異国の少年と激情の娘【08】




 突然空を凝視したルーダにチェリアは叩いた両掌をぴたりと合わせた。

「どう――……」

「静かにしてください」

 したの? と聞こうとしたチェリアに向かって、眉間に皺を寄せたルーダの小さくも鋭い声が飛んだ。

 自分の唇の前に人差し指を立てた手をそのまま耳によせて何かを聞き取ろうとする彼にチェリアもつられて耳を澄ます。

 が、何も聞こえない。

 瞳だけ動かして少年を見ると彼は唇の端を小さく噛み締めている。

「ル……?」

「静かにしてください」

 一体何を聞き取ろうとしているのか。二度の注意を受けてチェリアはおもしろくない。非常に険しい顔で空を睨んでいるルーダにチェリアも目の下に不快の皺を刻む。

 目の前の少年は見た目からして頼りなさそうだが、竜族とわかれば頼もしい。そんな彼がまるで怒っているような顔で空を睨んでいる。

 なんだろうと聞けばただ黙ってろと言うのだ。それは余裕が無い状況だとチェリアが判断する材料となった。余裕があれば相手を安心させたり、行動しやすいように説明したりする。彼女の知る限り――といっても今日会ったばかりの、本当にごくわずかな面だが――彼の性格ならそうするだろうに。

 大気が緊張にも似た空気を孕んで彼を取り巻く。空を睨んでいるルーダは少女に気を遣う余裕が生まれない。

 チェリアは唇の先を小さく噛んだ。

 一体なにが起こっているのだろう。

「……聞こえなくなった?」

 月の浮かぶ夜空を睨んでいたルーダは訝しむ。

 チェリアと話していた途中確かに聞こえたはずの音が聞こえない。いや、あれは音というより、

「唸り声……」

「は?」

「あ、いえ……――?」

「だから何が起こってるのよ?」

 喋ったと思ったらまた空を見仰いだルーダに険悪な声で躙り寄るチェリア。

 瞬き三回ほどの長さ、空を見上げていたルーダはチェリアが出した不穏な声にひくりと片頬を引きつらせた。一種の怯えを表情に走らせる。

 顎を引いて少女を見たルーダは浮かんでいるチェリアの表情に逃げ出したい衝動に駆られた。

 逃げずに踏み止まれたのはひとえに音の正体を突き止めていないからだった。安全か危険か判断しなければ、不用意には動けない。

「どうして君はそう威圧的なんですか」

「あんたも結構ストレートじゃない? こっちは何事だって聞いてンのよ」

「答えないといけないんですか?」

 チェリアは頷いた。

「勿論。さぁ、喋りなさい」

 チェリアは少年が竜と聞いても態度を変えない少女だった。

 命令口調のチェリアにルーダが威圧負けしているのも確かだったが、喉の奥が干上がらせる本能からの訴えに少年は焦燥を募らせる。

「……あの」

「何?」

「なんでそう好奇心が強いんですか?」

 恐る恐る聞く彼に少女は笑う。

 答える為に口を開き、

「――むぐ」

手でふさがれた。そのまま地面に力づくで伏せられる。

 何事かとチェリアは目を剥いた。

 目の前によく肥えた土と青々とした草。突然のことにカッと血を昇らせた少女は自分をねじ伏せた相手を非難しようとして自分を取り巻く現状の変化に気づく。

 耳に捩じ込むような重い轟音。

 それが風のうねりから発するものと知ったのは、視界の隅で木々が踊るようにしなっていたからだ。けれども、周りの状況を見ようとしても少年の手により頭を固定されている。

 強い風が吹いている。

 翻って肌を打ち据える衣服に舌打ちしようにも口を塞がれているのでそれもできない。

 チェリアは知らずに、あの嵐の日を思い出していた。

 まるで、雨の無い嵐の風だ。

 片手でチェリアの口を塞ぎ、片手で彼女を地面に伏せたルーダは荒れすさぶ風に唇を引き結んで、背中を襲う激痛に耐えた。

 ルーダが覆い被さっているのと彼が呻き声すら噛み殺している為、チェリアは気づいていないが、木々の枝さえ折るこの風は、ただの風ではない。

 証拠に、突然の強風は唐突に掻き消えた。

 風に翻弄されて持ち主の肌を嬲っていた髪が、服の裾が、重力の影響を取り戻して落ち着く。

 止んだ風に、それでもまだ口を塞がれて頭を固定されているチェリアは、むぐむぐと口を動かす。

 それに気づいたルーダは、硬く閉じていた目を開けて、チェリアの口から自分の手を離した。

「ぷはっ」

 解放されたチェリアは自分を覆っているルーダを押し上げて彼を横に転がして立ち上がる。吸い込んだ新鮮な空気に、むっと顔を顰めた。

 森の中なのに、空気は嫌に粉っぽい。

 眉間に皺を寄せた少女の耳をばさりと羽音が打った。

「――っ!?」

 弾けるように顔を上げた少女の目に、月を背にした巨大なシルエットが映る。

 逆光にその巨大な影は影でしか見えず、無意味に目をすがめたチェリアに気づいてるのか気づいていないのか、影は体長の倍はあるだろう翼を打ち振るった。

「伏せてください。というか逃げてください……」

 地面と等しい高さから声が聞こえた。

 見下ろすと、横に転がって俯せたままのルーダが必死に首を曲げてチェリアを見上げている。

「ちょっと、どうしたのよ!」

 少女を庇って少年が苦しんでいる。怪我でもしたのかと焦るチェリアにルーダは首を横に振った。

「大したことはない、です。そんなことより早く逃げてください」

 竜族としての感覚に直接訴えてくる抉るような悪意のせいで頭を持ち上げられないルーダはただチェリアに逃げろと訴える。

 響き渡る羽音。

 チェリアは自分の足元を見下ろしたまま「どうやって逃げればいいのよっ!」と大声で叫び返した。

 ルーダも必死に「どんな方法でもいいですから逃げてください」と繰り返す。

「今の僕では貴女を護れるかどうかわからないんです、巻き込まれないうちに早く」

「既に巻き込まれてるわ! よくわかんないけど、いつになったらおさまるの!」

 チェリアが悲鳴を上げた。

 胃の下を強く圧迫されて、喉から迫り上がってくる嫌な感触に耐えられずチェリアは耳から口元へと両手の位置を変えた。

 ルーダは背中を駆け上がった悪寒に力を振り絞って立ち上がるとチェリアの腕を掴み、自分の方に引き寄せてその場に片膝をつく。

「見つけたぞ……リーガルーダ……」

 ルーダがチェリアを庇うよりも半瞬早く、二人の耳に殺気孕んだ声が響いた。

 大気を揺るがす翼の音。

 そこから風が生まれる。襲いくる暴風に再びふたりはさらされた。

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