陸の民と、空の民の守り人の契約

陸の民と、空の民の守り人の契約【01】




 彼は血の気の失った顔を上向ける。

 おもむろに動いた彼に、二人を背に乗せていた馬はその歩みを止めた。

 大気に漂う葡萄の仄かに甘い香りに混ざる濃い血臭と葡萄よりも甘く蕩けるような腐敗臭。

 匂いに誘われて集まり来た数匹の野犬に囲まれた馬の動揺に気づいたように、彼は雲に真っ黒に塗られた夜空から正面へと視線を戻す。

「進んでください」

 生気の欠けた命令に二の足を踏む賢い馬に、彼は紫色に変色した唇を薄く開いた。

「進んでください」

 紡がれる声は吐息よりも細い。けれど、その中に宿る意思は強固で、ただ人を乗せて移動するだけの生き物は目の前の危険に無理だと返す。

 汚い毛並みの野犬。

 欲望の涎に塗れた黄色い牙。

 たったの数頭とはいえそれは立派な群れである。

 虫の息にも等しい獲物に対して既に強気を通り越し、久々にありつける食事に吼えることすら忘れ、その囲いの輪を徐々に小さくしていく。

 欲するのはその肉。

 腐って甘く熟すその肉。

 芳しき香りに、目の色を変えた犬達は死肉の匂いが沁みこんだ臭い息を短く吐き出しながら、一歩また一歩と獲物を乗せる馬との距離を詰めていく。

「進んでください」

それでも尚、声は号令と繰り返す。

「あなたの脚なら問題無いでしょう」

 けれど、そこには致命的な問題が潜んでいる。

 彼が腐り始めた肉を抱える身であるのなら、馬もまたここ十日ばかりの強行軍で脚を潰しかけている。ゆっくりとした亀の歩みがやっとの馬に貪欲な野犬の執念を振りきれるような力はなかった。

 彼の生きている右腕が抱えている、馬が知る限りこの旅の間一度も目を覚まさない眠り姫は問題外でお話にならない。

 何故、今この時間が太陽の光射す昼でないのだろう。

 朝方でもいい。夕方でもいい。どうしてこの葡萄畑に人が農作業に明け暮れる時間でないのだろう。そうすれば誰かがこの野犬を追い払ってくれるかもしれない奇跡も起こるのに。

「進んでください」

 細い声だ。

 命を感じられない声音だ。

 進むという意思だけで紡がれた命令に馬はしかし脚を持ち上げることをしなかった。

 進むことはできない。

 そして、戻ることもできない。

 死に急いでいるとしか受け取れない彼に馬は自身の本能に全身の筋肉を強張らせた。

 この状況を打破する術が無いと馬が悟ってしまう不利に、彼は再び黒く塗り込められた空を見仰ぎ、

「進んでください」

 死者の恨み言みたいに繰り返す。

 それしか単語を知らぬ幼子のように。

 彼は一度茶色い目を閉じて、開く。顎を引いて正面を見てから、馬の背上から一番近い右手側の野犬に視線を向けた。

 その光宿さない虚ろな眼差しに死期は間近いと野犬は口内に頬張った死肉の味を想像して歓びに低く唸った。報せを受けた周囲の仲間達も歓喜に唸り声を返す。

 吼える余裕も無いくせに、獲物が何もしなくても死ぬと知った野犬達はまだ死なないか、まだ死なないかと下卑た響きの唸り声で囁きを交し合い、馬上の彼に野次を飛ばす。

 それは、妙な唱和で、気味が悪く、過度な負荷ストレスにただでさえ軋む馬の本能に、恐怖という拍車をかけた。

「進んでください」

 それでも全てを無視した彼の無責任な繰言に馬が暴発する寸前、彼は求めるように空を見煽ぐ。

「邪魔を、しないで」

 先細る懇願の声音。もう疲れたと彼の閉ざされた視界の遠くで犬の悲鳴が飛び交い、唐突に消えた。

 目を開けた彼はそっと馬に囁く。

「進んでください」

 目前に広がっているだろう葡萄畑の遠くに、都の明かりが小さく煌き、見えた。

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