埋み火
話は少し昔に戻る。
伊湖が狙いをつけている太っちょの男は、浜万が呼び始めたのをきっかけに何人かには『オタク』として認知されるようになったがもちろん彼に正式に付けられた名前は無い。
忍びの里に住まう者のうち8割は名前のない者だったが、長年その環境が続いた結果名無し同士でもコミュニケーションは成り立つようになっていた。呼びかける名前がなくとも声色や目線を読み取れば必要な事はわかったし、森近くに住んでいる者だの、赤く縮れた髪の者だの、処や特徴を添えれば誰のことなのかはすぐ理解できていた。
かつてオタクと唯一趣味の合う男がいた。
元は口減らしで捨てられたのを里に連れられてきたのだが、忍びの才能はかけらも無い男だった。
どれだけ鍛えても動きが鈍く武器の扱いも上手くない。座学は多少できても戦闘中の咄嗟の判断力に欠けており、愚鈍とみなされ早々に見切りを付けられた。
かろうじて訓練中に命を落とす事はなかった為、実働部隊からたまたま空きのあった裏方の書庫管理の仕事に回された。古すぎて常に埃を被っている巻物や里内の自治に関わる書類の整頓などを毎日毎日こなしていたが、特に重要でもない仕事であったため誰も気にかける者はいなかった。
男は元が虚弱でもあったため、子供のうちに耐性をつける為に毎日飲まされる薄い毒に耐えることができずその身を病に侵された。
手足は指先から崩れるように黒ずんで腐敗し、顔面の半分は皮膚が縮み上がって常に引き攣りっぱなし、やがて立つこともままならなくなり這いずって動くしか出来ないないものだから書棚の低い場所の手入れしかできなくなった。
ところでこの不具の男の興味は年端もゆかぬ女児のみに注がれていた。許可を得ず番を作ることを禁じられている忍たちは早い段階から薬物による洗脳や刷り込み等複数の手段により性的欲求を極度に抑えられているが、そのうえ生殖能力さえも病で失ったこの男にできる事は限られている。
ただ、ただ、ひたすらねぶるように眺める。
女児をひたすらに眺め続ける。
眺めてはやおら遠い景色を見る目つきとなり、なにか形を持たぬ神へと祈るような顔つきになる。
里にいる女児はその多くがくのいち見習いの身分であり、同年代の男児にも劣らぬ意気を持つ者も多かったがそんな彼女たちをすら怯えさせるほど、ただ眺め続けていた。
あるいは幼い女の子供が活躍する文献や絵巻を読み漁り、オタクと語り明かす毎日。ただでさえ利用者の少ない書庫はこの男の性癖が噂で伝わった事で厄災を封じ込めておく空間へと代わった。もはや訪れる者はオタク以外には無いに等しい。間違って女の子供が近寄れば頭のてっぺんから爪先までへばりつくような視線を向けられてしまうのだから、皆が気味悪がるのも当然のことだった。
「そんな儂は今日から幼女守護丸と名乗ろうと思う」
「幼女守護丸!?!?!?」
一部の〝名付き〟の忍に憧れるあまり自分自身の名を考え出す者がこれまでに居なかったわけではない。が、それは非常に身分不相応で恥ずかしいことであるというのが里に住む忍たちの共通認識だった。たとえどんな意味があろうとも、それは優秀な者だけに与えられうる特権なのだ。
「こんなクソみたいな時代の中に生まれてしもうたが、それでもこの世界に幼女がおるということは儂にとって唯一の救いじゃ。そんな尊い存在を守ってやりたいという儂なりの決意を示すことにした」
「幼女守護丸と名乗ることが!?!?」
「儂はもう遠くないうちに死ぬが、その前に自分がどういう人間だったのかをはっきりさせておきたかった。ついでにオタクどのにも知っておいてもらいたくなってな」
痰が絡まった咳がしばらく続き、口元から溢れでる褐色の血反吐をボロ紙に吸わせる幼女守護丸は書庫管理人の席である床間を何年も前から寝床にしており、今はようやくの体で半身を起こしている。
オタクがひびの入った湯呑みに汲んできた水も飲むことがままならぬようで一向に減りが見えない。そんな状態でもこの男の舌は止まる事を知らなかった。
「オタクどの、儂がこうなった
「昔この書庫によく遊びにくる可愛いくのいち見習いがいた話でござるよね?通算30回以上は聞いた話でござりまするが」
「ああ、こんな儂にも分け隔てなく接してくれた、本当にいい子だった。その子の為なら何でもしてやろうと思えた」
「念の為に言っておきまするが拙者その子が流行病で死んでしまったところまで含めて聞かされ続けておりますからね」
「話が早くて助かる。あの娘が死んでしまってもう何年も経つが、いまだにそのうちまたここに遊びに来るような気がしてならん。この世はあんないい娘が住まうには薄汚すぎたのかもしれぬ」
「はいはい、そのような厭世観も含めてよく聞かされてきたでござる。それでそれで」
幼女守護丸はおもむろに寝床から抜け出し、壁一面にそびえ立つ書棚に這って近付いた。もっとも下段の棚はどちらかというとほぼガラクタや不用品に近いものを詰め込んでいる状態に近く、忍術の資料になりそうなものはろくになさそうな様子だった。
埃を被った葛籠を奥からずいと引き出す。中には古びた本やら巻物が意外にも整頓された様子で収納されている。もっとも厚い本を幼女守護丸は掴んで取り出した。
表紙には馬鹿のように大きく太い文字で『禁呪・大解説』と記されている。
「なんでござるか、それは……子供向けの怪談本?」
「そう見えるじゃろ?事実ちょっと中身を覗いたぐらいじゃその類の四方山話集にしか見てとれん。だが、この分厚い本のうちのほんの数ページ、いくつかの禁呪に対する解説指南が異常な程に難解かつ些細に記されてある。ここまでの内容は他のどの書にも記されていない。恐らくこういった形で偽装して伝承され続けてきたのじゃ」
「ほー。それでそれはどんな禁呪でござるか?」
「とてつもない内容じゃ。死んだ者を蘇生させて使役するような、到底出来るとは思えない術まで記されておる」
「それすごいでござるな!死者蘇生の術、そのくのいち見習いに使えば良いのでは?」
幼女守護丸は諦念に満ちた溜息をついた。『禁呪・大解説』の表紙をそっと撫でると、オタクの方に無言で押しやる。
「儂がこの本を見つけたのは半年近く前での。それまでずっとこの書庫の中にある古文書を読み解いたり、巻物を読み込んで何かあの娘にしてやれる事がないか探し続けていた。ようやく見つかった時にはもう遅すぎた。いくら人智を超えた蘇生術といえど何年も前に滅びた肉体はもう戻すことが出来ない。そもそも、どの術も高度すぎて儂やそこらの雑魚程度には到底扱えぬ。それこそうちの里の〝名付き〟か、それを上回る器量を持つ者でないと。……だから」
オタクが顔を上げると、幼女守護丸のまっすぐな視線が突き刺さった。
引き攣った皮膚に埋もれて片方の目は殆ど露出していないため、まともに見える眼球はひとつだけだ。そこから数多くの幼女たちを怯えさせてきた、不躾で粘っこい爛々とした眼差しが注がれる。
「だからこの本は、オタクどのに渡す」
束の間、無言の時が訪れた。
ほんの少しの時間ではあったが、この間にオタクは瞬時幼女守護丸の口を封じる手段を考えていた。
例えば正面から喉に指を突き入れ頸を引き千切ったり。例えば残った眼と声帯を叩き潰したり。例えば顔を掴んでそのまま床に叩きつけたり。例えば懐の苦無を顎下から脳幹目掛け刺し込んだり。例えば最大出力の火遁を浴びせ書庫ごと焼き払ったり。
どんな手段だろうと、この距離であれば釣瓶が水面に落下するよりも早く命を奪うことが出来た。それが即座の行動に現れなかったのはひとえにオタクに戸惑いと迷いがあったからに過ぎない。果てはそんな自分自身にさえも困惑していた。
何故これまで隠してきた力を、一端の忍びですらない男に悟られていたのか。何故この場でそれを明かしたのか。
オタクと呼ばれるこの忍には極秘中の極秘、里の忍たちに対する内部監査の任務があった。鈍重な足手纏いとして振る舞いながら、他所の忍の里や勢力に与する者を見つけ出し早々に芽を摘む。任務の性質上誰であっても真実を知られることは許されない。
知ったものは皆、誰も生きていない。
なにを言うべきなのか迷った。空惚けたところで無駄なのは分かっている。
「……いつからでござるか?」
「この時、という確信を得た時はない。何故かと説明しようもないのだが……儂はこのように、常に這いずっておるだろう。そうすると書棚の1番低いところが最も触れやすいのだが、普通に立って歩く人間にはそういった場所が案外盲点になるらしい。事実この本もそんな場所に詰め込まれて何十年と仕舞い込まれていたからな。こんなナリでも生きていれば人と違うものも見えてくるらしい」
「……あんまりピンとこない話でござるが、拙者が何かやらかして身バレしたという訳ではないと?」
「そう。儂が凄いってこと」
ハア、と重い息が腹の底からせり上がった。差し出された本を眺める。子供向けのテイをとっているとはいえ、禁呪をわざわざ解説したがるのはどういった人間なのだろう。こんなものが秘匿主義の上層部に知られればそれこそ管理者ごと始末されるに違いない。
「……じゃあこれ、貰えるのなら貰っとくでござるよ。使いどきあるかどうかは分かりませぬが」
「おお、くれてやる。ああそうだ、一応言っておくが儂は蘇生させるなよ。こんな苦しい生涯は一度きりで十分だからな。あっちの世界であの娘に会えるのかもしれんし」
「彼岸でも幼女に執着するつもりでござるか?恐ろしい話でござる」
「何を言うか、儂はその……あれよ……見守るだけよ……遠くから……朝から晩まで……」
見ているだけならセーフ、とブツブツ呟く幼女守護丸を相手にオタクは『忍の谷のカコウマ』最終巻における人類の存亡というテーマについての解釈を語り始め、その夜は暮れていった。
幼女守護丸がまだ生きていた頃の話である。
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