陸の民と、空の民の守り人の契約【02】
腐敗の進む左腕と、あどけない寝顔の眠り姫を右腕に抱え、彼は開くことも叩くこともできず、ただのっそりと看板の出ていない無名の宿屋の扉の前で佇んでいた。
長い旅の最後の道程。夜明けも程遠い深夜に辿り着いた目的地は、訪れた彼に気づくことなく深い眠りに至福の夢を見ている。
彼の細く削られた声では夢にまで届かない。
さて、どうするか。
この宿屋は街から少し外れていて、他を当たろうにも宿街に行く力も気力も彼に残されていない。馬は最後まで耐えることができず、都に入る前に力尽きてしまい、今は誰のとも知らない厩舎に無断で休ませているので移動する手段もない。
さて、どうしようか。
疲労で低迷する頭で迷う彼は点された玄関の明かりに一拍ほど反応が遅れた。
「やっぱり。リーガルーダだ」
動いた扉の向こうで声を上げた、彼のもう何人目ともわからない自分の
「とゆーか……いや、今はいいや。中入って。どうせお忍びなんでしょ?」
変わり果てた彼の姿に息を呑みかけながらも、宿屋を営む青年は彼の右手に抱えられた少女に気づきつつ、しかしそれに触れることなく彼を部屋へと導いた。
詳細を識る能力を持って生まれた孤児で縁あって
彼の抱える少女にも、潰れた左腕も気にせず助力を必要としない死人みたいな彼にも一切触れず、青年は部屋の扉を開ける。
「じゃぁ、おやすみなさい」
例え死なないとわかっていても、人の目から見れば腐敗が同居している体は過酷なものに映る。
だから、青年は早々に扉をしめた。
音も無く。それでも軋んだ扉に慌てながら。
遠くなる気配に、この時間でも気づいてくれたことを感謝しながら少年はようやっと少女を寝台に横たえさせた。
大量出血と麻痺するまで続いた激痛の果てに周りの刺激に鈍感になってしまった脳では、一挙の動作すら滑らかにはいかず、少女に上掛けを被せるだけでかなりの時間を要する。
少女の安らかな寝顔を見下ろし、一仕事を終えた彼は安堵に微笑むと、その場に膝から崩れ折れた。
寝台の端に顔面を突っ込んだ形になってしまった彼は目と鼻の先にある目覚めぬ眠り姫の横顔に、ほっと頬を緩ませる。
彼が守りたいと願い続ける国に嫁ぐ娘は穏やかな表情で至福の夢を見ているようだ。
突然の衝撃に、夢が揺れる。
黒い夢の中で体を抉るように駆け抜けた激痛にリーガルーダはうめくように息を吐き出した。
体が痛みを訴えるのだが、どこがどう痛いのかわからず彼は現状を知ろうと、うっすらと目を開ける。
「よお」
耳にざらつきを残す不快を伴う掠れた声。
見下されリーガルーダは条件反射といってもいい速度で開けた目を閉じた。
容赦無く右肩を蹴られ、リーガルーダは小さくうめく。痛みで悲鳴を上げる箇所がわかり、そこを庇おうとした彼は左腕の感覚が無いことに驚き、慌てて重い瞼を持ち上げてから自分の体の現状を思い出した。
「起きろ」
なんだそうだったと動かすことも難しくなっていく体を更に動かす気になれずこのまま何事も無かったかのように再び眠ろうとしたリーガルーダに来訪者は容赦しなかった。
長旅用にと丁寧に仕上げられ誂えた皮製の長靴に右肩を踏まれ、リーガルーダは堪らず来訪者の要求通り彼の姿を視界に入れる。
天候が悪く月明かりが零れない薄暗い室内。
暗い天井を背景に自分を見下す青年をリーガルーダは知っていた。
左目を失った金色の隻眼と端正な顔を縁取る白金の髪の持ち主を忘れられるわけが無い。
イズリアス。と、吐息の声で金の髪の青年の名を呼んだ。
「何か俺に用ですか?」
思わず口から出てしまった問いかけの声は、苛立ちが混ざり、リーガルーダを知る人物が聞いたら珍しいと零すくらい淡白で硬かった。口調に白金の髪の青年は何が面白かったのか唇を歪ませる。
「まあ、な」
答える声は、その美貌に反して酷くいやらしいざらついた響きをしていて、その落差に青年が本当にこの声の持ち主なのかと耳を疑わずにはいられない。
用があるからここに居るわけで、くだらない質問をしたリーガルーダは不機嫌にならない青年を不思議に思い、いつのまにか床に転がっていた自分の体を右肘をついて起こす。
「ご機嫌、ですね」
「だろうな」
刺があるなと本人が自覚する声音だが、イズリアスはそれにも気にした素振りを見せない。
「ま、俺の機嫌の話なんてどうでもいいさ」
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