君と僕の別れの話

淡雪

最終話

「久しぶりだね! 元気にしてた?」


 ドアを開けて病室に入って来た僕に、君はそう笑いかけた。今日、僕はドアを開けるまで随分と時間を要し、それは君も分かっていて。それでも、君は今をの一コマにしようとしている。


「元気だよ。ハルカこそ、元気にしてた?」


 僕も負けずに日常を演じようとして……はっと、今自分が口にした言葉の無神経さに気づく。君は気にしていないような素振りをしているけれど、君の顔が一瞬強ばったのを、僕は見つけてしまった。


「ハルキったら、酷いなあ。ここは病院で、私は患者だよ? その意味を、忘れちゃった?」

「――いやいやいや、それは充分分かってるつもりだよ。だからこうしてお見舞いに来たんだ」


 自分の状態を僕よりも、誰よりも分かっていながら、さらっと茶化すことができてしまう。君は、そういう人だ。誰よりも弱くて、でもだからこそ優しくて、強い。君の強さに甘えてしまっている……そんな自覚はある。それでも続ける。続けなくてはいけない。なんてったって、これは君と僕、二人で描いたシナリオなのだから。


「さてさて、一ヶ月も私を放置していたハルキくんは……何を持ってきてくれたのかなっ?」


 ここは病院で、君は患者。君がついさっき言った言葉だけれど、ベッドの上ではしゃぐ君を見て、つい嘘ではないかと思ってしまう。そんなことがないのは、僕も嫌な程分かっているのに。

 そんな気持ちを出来るだけ押し隠して、僕は笑う。


「ふっふっふ、褒めてくれても良いんだよ? ――なんと、ハルカの大好きなシュークリームです!」

「わーい! ハルキ大好き! かっこいい!」


 僕の悪ノリに対しいつものように乗った君は、ベッドの上で僕が来るのを待っている。

 そうか。もう歩く力がないからか。歩くことが出来ないからか。そうだった、やっぱり君は患者なんだ。とにかく外出するのが好きな君。インドア派な僕を、君は家から引っ張り出すのが得意だった。皮肉なことに、君がいない一ヶ月間、僕は君と行った場所を巡っていたんだよ。君がいた時には気が向かなかったのに、ね。君がいなくなると、君の欠片を求めて彷徨ってしまった。


「ほら! 二人で食べよう」


 暗い気持ちを押し隠すため、君の側に着いた僕は元気な声を出すことを意識しなければならなかった。

 便利なことに君のベッドには机が付いているので、僕達はそこにシュークリームを広げて食べることが出来る。近くで見ると、否応なしに君の変化が目に入った。肉が付いていないんじゃないか、などと冗談を言えてしまうくらい細かった君は、今では更に痩せ細ってしまっていて。あれでも肉は付いていたんだ、と要らない発見をしてしまう。


「ありがとね。美味しい」


 少しずつ、ゆっくり咀嚼する君。そんな状態で、シュークリームを食べることが出来る意味を、考えてしまう。……君は、一つもシュークリームを食べ切ることができなかった。


「もう要らないの? それじゃあ間接キスしちゃおうかな?」


 君の変化を見つけてしまうのが悲しくて、悲しいからこそそれを隠したくて。涙が出そうだ。それでも、泣くわけにはいかない。泣きたいエネルギーを何処かに使いたくて、僕は更に冗談を言った。そうすれば、君は明るく反応してくれるから。

 ――ああ、でも、これじゃあ駄目だ。全然普段の僕らしくないな。


「ハルキってば! ちょっと気持ち悪いよ!」


 君は、ふわっと、幸せそうに笑ってくれた。僕が大好きな顔。心臓がきゅっと締め付けられ、全身が幸福に震えているのが分かる。その顔を見るためなら、どんな苦労も出来てしまう。君の笑顔を目に焼き付けたくて、僕はじっと見つめた。今だけは、取り繕うことなんて考えずに。君の隣に居る幸せを感じていたい。


「ねえ、ハルキ。今まで二人で行った場所の中で、ハルキは結局どこが一番好きだった?」


 なんだか、別れ話を始めるみたいだね。そう言うと、君はちょっと悲しそうに微笑んだ。ほら、隠し切れてないって。僕は慌てて話を戻す。


「――ええっと、一番好きな場所、だったよね。うーん……あそこかな。二年前くらいに行った、桜が綺麗な公園。ハルカが花弁はなびらを取ろうとして走って、転んだところ」

「ちょっと! それは忘れてって言ったでしょ!」


 君ははしゃぎすぎて、時々やらかしちゃうことがある。そういえば、僕達が初めて一緒に夜を過ごした日、君はお酒を飲み過ぎて記憶を無くしちゃったんだった。朝起きたときのぽけっとした顔、かわいかったな。あ、これも忘れてって言われてたんだっけ。まあ、忘れるつもりなんてないけど。君は――僕の彼女は、本当に可愛い人なのだ。


「僕、ハルカのこと本当に好きだよ」


 君のことを考えていたら、どうしても言いたくなって、僕は言った。急にどうしたの?! とびっくりしているのを見たら、愛おしい気持ちが溢れて、堪らなくなる。テーブル越しに、僕は君を抱きしめた。やせ細った自分の腕を見せたくないのか、しきりに病衣をいじっているのが更に可愛い。

 君は少しの間照れていたけれど、一つ深呼吸をして、腕を回してくれた。束の間、僕達は、幸せを享受した。この幸せだけは、どこの誰にも奪わせない。神とかいう分からず屋にも。絶対に渡さない。


「ハルキは、留学が決まったんだよね」


 そうなのだ。僕は、君の死を見届けるという、とてつもなく辛くて苦しいことから逃げることにした。一ヶ月前――ソファーで隣に座って話していた君が急に倒れたあの時。僕は、君が自分から離れていくという恐怖に怯え、『留学の準備』という口実で君から離れた。本当なら僕が付き添うべきなのに、君のお母さんがその役目を果たしてくれた。僕に対して何も言わずに、ただそっと立ち位置を変わってくれたお母さん。何も言わなくても気持ちを敏感に察して動くことが出来る君と似ているな、とその時思った。

 留学先は、動き出すと思いの外すんなりと決まって。僕の心は何処かに残されたまま、気づくと準備が整っていた。君との出会い、交際、同棲に夢中でなんとなく放置していたのに、何故今になって留学をすると言ってしまったのだろう。自分の気持ちを優先する僕はどうしようもないほど弱くて、愚かな人間だ。


「イギリス、ずっと行きたいって行ってたよね。本当におめでとう」


 見送りの言葉。留学が決まった後、僕は君に手紙を書いた。メールでも良かったのだけれど、送るとすぐに届いてしまう便利さが、その時は窮屈だった。僕が水曜日に送った手紙の返事は、決まって土曜日に返ってくる。毎日君のお見舞いに行っていたお母さんを通してやり取りさせてもらったよね。手紙を書こうと思っている、と相談したら快く引き受けてくれて、本当は僕には君の傍にいて欲しいと思っているはずなのにと思うと自分の不甲斐なさに心苦しかったけれど、とてもありがたかった。

 君は、そのやり取りで、君自身の病状を語ってくれた。手紙だからこそ気軽に……という表現は相応しくないけれど、面と向かって話すよりはお互い楽に気持ちを打ち明けることが出来た。お医者さんも直接的には言わないけれど、自分でももう長くないと分かる、と。誰にも言われなくても分かってしまう、その辛さは僕には分かることができないけれど、君が僕に打ち明けてくれたことが凄く嬉しかった。

 僕達は、辛かった。お互いに。僕は死に向かう君を見るのが辛いし、君は死ぬ自分を見られるのが辛い。二人の思いは自然と同じになった。死別ではない別れ方をしたい。

 そうして僕達は、僕の留学を利用することに決めた。


「ハルキ。私達、やっぱり――」

「ハルカ、僕、ハルカと付き合ってて本当に幸せだよ」


 君は、最後まで僕のことを気にかけてくれようとしている。僕のためにここで別れてくれようとしている。それが分かったから、僕は君に言わせるわけにはいかなかった。


「私もだよ、ハルキ」


 僕がそう言えば、君はこう答えると知っていた。ハルキとハルカ。音が似ていて、お互い名前呼びにしたんだったよね。ハルカ、と呼びかければ、ハルキ、と返ってくる。本当に、狡くて弱くて愚かな僕でごめん。君の死に向き合えない僕で。


「じゃあ、

「またね」


 僕は、彼女を抱きしめた。彼女も、僕を抱きしめた。これで、最後。もう逢えない、逢わない。留学した僕が日本に帰ってくるのは、君の死を知った時だ。


「今までありがとう、本当に本当に好きだった。ハルカに沢山救われて、ハルカのおかげで沢山変われた。僕は弱くて意気地無しで……、ハルカには相応しくない男だったけど――」

「そんなことない、ハルキは私に沢山気持ちをくれた、行動でも示してくれた、本当に幸せだった」


 僕は君が好きで、そんな君は僕を好きでいてくれる。この暮らしが続くだけで充分なのに、それすら叶わない。なんて辛いんだろう。もうすぐこの世から消える君は、天使のような顔で僕を見つめている。その目に盛り上がった涙が、天井の蛍光灯に反射してきらきら光っている。綺麗だ。こんな場所じゃなければ、もっともっと幸せなのに……なんで、君が。


「なんだか一生の別れみたいになっちゃったね」


 気づくと、君は涙を拭いて、シナリオに戻っていた。君の方が辛いのに、僕よりも先に立ち直っている。「ほら、ちゃんとしてよ!」というように、君は僕に向かって微笑んでいた。完璧な顔で。


「……そうだね。ハルカが退院したら、イギリスまで来てずっと一緒に暮らすのにね」


 言いながら、そんな未来を思い描く。僕も君もまだ二十代で、若い。十年後、産まれてきた君と僕の子どもは君に似てきっととびきりの可愛さだ。僕が仕事から帰ると、「おかえり!」と二人で出迎えてくれる。平凡だけど、満ち足りた生活。


「そうだよ。一生逢えないわけじゃないんだし。――もう、時間だよね」


 僕達は、病室の時計を仰ぎ見る。もうすぐ五時半、というところ。


「またね」

「またね」


 このやりとりは二回目だね、なんて笑いあって。僕は、君のベッドから立ち上がってドアまで歩く。もう、君の方は振り返らない。君と僕は、独り言のように気持ちを吐き出した。


元気でね。私みたいに病気にかからないで、幸せに暮らしてね。


君の笑顔が好きだよ。君が作ってくれるご飯はいつも美味しかった。ありがとう。同棲したての時は二人で家事をしようとか言ってたのに、最後の方は君に任せっきりだったね。ごめん。思い返すと出来てないことが沢山あるね、次逢ったら全部やろうね。ちょっと待たせちゃうけど、お土産話持ってくから許してよ。


私もハルキの笑顔好き。私のことが大好きって顔。ハルキの優しいところ、私凄く救われてた。これからも優しいままでいてね。私のことなんか忘れて……とは言うけど、本当は忘れて欲しくないな。最期のわがまま許してね。本当に今までありがとう。


――愛してる。


私も、愛してる。


さよなら。


さよなら。




 ガタン、とドアが閉まった音がした。僕と君の、別れの音。中から、啜り泣く声が聞こえる。

 少しだけ、ドアに寄りかかって。僕も泣いても良いだろうか? 五時半の放送が入るまで。




――これは、僕と君の日常の一コマで、でも、別れの物語。

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