第22話 格闘人生

「餓鬼の頃は、体はちっちゃかったがかけっこなんかいつも一番だった。けれど政芳親父はちびだった俺のことなんか眼中になかった。ところが俺が喧嘩に強いと分ると、まだ戦争が終わった直後の九歳の誕生日に、プレゼントを買ってくれた。どこで手に入れたんだか、まっさらの一六キロのサンドバッグと、ボクシングの教本だった。それからというもの、ボクサーになるのが俺の夢になった。毎日のように首っ引きで本を読んではサンドバッグをぶったたいたり蹴ったりするのが日課になった」

いつもとかく辛気臭い表情の貞一郎が、人懐こい笑顔で話した。

「中学になると、親父の伝で本格的にジムに通うようになり、十五歳のとき、ついに俺のボクサーデビュー戦がやってきた。浅草公園裏の特設リングで、お袋は勿論、親爺も応援に来てくれた。親父は、今日がおめえの人生のお披露目、のるかそるか天下分け目の決戦だってんで、えらくリキが入ってた。親父のためにも勝とうと思って俺は燃えたよ」

思い出すと力が入るのか、戦う男の鋭い目つきになった。

「無事KO勝ちしてレフェリーに高々と右腕を差し上げられたときの気持ちったらなかった。何しろ餓鬼の時から味噌っかす扱いで、ひもじい思いばかりしていたから、これで皆を見返してやれるって最高の気分だった。俺は順調に勝ち進み、そのたびにお袋はリングサイドまでやってきて、大喜びさ。親父は気が早いから世界戦だって叫んでいたもんだ」

そこで貞一郎は言葉を切って顔を上げ、過去の栄光を思い出してか、うっとりしたような目になった。

「でもうまいことは続かなくてさ。十七歳の試合が俺の最後のファイトだった。その試合の相手は、何を隠そう、後に俺の義理の父親になった浪川勇さ。人伝に聞いたけど、今、先生のうちの隣に住んでるんだってな。あいつは強打のファイターで、俺は右のボディ・ブローを左脇腹に入れられてマットに沈んじまった。左脇腹は焼けるようだった。担架で運び出されて、救急車でこの鳳病院に送られた。先代の院長先生が診てくれて、腎臓破裂ってことで緊急手術になり、左の腎臓取ったのさ。先生、腎臓ってのは破裂したら取らなきゃいけねえのかい?」

「そうですね。接触の激しい協議の選手がときどきなるが、とても血管が多くて裂けると大出血になるから、命の無事を考えたら腎臓ごと切除するほかない」

貞一郎は下を向き「そのおかげで俺は命拾いしたってわけだな」と呟いた。

執刀医だった私の父からは、残りのもう一つの腎臓をやられると生きて行けないからボクサーを続けることは諦めるよう言われたという。

「まあそんなことで、俺のボクサーとしての経歴は終わっちまったが、人生の疫病神は俺たちから離れちゃくれなかった。香具師渡世のお決まりで、全身倶利伽羅紋々の政芳親父は、重い肝臓病を患っていた。段々目が黄色くなり、ある日吉原大門の蕎麦屋で大量に血を吐いた」

貞一郎は政義の不幸について、淡々と語った。

「俺はたまたまそばにいて、親父を介抱しようとした。親父は、死ぬのは恐ええ、死にたくねえとガクガクしながら言っていたが、すぐに意識がなくなっちまい、翌日にはあの世に行っちまった。まだ五十前だったよ。葬式には浅草や吉原から弔問客が五百人くらい来たかな。この世界じゃ義理堅いから葬式は大仕事さ」

私は、貞一郎の嵐のような前半生の話に感銘を受けていた。講談の一幕でも聞いているかのようだった。

「親父が死んでからというもの、お袋は遣り手で帳場に立つだけじゃなく、福吉楼の切り回しもしなきゃならなくなった。俺はお袋を助けるつもりで店の用心棒もやったし、ポン引きもやった」

貞一郎は自嘲気味に笑った。

「そうこうするうちに、悪いことは重なるもので、今度はお袋に悪い虫が付いた。体のいいこと言って福吉楼に入り込んだ奴がいて、お袋も親父を喪って寂しかったこともあったんだろうし、情が移って信用していたら、実はこれが乗っ取り屋だった。例の武山雅夫の一味さ。数ヶ月前から色々と調べを入れて、周到に乗っ取り計画を立ててやがったんだ。女を工作部隊にして店に潜入までさせやがって、裏で女衒の武山の奴が掻き回してた」

じっと虚空を睨みながら、貞一郎は悔しそうな表情をした。

「いざ乗っ取り実行となったら、食わせもんの弁護士まで立ててきやがって、『この度お宅を頂くこととしました、悪い方々ではないので心痛いが仕方がない』なんてふざけた口上述べやがる。俺は危うくボクサーの腕前を発揮してやろうと飛びかかるところだったが、お袋に止められた。それじゃ弁護士まで立ててきた奴らの思う壷だってね」

貞一郎はぎりぎりと歯噛みしそうな表情だ。

「結局店はなすすべもなく乗っ取られて、お袋と俺は体よく追い出されちまったってわけだ。その後はいよいよ坂を転がる石ころのようなもので、果てはこのざまさ。お袋は浪川勇に身請けされて真っ当に暮らせるようになったから、まあよかった。酷い奴と思ったが、そいつに今では親子共々救われてる。よく知った間柄だけに我儘ばかりしてるがね」

そこで貞一郎は斜に構えた表情になった。

「でもお袋が倒れたんだって、体が弱いのを労ってやらねえからさ。俺なんか挙句の果ては生活保護。もっともこの界隈じゃ、そんな身の上の奴は腐るほどいるが。まあ人に言えるような人生じゃない」

貞一郎は顔を上げたが、東京のドヤ街を生きた裏街道の波乱万丈の生涯が走馬灯のように脳裏を駆け巡ったのだろうか、遠くを見るような目になってしまった。

貞一郎はその後も相変わらず毎日病院にやってきて母親のそばに付き添っていた。

かつては吉原福吉楼の売れっ子花魁だった母親は、認知症でも息子の献身的な付き添いに思い出すことがあるらしく、貞一郎を見るときの目の色は、極めて親しい肉親に対するそれであった。

こんな目は、息子にしか見せないようであり、看護婦たちからはじきにマザコンと陰口を叩かれるようになった。私も同感だったが、苦界を生き抜いてきた母と息子がお互いに抱く愛情は、半端なものではないのだろうとも思った。

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