異国の少年と激情の娘【10】




「気に入られたくない」

 反射的にチェリアが叫ぶと男は目を瞬き、喉を反らして一際大きな声を上げて笑う。

「本当に面白いな。俺はイズリアスだ。人間、名をなんという?」

「機会を見計らって逃げてください」

 反抗しようとしたチェリアの耳にルーダの囁きが飛び込む。

「なんで!」

「さっきも言いましたが、今の俺には君を護れるかどうかわからないからです)」

「どうして?」

 男――イズリアスに気づかれないように小声で会話を交わす。

 ルーダは気まずげに一度唇を引き結んで臍を噛んだ。

「とにかく機を見計らって逃げてください」

「あんたは?」

「君が逃げ切れるように彼を引きつけておきます」

 悲壮な決意を顔に浮かべるルーダに、チェリアは無性に彼を足蹴にしたくなった。少年を詰るように舌打ちしてからイズリアスと正対する。

「あたしはチェリアよ!」

 ルーダに逆らって、チェリアは名乗る。

「さぁ、教えて頂戴、あんたとこいつのか……んけ――……」

 名乗って挑発し返そうとして、少女は思わず語尾を飲み込んだ。

 一歩踏み出した男は、チェリアのすぐ目の前で青草を踏みしめていた。十メートル近い距離を無視して。

 乾いた砂と日向の匂いが鼻孔をくすぐる。

 体温さえ感じ取れる距離。

 見上げた。

「ひでぇな。逃走のご相談、俺にもまぜろや」

 月光の欠片を孕んで白く輝く白金の髪。

 自分を見下ろす、奥に赤の灯火を秘めた金の隻眼。

 初めて気づいた。

 男には左目が無かった。

 残忍に歪んだ唇に、少女の背に戦慄が走る。


 風が唸り声を上げた。


 瞬間、呻き声を噛み殺したルーダが地面に両膝を落とす。

 金の瞳に射られて身動き叶わなかったチェリアの鼻孔に血の匂いが満ちた。その直後肩に強い衝撃を感じる。地面に肩から受け身もとらずに倒れ込んでいた。

「面白くない奴だな」

 男は不満に鼻を鳴らす。

 唸り声を上げて襲ってきた風刃からチェリアを庇うために、自らその刃の全てを引き受けて全身から血を流すルーダは激しく男を睨んだ。

「言ったはずです。彼女に触れることは許さないと」

 立ち上がるとルーダの左腕は傷口から面白いほどに血が滴って地面に血溜まりを作る。

 そんな彼にイズリアスは軽く腕を組んで見下ろし、満足気に笑う。森を吹き抜ける風はあっという間に血の匂いを何処かへと運んだ。

「なんだ、随分な覚悟だな。平和ぼけの顔がそんなにきつくなるとは思ってもみなかったぞ」

 腕組みを解いて、右手を腰に当てるイズリアス。

「心でも寄せているのか? なら……」

 下唇を濡らす男にルーダは自分の後ろにある少女の気配を確かめた。

「その人間を傷つけたらどんな顔になるか、楽しみだ」

 男が言い終わるより早くルーダは、男に背を向けて少女を抱きしめた。

 血まみれの腕に抱きつかれ、喫驚に大きく目を瞠るチェリアが非難の声を上げる前に、少女と共に地面を転がってできるだけ男と距離をとる。

 流血に急速に力が抜けていく膝に喝を入れたルーダは立ち上がった。元々体力が戻っていなかったのもあり、早くも傷が熱を持ってしまったのか炎の中にいるように全身が熱い。けれども、イズリアスを睨み、構える。

 風竜の呪いを受け思うように動かせない力に歯がゆさを感じながら、ルーダは自分の背にチェリアを隠す。

 成り行きとは言え、巻き込んでしまった以上、責任をとらなければいけない。その責任とはつまり少女を生きたまま無事に親元に帰すことだろう。

 イズリアス。

 この風竜がいるのなら尚更だ。なにせこの竜は、

「貴方は俺を恨んでいますからね」

「殺し足りないほどな」

 ルーダの頭上で轟音が轟いた。

 咄嗟に頭を庇う。「ドンッ」と重圧がのし掛かった。足首まで靴が地面にめり込む。

「そうだ。殺し足りない。殺し足りないぞ、リーガルーダッ!」

 チェリアの耳に骨の砕ける音が届いた。

 加重に肩から指の先まで、風に裂かれた左腕を潰されたルーダの絶叫が森に響く。

「ルーダッ!」

「来ないでくださいッ」

 裏返って悲鳴にも聞こえる制止の声がチェリアの耳を打つ。立ち上がろうとする半端な格好のままチェリアは、目の前で喀血した少年の姿に大きく目を見開いた。

 血まみれどころではない。

「お願いです。逃げて……」

 弱々しい懇願にチェリアはきつく唇を噛んだ。

 月明かりの下、少女に逃げろと促すそれは赤い塊にしか見えなかった。

「馬鹿言わないで、死んじゃうわよ」

 チェリアが駆けつけるのと、消えた重圧に押さえつけた力がなくなったことで、ルーダの体が傾くのはほぼ同時だった。

 地面すれすれで彼の体を、血を厭わずにチェリアは掴み、抱き止める。

「イズリアスは、俺を殺しは……しません。だから、逃げてください」

 ルーダの体はずっしりと重い。体に力が入らず、自分を支えきれていない。

 掠れた声だが、発音がはっきりしているところを見ると気を失う寸前というわけでもない。

 だからこそ全身を苛む激痛に彼は唇を戦慄かせていた。

 チェリアは前髪を掻き上げた。額にルーダの血が赤い模様をつくる。

「これで殺されないってどうしてわかるのよ」

「そりゃぁ、嬢ちゃん。さっき言ったろ?」

 声をかけられて、顔を上げると月を背負った男が、ただ一つの金の瞳で自分を見下ろしていた。

 男が片腕を振り上げる。

 口元に歪んだ笑み。

 その笑み以外の全ての世界が音を立てて崩れた錯覚を覚えた。

 その笑みしか見えなくなる。

「……逃げて」

 吐息のようなルーダの悲鳴。

 木々の梢が呼び寄せられた風に大きくその身をしならせ、たわわせる。

「殺しただけじゃぁ、足りないんだよ」

 凝った大気を少女にぶつけようと振り降ろしてくる男の腕がチェリアの薄水色の瞳に大きく映る。


 耳の奥で風の声を聴いたような気がした。

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