝手口に侵入し、二階に移動してそこにいた吉木さんを襲ったという可能性です。違いますか?」

 その問いに、榊原は小さく微笑んで頷いた。

「いや、それで正解だよ。なかなか論理的な考え方だと言える」

「ほっ……」

 瑞穂が安心した風に息を吐く。それを見届けると、榊原は再び推理に戻った。

「今瑞穂ちゃんが言ったように、リビングで両者が鉢合わせしていないとすれば、論理的に考えて可能性はこの二種類しかありえない。ところが、今回の事件が厄介と言えるのは、この論理的な帰結にたどり着いたとしてもなお状況に矛盾が発生してしまうという点だ」

「矛盾、ですか?」

 瑠衣子が首をひねる。

「まず前者の場合、岸辺が何のために二階に上がったのかという動機に説明がつかなくなる。今までの警察の見解では『岸辺は室内物色中に瑠衣子君が帰宅するのに気づき、二階に上がった彼女を追いかけて口封じのために襲撃した』事になっていたが、彼女が帰宅していなかったとすればこの考え方は明らかにおかしくなる。岸辺が本来の目的であるヘソクリ捜索をシュークリームの箱を探しただけで中断して、ヘソクリが隠してある可能性が限りなく低い二階の瑠衣子君の部屋に行く理由がわからなくなってしまうという事だ。そして逆に後者の可能性の場合、さっきも言ったように瑠衣子君が救急箱を取り出したにもかかわらず何の治療もせずに二階に上がった事になり、今度は瑠衣子君の行動に矛盾が発生する。何しろこの場合、岸辺はまだ家に侵入していないのだから『二階で岸辺が発した物音なりに気がついて治療を中断して二階に上がった』という考え方が不可能になってしまい、一体何のために彼女が治療途中で二階に上がったのかという理由が説明できなくなってしまうからだ」

 確かに、言われてみればその通りだった。だが、論理的に考えてみたにもかかわらず矛盾が発生するというのはいささか不自然な状況である。これに対し、榊原は自分の見解を告げた。

「今までの状況を論理的に突き詰めていくと、どれだけ論理的に考えても必ず矛盾が発生してしまうという状況に陥っている事がわかる。そして、背理法的に考えれば矛盾が発生するのはそもそもの前提条件が何か間違っているからに他ならない。つまり……この事件に対する我々の今までの認識の中に、何か根本的な……それこそ事件そのものを根底からひっくり返すようなとんでもない『思い違い』が潜んでいる可能性が浮上する。では、その『思い違い』とは一体何なのか? 『第三者』の正体を特定する前に、まずはこの大問題を片づけておきたい」

 榊原は一度口を止めると、重苦しい口調で『事件の根幹』を語り始めた。

「改めて状況を一つ一つ確認してみよう。まず、事件当時、現場の吉木宅にいたのは『吉木瑠衣子』『岸辺和則』、そして正体不明の『第三者』……仮にX氏とするが、その三人である事が確定している。このうち、瑠衣子君は帰宅後に一度リビングに行き救急箱を取り出し、その後なぜか治療を中断して二階に上がったところまでは行動が確定。次に岸辺和則はキッチンの勝手口から侵入してシュークリームの箱に手を付けていたところまでは証拠などから確定的だ。最後に瑠衣子君に『逃げろ』と叫んだとされているX氏は、現場の状況から少なくとも瑠衣子君が二階で犯人に襲撃された瞬間までは一階にいて、その物音に気付いて二階に上がった階段で問題の『逃げろ』という発言をした事がわかっている」

 そこまで言ったところで瑞穂が納得したように呟いた。

「そっか、今さらですけど『第三者』……X氏は吉木さんが襲撃された時点で初めて階段を上っているから、救急箱を取り出した吉木さんがX氏が二階で立てた音か何かに気付いて治療を中断したって推理は成り立たないんですね」

「そうなるね。現状、瑠衣子君が治療をほったらかしにして二階に上がった原因として考えられるのは『二階に誰かいる気配がしたから様子を見に行った』という理由しか考えられないが、その二階にいた人物として岸辺和則もX氏も条件に当てはまらなくなってしまっている。だからと言ってこれ以上の『第四者』が現場にいたという推理はナンセンスだ。あくまで私は吉木宅にいたのはこの三人だけだったと推察している」

「うーん……」

 瑞穂はなぜか唸り声を上げた。

「何て言うか……ちぐはぐなんですよねぇ……。三人の行動がことごとく食い違っていて、誰かの行動を正当化しようとしたら他の二人が狂ってしまうみたいな……。三人の行動をパズルみたいに入れ替えたらうまくいきそうなのに……」

 だが、瑞穂がそこまで言ったところで、榊原がこう口添えした。

「正解だ」

「え?」

「瑞穂ちゃんが今言ったその言葉……すなわち『関係者三人の行動をパズルのように組み替える』というその考え方こそが、この事件を解決するにあたっての最大の鍵になるという事だ」

 言った本人の瑞穂が目を丸くする。

「どういう事ですか? 言っておいてなんですけど、行動をパズルみたいに入れ替えるって意味がわかりません」

「つまり私が言いたいのは、今まで検証してきた事件関係者三人それぞれの行動の中に、実は『役柄』が違う人間がいた……もっと言えば『人物Aがやっていた事と人物Bがやっていた事を取り違えていた』事象があるのではないかという事だ。実際に演じていた役柄と我々の推測する役柄が違っていたからこそ数々の矛盾が生じてしまった。ならば、それぞれの人間の役柄を矛盾が生じないように入れ替えてしまえばいい。そう考えると……にわかには信じられない、おそらく犯罪史上でもほとんどあり得ないと言える、とんでもない結論が浮かび上がってくる」

「さっきから何を言って……」

 困惑する彩芽に、榊原は今までで一番重い声で答えを告げた。

「いいですか。何度も言うように今回の事件における登場人物はわずかに三人。岸辺和則、吉木瑠衣子、X氏です。この三人のいずれかが、この事件における『役柄』のいずれかを演じているわけです。そして、この事件に登場する役柄を改めて整理すると、概ね以下の通りになります」

 そう言うと、榊原はこの事件における『役柄』を示す。


1、二階に潜伏し『被害者』が二階に上がる原因を作った人物(『潜伏者』)

2、二階に上がった『被害者』に襲い掛かった人物(『襲撃者』)

3、二階に上がったところを『襲撃者』に襲われた人物(『被害者』)

4、襲撃現場に駆け付け『被害者』に「逃げろ」と叫んだ人物(『救援者』)

5、事件現場で殺害されていた人物(『犠牲者』)

6、『犠牲者』を殺害した人物(『殺人者』)


 さらに榊原はそれぞれの役柄に現時点で想定される事件の流れにおいて当てはまりそうな『人物』を提示し、まるで数式のように一種の論理式を形成する。


1、『潜伏者』=岸辺和則

2、『襲撃者』=岸辺和則

3、『被害者』=吉木瑠衣子

4、『救援者』=X氏

5、『犠牲者』=岸辺和則

6、『殺人者』=X氏


『潜伏者』=『襲撃者』=『犠牲者』=岸辺和則

『救援者』=『殺人者』=X氏

『被害者』=吉木瑠衣子


 そして最後に、最初に彩芽が推察した現時点において推測される事件の流れの説明にこの構図を当てはめた。


『『被害者(吉木瑠衣子)』は二階にいた『潜伏者(岸辺和則)』に気付いて二階に上がり、そこで『襲撃者(岸辺和則)』に襲われた。その音を聞いて二階に上がって来た『救援者(X氏)』は事件を見て『被害者(吉木瑠衣子)』に「逃げろ!」と叫び、その後もみ合う中で『犠牲者(岸辺和則)』は『殺人者(X氏)』に殺害された』


 ここまで提示した上で榊原は続ける。

「しかし、先程から散々議論しているように、一見正しいように見えるこの事件の流れは役柄と人物の組み合わせから生じる様々な矛盾のせいで破綻してしまいます。つまり、この組み合わせは論理的に見て間違っている。よって、我々はここから論理的に矛盾しない正しい『役柄』と『人物』の組み合わせを考えねばならないわけです。ただし、今までの検証からこの組み合わせにはいくつかの条件が設定できる事がわかります」

 榊原はその場でその「条件」を列挙した。


・条件1……死体が出ている以上、『犠牲者』=岸辺和則を変更する事はできない。

・条件2……本人が襲われている悪夢を見ている以上、『被害者』=吉木瑠衣子を変更する事はできない。

・条件3……右手を捻挫している吉木瑠衣子に犯行が不可能な事や、岸辺の自殺があり得ない事などから、『殺人者』=X氏を変更する事はできない。

・条件4……条件1、2、3から、『犠牲者』『被害者』『殺人者』は現在の人物で固定される。従って変更できるのは『潜伏者』『襲撃者』『救援者』の三項目のみである。

・条件5……『被害者』が自分の家に潜伏したり、まして自分を襲撃したり、自分に向かって「逃げろ」と叫ぶなどといいう事はあり得ないので、『被害者』と『潜伏者』『襲撃者』『救援者』は同一人物であってはならない。従って、『被害者』が吉木瑠衣子で固定されている以上、『潜伏者』『襲撃者』『救援者』は岸辺和則かX氏のいずれかでなければならい。

・条件6……事件当時、『潜伏者』は二階にいた事が確定しており、同時に階段の件から『救援者』は事件発生の段階で一階にいなければならない。これらの条件を同時に満たす事はできないので、『潜伏者』と『救援者』は必ず違う人物でなければならない。

・条件7……二階に潜伏した『潜伏者』が二階にやって来た『被害者』を襲っている以上、『潜伏者』と『襲撃者』は必ず同じ人物でなければならない。従って、条件6から『襲撃者』と『救援者』は違う人物でなければならない。



「さて、これらの条件を踏まえた上で、どのように役柄と人物を入れ替えたらいいのか? ここまでくれば推理というよりも一種の基礎的な論理パズルに近いが……君たちはどういう答えを出すかね?」

 瑞穂たちは一瞬難しい顔をする。だが、考えてみれば前提条件がかなり詳細に設定されてしまっているので、この組み合わせが間違っているとすれば、他に該当する組み合わせはもはや一つしか考えられそうになかった。その組み合わせは……

「そんな、あり得ない!」

 真っ先にその「あり得ない」可能性に気付き、そして絶叫したのは彩芽だった。それを見て、榊原は冷静に告げる。

「どうやら、理解できたようですね。この一見すると『あり得ない』、しかしその実現を否定する事ができない論理の結末に」

「でも……でも……」

 彩芽の動揺は収まらない。そんな彼女を見ながら、榊原は事務的に述べる。

「この事件に矛盾が生じなくなるような、先程の条件をすべて満たす『役柄』と『人物』の組み合わせ……それは次のものしかありえないんですよ」

 そして榊原は最終的な結論を告げた。


  最終論理

1、『潜伏者』=X氏

2、『襲撃者』=X氏

3、『被害者』=吉木瑠衣子

4、『救援者』=岸辺和則

5、『犠牲者』=岸辺和則

6、『殺人者』=X氏


『潜伏者』=『襲撃者』=『殺人者』=X氏

『救援者』=『犠牲者』=岸辺和則

『被害者』=吉木瑠衣子



『『被害者(吉木瑠衣子)』は二階にいた『潜伏者(X氏)』に気付いて二階に上がり、そこで『襲撃者(X氏)』に襲われた。その音を聞いて二階に上がって来た『救援者(岸辺和則)』は事件を見て『被害者(吉木瑠衣子)』に「逃げろ!」と叫び、その後もみ合う中で『犠牲者(岸辺和則)』は『殺人者(X氏)』に殺害された』


  結論

 吉木瑠衣子を襲った『襲撃者』はX氏であり、吉木瑠衣子を助けようとした『救援者』は岸辺和則である。



 その瞬間、瑠衣子は声にならない悲鳴を上げた。それは、今回の事件のすべてをひっくり返す、まさに爆弾とも言える論理だったからである。

「この事件に多種多様な矛盾が発生してしまっていた根本的な原因……それは、私たちが『襲撃者』と『救援者』に当てはまるそれぞれの人物を取り違えたまま行動検証していたがために起こったからだった。つまり、瑠衣子君……君が暴いてほしいと願った『悪夢』において『逃げろ』と叫んだ男の声……それはX氏ではなく、今まで犯人と思われていた殺人指名手配犯の岸辺和則だったという事になる。それはすなわち、今回の事件において岸辺和則は吉木瑠衣子を襲った犯人ではなく、むしろ正体不明の『殺人者』に襲撃されている瑠衣子君を助けようとした『救援者』だった事を示す」

 そして榊原は告げる。

「要するにこの事件は『凶悪殺人手配犯の岸辺和則が女子高生を襲った事件』ではなく、『殺人容疑で逃走中だった岸辺和則が『殺人者』に襲われている女子高生を身を挺して助け、そして『殺人者』に返り討ちになって死亡した』事件だったという事だ。すなわち『正当防衛』だと考えられていた瑠衣子君が『完全無罪』だったように、岸辺和則もこの事件については『加害者』ではなく純然たる『被害者』だった。それが推理の末に私のたどり着いた、この事件の『真相』だ!」

 榊原の導き出したそのとんでもない結論に、言葉を返せるものは誰一人としていなかったのだった……。


 岸辺和則は加害者ではなく被害者……。岸辺和則は瑠衣子を襲うどころか助けようとしていた……。その衝撃的すぎる榊原の推理に、ようやく彩芽が反論を発したのはたっぷり数分が経過した後だった。

「……冗談、ですよね?」

 その問いに、榊原は小さく首を振る。

「私は冗談が嫌いでしてね。特に推理をこうして人に話すときは、真剣な態度で臨むべきだと考えています」

「だって……そんなのあり得ないじゃないですか!」

 彩芽の混乱気味の叫びを榊原は真正面から受け止める。

「何があり得ないのですか?」

「だって、だって……」

 しばらく口ごもった末に、彩芽は振り絞るように叫ぶ。

「だって……だって岸辺和則は妻を殺して逃亡した凶悪な殺人犯なんですよ!」

 常識的かつ会心の反撃のつもりだった。だが、榊原の返した返答は短かった。

「それが?」

「は?」

「それが何だというんですか? こう言っては何ですが、今の発言はまったく反論になっていませんよ」

「いや、でも……岸辺は殺人犯だから……」

 彩芽はうわ言のように同じセリフを繰り返す。が、榊原は容赦がなかった。

「では逆に聞きますがね。殺人犯は人を助けてはいけないんですか?」

「え?」

 根本的な事を聞かれて彩芽は絶句した。だが、榊原は静かな声のままさらに畳みかける。

「それとも何ですか? 殺人犯は目につく人はどんな場合でも全て殺さなければならず、また殺人犯は目の前で襲われている人間がいたとしても絶対助けてはいけない……そんな非人間的で馬鹿げた決まりがどこかにあるとでもいうのですか?」

「それは……」

 口ごもる彩芽に、榊原はため息をつきながら告げた。

「もちろん、私も元は刑事ですから社会常識の通用しない規格外の殺人犯と対決した事もないとはいいません。が、そんなモンスターみたいな奴は全体から見れば少数派です。刑事時代、探偵時代を通じて私が対峙してきた大半の殺人犯は……私たちとそう変わらない、どこにでもいるような弱い人間でした。そもそもの話、相手が人間で論理が通用するからこそ、私は探偵として彼らを追い詰めて逮捕し、罪を償わせる事ができるんです。すべての殺人犯が論理の通用しないモンスターだったら、探偵や刑事の出番なんかありませんよ。あなたも刑事なら、我々が相手をしている犯人の大半は、我々と同じ思考を持った『人間』であるという事は理解しておくべきです」

 榊原の厳しい言葉に、彩芽は何も答える事ができない。

「この事件の解決を困難にしていた最大のポイント……それはまさに品野警部補が今陥っているように、岸辺和則が指名手配中の殺人犯だったがゆえに安易に『岸辺』=『襲撃者』の構図にみんな乗ってしまい、それ以外の可能性が見えなくなってしまっていた事です。まさか、世間一般に凶悪殺人手配犯として知られていた岸辺が被害者を助けようとしていたなどとは誰も想像しませんからね。ですが、岸辺が『救援者』でないと論理がつながらないのも事実。従って私は、まず『岸辺和則は殺人指名手配犯である』というレッテルを完全に白紙とし、岸辺もただの肩書がない一登場人物の一人だと認識し直すところから推理を始める事にしました」

 その言葉に、ようやく彩芽が非難めいた問いを発した。

「あなたは……探偵のくせに殺人犯の味方をするつもりなんですか? あなたは、それで探偵を名乗るつもりなんですか?」

 しかし榊原は軽く肩をすくめて即座に切り返した。

「そういうわけではありません。勘違いしないでほしいのですが、私は別に岸辺をかばったり同情したり、ましてや味方をしているわけではありません。少なくとも彼が高松で起こした妻の殺害に関しては証拠を見る限り彼の犯行なのは間違いなく、そちらに対して彼が罪を償わなければならない立場にいた事は明白です。もし彼が生きていて高松の事件を否認していたとしたら、その時は私も容赦する事なく厳しく彼を追及していたでしょう。ただ、少なくとも今回の蒲田の一件について、岸辺が殺人の加害者ではなく被害者であるという点は、感情云々ではなく客観的事実に基づいて認めなければならない話だと考えます。私は誰の味方というわけでもない。どれだけ受け入れがたいものであろうと、客観的立場から推理に基づいて真実を明らかにするのが私の仕事なんです」

「でも……」

「忘れないでください。これは『連続殺人』ではないんです。高松の事件の犯人は間違いなく岸辺和則ですが、その高松の事件と今回の蒲田の事件は明らかに別の犯罪。ならば、この蒲田の事件に対して推理をするには、高松の事件の事は頭から除外して考えなければならないんです。私はただそれをやっただけなんですよ」

「だけど……」

「私はレッテルというバイアスが入っている主観的事実より、バイアスの入る余地のない論理的事実の方を信頼します。それ以上でも以下でもありません」

 なおも何か言おうとする彩芽に、榊原はぴしゃりとそう言った。それでついに彩芽も何も言えなくなってしまったようで、ただ口をもごもごさせながらその場で俯いてしまった。それを見届けると、榊原は『論理』に基づいた推理に戻る。

「さて、仮に先程の論理のように『襲撃者』が正体不明のX氏で、瑠衣子君を助けた『救援者』が岸辺和則だとした場合、この事件の流れは不気味なほどに整合性を持つ事になる。先の論理で示したように、岸辺和則が襲撃者だと仮定してしまうと岸辺が彼女の襲撃前に二階に潜伏する事ができない上に、岸辺と鉢合わせしてしまうがためにX氏も潜伏者ではありえず、潜伏者に該当する人間がいなくなるという矛盾が発生してしまう。だが、これを襲撃者がX氏で潜伏者と同一人物だと仮定すると、X氏が襲撃前に二階に潜伏する事に何ら矛盾は発生しない。襲撃者のX氏が二階に潜伏したのは瑠衣子君が帰宅するよりも前で、それに対して瑠衣子君は帰宅後に田杉少年を助けた際に負った怪我を治療するためにリビングに行って救急箱を取り出した。が、そこで二階のX氏が出した音か何かに気付いて治療を中断し、そのまま二階へ向かってそこで犯人ことX氏の襲撃を受けた」

 いったん言葉を切ると、榊原は流れるように推理を進める。

「ここで重要なのは、この推理において岸辺和則が吉木宅に侵入したのはあくまでも瑠衣子君が治療を中断して二階に上がったよりも後だという事だ。同時だと瑠衣子君と鉢合わせしてしまうし、前だとリビングにいれば同じく瑠衣子君と鉢合わせ、二階に上がればX氏と鉢合わせとなって矛盾が発生してしまう。以上から、岸辺は瑠衣子君が救急箱を置きっぱなしにしてリビングを出たその直後くらいに勝手口のガラスを割ってキッチンに侵入したと推測できる。この時点で、二階に襲撃者のX氏と瑠衣子君、一階に岸辺和則がいる構図となる。そして、岸辺は吉木宅に侵入後、目的は不明なるもまず冷蔵庫を開けて中にあるシュークリームの箱を物色した。彼が少なくともここまでやった事は証拠などから充分に証明ができる事でもある」

 もう誰も何も話さない。榊原はさらに推理を続けた。

「そして、彼がシュークリームの箱しか触っていない以上、おそらくこの段階で、二階で犯人が瑠衣子君を襲撃する音がしたのだろう。そして、その音に気付いた岸辺はキッチンの物色を中断し、そのまま階段を上って二階に上がろうとし、そこから二階の瑠衣子君の部屋の前でX氏に襲われている瑠衣子君の姿を目撃。思わず瑠衣子君に向かって『逃げろ!』と叫び……おそらくだがそのまま階段を駆け上がってX氏に飛びかかったものと思われる。そして、瑠衣子君が犯人の魔の手から逃れたのと同時にX氏と岸辺との間で格闘となり、その過程で『襲撃者のX氏が自分の邪魔をしようとする岸辺和則の腹部に殺意を持って包丁を突き立てた』という事態が発生したとするのが妥当だろう。何しろ先程の論理式から考えれば、『襲撃者』と『殺人者』は同一人物のX氏であるはずだからだ」

 今まで矛盾だらけだった事件の構図がまるで一本の糸のように紡がれていく。

「X氏は岸辺から包丁を抜くと、そのまま階段の方へ逃げていた瑠衣子君を再度襲おうとした。だが、岸辺和則はこの段階ではまだ死んでいなかった。腹部から吹き出す血を押さえながら瑠衣子君を追って階段へ向かおうとするX氏になおもすがりつき、そしておそらくはX氏共々踊り場まで階段を転げ落ちたのだと思われる。これは岸辺和則の遺体に残っていた打撲痕からも確実だ。そして、その衝撃でX氏の手から包丁が吹き飛ばされて階段途中まで逃げていた瑠衣子君の前に落ちた。瑠衣子君を追おうとするX氏とそうはさせまいとする瀕死の岸辺が踊り場で格闘する中、本能的に瑠衣子君は目の前の包丁を手に取り、そのまま玄関から外に脱出する。悪夢で瑠衣子君が見た『自分の目の前に倒れる岸辺の死体』はこの時のものだろう。岸辺は踊り場までX氏に追いすがった後、少しの間X氏を足止めしたもののついに力尽きた。一方、X氏はすぐにでも瑠衣子君を追おうとしたが、すでに外に逃げてしまった瑠衣子君を追いかけるのはX氏にとって危険が大きすぎた。やむなくX氏は瑠衣子君の殺害を断念し、現場から自分の痕跡を消す最低限の工作を行った上で吉木宅から脱出して逃亡した……。以上が、私が考えるあの日吉木宅で起こった出来事のすべてだ」

 その推理は、今まで警察などが想定していた事件の流れとは大きくかけ離れた物であり……それでいて筋道がしっかり立った、反論や否定のできないものだった。それをしようとすれば先程榊原が示した論理式を崩さなければならないのだが、榊原の示した解答以外に当てはまりそうな役柄と人物の組み合わせなど、誰も提示できそうになかった。

「そして、だ。この推理が正しかったとするなら、この蒲田で起こった事件は二週間たった現在も真の意味で解決していない事になる。何しろ、瑠衣子君を自宅に侵入した上に待ち伏せして襲撃し、それを止めようとした岸辺和則を殺害したX氏……すなわち本当の意味での事件の『真犯人』が未だに野放し状態になっているからだ」

 そう……榊原の推理が正しければ、この事件は解決どころか真犯人が捕まらないまま逃亡し続けている事になってしまうのである。これは警察官の彩芽にとっては看過できない問題だった。だが、恐怖で身を固くする瑠衣子に対し、榊原は続けてこう宣言した。

「そして、この事件の真の元凶たる『真犯人』……その正体も、すでに今の時点である程度明らかにする事ができていると私は考える」

「し、真犯人が誰かわかっているっていうんですか!」

 彩芽の言葉に、榊原は黙って頷いた。

「だ、誰なんですか!」

 だが、その問いに答える代わりに、榊原はチラリと腕時計を見やった。

「ちょうどいい時間だな。そろそろか……」

「何を言って……」

 彩芽が何か言う前に、榊原は少し早口で指示を出した。

「話の途中で申し訳ないが、全員、この公園内の遊具か茂みの物陰にでも隠れてほしい。そして、これから公園で起こる事をしっかりと見ていてほしい」

「先生、一体何が始まるんですか?」

 瑞穂の問いに対し、榊原はさらりと答えた。

「このままいけば、今からこの公園に、私が想定する『真犯人』がやって来るはずだ」

 その場の時が一瞬止まった。だが、誰かが何かを反論する前に榊原がすぐさま言葉を続けた。

「私は、今からその『真犯人』とこの場で直接対決をする。今日、ここを待ち合わせ場所に選んだのはそれが理由でね。君たち三人には、それを隠れて見届けてもらいたい。瑠衣子君には、それを見る権利があると私は考える」

 そう言ってから、榊原は彩芽の方を見やった。

「品野警部補は、いざという時に彼女たちを守ってあげてください。何しろ相手は……私の考えでは瑠衣子君を自宅に侵入してまで襲撃した本当の意味での凶悪犯です。彼女たちの護衛を頼めるのは、この場ではあなたしかいません」

 そう言われては、彩芽としても断る事はできなかった。不承不承ではあったが小さく頷く。それで榊原は満足したようだった。

「では、急いで。おそらくもう、あまり時間はない」

 そう言われて、彩芽達三人は慌てて近くの茂みの中に飛び込んで隠れた。暗闇の中に外灯の明かりだけが灯る公園の中には、榊原の姿だけしかない。榊原は公園の入口をジッと睨み、そのまま何かを待ち続けていた。

 そして、それからきっかり五分後、公園の入口に人影らしいものが見え、榊原はゆっくりとそちらを見やった。明かりが届かないので瑠衣子たちのいる茂みからではそれが誰なのか判断がつかない。

 一方、向こうも公園の一角に立つ榊原に気付いたようだが、気にしない方がいいと判断したのか足を速めて公園を横切ろうとする。榊原も小さく息を吐くと、素知らぬ風に人影の方へ歩き始めた。両者が公園の真ん中で交錯し、そのまますれ違う。相手は榊原に背を向け、歩みを止めないままこの場を去ろうとした。

「……満足ですか?」

 だが、不意に榊原が足を止め、背中を向けたまますれ違った影にそんな事を呼びかけた。その言葉に影も足を止め、両者が背中合わせの状態で公園の真ん中で対峙する。と、やがて影の方から声を発した。

「それ、私に言ったんですか?」

「もちろん」

「いきなり何なんですか? あなたは一体誰です?」

「失礼。私は私立探偵の榊原恵一と言います。以後、お見知りおきを」

「探偵、ですか?」

「えぇ。今はある事件の調査を依頼されていましてね。こうして道行く人々から色々と話を聞いているわけですよ。そんなわけで……あなたとも少し話をさせて頂きたいのですがね」

 そこまで言われて、相手の影はゆっくりと榊原の方を振り返る。ほぼ同時に榊原も影の方に向き直り、これで両者は初めて正面から対峙する事となった。しかし、まるで決闘開始直前のように両者はしばらく無言のままであった。瑠衣子たちは、茂みの中から固唾をのんで見守っている。

 だが、それから数分して再び影の方から声が発せられた。

「……それで、さっきの言葉は何なんですか?」

「と言いますと?」

「とぼけないでください。さっき、私に向かって『満足ですか?』と言っていたじゃないですか。あれは一体何なんですか?」

 苛立ったように尋ねる相手に、榊原は静かな調子で告げた。

「いや、なに。自分の標的に罪を擦り付け、見事に罪を逃れる事に成功したという事実に対して、あなた自身が満足しているのかどうかを聞きたかっただけですよ」

 そのいきなりの先制攻撃に、相手のまとう空気が変わったのを瑞穂は茂みの中から感じ取っていた。同時に、相手もはっきりとした敵意を榊原に向けて反駁する。

「意味がわからないんですが……」

「とぼけるのはなしにしましょう。今から二週間前、この近くの吉木という住宅で悲惨な事件がありました。この家に住む吉木瑠衣子という少女が指名手配中の殺人犯に襲撃され、その殺人犯が返り討ちにあって死亡したという事件です。当然、あなたはご存知のはずですが」

 その問いに対し、相手は一瞬否定するようなしぐさを見せたが、すぐに無駄だと悟ったのかため息をついて頷いた。

「知っていますよ。でも、それが何か?」

「私はある人の依頼でこの事件を調べる事になりましてね。ですが、調べれば調べるほどどうもこの事件には裏があるように思えてきたのですよ。そして……事件について調べる中で、私の突き留めた事実に対して明らかに矛盾した事を言っている人間が一人存在する事に気付きましてね。……それがあなただったというわけです」

 そこまで話したところで、榊原の雰囲気も変わった。その鋭い視線が相手を貫き、そして鋭い声で相手……否、この事件の『真犯人』を告発する。

「もう猿芝居はやめましょう。私はあなたこそが、吉木宅で起こった殺人事件の犯人だと考えているんです。違いますか? 吉木瑠衣子を襲撃し、それを助けようとした岸辺和則を明確な殺意を持って殺害した真犯人の……」

 そして、榊原はその名を告げた。

高田信奈たかだのぶなさん!」

 その瞬間、外灯の光の当たり具合が変わり、影の素顔が茂みの中にいた瑠衣子や瑞穂にもはっきり見えた。そこにいたのは、少し茶色がかったストレートヘアをした、二十歳前後の女子大生と思しき若い女性の姿だったのである……。

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