迎え火

オタクを誘い込む場所には伊湖が日頃からよく独りでの訓練に使っている川沿いの岩場を選んだ。

何年も前から勝手知るこの場であれば自分の有利に働くであろうし、水場が近いためにオタクを始末した痕跡は容易に洗い流せると考えた。

日時は月が雲を被った暗い夜。

ここでオタクを痛めつけて浜万の死の真相を聞き出しす筈だった、のだが。


岩場近くに掘った落とし穴は悉くかわされる。

木々の隙間に張った糸は引きちぎられる。

頭上から降りしきる槍罠は転がり回避される。

風上から少しずつ撒いた毒の鱗粉は吹き飛ばされる。

しまいにトラバサミの罠を踏み壊された時、伊湖は怒りの声をあげてしまった。

「どういう事!?」

「いや、こっちの台詞でござるが……なんですか伊湖どの。どこに隠れておるのですか?拙者は冬の祭典に『孤独・御・岩石』のコス合わせで出たいと聞いたから来たというのに」

「意味は全然わかんないけど、なんかそういう風に言えばお前が釣れると思ったんだよ。……オタク、オマエなんで私に呼び出されたか分かる?」

「全然心当たりないでござる。伊湖どのと話した事殆どないでござるし。拙者面識のないヤンデレはちょっと……派なので」

「なに言ってんだよほんと気持ち悪いな。浜万くんのことで知ってること全部話せよ。大人しく言うこと聞いたら命だけは残してやるぞ」

「おお〜怖!それって目や鼻や耳はもっていかれるフラグでござるな」

大袈裟に身をすくませるオタクの姿に伊湖は苛立ちを募らせた。仕掛けた罠を全て破壊する動きを見るにどうやらこの男は想定していたよりも出来るらしいが、だからと言って今更引き下がれはしない。


「まあ、そこまで仰るのであれば拙者もお答えしましょう。知りたい事は何ですか」

「浜万くんを殺したのってどこの誰?」

「はあ?それは拙者でござるが」

「…………は?」


伊湖はこの可能性をほとんど考えていなかった。

それほどまでに伊湖にとってのオタクは何も出来ない奴でしかなかった。


「……何で?なんでお前が?ありえないだろ」

「なんでって……理由は仕事以外にないでござるが」

「ふざけんなよ!!おかしいだろ!!」


身を隠していた木陰から飛び降り、鎖鎌をオタクに投げつけた。そのまま刃先が突き刺さるはずが、手応えはなく逆に鎌の柄を掴まれている。

「やめましょう。浜万どのぐらいが相手ならまだ張り合いもあるでござるが、拙者リョナ嗜好はないので未熟な忍を潰しても楽しくないでござる」

「意味わかんないこと、言ってるんじゃないよ!」 

伊湖は掴まれた武器を捨て、低く走り寄り小刀で切りかかった。刀身がオタクの腹にめり込む。

そのまま腑を引き摺り出そうと刀を引き直したが、まるで万力に掴まれているが如く動かすことができない。

伊湖の小さな頭を男の手が掴んだ。大きな掌はいとも簡単に頭蓋骨を砕くことが出来そうだった。

逃れようと身を捩るが、すぐさま足首を纏めて絡め取られる。あっという間に身動きがとれなくなった。

あまりにもあっけなく勝敗は決した。蛇の前に躍り出た蛙のようだった。

伊湖は頭と朝を掴まれたまま、ゆっくりと捻じ曲げられてゆく。歪む肋骨が腹の皮膚を突き破る。首の皮膚が引き攣ってメキメキと裂けてゆく。耳を劈く悲鳴が自分の喉から発せられるものだとは思えなかった。




「伊湖どの、殺すつもりの相手と無駄にペラペラ喋るのはいけませんぞ〜。知らないうちに幻術にかかってしまいますからな」

オタクは木から落ちてから白目を剥いて泡を吹いたままの伊湖に声をかけた。本人の想像する中で最もおぞましい苦痛を与える幻術。これが決まればどんな者であっても無力であった。あとはとどめを刺すだけであり、尋常でない苦痛の夢に囚われている者にとってそれは慈悲の一手でもあった。

しかしオタクは突如耳鳴りを感じ、立ち止まる。



—聞こえますか……幼女守護丸で御座います……儂の声が聞こえますか……今オタクどのの脳内に直接話しかけております—


「ああ、しまったでござる。伊湖どのが撒いた毒を少々吸い込んでしまったか……ひどい幻聴でござる……しょうもないキャラ崩壊台詞が聞こえる……」


—おい……これはただの様式美じゃ……儂の声を忘れるなよ…… —


「いや、これはもしかして精神の不調というやつでござるか?ついに拙者も働きすぎで壊れてしまったか……健康に気を遣って毎朝白湯飲んでたのに……」


—オタクどの……儂は言うたぞ……幼女は宝だと……その娘を殺してはならん—


「いやいやいや拙者が先に殺されそうになったのでござるし忍同士の決闘で情けをかけられるのは超不名誉な事ですし自決する奴もいるしどうせもう忍としてはやっていけませんよ伊湖どのは任務より私情を優先させてしまったのでござるから。仮に伊湖どのをここで見逃すとして彼女はいつ頃まで幼女なのですが?成長した時は殺していいのですか?何歳までなら良いのでござるか幼女守護丸どの的には?そこをはっきりさせてほしい拙者に口出しするのなら」


—オタクどの……儂は道理なんぞどうでもいい……殺していいのかどうかは殺さずにいられる奴の妄想に任しておけ……儂は今、あんたの目の前の……問題の話をしている—


涙やら汗やら尿やら吐瀉物やらで全身ずぶ濡れの伊湖はまだ幻術で悪夢を見続けており、声は嗄れ呻くしか出来なくなっても丘に上がった魚のように時折手足を跳ねさせている。大人しく屈服すれば普通はここまで長くは苦しまない。

まだ自分に対する殺意を捨てない少女にはオタクも多少感心していた。浜万を討ったのが自分以外の誰かであれば敵討ちも成功していたかもしれない。


—オタクどの……儂は……見たくない……たった1人の友が……儂の大切なものを壊すところを—


「幼女守護丸殿はとっくに死んでおるのだからこんな所で声が聞こえる筈ないでござる」


オタクは懐から取り出した苦無で自らの二の腕を突き刺した。ぷつりとした感覚と共に走る痛み。しとどに滴る血の流れが脇の方にまで下り落ちて感じる気色の悪さ。それと共に、耳の奥で何かが詰まっていたような感覚が消え去る。


「やっぱり全部幻聴だったでござるね。凄いでござるな〜都ではエーエスエムアールという技術が盛んらしいがこんな感じでござるのかのう」


腕から苦無を引き抜いた。なにやら胸中に複雑な思いが生まれた気がするがきっとそれも毒の副作用だろう。さっさとやるべき事を済ませて里に戻るべきだ。終わっていない仕事はまだ山のように残されている。


「返せ……返せよ……浜万くんを返せ……」


おもむろに上がった声にオタクは足を止めた。

何かを掴もうとしているように伊湖の両手は空中をふらふらと彷徨っている。まだ意識があるのが奇跡だ。

「浜万どのはどうあっても伊湖どのの手には入らなかったと思うでござるよ」

「………うるさいな……そんな事、お前に言われなくても……分かってる……でも、仕方ないだろ……また……声が………………」

程なくして小枝のような腕はぱたりと地に落ちた。

ゆっくり歩み寄って確かめる。ついに完全に気を失ったらしい。まだ息があることは微かに上下する胸元が示している。

言葉の続きはなんだったのだろう。また声が聞きたかった、そんなところだろうか。

恋仲や血の繋がった兄妹でもないのはもちろん、浜万から特別に目をかけられていた訳でもなかっただろうとオタクは推察した。浜万が生きていた頃は密かに動向を監視していた為、そういった人間関係の様子は自分も把握していた。

ただ自分の一方的な想いだけで、あまりにも未熟な少女は殺し合いに身を投じたことが、オタクには到底理解出来ないことだった。

死んだ人間はもうそこで終わりだとしか考えていなかった。はたしてそうだったのだろうか。1人の命にそこまで価値を求めるものなのか。


『もっと簡単に考えてみればいいんじゃ。幻でも誰かの声が聞きたいことが、どういう事か。自分にとって特別か、特別じゃないかで考えてみろ』


今日聞いた幻聴の中で最も鮮明な声が草の陰から聞こえた。


「……しつこい毒でござるね……」


完全に気を失っている伊湖の顔を見下ろした。ショック症状は大きかったようだが今のところ命に別状は無い様子だ。吐瀉失禁により人としての尊厳が失われたかもしれない事は、まあ、自分が口を紡げば無いのと同然だろう。

オタクは手の中に握ったままの苦無が冷えきっている事を思い出した。同時に、自分の血がそれよりはまだ温かい事も。



人気のない暗い森の中。

男が1人、木の下に立っている。

傍にさりげなく置かれた五貫ほどの岩は目印の役割を果たしている。自分で置いたのが数ヶ月前の事だが、当時どういうつもりでこの印を立てておいたのか早く覚えていない。まるでこうなることを予期して備えていたかのようだ。

これから再会するのは骸。その先どうなるのかはまだ知らない。

「……ホントに上手くいくでござるか〜?」

男に答える声はない。

その代わりのように森の奥の暗闇から生暖かい風が吹く。男が持つ古びた本の頁が開かれ、はらりはらりとめくれてゆく。

「はは」

千切れかかったページがかろうじて繋がったまま風に踊る。

墓前に吹くにはあまりにも芳しい風だった。

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オタクくん、降りかかる火の粉を払う。 梅緒連寸 @violence_

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