第26話 武山らの襲撃

 区の社会福祉課の担当員の山本健司は、貞一郎の身が危ないんじゃないか、殺されやしないかと心配していた。それで四月半ばに貞一郎はそれまで住んでいた台東区日本堤のアパートから、北千住の「清風荘」というアパートに引っ越すことになった。

 清風荘は、私と勇が住んでいる区画から目と鼻の先、二ブロック離れたところにある、生活保護受給者が集まって住んでいるアパートだ。俺の部屋は一階の四畳半一間だった。私や勇の家のそばに移り住むことになり、貞一郎も安心した様子だった。

 勇から聞いたところによると、清風荘の住人たちは、かつてこの街に赤線があった頃、そこで暮らした男たち、女たちで、そのなれの果てだそうだ。

 愛想のいい者もいるが、いかにも偏屈そうか、もしくは前科者かと思われる口のきき方の人間もいた。近所なのに道で会っても挨拶もしない感じの悪い人物もいた。

 玄関番を兼ねている赤ら顔の矢沢という男は、こんなアパートであっても、大変な清潔好きだ。いつもアパートの周りを掃除するのは偉いのだが、少しでも汚すと大変な剣幕で怒鳴りこんでくる。

 若い者でも六十代、大半は七十歳以上だ。いつの間にか自室で冷たくなっていて、警察の立ち入りの上で、救急車で病院経由で火葬場へ運ばれることも珍しくない。

 私は、勇と話す以外はあまり話さないが、貞一郎は浪川家まで歩いて行って、垣根越しに昔話に花を咲かせるようになった。お互いに知っていた者の話や、最近のボクシングの話をするのが日課になった。

 だが清風荘に移ったからって、安心するにはまだ早かった。

 貞一郎が清風荘に引っ越してから二週間ほど経った、五月初めのある土曜日の夕刻のことだ。

 アパートで寝転がっていたとき、外でどやどやと不穏な感じの物音がして、何人かの人間が玄関から踏み込んで来たのが分った。貞一郎ははそれが不吉なものだということを、長年修羅場を潜ってきた勘で悟ったという。

「高橋いるか」

 いきなりだみ声がアパート中に響き渡った。どすを聞かせた、いかにも出入りの開始の声色だった。石和紘一の声と分った。

 この間、星野病院の玄関前で紘一が「そのうちお礼参りに行ってやる」と不気味な捨て台詞を残していったが、その日が今日なのか。

 貞一郎が清風荘へ移って、二週間するかしないかで貞一郎の居所を掴むとは。おそらく母親の見舞いに行ったときに、尾行されていたのだろう。

 なんてったって、三人相手じゃ逃げるが勝ちだから、貞一郎は窓を開けて飛び出そうとしたが、紘一に後襟を掴まれて思い切り引き戻され、ひっくり返ってしまった。

 襲撃者らの客気は半端なかったんで、もう戦うしかねえと貞一郎は覚悟を決めた。

 貞一郎は立ち上がり、体勢を低くして紘一の腹に左のボディブローを入れてから、続けて顎に右のアッパーカットを食らわせた。

 紘一はぐっとうめいてガタガタと後退した。

 ざま見やがれ、伊達でボクサーやってたんじゃねえぜと貞一郎は得意だった。

 もう一度逃げようと思って窓から飛び出そうとしたが、そう簡単には逃がしてくれない。

 他の二人が前に出てきて、後ろから二人掛かりで捕まえられて部屋の中に引きずり込まれた。貞一郎は四畳半の部屋の中に、仰向けにひっくり返されて後頭部を畳に打ち付けられた。そこで貞一郎は、玄関を突破して外に逃げようとしたが、三人に絡まれて身動きが取れなかった。

 紘一が後ろから追いすがり、肩に覆いかぶさってきた。紘一は貞一郎を抱きかかえながら仲間に向かって叫んだという。

「こいつの右腰を狙え」

 貞一郎の腎臓が右しか残っていないと知っていて、その残った腎臓を狙えと言っているのだ。若いくせに何て卑劣な奴だろう。人の弱みに付け込むやくざらしいやり方だ。

 貞一郎は頭に血が逆巻いた。貞一郎は紘一の首に右腕を巻き、相撲でいう二丁掛け、柔道でいえば足払いの要領で、相手を玄関の土間に投げつけた。

紘一の頭部は上がりかまちの石段にぶつかり、そこに俺の体重がかかったため、その瞬間に奴の首がべきっと不気味な音を立てた。いつもかすれた声しか出さない紘一が、ぐうと唸ってそのまま動かなくなった。

 貞一郎は立ち上がって逃げ出そうとしたが、そこへ後ろから来た男の蹴りを腹に食らって息ができなくなった。あえなく崩れ落ちた貞一郎に、二人の男の殴る蹴るの打擲が浴びせられた。

 これで俺の惨めな人生も終わるのかと貞一郎がいよいよ諦めたその時だ。


 玄関ががらっと開いて、二頭の犬が唸り声を上げながら、飛び込んで来た。それに続いて竹刀を持った浪川勇が乗り込んできた。

 貞一郎の窮地を見て、勇が飛び込んできたのだ。

 二匹のシェパードは、大きく飛んで大男と小男の喉笛を狙って飛びかかった。

二人の男は恐怖の叫び声を上げ、それぞれベルトから匕首を抜いて応戦しようとしたが、勇が飛び込んで行って、したたかに竹刀で大男と小男の腕を打ちすえると、匕首は男たちの手からすっ飛んだ。

 すると、それまで部屋から様子を窺っていた連中が素早く出てきて、匕首を取り上げて逃げ、どこかへ隠した。

 犬たちはグルルと獰猛な唸り声を上げながら、なおも男たちに襲いかかり、男たちは玄関から逃げ出した。しかし、テロリスト相手に戦い続けるよう調教されたシェパードたちは、後ろからあくまで男たちを追い続け、太腿やアキレス腱に齧り付こうとする。

 二人とも道路わきに追い詰められ、身を縮めている。

 そこへ近隣の交番から警察官が数人駆けつけ、三人の男は見事、御用となった。

紘一は救急車で運ばれたが、他の二人は手錠をかけられて連行された。

矢沢は勇の肩をポンポンと叩いた。

「さすが、浪川勇だ。俺たちの町の用心棒」

 すると勇は少し照れた表情で「まあ、こんなもんだ」と答えた。

 男たちが貞一郎の部屋に入って行ったときに浪川家まで走って行って、勇に貞一郎の急を知らせたのが矢沢で、勇が飛んで行った後、矢沢が警察に連絡した。いつも不機嫌に清風荘の玄関の掃除ばかりしてるけれど、立派に役に立つことだってしてくれる。

 清風荘の住民たちは、皆で俺を抱きかかえて部屋に運んだ。

 勇が貞一郎の顔を覗き込んだ。

「おい、大丈夫か」

「ありがとうよ。さすがボクシングでチャンピオン目指しただけあるぜ」

「お前だってそうだろうよ。だがお前の具合は大分悪そうだ。今とりあえず鳳病院に電話するから、診てもらおう」

「確かに右腰の痛みはおかしいぜ、昔左の腎臓やっつけっ時と同じような感じだ。周りの風景が色がなくて、真っ白に見える」

 勇の目にも、貞一郎の意識は遠のいたり、蘇ったりを繰り返しているようだ。

「勇さんよ、今度こそ、長くはねえよ」

「何言ってやがる。気をしっかりもて」

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