第19話 身請け

 まあ、結論から言おう。

 俺と佐和子は喧嘩したり仲直りしたりをその後も繰り返した。しかし折り合いの悪さは解決できず、一九五七年のことだったか、結局別れることになった。

 何度目かの派手な喧嘩の後、俺は家を飛び出すと、いつものように土手を上って荒川河川敷に頭を冷やしに出かけた。雨が降っていて、川は増水していた。

 雨に打たれながら、しばらく速くなった川の流れをぼーっと見つめていた。千住新橋の橋桁に波がぶつかり、周りが逆立って泡が立っている。

 どうしたものかと俺は考えた。

「何、構うこたねえ。行っちまえ」

 もう心は決まった。俺は土手を駆け下ると、真直ぐに岡場所へと向かった。

 松喜楼の美千代の部屋で二人になると、俺は彼女に伝えた。

「おめえを水揚げしたい。異存はあるめえな」

「びっくりさせないで。何を仰るかと思ったら」

「身請けするったら、するんだよ。文句はあるめえ」

「だって…どうするの?」

「今の女房とはもう終わりなんだ」

 美千代はまじまじと俺の顔を見つめ、懸命に表情を押し殺している。

 泣き笑いの顔で目が泳いでおり、盛んに周りを見回した。

「なんて言ったらいいか分らないわ。どうしたらいいの? 人に不幸にして自分が幸せをつかむなんて、女郎の分際で許されることじゃないわ。世の不幸はあたしたちのような人間が負えばいいのだといつも自分に言い聞かせてきたんだもの」

 美千代は俯き、抑えた口調で話した。

「でも、やっぱりあたしだって幸せになりたいのね。一度は諦めたけど、あなたはやっぱり私を苦界から救い出してくれる騎士なのかしら。また騙すわけじゃないわよね」

 美千代は一言ずつ、かみしめるように言った。

「あたしは、あのとき…あなたにお別れだって言われたとき、千住大橋から大川に飛び込もうかと思ったわ。辛うじて踏みとどまったけれど、あの後も三日三晩、あなたのことばかり考えていた。でも立ち直った。たかが女郎ですから。風に吹かれて生きるだけ。でもあんなことは、もうこりごりよ」

 橋の袂で涙に暮れたことを思い出して口を押さえようとする美千代を俺は遮った。

「もう決してあんな思いはさせない。今度こそ、一丁お前を水揚げだ」

 美千代は泣き笑いに泣き出した。

「私ってお豆腐の油揚げみたいね。本当に身請けしてくれるの? でも楼主に払う手切れ金はどうするの? これでも売れっ子なのよ」

 美千代は少し自慢げに胸を張った。

「なんでえ、女郎のくせして知らねえのかよ。もうここらの店は全部廃業になるんだよ。だから手切れ金どころじゃねえ、お前たちの始末をどうつけるかで、楼主も頭が痛いと思うぜ」

「そりゃ噂は知ってるけど。稼げるうちは、ただじゃ手放してくれないかもしれないわよ」

「お前たちはもう稼げないよ。とうとう例の赤線防止法案が通っちまったんだから。来年春から施行だそうだ。ここも終わりってことよ」

 美千代は驚いたように目を見開いたが、物思う風情になった。

「どっか別の岡場所に流れるかい。玉ノ井や洲崎なんかはここと同じで潰れるけど、吉原だけは残るそうだから」

 俺に尋ねられた美千代は、縋るような必死な目つきで俺を見つめ、俺の両手を取って強く首を横に振った。


 俺が翌日、荒川土手下の家に帰ると、佐和子は冷たい乾いた表情をしていた。畳の八畳で恵美を抱いて座っている。

 もう俺に呆れ果てて、何の感情もわかないといった表情だった。

 しかし、両目の周りが腫れていて、一晩泣き明かしたのだろう。

「勇さん、私たち、もう終わりにしましょう。昨晩、畳に突っ伏して泣いて清々しました」

 佐和子は淡々としていた。

「気持ちを入れ替えて考えたんです。あなたは男伊達の特攻隊員だけれど、まっとうな人間じゃない。これからもあなたの性格は変わらない。一緒にいたら、私はこれからも泣かされるばかり。私はそんな生活に耐えられません」

 確かにそうかもしれねえ。俺は大人しく佐和子の言うことを聞いていた。

「私はまだ二五歳で若いわ。やり直しは十分にできる。赤ん坊を抱えながらだって、仕事はできます。看護婦の給料と、あなたから慰謝料を頂いて、恵美を育てます。よしんばあなたの運送屋の稼ぎが少なくたって、私一人でやってみせます」

 佐和子の決意の強さは、もう俺がどう口出しできる内容ではなさそうだった。

「私は何でも前向きなんです。人生に対する希望を捨てず、固い決意を胸に抱いて改めて前を向こうと思います」

 俺は佐和子の肩に手を置いたが、佐和子は俺を手を掴むと、下におろさせた。

 弁護士を立ててどうこう争うんじゃ、下手に謝らないほうがいいんだろう。でも裁判になって負けたら、潔く慰謝料払ってやると思った。

「悪かったよ、許してくれ。俺はお前を何としても幸せにするつもりだったんだ。でも俺にはお前は勿体なかったようだ」

「分ってるわ。あなたにはあなたの生き方があるんですもの」

 俺は正直言うと、どこかほっとしていた。


 その半年後、俺は美千代を身請けし、嫁に迎えた。

 昭和三十年に結成された自由民主党は、翌年の第二四回国会において売春対策審議会の答申を容れ、それまでと一転して売春防止法の成立に賛同した。法案は国会へ提出され、可決されて一九五七年四月に成立し、一年間の刑事処分猶予期間の後に適用された。

 一九五八年四月一日、売春防止法は施行における猶予期間を経過し、以降も売春の業を営む者に対しては刑事処分が課せられることになった。

 元宿場町の赤線街は解体され、遊郭街に咲いた物語の数々は、全ては夢の跡となった。


 あれからもう六十年が経った。

 まだほかにもいろんなことがあったけれど、まあ、俺の話はこんなところだ。

 特攻志願の少年が、予科練、特攻隊、ラバウル、国鉄、ボクサー、護衛、運送会社社長とめぐった人生。地元の岡場所に出入りしたりでいろいろあったけれど、今思うと、夢みてえだったよ。

 こんな感傷に耽るようになって、俺も歳を取ったってことだな。

 星野さんは生まれも育ちも恵まれたことばかりだったろうが、一生過ぎてみると、皆、誰も大して変わらねえもんだよ。一生懸命、全力投球で生きてくるってことが大事でね。そういう点じゃ、俺なんか美女木の土建屋の息子だが、猪突猛進の全力投球もいいところだ。何も迷うことなくやって来た。

 あんたが引っ越してきてから一年、その間で一番参ったのは、うちの女房が倒れちまったことだな。

 あの節は、ありがとうよ。あんたが口きいてくれたおかげで、女房は上野の大病院に救急搬送された。急性くも膜下出血で、治療法は何てったっけな。そうそうそれだ、緊急開頭血種除去、クリッピングで止血手術。おかげで幸いにして一命を取りとめたよ。

 ついこの間のようだが、あれからもう半年たつな。あいつは俺にとっちゃ恋女房だ。元特攻兵たるもの、いい歳してのろけるようでみっともねえが、助かったよ。

病状が落ち着いたんで、やっとまたあんたの病院に転院できた。感謝してるよ。


 そうだ、あんたの話も聞かせてくれよ。俺ばっか話すんじゃ不公平だからな。

 え? 俺みてえな波乱万丈な話はない?

 じゃあ病院の話を聞かせてくれ。前の女房も、娘の恵美も、あんたの病院の看護婦をやってるし、今の女房も、鳳病院で診てもらっている。あんたが俺んちの隣に引っ越してきたんだって、佐和子の勧めだって聞いたよ。

 隣の家同士になったくらいだから、何か前世からの縁があるにちげえねえ。

 え、何だって、高橋貞一郎のことを知っている? 美千代の見舞いに来ている?

 そりゃまあ、あいつはマザコン息子だから、聞きつけりゃ、あんたの病院にだって行くだろう。確か生活保護を受けて山谷のアパートに住んでいるはずだが、あいつとはずっと会っていないんだ。

 貞一郎、どうしてる? 元気にしてるのかい。

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