彼と彼女の初日【04】




 東の庭へ出入りするには王家の許可が必要になる。

 庭へと続く入口たる石の門と庭を囲む鉄柵には侵入不可の結界が施されており、それぞれ適所には衛兵が配置されている。

 王家直系のラシェンは一切の手を貸してはいない。それなのに、チェリアと呼ばれた娘は、東の庭内部を走っていた。

 駆ける少女の足の速さにラシェンは男の自分ですら追いつくのがやっとで、胸の不快がどんどん広く深く濃くなっていくことを感じる。

 制止を促す兵の手を掻い潜り、結界に引っかかることなく庭に入っていく娘にますますラシェンの不愉快は増すばかり。

 そう。疑問よりも胸の内のざわめきにラシェンの神経は徐々に尖っていくのだ。

 道を問うその時間すら惜しいと連れて行ってと言いながら一人走り出した少女に対し、ラシェンは敵意を抱き始めている。

「何故庭と?」

「ルーダが隠れそうなところっていったら其処しかないじゃない」

 異国の少年に連れられた少女は辺境の地の生まれ。そんな娘にまで知れ渡るセレンシアの守護竜。王国には広い広い陸竜が横たわる東の庭の存在もまた世界に知れ渡っているらしい。

 振り向かず言い切った少女の予想はあながち外れていない。人の目が溢れる城で唯一の穴は人の足がおのずと遠ざかる竜の庭だ。

「そうかもしれんが、どうして隠れたと断言する?」

 その確信の根拠は?

 少女の自信にラシェンの口端が歪む。

「リーガルーダが姿を消すのはそんなに――」

「そんなに珍しいことじゃないって?」

 遮って続けた少女の言葉にラシェンは頷いた。

「そもそもどうして隠れたりする?」

 理由は無いはずだ。セレンシアの建国からずっと寄り添ってきたリーガルーダにとって今更の話だろう。

 もし、あるとすれば……。

 浮かんできた答えにラシェンは唇を噛んで、首を横に振った。それだけはどうしてだか言葉にしたくなかった。

 少女の足が止まり、ラシェンに振りかえった。彼も足を止める。

「所で、あれがリーガルーダの元の姿?」

 答えず質問を重ねてくるチェリアに頷きを返した。

「そう。大人の姿なのね。しかも、とても綺麗」

 落とした声のトーンの終わりに微かな哀しみが滲み、目を伏せる少女に、ラシェンはハッとした。

 少女の中でリーガルーダという人物は、あの異国の少年なのだということに、今初めて気づく。確認と交わす会話に、納得の感想を漏らすのが何よりの証拠。偽りが無いのはその表情で見て取れよう。

「どうして、あれがリーガルーダだとわかった?」

 少女と対峙する挙動不審な陸竜を思い出し、ラシェンの声が歪んだ。

 あの場で少女が悪意を放っていたのはただ一人だった。

 私の目は誤魔化されないと声を戦慄かせた少女の言葉が胸の痛みを伴って耳に甦る。

「どうして、俺と間違えなかった?」

 あの時、まっすぐとリーガルーダに向ける視線は揺るがなかった。

「書物には陸竜は人に変ずる時、必ず金の髪と鳶色の瞳という色彩を持つと書かれている。あの濁る色を纏う少年しか見ていないおまえがどうしてあれが本人だと気づいた?」

 ラシェンの母は他国の姫。東の血を引くラシェンの目はセレンシアでは珍しい鳶色をしているし、セレンシアでは金の髪は珍しくもなんともなかった。

 奇しくも守護竜と同じ色を持って生まれ、隣りに立っていたというのに。

 たったの一目で彼女は迷わず彼を選び出していた。

「なぜ俺かもしれないと欠片も思わなかった。私の目は誤魔化せないとはどういうことだ? おまえにはわかるのか? 見えている、とでも言うのか? なら、何を見れるというのだ?」

 裡底から迫り上がってくる激情のまま、彼は腕を体の横で払った。

「あれのなにが、おまえにはわかるというんだ!」

 限度はとっくの昔に過ぎていた。

 胸を体を締め付けてくる名も知らぬ感情に、目に涙が浮かんだ。

 ラシェンの絶叫に少女は息を詰めた少女の桜色の唇から、あなた、と掠れた囁きが漏れる。

 ぜいぜいと肩で荒い呼吸を繰り返す、突き動かす感情に振り回され興奮しきったラシェンに、少女は益々驚きに声を失う。

 自分の自信がラシェンを混乱させていることに少女は気づいていないようで、ラシェンは苦い息を吐き出した。

 王家にも学者にも将軍や、他の者達でもこんなに自信に溢れた人物をラシェンは知らない。

「わかる、わよ」

 きょとんとした顔で言われ、カっと頭に血が上った。

「なぜ!」

 ラシェンの怒鳴り声に少女は怯まなかった。がなり立てないでと迷惑顔と態度で非難すらする。

「ルーダは私を助けてくれたわ」

 両耳を塞ぐことを止めた少女は続けた。

「腕一本潰れても私を助けようとしたわ」

 語るのは守護竜と少女しか知らない事情。リーガルーダはチェリアを連れてくる途中、他種族の竜に襲われている。

 異国の少年の姿のリーガルーダは竜の力を失っていて、しかも丸腰だった。チェリアがいなければ血塗れどころの話ではなかっただろう。

「だから、わたしは塔から紐を垂らしたの。窓から逃げたと勘違いして、ルーダは絶対駆けつけてくる。ってね」

 そして、予想に反せず、かの守護竜は部屋に駆け込んできた。

「そしたらわかると思ったの」

「何が?」

「腕一本潰されていると言ったじゃない。見ればわかると思ったの。顔色を変えて走ってきたルーダを見ればわかると思ったの。予想したのと同じだったから、一発でも殴りつけてやりたかったわ」

 窓から紐を垂らしただけで、ただ部屋で待っていた少女。一番乗りで駆け込んで来たリーガルーダに突き刺せと言わんばかりの鋭い視線を向けていたことはラシェンの記憶に新しい。

「どうして、ルーダが隠し事をしなきゃいけないのか。あなた、聞いたわよね?」

 頷く。それは先程の答えてくれなかった質問だ。

「じゃぁ、ルーダが隠そうと思うのはどんなことだと思う?」

 逆の考えを強いられた。問題の見方を変えろと言われて、あの嘘をつかない青年を思い浮かべた。過去に隠し事をされたことのないラシェンは、盗み食いとか書き損じた書類とか思いついてはそんなくだらない事ではないのだろうと眉の間に皺を寄せる。

 結局はわからないと、首を横に振った。そう返されるのがわかっていたらしく少女はそうでしょうねと頷く。

「わたしも、よくわからないわ」

 竜の考えは人間の理解を超える。けど、とチェリアは続けた。

「それはルーダにとって皆には知られたくないことなんだと思う。ルーダは何よりもセレンシアを守りたい優しい陸竜だっていうのは他国の民でも知っていることだわ。だから、ムカっ腹が立つの」

 すいと、少女の視線が庭の最奥の方へと流れ、そのまま細められる。

「無傷な格好ってどういうことかしら?」

 少女が誤魔化されないと叫んだのは彼の現状を知っていたからだ。でなければ質量を伴う幻像に他の人達と同じく騙されていたのかもしれない。

 竜とて生き物だ。いくら奇跡が使えようとも、あんなに早く重傷が治るとは思えないし、不思議を知らないチェリアは考えにも及ばなかった。

 包帯のひとつやふたつ巻かれていたら彼女だってこんなに怒ることはなかったのだ。

 怪我をしたことすらなかったことにしようとした青年の状態を想像しただけで、少女は爪先を齧りたくなってくる。

 やはり、急いだほうがいいのかもしれない。

 彼が少女の知っている物語の竜のままなのであれば、彼がもっとも恐れているのは国の崩壊である。それを避けるのに自己犠牲など厭わないであろう。

「幻の姿で振舞うってことは知られたくなかったってことよ。自分の怪我がどれほど酷いのかって……」

 ラシェンは東屋の魂の抜けた表情で中央の尖塔を眺めていた陸竜の姿を思い出して、口の中で苦虫を潰した。

「けど……リーガルーダは竜族だ」

 この世界にとって、絶対の種族だ。姿を隠したのだって城の混乱を避けるだけのことかもしれない。

「竜だからって必ず助かるとはわからないわ」

 血塗れの少年を知らないラシェンの発言にチェリアの声は自然と低くなった。

「確かに強い。けど、そこに死なないという保証は無いわ。真実を隠す意味の大きさは私は欠片も想像できないけど、それだけ切羽詰まっていて、告げないということはそういう可能性があるってことだと私は読み取ったわ」

 再会のあの一瞬で、両者の顔色ははっきりと分かれた。少女の激怒も青年の怯えも本物だが、交わされた会話は茶番であった。真実を知っているチェリアの口を上手く封じようとしたリーガルーダの狡猾さに少女の怒りは限界を超えかける。

「行こう」

 ここで話していることは単なる時間の無駄と急かす少女にラシェンは顎を引く。

「駄目だ」

「ルーダが危ないかもしれないと言っているのよ!」

 そう説明しているじゃない。キンと尖る声で叫んだ少女にラシェンは首を横に振った。

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