陸の民と、空の民の守り人の契約【08】




 轟音を響かせて激しく揺れた建物に飛び起きた宿屋の店主は、駆けつけた部屋の惨状に対し反射的に片手で頭を抱えた。

「待って」

 向けられた視線の気配を感じ、青年が制止の声を上げる。

「俺の能力が常に開放されているのは知ってるでしょ? 少し、整理さして」

 言外に、どうやったらこの短時間でこれだけの情報を提供できるのかと、そこに居るだけで詳細を得る能力を持つ青年はリーガルーダを非難した。

 競り合う二つの竜気に、床でのたうつ男に怯えるように周囲が恐怖に戦き悲鳴すら上げられないでいるこの緊迫感など微塵に感じさない穏やかな表情のままリーガルーダが勢いも無く垂れ流し状態の血の涙を指で拭った。

「制御方法は教えましたよ?」

 イズリアスが発している人の耳では聞き取れない悲鳴で建物が微かに揺れている。

「あれは難しいの」

 首を振った養子むすこにリーガルーダは頭を持ち上げ、そのまま後ろに重心をずらした。

 寝台に寄りかかる養父ちちおやに青年は痛むこめかみを指で揉みしだく。

「それにしても死んだりしない? この……人」

 躊躇いがちにイズリアスを示した青年。リーガルーダは無論と頷く。

「死にはしませんよ」

 リーガルーダは青年に視線を向けたままイズリアスに一瞥もくれない。その耳は果たして人と同じく彼の悲鳴を拾えないでいるのか、それとも薄く金色を取り戻しつつある毛髪と同じく竜として異種竜たる彼の悲鳴を聞き取っているのか、その温和な表情からは読み取れない。

「俺はこの世界で風竜ほど生命力に恵まれている種族を知りませんし、代役としては最適でしょう?」

 リーガルーダに作用する魔力をリーガルーダではなくリーガルーダの一部を譲り受けたイズリアスへと導くことに成功し、圧し掛かる眠気が取り払われ幾分楽になった陸竜が止まり始めた血の涙の雫を再び指ですくう。

「だからって何も……」

 その媒体を自分の左目にしなくていいだろうに。閉じられた左目を眺めリーガルーダの大胆さに哀れみの目を向ける。

 正気を疑われ、リーガルーダは軽く肩を竦めた。唇の端が苦さで歪む。

「ただの嫌がらせですよ」

 その言葉に含まれた意味の多さに青年は口を閉ざした。

 リーガルーダとイズリアスの関係は二人が出会ったときから変わらずにあって、今その関係が崩れ、この先、選択を強いられるのはどちらだろうか。出会いから交わることの無い種同士が絡んだ結果の責任を背負うのはその破綻を招いたリーガルーダの方が歩が悪いのは火を見るより明らか。だからこそ、青年は目の前で微笑む彼の正気を疑わずにはいられない。

 ただの嫌がらせ。その一言で終わらせられるはずがないのだから。

 ふ、と。リーガルーダが視線を落とす。

 つられて青年も視線を下げると、気を失ったらしくイズリアスが床の上でぐったりしているのに気づいた。

「……リーガルーダ」

 呼ぶと疲れが見える顔を緩めた少年が鳶色の瞳を瞬かせ首を傾げる。

「戻り始めている?」

 薄く金色がかる髪を揺らすリーガルーダ。

「逆もまた然り。ということです」

 リーガルーダは自分の血で汚れた掌を目の高さで広げ、顔半分を覆った。

「聖域はそうと思わなければ聖域として成り立たない。だから、聖域と思えばそこが聖域になるんですよ」

 陸竜が気づき、悟ったこと。そのことを踏まえ彼らは各地に散ったのだ。

「族性を変えられたからといって忘れては困ります。俺は竜である前に陸の民の子孫なのです。人になる前に、また、人になってもこの耳は世界の声を聞いています。今の俺を支えてくれているセレンシア王都は言わば俺にとっての聖域。それ以外の何者でも在りません。そう信じて疑いもしません」

 言葉を一度切り、リーガルーダは脱力する。顔を覆っていた手も床に落ちる。

「やはり、野犬など追い払わなければよかったですね」

 そうすれば人の魔力に捉われることもなく、竜となり早く回復できていた。

「イズリアスにお願いしたのは俺が負うべき眠りを含めた全ての負担。それさえ取り払えれば、この身は聖域の秩序の法則を以って以前の姿を取り戻しましょう」

 時間はかかりますが、と添える。

「陸竜は生命力には恵まれてますが自己治癒能力は人とあまり変わりませんからね」

 腐敗に晒され続けている左腕もいつ治るとはわからない。

 言って目を閉じたリーガルーダに、二度頷きを返した青年は、床に倒れゆく養父を眺め、「明日ペンと紙を用意しておく」と言葉を投げかける。

 一日やそこらで完全に治るわけではないらしい。だからと言ってここで完治するまで留まる気もないだろうし、それこそ聖域と豪語している自分の住処でゆっくりと落ち着きたいだろう。

 リーガルーダが再び行動を起すとしたら明日の朝一番だろうと予測を立てて、竜の気が満ちた場で下手に干渉したらどうなるか身をもって経験している青年は彼らをそのままにして部屋を後にした。




「世界の目の空竜。

 世界の耳の陸竜。

 そして、昔に滅びた世界の腕の海竜……か」

 リーガルーダは呟くと吐息と共に頭を左右に揺する。

 向ける視線は、結局起きなかった眠り続ける未来の妃へ。

 それを眺めるリーガルーダはただただ淡く微笑んだ。




 それが二色の瞳の風の竜としてのイズリアスの誕生であり、陸竜リーガルーダが風竜を眷属として迎え入れた瞬間であったが、立ち会うことができたのはたった一人も居なかったのである。

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