第七章 最後の立証

 だが、ここまで追い詰められても信奈はなおもあがきを見せる。歯を食いしばり、思考がボロボロになりながらも、なおも榊原にもはや悪あがきとも言える反証を繰り返す。

「じゃあ……じゃあ、教えてくださいよ」

 信奈はどこか暗い視線を榊原にぶつけながら地獄の底から響くような声で問いかけた。一方の榊原も一切ひるむことなく真っ向からその視線を受け止める。

「何を、でしょうか?」

「聞くまでもないでしょう。動機です。一女子大生に過ぎない私が吉木宅に侵入して、そこにいた女子高生を襲った理由……そんなものが一体どこにあるんですか? 言っておきますけど、近所に住んでいるとはいえ、私はその吉木瑠衣子とかいう子と面識なんか一切ありませんよ」

 確かに、瑠衣子自身もさっきそんな事を言っていた。信奈単独の言い訳ならともかく、被害者の瑠衣子本人が知らないと言っているとなれば、彼女たちの間に接点がなかったというのは本当なのかもしれない。

「本当に一切面識がないんですか? これだけ近所に住んでいながら今まで一度たりともすれ違った事さえないと?」

「……そこまでは言いませんけど、覚えていませんし、仮にすれ違っていたからと言ってそれだけで相手を殺すなんて馬鹿げています!」

「えぇ、確かに馬鹿げています。だから……あなたの事を調べました」

 そこで言葉の応酬がピタリと止まった。

「調べた……?」

「昨日の捜査の時点で最後までわからなかったのがまさに動機についてでした。ただし、諸々の証拠からあなたが犯人である事は立証できていたので、今日の朝からあなたに絞って色々調べたんです。人物調査は探偵の本分ですし、調べる対象さえわかっていれば調査自体は難しくありませんでした」

 そして、榊原はその結果を告げる。

「調べた結果、あなたと被害者の吉木瑠衣子さんの間には確かに直接的な利害関係は何も存在しませんでした。その点についてあなたが嘘を言っていないのは事実でしょう」

「だったら……」

「ただしっ!」

 榊原は鋭く叫んだ。

「利害関係は吉木瑠衣子さんではなく、その父親の吉木啓吾さんとあなたの間にあったんです」

「っ!」

 その瞬間、信奈が息を飲んだのが瑞穂にもわかった。

「吉木瑠衣子さんの父親である吉木啓吾さんの職業は民事専門の弁護士。しかし調べてみたところ、彼は数年前まで裁判官をしており、そこから弁護士に転身していた事がわかりました」

「えっ?」

 瑞穂の隣で当の瑠衣子が小さく声を上げる。ただしそれは、その事を知らなかったというわけではなく、それを榊原が知っている事に対する驚きの声だった。実際、瑞穂も彼女の父親が弁護士だった事は聞いていたが、その父親が以前裁判官をしていたなどという情報は今まで聞いた事がなかった。だが、その疑問に榊原は小さく肩をすくめながら答える。

「もちろん、私も本人から直接聞いたわけではありませんがね。ただ、吉木瑠衣子さんの話の中に『二年前まで父親が単身赴任していて、母親と二人暮らしだった』という話が出ていたので妙だと思っていたんですよ。一般の会社員ならともかく、弁護士が単身赴任するというのはあまり聞いた事がない話ですし、それがあり得るとしたら弁護士になる前に何か別の仕事をしていて、二年前にその仕事を辞めて弁護士になったという場合のみです。そしてその場合、考えられる前職は、全国規模の転勤があって退職後すぐに弁護士への転身が可能な検察官か裁判官と考えるのが自然です。だからもしかしたらと思って調べたんですが、今回は後者だったようですね」

 言われてみれば、現場を調べたときに確かにそんな話が世間話程度に出ていた。だが、そのさりげない世間話から即座にそこまで推測できるというのは並の人間にできる話ではない。瑞穂が改めて榊原の思考力の速さに驚いている中、榊原は話を続ける。

「そこで、彼が裁判官時代に裁いた事件を調べてみました。するとその裁判官時代、吉木啓吾は民事のみならず刑事裁判も何件か担当した事があるようで、その中に一件目を引く裁判があったんです。内容は……殺人」

 その一言に、その場が凍り付いた。

「今から十二年前の一九九六年の夏、香川県坂出市にある喫茶店に強盗が押し入り、当時店内にいた店のマスターとアルバイトの女子高生の二人が滅多刺しにされて殺害されて売上金が奪われるという事件が起こりました。事件発生は喫茶店が閉店した直後の午後八時頃。目撃者が少ない事もあって捜査は難航しますが、事件から一週間後、担当の所轄署は現場近くに住んでいて、窃盗の前科があった当時二十歳の苅田東次郎(かりたとうじろう)という工員を逮捕。取り調べの末に苅田は犯行を自供しますが、裁判になると一転して無罪を主張し、自白以外の証拠が少なかった事もあって裁判は紛糾。しかし、最終的に高松地裁の担当裁判官は『疑わしきは罰せず』の原則に基づき、証拠不十分で苅田に無罪を言い渡しています。検察もこれ以上証拠で立証する事が不可能と判断し、控訴を断念してこの時点で判決が確定したようです」

 そこで榊原は語気を強めた。

「そして、この時無罪判決を下した担当裁判官が吉木瑠衣子さんの父親・吉木啓吾さんその人だったんです」

「……それが、何か? そんな事件、私には何の関係も……」

 信奈のささやかな反論に、榊原は首を振る。

「言ったでしょう、あなたの事を調べたと。この事件、殺された喫茶店の店主の名前は北井九郎(きたいくろう)。同じく殺害されたアルバイトの女子高生の名前は坂町成江(さかまちなるえ)という人物です。女子高生の坂町成江が喫茶店でアルバイトをしていたのは家計が苦しい両親に代わって学費を稼ぐためでしたが、この事件が原因で両親は離婚。残された当時十歳の妹は母方に引き取られ、この時に名字が変わっています。その母方の名字は……『高田』でした」

 その瞬間、信奈が小さく息を飲む。

「『高田信奈』さん。あなたは十二年前に殺人事件の被害者になった坂町成江さんの妹ですね? 否定をしても、戸籍を調べればすぐにわかる話ですが……どうですか?」

「……だったら、何なんですか?」

 信奈は押し殺した声で半ばそれを認めるような答えを返し、さらにこう続ける。

「仮にそうだったとしても、何で私がそれで殺人をしないといけないんですか? 裁判官が無罪判決を出したからって、その程度で復讐に走ったりなんか……」

「問題はその後です。裁判で無罪判決が出た一年後の一九九七年……釈放された苅田東次郎は、今度は東京の西新宿で別の殺人事件を起こしているんです。実は……当時警視庁捜査一課で刑事をしていた私も、その事件の捜査に関わっていましてね。この事件についてはよく知っているんですよ」

「っ!」

 信奈はハッとしたように榊原を見上げた。

「殺されたのは『味木食品』という大手食品会社の経理課長だった金木知治(かねきともはる)という男で、苅田は白昼堂々、西新宿の路上を歩いていた金木を正面から刺し殺し、そのまま逃亡しました。容疑者が一年前に別の殺人事件で無罪になった男だという事で香川県警も介入してきて、その後、苅田の行方を追って懸命の捜査が行われています。状況的に証拠の少なかった坂出の事件と違って、今回は白昼堂々路上での殺人ですから目撃者や証拠の観点からも苅田の犯行である事は確定的。しかも金木はこの時経理上の理由で五十万円の大金をアタッシュケースに入れて持ち運んでいるところでした。このケース自体は結局奪われませんでしたがね。もちろん、必然的に一年前の事件の無罪判決も間違いだったんじゃないかという疑惑は警察内部でもささやかれましたよ。ただ……事件の一週間後、現場近くの廃工場で自分の喉をナイフで貫いて自殺している苅田が発見され、事件は被疑者死亡のまま書類送検になり、それ以上の捜査は行われていません」

 榊原はさらに話を続ける。

「今回調べた結果、この事件の後、吉木啓吾判事は刑事部から民事部へ移動となり、三年前に裁判官を辞めるまで地方の裁判所を転々としています。表立っては通常の異動という事になっていますが、事件の影響はあったと思いますね。吉木判事にとって、自分が殺人犯を無罪にしてしまったかもしれないという事は罪の意識として残っていたと思います。ですが……その一方、遺族側からしてみれば吉木判事の存在は許せないものだったでしょうね。後に二度目の殺人を起こした以上、苅田東次郎が一件目の喫茶店の事件の犯人だった可能性が高い事は誰にでもわかります。にもかかわらずそいつを無罪にしてしまった吉木判事に対し、屈折した感情を抱いていたとしても、私は不思議に思いません」

 そう言って、榊原は信奈に視線を向けた。

「あなたの事ですよ」

「……」

「あなたが首都圏の大学に進学して吉木家の近くに下宿する事になったのはさすがに偶然だと思います。最初から狙うなら、こんな十年以上も時間を置く意味はありませんから。ですが、その偶然が実現し、自分の家族を無茶苦茶にしたあの裁判官の一家が幸せそうに暮らしているのを見せつけられたら……そこに動機が生まれてもおかしくはありませんね」

「……だったら」

 不意に、信奈が振り絞るような声を出した。

「だったら、何で私はその吉木判事本人じゃなくて娘を狙ったんですか? 普通だったら本人を狙うはずですよね。娘を狙うなんて意味がわかりません」

「いえ、これ以上わかりやすい話はないと思います」

「何を言って……」

「単純に、吉木啓吾さんを苦しめるためですよ」

 さらりと榊原が言った言葉に、聞いている瑞穂たちの方の背筋が凍った。

「本人を殺したら苦しみはそこまで。あなたは吉木啓吾さんに最大級の苦しみを与えるために、あえて本人ではなく彼が一番大切にしている娘……つまり、吉木瑠衣子さんを狙った。娘の命を絶つ事で、真の標的の吉木啓吾さんに絶望という苦しみを与えようとしたんです。そう考えれば、あなたが事件後に危険を冒してまで岸辺和則の偽目撃情報を警察に話し、全ての罪を岸辺に着せようとした理由にも納得がいきます。岸辺が犯人という事になれば、現場にいたのも二人だけという事になり、必然的に岸辺を殺したのは瑠衣子さんという事になります。もちろん法的には正当防衛になるでしょうが、殺人は殺人です。彼女にはやってもいない殺人を犯したという負い目が一生残り、その『事実』は彼女や吉木家の将来に確実に暗い影を落とす。あなたは吉木瑠衣子を殺害するという目的が果たせなかった時点で、吉木瑠衣子を『殺人者』にして自ら手を下す事無く吉木家を内面的に破滅させる方針に舵を切った。違いますか!」

 それを聞いて、隣の瑠衣子本人が真っ青になっているのを瑞穂は見て取っていた。何もやっていない人間に自分が『殺人犯』であると思い込ませて自滅させようとする……今まで経験した事もない人間の『悪意』に、瑠衣子はショックを受けているようだった。

 だが、信奈はなおもあがく。あがこうとする。

「知らない……そんなの知らない! 私は……私は何も……」

 しかし、そんな信奈に対し、榊原は不意にトーンを押さえた口調でこんな事を言い始めた。

「ですが、だからこそ私は、あなたに対してこの事実を告げなければなりません。それがどれだけ残酷な結果をもたらそうとも」

「な、何を……意味がわかりません! あなたは……」

 すっかり混乱状態の信奈に対し、榊原は正面から最後の戦いを挑みにかかった。

「あなたの今回の事件の動機の根幹になっているのは、十二年前の事件の真犯人であるとされた苅田東次郎を無罪にしてしまった吉木啓吾さんに対する事実上の逆恨みです。あなたは無罪判決が出てなお、苅田東次郎が姉の坂町成江を殺害した犯人だと信じていました。なぜなら苅田は無罪判決の一年後に東京で金目的と思われる殺人を犯しており、すなわち実際に金目的で殺人を犯すような人間だと実証されてしまったからです。しかし……その前提がすべて間違っていたとすればどうでしょうか?」

「何を言って……」

「問題は西新宿の事件において、金目的の犯行だったはずなのに苅田が現金の入ったケースを結局持ち去っていない事です。この点については、当時捜査をしていた私たちの中でも疑問に思われていましたが、この時は犯行の際に何かの手違いが起こって持ち去れなかったと解釈されていました。しかし、そうではなかったんです」

 榊原はここで新たな事実を告げた。

「苅田東次郎が金木知治を殺害し、その後自殺してから十年後の二〇〇七年……つまり、昨年ですが、香川県の地方ローカル新聞社である香川中央新聞で窃盗事件がありましてね。まぁ、事件そのものは金目的のありふれた泥棒で発生三日後には逮捕されたんですが、その泥棒は新聞社の事務所内で一番価値がありそうなものという事で室内にあった手提げ金庫を盗んでいたんです。で、泥棒が逮捕された後でこの金庫は証拠品という事で県警に押収され、中身の確認が行われたんですが……その金庫の中に入っていた物が問題でした」

 榊原はそこで一度言葉を切り、重苦しい口調で続けた。

「中に入っていたのは手紙の入った一通の封筒でした。封筒の切手の消印は窃盗事件の十年前。差出人の名前は……『苅田東次郎』です」

「……は?」

「結論から言えば、金庫の中に入っていたのは、苅田東次郎が西新宿で金木元治を殺害する前日に香川中央新聞に送り付けた手紙……もっとはっきり言えば『告白状』だったんです。香川中央新聞は、西新宿の事件の有力な証拠になる苅田の手紙を十年間にもわたって警察から隠蔽し続け、その事実が、事件から十年も経ってありふれた窃盗事件のために警察の目に触れる事になったというわけです」

 そこまで聞いて、我慢できなくなったのか信奈が口を挟んだ。

「ちょっと待ってください! その手紙が本物だという証拠はあるんですか?」

「もちろん。県警の調べで、手紙の筆跡、付着していた指紋、及び封筒の切手の裏から検出されたDNAは苅田東次郎のものと一致しています。彼がこの手紙を書き、香川中央新聞に送り付けたのは間違いのない事実です」

 そう答えてから、榊原は話を本筋に戻す。

「さて、その手紙の内容ですが……そこには彼が死んだことによってずっとわからないままになっていた『苅田が金木を襲撃する動機』が記されていました。しかし、そこに書かれていたのは、金目当てなどではなく誰もが予想だにしなかった『動機』でした。それが何だったのか、あなたに予想ができますか?」

 逆にそう聞かれて、信奈は警戒しながらもゆっくりと首を振る。それに対し、榊原は簡潔にその答えを告げた。

「『復讐』だそうです」

「……え?」

「聞いた通りですよ。苅田東次郎は私利私欲のためではなく、復讐のために金木知治を殺害したと手紙の中で主張していたんです。具体的には『無実の自分に罪を着せた卑怯者に対する鉄槌』だの何だのと書いてあったそうです。……ここまで言えば、苅田が何を言いたかったのかはわかると思いますが」

 その瞬間、信奈の顔色がはっきり変わるのを、榊原のみならず茂みの三人組もしっかり見て取っていた。その上で、榊原はこう畳みかける。

「苅田東次郎は、自分が殺害した味木食品の金木知治が、自身が疑われる事になった坂出市の喫茶店強盗殺人事件の犯人であると言っているんです。にわかには信じられない話、ですがね」

 その瞬間、公園内をこれまでとは比較にならないほど重い沈黙が支配した。信奈は黙ったままギラギラした目で榊原を睨んでおり、榊原はそれを冷静に受け止め続けている。そんな状態が数分ほど続いた後、不意に信奈がポツリと呟いた。

「嘘、ですよね」

「ほう?」

「でなければ、さっきみたいな『はったり』ですよね。私を動揺させるために、そんなありもしない手紙の事を……」

 どことなく引きつった表情で言う信奈に、榊原は首を振った。

「残念ながら、これははったりでも嘘でもありません。手紙の実物は今でも香川県警内に保存されているそうですから」

「だとしてもっ!……だったとしても、それを無条件に信じるんですか! その手紙を書いたのは殺人犯なんですよ! 殺人犯の言う事なんて……」

 さっきの彩芽と同じような事を言ってくる。瑞穂がちらりと横を見ると、彩芽は顔を真っ赤にして耐えるようにそれを聞いていた。「殺人犯だから」……その説明が、実は全く論理的な説明になっていない事を、いい加減に彩芽も実感しているようだった。

 瑞穂自身、榊原にずっとくっついてきて理解した事がある。榊原は相手が誰であれ……それがたとえ対峙中の犯人であろうが、あるいは正真正銘の殺人犯だろうが、相手の話や言い分は基本的にしっかり聞く。そこに年齢や社会的身分、過去の経歴や前科などの区別はなく、ただ黙って公平に傾聴する。そして、相手の話をしっかり聞いた上で、そこから論理を組み立てて反論するのが榊原のやり方なのだ。『殺人犯の言う事だから』と言って頭からその話を否定せず、あくまで話を全て聞いた上でしっかり論理立てて反論するというこの榊原のやり方が、真実を究明するのに大きな役割を果たしている事を、瑞穂もいい加減に理解しつつあった。

 だが、それがわかっていない信奈は必死に反論を続けている。

「それに……何で、そんな手紙が地方のローカル新聞社の金庫の中にあって、しかもその新聞社は十年間隠し続けるなんて事をしたんですか。私には……理解できません」

「……そうですね、それについては説明が必要ですか」

 榊原はそう言って、一言ずつ言い聞かせるように話し始める。

「そもそも、この香川中央新聞という地方紙は、十二年前の坂出市の殺人事件があった際に、逮捕直後から苅田東次郎の事を徹底的に糾弾し続けていた新聞だったんです。それは苅田に無罪判決が出て以降も変わらず、彼が釈放されて以降も苅田が怪しいという旨の記事を書き続けていました。その結果苅田は香川県内に居場所がなくなり、故郷を捨てて上京する事になったと言います。事件の真相が香川中央新聞の言う通りなら苅田の境遇は致し方ないものだったかもしれませんが……もし本当に判決通り坂出の事件について苅田が無罪だったとすれば、彼にとってこの新聞社は許せる存在ではなかったはずです」

 榊原の口調がさらに重くなっていく。

「ここからは私の推測ですが、おそらくこの手紙は、無罪判決が出た後も自分を犯人だと言い続けた香川中央新聞に対する苅田の仕返しのようなものだったんでしょう。自分が真犯人に復讐する前にその事実を記した手紙を送り付ける事で、散々自分を犯人だと主張し続けてきた香川中央新聞に大恥をかかせようとした……そんなところでしょうね。事件を起こす前に犯人が出したこの手紙は普通なら大スクープになるはずですが、素直に手紙を公表すればずっと彼を犯人だと言い続けてきた香川中央新聞は取り返しのつかないダメージを受けますし、公表しなかったらしなかったで真実を隠蔽したというメディアとしてあってはならない事実が未来永劫香川中央新聞にのしかかる事になる。どちらを選んでも香川中央新聞にとっては詰んでいるわけで、そういう意味では彼の『復讐』は見事に成功したという事になります。結局、香川中央新聞は『隠蔽』を選んだようですが、それは十年後の予期せぬ窃盗事件によって表に出る事になってしまいました」

「……」

「実際、その手紙を読んだ県警は顔を青ざめさせたそうです。さっきは簡単に言いましたが、苅田が香川中央新聞に手紙を送りつけてもその内容が根拠薄弱なら『殺人犯の戯言』と言われて終わってしまいます。その辺りはずっと『殺人犯』のレッテルを張られて誰も自分を信じてくれなかった苅田自身よくわかっていたようです。なので、苅田は香川中央新聞が無視できないように、徹底的に金木について調べた上でちゃんといくつもの論拠や証拠を記し、誰が読んでも金木が犯人であると納得できるような説得力のある内容の手紙を送り付けていました」

「……」

「……あらかじめ言っておきますが、私は苅田の犯した金木殺害そのものを肯定しているわけではありません。『復讐』のためとはいえ、最後に金木を殺した事については決して許される事ではありませんからね。しかし……無罪確定後から西新宿の事件までの一年間の間、彼が自分を陥れた犯人を捜すために払った労力と執念はまさしく本物です。そして、この手紙の存在を受けて香川県警内で少数精鋭の極秘の検証チームが結成され、彼らの再検証によって苅田が最後に残した手紙の内容……すなわち金木知治が坂出市の事件の犯人であるという仮説が確認されていく事になりました」

「……」

「具体的には、坂出の事件が起こった当時、金木は高松市にある味木食品高松支社に出向しており、坂出市にある社宅に下宿していたという事実。さらに、喫茶店店主の北井九郎と金木知治の間に面識があった事実などです。何でもこの二人、大学時代に同じ大学の同じ学部にいたそうでしてね。しかも苅田の調べによれば学生時代の二人はかなりの問題児だったらしく、友人たちの話ではマルチ商法への関与や酔ったあげくの器物損壊、さらには所属するサークルの部費の横領の疑惑もあったそうです。もっとも、あくまで噂だけで証拠はなかったので告発や逮捕等には至っていませんが」

「……」

「そして、事件当時北井の経営していた喫茶店の経営はかなり悪化していて、あのままいけば数ヶ月持たずに破産する可能性があった事実も書かれていました。ところが同時に、事件の一週間ほど前に北井の銀行口座に謎の入金があり、なぜかいきなり喫茶店の経営が持ち直しを見せていた事実を苅田はつかんでいます。北井本人は銀行側に『宝くじが当たった』と言っていたようですが……いささか怪しい話です」

「……」

「さて、ここまでの情報から、あなたは苅田が十二年前の事件についてどのような結論を出したと思いますか?」

 榊原が問いかけるが、信奈は顔を青くしたまま何も答えない。榊原は小さくため息をついて、そのまま自分で答えを告げた。

「事件の一週間前に北井の口座に入った入金は、切羽詰まった北井が金木を大学生の頃にしていた数々の非行行為をネタに脅迫して手に入れたものだった……少なくとも苅田はそう考えたようです。潰れかけの喫茶店を経営していた北井と味木食品という大企業の経理課長をしていた金木では、この事実を暴露された際により被害が大きいのは金木の方です。北井はそれに付け込み金木を脅迫し、それに屈した金木が支払ったお金が問題の入金だったと苅田は推測しました。ですが、苅田が調べた北井の店の経済状況は、とても問題の入金一回で何とかなるものではなかった。となれば、北井は金木に対する脅迫を何度も繰り返した可能性があり、もしそれが事実なら金木が北井の口をふさぐために凶行に及んだとしても何ら不思議ではありません」

「……何の証拠もない推測、です。苅田が罪を逃れるために出鱈目を言っているだけに決まっています」

 信奈は反論というより自分に言い聞かせるように言った。だが、榊原は首を振る。

「しかし、北井の口座の謎の入金や喫茶店の経営の悪化、北井と金木が同窓だった事、事件当時金木が坂出市にいた事は客観的に証明できる事実で、香川県警の再検証でもこれらの話が事実だった事は確認されています。さらに苅田は、北井の口座に入金があったのと同じ時期に金木が消費者金融から借金をしていた事実、そして事件後すぐにそのお金を利子込みで完済した事まで突き止めていました。これらの事実も県警の再検証で事実だと判明していますが、偶然にしてはあまりにもタイミングが一致し過ぎています。ここまで疑惑が重なると、いくら殺人犯の送りつけた手紙でも、もはや出鱈目と切り捨てるわけにはいかないんです」

「……」

「少なくとも、金木知治に北井九郎を殺害する動機があった事、そしてその警察が見過ごした事実を苅田東次郎が突き止めた事は事実として認めなければなりません。ただし、苅田も動機だけでは金木が犯人だと納得させられない事はわかっていました。だから、苅田はさらに調査を進めていたんです」

「……」

 もはや信奈は何も言わない。ただ黙って自分の首が絞まるのを聞いているしかない。

「具体的には、事件当日の金木のアリバイの確認や、現場周辺で金木を見た目撃者の捜索。苅田は自身で調べるのはもちろん、個人の力で限界があった場合はなけなしの貯金で興信所に頼んだりしてその辺を徹底的に調べたようです。結果、まず事件当日に金木にアリバイらしいアリバイがない事は比較的容易に確認され、さらに必死の調査の末に、事件当夜、坂出市内で金木らしい人物を見たという目撃証言まで苅田は特定していました。具体的には、現場となった喫茶店のすぐ近くにある神社の前で、神社への肝試しのためにこっそり家を抜け出していた近所の女子小学生が事件発生時刻に現場の喫茶店の方から歩いてくる不審な男を目撃していたんです。苅田は徹底した調査で彼女の存在に行きつき、実際に金木を含めた何枚かの人物の写真をその女子小学生に見せ、彼女が見た問題の人物が金木知治である事を見事に証明しました。つまり、少なくとも事件当夜、坂出市の現場近くに金木知治がいたのは確実なんです。おまけに彼女は、その男が神社近くにある用水路に何かを捨ててどこかに走り去るところまで目撃していました。参考までに言っておくと、事件の凶器となった包丁がその用水路から発見された事は当時の捜査資料にもしっかり書かれている事実です」

「出鱈目です! そんなの……そんな都合の良すぎる証言、絶対に作り話です! もし、本当にそんな証言があるなら、その女子小学生は何で警察の捜査の時点でその事を言わなかったんですか! 何もかもがおかしいじゃないですか!」

 信奈の必死の反論に、しかし榊原はさらに反論を重ねる。

「理由としては、まだ小学生だった彼女はその男が不審だとは思ったものの、それが近くで起こった殺人事件に関係しているとは微塵も思わなかったからという事になるでしょうか。何しろ、彼女がおかしいと思った時点ですでに『容疑者』は逮捕されていて完全に犯人扱いされていたわけですから、自分の見た人間が事件に関係ないと判断しても無理はない話だったんです。それに、仮にその状況を不審に思っても今さら子供が『違う人がいた』と言い出す事はできなかったでしょう。また、そもそも彼女が金木を目撃したのは、『肝試しをするためにこっそり家を抜け出していた』が故です。家を出ていた事そのものを親に秘密にしていたわけで、親にばれて怒られる事を考えたら、言い出せなかったのも納得がいきます」

「でも、何度も言うけどその証言自体が苅田の作り話の可能性だって……」

「残念ながら、奴はそう反論されるのを想定していたのか、彼女に話を聞いた時の様子をちゃんとテープに録音した上で、ご丁寧にもそれを問題の告発状の封筒に同封していました。問題の少女の名前も告発状に書かれていたので、香川県警がその少女の身元を特定するのも難しくなかったそうです。まぁ、もう十二年も前の事件ですから今はもうあなたと同じくらいの年齢になっているそうですが、当時の記憶は残っていたようで、県警に対してはっきりと同じ内容の証言をしたそうですよ。つまり、金木が何らかの形で事件に関与していたのは、もはや疑いを通り越して確定した事実として考えなければいかないところまできているんです」

「嘘よ……嘘よ!」

 ついに信奈は敬語をかなぐり捨てて絶叫した。

「だったら何で……何でその事実が一般に公表されていないのよ! 真犯人がわかったんだったら、公表するのが普通じゃない!」

 だが、その悲痛な叫びに、榊原は首を振った。

「言ったでしょう。この手紙が香川中央新聞の金庫から発見されたのは一年前の二〇〇七年。そこから香川県警内に極秘の検証チームが設立されたわけですが……何しろ十二年も前の事件です。正直、県警による検証作業は未だ途中というのが現状で、今まで示してきたような状況証拠から限りなく金木が犯人である可能性は高いものの、それでもまだ苅田の手紙に書かれていた手掛かりをこの一年間で全て検証しきったわけではないんです。この事件は一度無罪判決が出ており、しかも今回新たな容疑者となっているのは世間一般には『罪もない殺人事件の被害者』と認識されている人間です。それだけに、県警もこの検証作業でミスをするわけにはいかず、限りなく金木が犯人である事が確実視されている現状においても、苅田の手紙に書かれていた内容の全てを完璧に立証し、その上で決定的な証拠をつかむまでは一般への公表を差し控える判断をしているんだそうです」

「……」

「まぁ、状況が状況ですからこれは県警としては当然の判断でしょう。殺人事件の被害者をかつて無罪判決が出た事件の容疑者として告発するとなれば、『間違いでした』というのは通用しませんし、万が一でも告発に失敗したら『殺人犯の話を鵜呑みにして罪のない殺人被害者に罪を着せ、一度失敗した事件でまた誤認捜査をした』という事になって香川県警そのものに対する信用失墜にもつながってしまいますから。あなたはどう思っているのか知りませんが、県警もあの事件を忘れたわけじゃない。今まさに、事件の真相をはっきりさせるために必死の捜査を進めているんだそうです。もっとも……今回はそれが『吉木家に対する襲撃』という形で、ある意味では裏目に出てしまったわけですが」

「そんな……」

 絶句する信奈に、榊原はとどめを刺しにかかる。

「要するに、十二年前の事件は金木知治が犯人で、苅田東次郎は当時の判決通りに本当に無罪だった。今はまだ確証の段階に過ぎませんが、あと数年もすれば香川県警が必ずその事を立証するはずです。つまり、十二年前の裁判における吉木啓吾判事の判断は間違っていなかった。そしてそれはすなわち、吉木啓吾さんの判断が間違っていた事を理由に発生した今回の事件そのものが全て虚構に基づくものだったという残酷な事実を、『犯人』に突き付ける事になるんです。あなた……それでもなお自分のやった行為を正当化しますか? これでもまだ、罪もない少女を襲って彼女の人生を台無しにしようとした事実を隠して、私との対決を続けるだけの気力があるんですか!」

 榊原の追及に信奈は何かに耐えるように目を閉じて唇を噛みながら体を大きく震わせる。が、そこに榊原は最後の追い打ちをかけた。

「どうなんですか! 答えてください、高田信奈さん!」

 そこまで榊原が言った瞬間だった。不意に信奈の手から持っていたバッグが滑り落ち、そのまま信奈自身も崩れるように地面にへたり込んだ。そして、肩を震わせながら真っ白な顔で譫言のように呟く。

「私は……私は一体……何のために……」

 それは、事実上の自白に等しい行為であり、そして散々に抵抗を続けてきた彼女の気力がついに尽きた事を証明していた。それを見て、榊原は首を振る。

「……もういいでしょう。この勝負、ここまでです」

「……」

「私がやるべき事はこれですべて終わりました。あとはプロにお任せします」

 そう言って、榊原がどこかに合図をすると、突然公園の入口に誰かの影が姿を見せた。それを見て、茂みの彩芽が思わず息を飲む。

「あ、あれは……」

 そこに立っていたのは、彩芽の上司の警視庁刑事部捜査一課第五係係長の岡田三四郎警部と、吉木家の事件の陣頭指揮を執っていた蒲田西警察署刑事課の霧神警部補の二人だった。

「何であの二人が……」

 絶句する彩芽だったが、そんな事は露知らず、二人は榊原の下へ近づいていく。

「終わったか?」

「えぇ、見た通りです」

 岡田の短い問いに、榊原は信奈を見下ろしながら告げる。

「ふん、連絡を受けたときは半信半疑だったが……どうやら今回も、お前の推理通りだったようだな。さすがは元警視庁捜査一課のエース様だ」

「……昔の話です。今はしがない一私立探偵ですよ」

「しがない私立探偵がこう何度も事件を解決してたまるか」

「まぁ、その辺の話は追々という事で、今は……」

「わかっている。……頼む」

 それを合図に、傍らにいた霧神が無表情に一歩前に出た。

「高田信奈さんですね。警察の者です。ただ今の榊原さんのお話、我々も非常に興味深く思っています。御同行、願えますかね?」

 その言葉に、信奈は子供のようにイヤイヤと首を振って力なく抵抗する。が、それに対して岡田は冷たく言い放った。

「嫌なら逮捕令状を取りますがね。この状況なら裁判所も令状を出すでしょう。もうあなたは部外者じゃない。立派な『容疑者』なんです。その事をお忘れなく」

 そう言われて、信奈はガクリとうなだれてしまった。それを見て、二人の刑事が両側から彼女を支えて立たせ、そのまま連行していく。

「色々世話になった。後で詳しく話は聞かせてもらうが、今日はこれで。今からこいつの取り調べをする必要があるからな」

「わかっています。いつも通り、私の名前は出さないようにお願いします」

「あぁ」

 それを最後に、二人は信奈を公園近くに停車させてあった覆面パトカーまで引っ張っていった。パトカーが去っていくと、公園には榊原一人だけが残される。

「……もう出てきても構わないよ」

 榊原に呼びかけられ、瑞穂たちはようやく茂みから顔を出す。その顔は全員、何とも複雑な表情を浮かべていた。

「ひとまず、お疲れさん。何にせよ、これで事件は一区切りついた」

「……いつ、警部たちを呼んでいたんですか?」

 彩芽が押し殺した声で聞くと、榊原は涼しい表情で応えた。

「最初からです。犯人を逮捕してもらうには、最終的には警察の力が必要ですからね」

「私では力不足だと?」

「そう言うわけではありませんが、今回のあなたは独断で動いているとの事でしたからね。すでに結論の出ている事件をひっくり返す都合上、後々の事を考えると、捜査責任者の岡田警部に話を聞いてもらう必要はありました。それだけの話で、別に他意はありませんよ」

「……警部は、私の事を?」

「もちろん知っています。というか、私が知らせるまでもなく、向こうはあなたの単独行動について把握していたようですがね。昨日事務所に帰ってすぐ、向こうから私に確認の電話がかかってきました。その辺はさすがにベテラン刑事です。そう言えば、後で報告に来るようにあなたに伝えてほしいと伝言を預かっていましたね」

 その発言に、彩芽は先程にも増してますます複雑な表情を浮かべた。

「あの……一ついいですか?」

 と、不意に瑞穂がおずおずと手を挙げて言った。

「何だね?」

「先生の推理が正しいのは間違いないと思いますし、私もそれを否定するつもりはないんですけど……一つ気になる事があって。先生の推理だと、加害者だと思われていた岸辺和則は、実際は高田信奈に襲われている吉木さんを助けて返り討ちになったって事ですよね」

「そうなるね」

「それが何か……やっぱりしっくりこなくって。さっき先生が言ったみたいに『殺人犯』のレッテルを張るわけじゃないんですけど、指名手配中の殺人犯の行動としてはおかしい気がするんです。彼の立場になって考えてみたら、仮に吉木さんを助けるのに成功しても自分が捕まるだけですし、メリットらしいメリットもない。それでも吉木さんを助けたなら、岸辺はそういう利害を度外視して、純粋に吉木さんを助けるためだけに高田信奈に立ち向かった事になるんですけど……」

 そこで瑞穂は少し言いにくそうな表情を浮かべながらもこう言った。

「何て言うか、『岸辺和則』という人がよくわからなくなったんです。世間に言われているような奥さんを殺した凶悪殺人犯としての『岸辺和則』と、自分を犠牲にしてでも他人を助けようとする『岸辺和則』のイメージが違い過ぎて、彼の本性がどっちなのかわからないんです。……この点について、先生はどう思っているんですか?」

 確かに、事がここに至れば最後に問題になるのは『殺人犯』岸辺和則の不可解な行動についての疑問だった。他のメンバーの視線も榊原に集中する中、榊原は静かに最後の謎を解き明かしにかかった。

「瑞穂ちゃんの言うように、私もさっきの論理を導いた時、岸辺和則の行動のギャップに違和感を覚えた。世間で残虐な凶悪犯と言われている岸辺和則の行動としては明らかに矛盾していたからね、しかし、彼が捨て身の覚悟で瑠衣子君を助けようとしたのは論理的に証明された事実であり、これを覆す事はできない。だから私はこう考えた。……実は、『妻を殺した凶悪殺人犯』というレッテルそのものの方に何か錯誤が存在するのではないか、と」

「錯誤って……岸辺が奥さんを殺したのは事実なんですよね?」

 瑞穂が驚きながらも問い返し、榊原は頷く。

「あぁ、何度も言うようにそれを否定するつもりは私にもない。岸辺が自身の妻を殺したのは紛れもない事実だ。だが……私たちが知っているのは単に『岸辺が妻を殺した』という最終的な事実だけで、その事実から彼を凶悪犯だと勝手に認識しているに過ぎない。そこにはすなわち、『岸辺がなぜ妻を殺したのか?』という動機の部分が抜けている」

「動機?」

 思わぬ言葉に瑞穂は首をひねった。

「さっきも言ったように、私は今までに何人もの犯人と対峙してきたが、一部を除いた大半の犯人は我々と同じく普通の弱い人間だった。そして、今回の事件における岸辺の行動を見るに、彼もまたいわゆる『モンスター』タイプの犯罪者ではなく普通の人間が道を踏み外したタイプの犯罪者だと感じた。だとすれば、高松の事件も実は表に出ていない事実があるのではないかと思ってね。昨日の夜、実際に香川県警の柳村警部に電話をかけてその点を確認してみた。実の所、さっき話した坂出の事件の裏事情もその時聞いたのだがね……それはともかく、その結果、高松の事件について思わぬ話を聞く事ができた」

 そこで一息入れると、榊原はその「真実」を告げる。

「あくまで現場の状況を見た限り、という条件がつくが……県警の捜査では、五年前に高松で起こった岸辺美里殺害事件が『岸辺美里の自殺、もしくは無理心中』を発端とするものではないかという可能性が示唆されていたとの事だ」

「む、無理心中ですか?」

 思わぬ言葉に瑞穂は目を丸くする。それは他の面々も同じだった。

「そもそも事件当時、岸辺夫婦を取り巻く状況は最悪だったらしい。岸辺和則が勤めていた食品加工会社が作業行程中における異物混入事件を起こして数百人単位の食中毒が発生し、それがきっかけとなって事件一ヶ月前に会社が倒産。しかもその異物混入の全責任を取らされたのが、当時その会社で作業工程監督をしていた岸辺だった。もっとも、後の県警の捜査では、実際に指揮監督をしていた会社の上層部から責任を押し付けられただけの可能性が高いらしいがね。そのような経緯があった事から倒産後の就職活動もうまくいかず、貯金残高もギリギリだったという事が捜査の中で確認されている。さらに、責任を全部かぶせられた事で、会社の倒産以降、彼の家にはほぼ毎日のように誹謗中傷の電話や手紙があったようだ。ひどいときは窓ガラスを割られたり家の壁に中傷が書かれた落書きをされたりしたらしく、岸辺は事件前に警察に器物損壊容疑で被害届を出しているが、その犯人が捕まったのは岸辺が事件を起こした後の話だった。そんな状況もあって、元々気の弱い性格だった岸辺里美はノイローゼ状態に陥り、実際に何度か精神科に通院した記録が残っている。そして、そんな状況の中で岸辺里美殺害事件は発生した」

 初めて明らかになる話に、誰もが息を飲む。少なくとも、犯人側にそんな事情があったなどという情報は一切ニュースで流れていなかった。

「事件当初、警察は岸辺の妻殺しの動機についていくつかの推測を立てていた。一番支持を受けていたのは、一連の事象で進退窮まった岸辺と里美の間で口論か何かが発生し、その結果我を失った岸辺が衝動的に里美を殺害して逃亡したのではないかという説だった。だがそんな中、柳村警部を中心とする一部の捜査員の間では、この事件がノイローゼ気味だった岸辺里美が自殺もしくは無理心中を図り、それに気付いた岸辺和則が彼女を止めようともみ合いになった末に弾みで彼女が持っていた包丁で刺してしまった……という流れで発生したのではないかという疑惑が浮かんでいたそうだ。……あくまで『疑惑』だから、岸辺が逃亡している状況下では表向きになる事はなかったがね」

 瑞穂たちは思わず顔を見合わせた。それが本当なら、同じ「殺人者」であっても受ける印象が大きく変わってしまう。

「納得できません。何でそんな『疑惑』が浮かぶ事になったんですか?」

 彩芽の問いに、榊原は冷静に答えた。

「もちろん、柳村警部も何の根拠もなしにそんな説を支持したのではありません。その疑惑を補強する証拠があったんです」

「証拠?」

「柳村警部の話では、凶器の包丁の指紋のつき方がおかしいそうです」

 榊原は丁寧に説明していく。

「品野警部補も今回の事件の捜査で柳村警部から聞いたかもしれませんが、五年前の事件では凶器の包丁の柄の部分から岸辺の指紋が検出され、これが彼が犯人だという証拠になっています。それ自体は正しいのですが、実はこの包丁の柄の部分からは被害者の岸辺里美の指紋も見つかっているんです。これについてあくまで岸辺が自分の意思で妻を殺害したとする多数派の捜査員たちは、岸辺が刺そうとしたところで被害者が抵抗し、もみ合いになる中で彼女の指紋も付着したのだろうと推測しています。ところが……柳村警部によるとこの包丁の指紋のつき方に、多数派の説では説明がつかない矛盾があるんだそうです」

「一体何が……」

「その包丁の指紋ですが、岸辺里美の指紋の『上』に岸辺和則の指紋がつくという重なり方をしていたそうなんです」

「え?」

 声を上げたのは瑞穂だった。それが何を意味するのか、瑞穂にはわかったようである。榊原は全員に言い聞かせるように説明した。

「通常、指紋というものはその付着の有無のみならず、警察が調べれば指紋がどのように重なっているか……すなわち『誰がどの順番で対象物に触れたのか』までわかってしまう。そして、当たり前の話だが普通は後から付着した指紋が前の指紋の上に付着するから『上にある指紋ほど後に触れた』という証拠になる。ところが、この事件の凶器の指紋は岸辺里美の指紋の方が先に付着していた。これが本当ならどうなるか? 瑞穂ちゃんはどう思うね?」

 そう聞かれて、瑞穂は慎重な口調で答えた。

「それが本当なら……包丁を最初に触っていたのは岸辺里美の方で、つまりその場に包丁を先に持ち出したのは被害者の岸辺里美の方だったという事になります」

「その通りだ。すると、次の問題は『岸辺里美はなぜ包丁を持ち出すなどという事をしたのか』という点になるが、彼女が相次ぐ誹謗中傷でノイローゼ気味になっていた事を考えればある推測が浮かび上がる」

「それが、『岸辺里美の自殺』、もしくは『絶望した岸辺里美による夫を巻き込んだ無理心中』ですか?」

 彩芽の言葉に、榊原は頷いた。

「もっとも、何度も言うようにこれは現場の状況から見た『疑惑』に過ぎず、本当かどうかまでははっきりしません。指紋のつき方がおかしいのは事実ですが、岸辺が自身の意思で殺人を行ったという立場からでも、強引ではありますが指紋のつき方について説明できない事もないんです。それに、自分に非がないならなぜ逃亡するような事をしたのかという反論に柳村警部も答えられなかった。まぁ、私は単に自分が人を殺した事に怖くなって逃亡しただけだと思っていますが、本人がいない以上それを証明する事もできない。従って、指名手配の時点ではこれら不確実な憶測は公表されず、ただ単に『妻を殺した夫』というシンプルな情報だけで手配がなされる事になりました」

「そして……その情報だけが大きく解釈されて、岸辺和則は『凶悪な殺人鬼』というレッテルを張られる事になったって事ですか」

 瑞穂がしみじみと呟く。

「その可能性が高いが、何度も言うようにこの疑惑が正しいかどうかは本人が死んだ今となっては証明できないからね。実際、今回の事件を受けて、香川県警は『岸辺が女子高生を襲った』という当初考えられていた事件の構図から、高松の事件について『やはり「疑惑」は間違いで、岸辺が自らの意思で里美を襲った』という最終判断を下し、柳村警部もそれに従ったと電話では言っていた。だが……事件の構図がひっくり返り、岸辺が瑠衣子君を助けようとしていた事実が明らかになった今となっては、この『疑惑』が真実である可能性が高まるかもしれない。まぁ、判断するのは香川県警だし、殺害そのものは事実だから書類送検を取り消すような事はしないだろうが……」

 榊原はそう言って小さく息をついた。そこへ、今度は瑠衣子が尋ねる。

「あの、私からも質問していいですか?」

「もちろん。この際、疑問はすべて解消しておくのがいい」

「もし……もし岸辺さんが……あえて『岸辺さん』と言いますけど、彼が本当に私たちの想像する『冷酷非情で残虐な殺人鬼』じゃなかったとしたら、何で岸辺さんは私の家に侵入したんですか? 榊原さんも、岸辺さんが裏口から私の家に侵入して冷蔵庫のシュークリームの箱を物色した事までは否定していなかったはずです」

 その問いに対し、答えたのは彩芽だった。

「それは、何度も言うようにあなたのお母さんからヘソクリの話を盗み聞きして、それを盗むために……」

「ずっとそう思っていました。でも……今までの榊原さんの話が本当だったら、その行動も何だかしっくりこなくなるんです。もちろん、そっちの刑事さんの言う通りだったのかもしれませんけど……」

 確かに気になる話だった。しかし、それに対する回答も、榊原は持っているようだった。

「あくまでも私の推測に過ぎないが、一応、考えられる可能性を提示する事はできる」

「聞かせてください」

 瑠衣子は真剣な表情で頭を下げた。

「なら言うが、事がここに至れば、私も岸辺の目的がヘソクリ目的だったとは考えにくいと思う。そもそも、先程の推理で救急箱は瑠衣子君自身が出したものであり、岸辺が実際に物色したのは冷蔵庫の中のシュークリームの箱だけだった事がわかっている。だが、本当にヘソクリ狙いで侵入したのだとすれば、初っ端に物色するのが冷蔵庫の中のシュークリームの箱というのは何とも変な話だ。現場を調べる限り、キッチンにはいかにもそういうものを隠していそうな箱がいくつもあったんだからね」

 確かに、改めて昨日の事を思い出せば、その手の箱がキッチンやリビングにたくさんあったのを瑞穂も覚えていた。

「じゃあ、一体……」

「ここは殺人事件やヘソクリの話を全てなかったものとし、シンプルに考えてみる事にしよう。すると、この事件は『ある家に侵入した泥棒が冷蔵庫の中のシュークリームの箱を開けた』と言い換える事ができる。そこに、岸辺が事実上のホームレス生活をしていて、所持金もほとんどなく、衣食住にさえ困っている状況だった事を付け加えれば、どんな結末が浮かび上がるかね?」

 そこまで言われて、瑠衣子は何かに気付いたようだった。

「まさかそれって……」

「そう。岸辺が瑠衣子君の家に侵入したのは、殺人のためでも、ましてヘソクリのためでもなかった。ただ単に『空腹に耐えかねて食料目的で冷蔵庫をあさるために侵入した』。そう考えるのが自然ではないかね?」

 言われてみれば、呆気ないほど単純かつ明確な理由だった。むしろ、ここまで状況証拠が出そろっていてなぜその考えに至らなかったのかが不思議に思えてくるほどである。やはり同時に起こった『殺人事件』と『ヘソクリの情報』が自分たちの目を惑わしていたのだと瑞穂は痛感する事になった。

「まぁ、住居侵入自体が犯罪ではあるし、この点について岸辺が完全に潔白だと言えないのは確かだが、殺人に比べれば明らかにその罪は軽い。そう考えれば、彼が侵入後真っ先に冷蔵庫を開け、シュークリームの箱に手をかけたのは極めて自然な行動だ。そして、いざシュークリームを取り出そうとした時に二階の物音を聞き、状況を確かめに行ったところで高田信奈の凶行を目撃したと考えるのが筋だろう」

「ま、待ってください! じゃあ、ヘソクリの話は……」

 彩芽が慌てた様子で問うが、榊原は何の感慨もないように言葉を返した。

「そもそも、捜査の流れを聞いた限りでは、そのヘソクリの話は『キッチンやリビングが物色されていた』という話をあなたから聞いた瑠衣子君のお母さん……すなわち吉木波瑠さんが、『もしかしたら公園で話したヘソクリの話を岸辺に聞かれていたのかもしれない』と勝手に推測して出てきた話のはず。ですが、この証言の流れから考えれば、吉木波瑠さんはそのヘソクリの話をしたときに岸辺和則本人の姿を直接見たわけではない。ただ単に『キッチンやリビングが荒らされている』という情報から『もしかしたら……』とその光景を想像しただけで、逆に言えば、岸辺が公園でヘソクリの話を聞いた証拠なんてどこにもないんです。その推測がたまたま現場でいくつかの箱が荒らされていた状況と合致していた事と、『事件の三日前に岸辺が被害者宅周辺を何かを探るようにうろついていた』という高田信奈のいかにもな嘘証言から警察がその推測を真実と誤認してしまったというのが真相でしょう。確かに問題の日時に岸辺が公園近くをうろついていた可能性がないとは言いませんが、近くにいたからと言ってイコール必ず吉木波瑠さんの話を聞いていたとは限らない。事がここに至れば、私はそもそも、岸辺はヘソクリの話など聞いていなかった可能性の方が高いと考えますね」

「そんな……」

 彩芽が絶句する。それが本当なら、それは吉木波瑠からその話を聞いた自分自身の早合点で起こった誤解……有体に言って自分の捜査ミスという事ではないか。

「その上で……最初の疑問、すなわち『なぜ岸辺和則は自分が捕まるリスクを冒してまで瑠衣子君を助けようとしたのか』という点についてだが、今までのストーリーが事実だと仮定すると、ある可能性が浮上する。最後にそれだけ指摘しておこう」

 榊原はそう前置きして最後の推理を披露した。

「五年前、岸辺は自殺もしくは無理心中をしようとした妻の里美を止めようとして失敗し、逆に自分自身の手で彼女を殺してしまう羽目になった。つまり、彼は死にとらわれた彼女を救う事ができなかったわけだ。その罪の意識は五年経った今でも彼の中で渦巻き続けていたんだろう。そんな中、食料目的で不法侵入した家で、彼は再び誰かの命が奪われようとしている場面に遭遇した。それを見た彼はどう思ったのか? ……『今度こそ、自分のすべてを投げ出してでも、奪われようとしている命を助けなくてはならない』。そう思った可能性は充分に考えられる。その結果、彼は自分が不法侵入をしていた事や指名手配犯である事も忘れ、瑠衣子君を襲っている高田信奈に飛びかかっていき……そして、命を落とした。そう考えればすべてに辻褄が合うのも事実だ」

「それじゃあ、岸辺が吉木さんを助けた理由って……」

 瑞穂の言葉に、榊原は断言した。

「おそらく、五年前に妻を殺してしまった事に対する、彼なりの『贖罪』だったんだろうね。この事件に『贖罪者』は確かに存在した。だが、それは瑠衣子君ではなく、殺された岸辺和則の方だった。あくまで推測に過ぎないが……最後の最後、こんなところまで逆転があるとは、何とも言えない話だ」

 榊原の出したその結論に誰も何も言えない中、一筋の風が公園と通り過ぎて行ったのだった……。

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