第28話 世を去る親子

 六月に入り、区の社会福祉課の山本担当員から、高橋貞一郎が亡くなったという突然の知らせが星野病院に入った。

 襲われて以来、両腎がない状態で透析を受けながら過ごしてきたが、気力の減退が著しく、数日前に息を引き取ったということだった。

「山本さんもお役所仕事なのに義理堅いことだ」と褒める声が多い一方で、スタッフは死因は何だろうと噂し合った。転院してからあまりにも日にちが短すぎる。

 手術は間違いなく上手く行ったはず、その後の二週間も術後経過は順調だった。血液透析も首尾よく実施でき、全身状態も良く、食事を開始してから転院先へ移っていった。

 どうして急に亡くなったのだろう? 梅雨の季節に入って気分が塞ぎがちだったのだろうか。だが、気力の減退が著しかったということだから、それ以上でも以下でもないのだろう。

 美千代の手を握って別れの挨拶をしたあの日、これが母と会う最後の機会だと分っていたに違いない。「母さん、本当にありがとう」と言って別れて行った貞一郎の姿がありありと思い出された。

 星野病院の職員の多くが知っている患者だから、ひとしきり話題になった。しかし引き取り先も知らされていなかったから、それ以上詳しい状況は知るすべもなかった。

 私としては、突然親しい友人を失ったような強い喪失感を感じ、力を落とさないではいられなかった。生活保護で家族は認知症状態の美千代だけだから、葬式もあるわけがない。その人生についてよく知った人だけに、弔いにも行けないことは残念に思った。

 浪川勇に貞一郎が亡くなったことを話すと、腕組みをして深くため息をついた。

「俺には、家族以外に、軍隊時代の同期の桜、ずっと世話になった権藤さん、今の運送会社の仕事仲間、そのほか、一生付き合ってきた仲間たちがいろいろいるけれど、高橋もその一人だった。おもしれえ奴だったな」

 どう面白いのか、具体的には言わなかったが、私も同意見だ。

 男気の勇とは別の意味で、波乱万丈だった。

 ちょっと拗ねたような目つきだったり、遠い目をしたりしながら、淡々と吉原育ちの身の上話や、ボクサーとしての悲しい経歴の話をした貞一郎のことが思い出された。

 あんな話を聞かせてくれる人は、もう今後いないだろう。


 それからというもの、勇は星野病院に入院している美千代への見舞いの回数が増えた。

 勇は彼女に息子の死を告げはしなかったし、病院からも、寝たきり患者の気分をあえて落ち込ませまいという趣旨で、貞一郎の死を知らせることはなかった。

 しかし虫が知らせたのか、美千代はその頃から元気が失せ、それまでは点滴を受ける一方で、全介助でおかゆを食べていたのだが、めっきり食欲がなくなった。

 私は勇にいよいよ最後が近づいていると話した。

 勇はいつも母親のように、姉のように、自分を包んでくれた妻が、余命幾許もない状況にあると知って、流石に塞ぎこんだ風だった。

 数日後の深夜、三階の和室から二階の個室に移っていた美千代の血圧が下がってきた。

 私は勇に電話して、美千代が危篤状態だから、すぐ来てくれるようにと伝えた。

 勇は病院へ飛んでくると、二階病棟へ階段を駆け上がってきて、半分泣き声になりながら美千代の名を呼び、抱擁した。

 だが血圧は徐々に下がっていく。やせて頬骨が少し出ていたが、美千代はぼうっと前方を見ながら、目を潤ませて口をもごもごと動かしている。

 美千代の目に、何かが見えているらしい様子が認められた。間違いなく、誰かに向けて何か言っている。

 もう半身麻痺で呂律が回らないはずの美千代が何を言っているのだろう?

「もうお迎えが来てんだ」と勇が呟いた。確かにそうだ、もういまわにある。

「なんて言ってるんだ?」

 勇は美千代の口に耳を近づけ、彼女の言葉を一心に聞こうとしている。

 しばらく耳を寄せていたが、やがて勇は立ち上がった。

 勇にしては珍しく、ぼうっとした表情だ。顏に色々な感情が出やすい人なのに、何も感じていないかのような表情だった。

 私は下手に尋ねないほうがいいと思って何も言わずにいた。

「先生、美千代の言葉を聞いてやってくれよ」

 勇に言われ、私は美千代の口元に耳を近づけた。すると、どうにか彼女が呟いていることが聞きとれた。

「あなた、貞ちゃん」

 なるほど。夫と息子に呼びかけているのだ。

 私は立ち上がった。

「浪川さんと、貞一郎さんに呼びかけているんですね」

 勇は首を横に振った。

「いやあ、俺じゃねえようだ。俺のことは、ずっと年下だってこともあって、あなたって呼ぶことは滅多になかった。いつも勇ちゃんと呼んでたよ。あなたって言ってるのは、前の夫の政芳のことだろう」

 私は言葉を継げなかった。夫婦にどんな人生があり、どんな感情の交流があったのか。

「さんざん泣かしたからな。前の旦那は優しかったんだろう。粋な優男だったよ。俺みたいな暴れん坊と違ってな」

 美千代の目の前にはきっと、二人の男の姿が見えるのであろう。一人は粋な着流しの角刈りの男、もう一人は若々しい五分刈りの青年で、ボクサーの格好をしているに違いない。

 着流しの政芳は美千代に向けて笑いかけている。貞一郎は、笑顔とは言わないまでも、チャンピオンを目指したころのニヒルな表情を浮かべているのだろう。

 勇が美千代の目を覗き込んだ。すると、ずっと目の焦点が合っていなかったのに、微笑みながら何事か、口を動かした。私は唇を読んだ。「ありがとう」と動いた気がした。

 勇は泣き顔になったが、美千代の顔には笑顔が浮かんでいた。

 それは勇のみならず、私にとっても大きな感動だった。

 くも膜下出血で倒れて以来、無表情で天井を見つめていた彼女が笑ったのだ。美しい笑顔だ。一世を風靡した花魁の笑顔なのか。

「ほら、今、立ち上がった」

 勇の言葉に、私は少し恐ろしいものを感じた。勇の目には、美千代の体から和服姿の若く美しい芸者姿が立ち上がるのが見えているのだろうか。

「今、行こうとしているよ。星野先生、分るかい」

 そういわれると、私にもその姿が見える気がした。

 二人の男が笑顔で美千代を迎える。五十がらみの粋な着流しのやくざの親分と、上半身裸でトランクスを履き、グローブをつけた若いボクサーだった。

 美千代が両側の男に、「行くよ」とばかり声をかけると、三人は身を翻し、連れ立って彼方へと去って行く。その姿は、段々小さくなっていった。


 町屋の斎場で行われた美千代の葬式へ行った。

 医者は担当患者が多いから、患者のお見送りこそすれ、葬式に出ることはまずない。公平さという観点からすれば、医者は患者の葬式に出るべきではないのかもしれない。

 だが隣に住んでいて、その人生についてよく知っている人となれば状況は違う。隣家への弔問客は、近所の住民たちと、勇の運送会社の関係者が主なようだ。どこで聞きつけたか、赤線時代の仕事仲間もちらほらと来ている様子だった。

 喪主の勇ももはや涙にくれることはなく、明るい顔で弔問客に対応していた。

 美千代が亡くなってから、勇は星野病院へは来なくなった。当たり前だが、それまで頻繁に顔を見ていた面子が失われるのは悲しい気がした。

 ここしばらく遠ざかっていた庭仕事を再開するか。そうすれば、白ブリーフに白のランニングシャツで、顔を見せてくれるだろう。

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