第18話 よりもどし

 貞一郎は実刑四年、執行猶予なしの有罪判決が下り、府中刑務所に服役した。

 美千代は貞一郎の面会にしょっちゅう行っていたらしかったが、俺は美千代と連れ立っていきたいところだがそうもいかず、ごくたまに面会に行っていた。

 刑務所は臭い飯って言うけれど、栄養のバランスがそこそこ取れているらしく、貞一郎は娑婆に入る時よりも健康そうな顔をしていたな。おとなしく真面目に勤めているらしくて、優等生の仕事を与えられて、刑期も短くなるって話だった。


 一方、俺と佐和子は、昭和三十一年(一九五六年)春に結婚式を挙げた。

 結婚当初は俺にとっても物珍しかったから、三ノ輪の商店街のはずれにある佐和子の長屋で住むことにして、そこが新婚の二人の新居になった。

 俺たち二人の前途は洋々だった。日本の世の中は戦後の荒廃から立ち直り、高度成長経済に向けて発展が始まろうとしていた。

 結婚してしばらくの蜜月時代、俺と佐和子の家庭は幸せに満ちていた。

 間もなく佐和子は妊娠し、産休をもらって病院を休職し、翌年、娘の恵美が生まれた。大きな赤ん坊で、大きな声で泣く俺そっくりの娘だった。

 俺は娘を恵美と名付け、子煩悩ぶりを発揮して赤ん坊の面倒を見た。

 娘ができた俺は、新しい仕事を始めることを考えていた。

 ボクサーから代議士護衛の世界に俺を引きこんだ権藤さんが、今度は運送会社を起こそうとしていて、一緒にやらないかと俺に持ちかけてきていた。権藤さんにとっても、俺にとっても何度目かの職になるわけだが、俺はいい挑戦のように思えた。

 ガードマンの仕事では、雇い主のために何度か命を張る目にもあい、その見返りとしていい給料を貰っていた。しかし命知らずで強運の俺でも、護衛は、所詮は使い捨ての番犬だから、年取ってまで続けられる仕事ではないと考えたんだ。

 そろそろ自分が指揮を振るえる仕事がないだろうかと考えていたから、ボクサー時代以来の馴染みである同志の権藤さんと共同で会社を起こす話に乗り気になった。

 俺がこの考えについて佐和子に相談すると、佐和子も前向きの意見だった。

「あなたがテロリストに襲撃されて、鳳病院に運び込まれたときの姿はとてもひどいものでした。忘れようにも忘れられない。代議士のガードマンは、給料はいいかもしれないけれど、体を張る仕事だから、いざというときにどんな目に遭うか。命の保証だってないもの。私たち、小さな可愛い娘ができたのよ。もっと堅実で危険のない仕事がいいと思うわ」

 俺は佐和子の気持ちがありがたかった。


 だが幸せそのものだった俺たちの結婚生活も、決して順調ではなかった。

 結婚してみて分ったことだが、佐和子は元々仕事に情熱を燃やすタイプであり、看護婦としては有能だが、家事一般は好きでないらしかった。

 一方の俺は見かけや経歴は豪放と思われているが、元々きれい好きで掃除はこまめにやる方だし、家や庭の手入れに非常に熱心だ。料理についても、新婚早々から俺が佐和子にいろいろと教えた。

「俺は海軍の炊事番もしたからな。元々料理好きなのかもしれねえが、乏しい材料で美味いものを作ることに知恵絞ったもんさ。料理でへぼをやると、皆が寝てから、上等兵にこっち来いって言われて甲板に立たされ、櫂の棍棒を削って根性棒って書いてある奴で、尻っぺたをひっぱたかれたからな」

 そんな思い出話をしながら台所に立った。

 仕事で給料が出ると、俺はしばしばステーキ肉を土産に買ってきた。

「浅草の老舗のステーキ屋と同じ牧場から肉を仕入れている店が、この先にあるんだよ。千住は場所代がかからない分、同じ肉なのに、ずっと安いのさ。ステーキは料理人の腕じゃなくて牛の育て方だから、いい肉買って、自分で焼くのが一番美味いんだ」

 俺は塩胡椒をして自分でステーキを焼いた。

「地の滴るステーキって言うくらいで、肉はレアで食うに限る。あとは蒸かしたじゃが芋だ、佐和子、作ってくれよ」

 そのほか、野菜料理でも、魚を捌くことでも、「あなたはシェフになったらいいわ」と佐和子が褒めるほど、俺は料理の腕前を発揮した。

 権藤さんと俺を信頼していた荻原みち子は、俺らが護衛から離れると聞いたときには大いに難色を示したが、自らの手で事業を起こしたいという俺らの意思を尊重して新たな門出を祝福し、新しい事業のために出資を惜しまないと言ってくれた。

 こうして俺は権藤さんと共に意気揚々と運送会社の仕事を始めた。荒川土手下に土地を借りて運送会社の倉庫を造って大小のトラックを揃え、毎朝三時に起きて長距離の運送の仕事をし、事業は順調に発展して行った。

 しかしその一方で、俺たちの新婚生活の幸福は、長くは続かなかった。佐和子は子供好きで、沢山の子供を産み育てたいらしかったが、整理整頓が大の苦手で、物を片付けることもできなければ、捨てることはもっとできなかった。一方の俺は、こう見えても清潔好きで几帳面だ。身の回りがきちんとしてないのは耐えられない性質なんだ。

 俺たち夫婦は家の中の整頓を巡ってしばしば喧嘩するようになったが、ある日護衛の仕事で疲れて帰ってきた俺は、狭い部屋が物であふれ返っているのを見て呆れた。俺は「居所がない」と怒って家を出、とうとうその日は帰らなかった。

 どこへ行くか? それは決まっている。松喜楼の美千代のもとへ、俺が再びやってきたのはその夜のことだ。

 行っちゃあいけねえと思いながら、行きたくて行きたくて仕方がなかった。忘れろったって、やっぱり無理だった。惚れてるってのはそういうことなんだろうな。

 指名を受けて出てきた美千代は、俺の顔を見て驚いた。

「あらまあ、どなたかと思ったら」

 彼女はおどけてみせ、部屋に俺を招いて二人きりになった。

「随分ご無沙汰ね。新婚気分は如何?」

「大したもんじゃねえよ」

 恨み辛みを言うでもなく相対した美千代に、俺はぼそっと答え、それきり黙っていた。入院した時に知り合った看護婦と結婚したと話したけれど、もう一年が経つ。いや、まだ一年しか経ってないのに、もうこんな悪所へ戻ってきたと言うべきか。

「お幸せで結構なことですね」

「そうでもねえんだよ」

 俺はどうも言い淀んでしまう。

「奥さんとお幸せになさっているんだと思ってましたけれど、こんなところへ来て、よろしいの」

「男にゃ、事情があるのさ。余計なこときかねえでくれ」

 美千代は俺の表情を見て何事か読み取ったらしく、にっこりと笑った。

「今日は泊まっていいか」ときいたら、美千代は目を見張ったが、視線を落とすと、「結構ですよ。御代を頂戴頂けるならね」と答えた。自分は金でどうにでもなる女だとあえて主張しているような美千代の言い方は、虚勢を張り、強がっているようにも見えた。

「今日は女房といろいろあって、家に帰る気にならねえんだ」

 美千代は微笑んで言った。

「夫婦喧嘩は犬も食わないって言うのよね」

「美千代さんを忘れようと思ったが、やっぱり忘れられねえようだ」

 美千代は俺の言葉を聞いて身を硬くし、俺を見つめた。

「今さら御大層なことね。あなたのことはきれいさっぱりあきらめたつもりでいたのに。わたしはうれしいわ。あなたとはよく馴染んだ仲ですから」

 美千代はいそいそと酒の準備を始めた。

「お燗と冷酒とどちらがよろしいですか?」

 俺に尋ねる彼女の声には艶があった。


 その夜、俺は美千代とよりを戻した。

「とてもあなたに会いたかったわ。女郎の身の上では殿方をお慕いして相睦むことができるなんて何よりですから」

 俺は新婚生活についての不満を打ち明けた。我慢してやっていけばいいだけかもしれない。一生を共に過ごすつもりで佐和子と結婚したんだし、その気持ちに嘘はない。娘もできて、いよいよこれから家庭を栄えさせていくのだ。

主婦としては思いの外、佐和子はだらしないことが分った。

 逆に俺は異常なくらいのきれい好きだ。汚くしているのは我慢ならない。佐和子がだらしなくても、そこは俺が我慢すればいいことかもしれない。だが果たして我慢が苦手な俺にできるだろうか?


 翌日俺が三ノ輪の家へ帰ってくると、佐和子は俺を抱き、壁に押し付けた。目に涙を一杯に浮かべて、「どこに泊まったの」と聞く声には凄みがあった。

 美女木の実家に泊まったではすぐにうそがばれるから、「仕事の話で権藤さんさんのところへ行き、そのまま泊めてもらった」と答えた。これも追及されたらばれるだろうが、もしばれたらばれたで、その時のことだ。

 独身時代から俺が赤線街に出入りしていたことは、佐和子に話したことがあった。結婚するので岡場所通いを終わらせたことも話した。

 だから、昨日、俺がきっとまたそこへ行ったに違いないと疑っているようだ。図星だが、佐和子はあえてそれ以上追求しようとしなかった。

追及するのが怖かったのかもしれない。

「昨日は恵美を負ぶってあなたが出かけた先を探し回ったんです」

 佐和子はまだ乳離れし切っていない恵美を抱き上げた。すると彼女の目からボロボロと涙がこぼれた。声を震わせながら、彼女は問い詰めた。

「小さな恵美が可哀相だと思わないんですか?」

 俺はそっぽを向いた。

「じゃかあしい。そんな御託は聞きたかねえ。身の周りの片づけくらい、きちんとせんかい。さもねえとまた泊まっちまって帰って来ねえぞ」

 佐和子は恵美を抱きしめながら、しばらく泣いていた。

 それから当分の間、佐和子はせっせと家の片づけをするようになった。しかし、散らかさないではいられない性分で、じきにまた荷物だらけになってしまう。

 するとまた夫婦喧嘩になり、俺は家を飛び出して松喜楼に泊まりに行ってしまい、美千代と逢引を続ける。

 この繰り返しに業を煮やした佐和子は、ある日のこと、包丁を持って俺を追いかけた。

「あんたを殺してあたしも死ぬ」と泣きながら叫んだ。

 戦場や護衛の仕事で、数ある修羅場を潜ってきて、根性が座っていることにかけては人後に落ちないと自他共に認める俺だが、女房を怪我でもさせちゃ、男子一生の恥だと思い、このときだけは命からがら家から逃げ出した。

 全くおっかねえ女だよ。国定忠治のお膝元、かかあ天下と空っ風の上州の出だからな。こんな気性の女といつまで一緒に暮らせるものだろうか。俺にはもっと自由にさせてくれる女のほうがいいんじゃねえかなと思った。

 荒川土手に駆け登ると、人の目もあり、流石にヤッパを持って追いかけては来なかった。

 俺は荒川の広い川面を見渡し、胡坐をかいて考え込んだ。

 俺なんぞは所詮、結婚生活に向く人間じゃなかったのかもしれねえ。これからいつまでこの生活を続けられるだろうか。

 すると誰か俺の後ろから近づいてくる足音がした。

 上州女、まだ追ってくるか。ヤッパ持ってるのか。殺したきゃ、殺せ。

 俺は泰然自若として広い河川敷を見渡していた。

 すると恵美を抱いた佐和子が俺の横に座った。

 俺たちは互いを見つめ合い、俺は赤ん坊を抱いた佐和子を腕で抱き寄せた。

 佐和子は俺の肩に首をもたせかけ、じっとしている。

「ごめんよ。悪かった。もう泣くのはやめような」

 佐和子は頷き、俺たちは一時間くらいも、暮れなずんでゆく河川敷を眺めていた。

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